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脚本の最終稿ができた後、王家乙監督はスタッフを引き連れて雲南の至るところで出演者選びが始まった。 すぐに、“4人の金花”は決まった。 男性の主役の候補者も莫梓江に決まった。 ただドラマの重要人物の女性社長・金花役がずっと決まらなかった。 ある日、王家乙監督が雲南省歌舞団をちょっと覗いて見るかと入り、一回りしてみたが気に入った人がいなかった。 ちょうど彼が外へ出た時、稽古場するホールの窓の上でガラスを拭いている女の子に目が惹きつけられた。 彼が下を通る時、誰かがこの女の子に声をかけた。 “楊麗坤!”“ハーイ!”女の子は声と共に頭を上げた。 純真で、純朴な、ほほえんでいる顔が王家乙監督の目に止まった。

“彼女だ、彼女しかいない!” 王家乙監督は喜んで大声を上げた。 《五朶金花》の女主人公はこうして決まった。 その年、楊麗坤は16歳だった。 楊麗坤生まれつき美貌だっただけでなく、演技の才能にも恵まれ、また非常に努力家だった。 彼女の演技は着実で、自然、程合いをわきまえており、白族の少女を飾ることなく、美しく、明るく、純真さで、生活や、愛情に対する思いや憧れを見事に表現した。 周恩来総理も彼女の演技を称賛し、また彼女を外国訪問に2回連れていった。 周恩来総理は《五朶金花》のセリフを他の人が吹き替えていると知ると、楊麗坤に自分を厳しくし、早く共通語をマスターするよう励ました。 《五朶金花》は国内外で相前後して46ヶ国で上映された。 観衆の中には、賀竜元帥もおり、10回見ても厭きないというほどだった。 その当時の陳毅副首相は毎回外国訪問する際、この映画を携行していった。今、半世紀余りが経ったけれど、しかし《五朶金花》は時間が経っても人々の記憶から消えず、2000年に行われた全国“百年の最優秀映画”の選定過程の中で、《五朶金花》はトップ10に選ばれた。

金花のため悲喜こもごも

《五朶金花》の大成功は、趙季康に成功の喜びをもたらした。 作家として、作品は党と人民大衆の好感と同意を得た。 これは最高の栄誉だった! 喜びと幸福の中で、趙季康と作家の夫・王公浦は生涯で短くてすばらしい楽しみの時間を過ごした。

しかし、楽しみは短くて眩かった。 恐ろしい政治運動の中で、《五朶金花》は“資産階級のムードを宣伝する”大毒草となった。 趙季康はこのため迫害を受けた。 残酷な政治運動は真実の人間性をねじ曲げた。 1966年、趙季康は夫の王公浦と離婚し、夫唱婦随、翼を揃えて飛ぶ幸せな時間を終了した。 趙季康は息子を連れて生涯最も暗い時間がスタートした。 毎回批判と闘争の中、殴られたり蹴られたりして、趙季康の体は痛みつけられ、理想的信念の支柱は動揺し始めた。 彼女が人生に執着し追求し、文学事業に夢中になったのは誤りだったのか?

疑惑を抱くようになった。

1968年、趙季康は昆明の“五・七”幹部学校へ送られ、毎回のめった打ちで心身の健康が損なわれた。 趙季康の健康状況は急激に悪化し、正常に働くことができなくなり、心身疲労した趙季康はもう二度とこのような暗くて明かりがない生活に辛抱することができなかった!

美しい七色の雲南は趙季康の事業の成功と愛情の幸せさをもたらした。しかし残酷な政治運動に伴い、この美しい土地はまた趙季康の心の中に癒しがたい傷跡を残した。 王公浦と別れ、趙季康は再婚したが、また離婚した。 1978年、趙季康は彼女が深く愛し、深く恨んだ七色の雲南を一人で寂しく離れ、郷里の浙江に帰った。 1984年、53歳の趙季康は独りで米国に向い、アメリカで文筆生活を始めた。

その特別な年代、趙季康だけでなく、たくさんの罪のない善良な人々が残酷な迫害を受けた。 《五朶金花》の金花を演じた楊麗坤も、政治運動の中で迫害された。 心身共に踏みにじられ精神が錯乱し、それからは寂しい世界に生きることになり、永遠に彼女が好きだったスクリーンから離れることになった。(注:楊麗坤2000年7月21日死去。享年58歳)


翻閲日歴《カレンダーをめくる》から抜粋:作者:劉連 (本文出所:網易歴史 作者:劉連)


 
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