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彼は、日本すなわち南仏であることを前提として、
日本に影響受けた者はすべて、
新しい芸術のために南仏へ行くべきだと書き残しています。
ゴッホは誰に聞いたのかは謎であるが、
「日本人の芸術家達は作品を交換しあった」
という習慣があったと思い込むようになったのでした。

ゴッホはやがて「作品の交換」を「日本の芸術家の習慣」と高く評価し、
その想いは強くなる一方でした。
1888年6月テオに宛てた手紙で
………日本人が、稲妻のように素早くデッサンするのは、
その神経がわれわれよりも繊細で、感情が素朴であるからだ(書簡500)、
僕は日本人が何をやっても極めて正確に行うのを凄まじく思う。
それは決して退屈な感じを与えず、決して大急ぎでやったようにも見えない。
彼らは息をするのと同じくらい簡単で、
狂いのない二、三本の線で同じように楽々と人物を描いてしまう。
まるでチョッキのボタンをはずすかのようだ。(書簡542)
この狂いのない線こそ、彼が素早さを通じて獲得しようとしたものなのです。

ゴッホの考えはしかし先進的なものではなく、
1880年頃には印象派世代の画家、
マネ、モネ、ドガ、ロートレック、ゴーギャン、ベルナール、
アンクタンらもそれぞれに日本を意識した新しい作品をすでに発表していた。

彼らは表現手法を追求して行くが、
ゴッホは精神的なことを追求し始める、
そして収得したのは、
稲妻のように素早くデッサンする事であり、
そしてそこに色彩をのせていくことであった。

決定的に彼らとは違った表現になっていく技法があった。
空間を二次元的に表現しようとすることが当たり前だったヨーロッパで、
ゴッホは鳥俯瞰図の手法を使い始めた。
当時鳥俯瞰図は、軍事的な表現、地図の表現で用いていたが、
絵画に取り込んだのはゴッホが初めてであった。
その代表作が、サンレミで表現したゴッホの部屋とアリスカンなのです。