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「一国の政治のレベルは、その国の国民のレベルに比例する。」サミュエル・スマイルズの言を待つまでもなく、世界中から尊敬される豊かな国家を築くことができるかどうかは、我々自身にかかっている。いま我々は何を考え、何をなすべきなのか。

最悪の政体「民主主義」に生きる

チャーチルが指摘したように民主主義は最悪の政体である。(ただし、それまでに試みられた民主主義以外の政体を除けば…。ということは、もっと良い方法があるということを、チャーチルは可能性として示唆していたのであろう。)失われた20年を過ぎ(我が3人の子どもたちは生まれてこのかた失われた時代にしか生きていないのだ!)、ここに極まっていよいよわが国の民主主義はどうにもならなくなってしまった。いまの政治・行政の体制・体質では、政治主導であろうと行政主導であろうと、この国難を乗り切ることは不可能であると断ぜざるを得ない。個々の政治家や官僚の資質の問題ではない、政体の問題である。チャーチルは正しかった。

今回の選挙で政治業界にとって致命的だったのは、本当の国民の気持ちを政党が汲み取るとこができなかったことである。かなり自民党に好意的な支持者でも、今回の選挙は「勝ち過ぎ」と思っているように、政党はもはや民意のリサーチャーとしての機能を果たせなくなってしまった。理由は様々あると思うが、結論として政党は民主主義における民意の代弁者としての正当性を失ったのだ。

では、民意はどこに現れるのか?ということが今年最大のテーマとなる。ネットは一時的には盛り上がるものの、その匿名性からかどうも信頼性に欠ける。可能性を感じたのは官邸前の反原発集会であったが、いかにもコンサバ陣営が嫌がりそうな手法なだけに、敢えなくつぶされてしまう危険性が高い。

ではどこに???早稲田大学社会連携室の友成教授の「超ミマクロ理論」を拝借すれば、個人や地域の個別の課題(=ミクロ)に深く深く迫っていくと(超ミクロ)、それはやがて普遍的な「超マクロ」の世界に通じていくということになっている。すなわち民意は政党や大規模な集会や、ましてやマスコミなどの「マクロな」場に現れることはなく、個人や地域といった「ミクロな」場を掘り下げたところにある「超ミマクロ」なところに突然現れるのだ。だからこそ、たとえ吹けば飛ぶような規模であっても、地域でのリアルで熱いつながりの場をたくさん作って、自分たちにとって、地域にとって、本当に大切な事柄をみんなで議論し、解決のための行動を起こしていくことが何より大事なのである。そういう活動の連鎖が必ず大きな「民意」となって現れ、いずれは我が国を動かす原動力になることを願って、今年もそのような場作りに邁進していきたいと思う。

KYの誤謬 〜レバ刺騒動に思う〜

いまや焼肉店は連日大盛況、今月で食べ納めとなる「レバ刺特需」のためである。言うまでもなく、政府がレバ刺を禁止するなどという暴挙は許しがたいものである。日本国憲法の制定文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」とあり、国家権力というものは国民福利の実現のためにあることが明記されている。こんなに大勢の国民が「食べたい」と望んでいるレバ刺を禁止するなどという行為は、まさに国家権力による国民福利の簒奪であり、国民はこの暴挙を決して見過ごしてはならぬ。
 とまあ、70年代の学園紛争風に書き出してみたが、実は筆者はこの問題の本質は国家権力vs国民という二項対立の問題ではなく、政府も国民も含めた現代の日本の構造的問題であると考えている。
 いったい「誰が禁止したのか」ということを考えてみてもらいたい。もちろんこの規格基準の改正文を書いたのは厚生労働省の役人の誰かである。これは特定できる。しかしその人が決めたのかといえばそうではない。上司から命令されただけである。ではその上司が決めたかといえば、その上司もそのまた上司から命令されただけである。そうやってどんどん遡っていけば、レバ刺禁止を決定した張本人に行き着くかというと、そうなっていないところに問題の本質があるということだ。
 取材した訳ではないので想像の域を出ないが、おそらく省内に「これは禁止しないとまずいんじゃないか」という空気が流れ、その空気が暗黙の合意につながり、気がついたらいつの間にか改正案ができていたというところだろう。だいたい役所の意思決定プロセスなんてそんなものである。
 空気に支配される怖さ、空気に逆らえない怖さは、日本が戦争に突き進んでいく過程においてイヤというほど経験し、反省したはずなのである。にもかかわらずまだこんなことをしているのだ。
 消費税をめぐる政治の混迷、政治家の自分勝手もいい加減にしていただきたいところだが、消費税はまだ総理大臣が矢面に立って「政治生命を賭ける」と言っているのだから、誰が言っているのか明確な分だけマシなのである。誰が言っているのかわからない、誰が決めたかわからないことが、十分な議論や検討もされずに、あたかも自明なことのように我々の思考を浸食し、国全体の空気を作っていってしまうことへの危機感を、いま我々は強く抱くべきである。空気に流されず、他人任せにせず、自らが当事者として考えて決めるという当然のことを、しっかりと地に足をつけ実践していきたい。

「幸せ」について 〜働き者の遺伝子〜

CSRについての活動をしている関係もあるのだろう、最近「幸せ」について考えることが多い。「考える」というよりは「探求している」と言った方が正確だろうか。

 『Happy−しあわせを探すあなたへ』 という映画を見た。アカデミー賞ノミネート監督ロコ・ベリッチと日本人プロデューサー清水ハン英治が、5大陸16カ国をめぐるロケを敢行して製作したドキュメンタリーで、大手の配給会社を介さずに手作りの自主上映会を中心に、じわりじわりと共感の輪を広げている。心和む場面、グッと来る場面、ショッキングな場面といろいろある中で、最も驚いたのは「幸せ」を感じる要因の実に50%が遺伝によって決まるという研究結果である。50%が遺伝、10%がモノや立場などの外的要因、40%がその他。自分が「幸せ」かどうかという基準が極めて主観的なものであることを考えれば、幸せになれるかどうかの半分は生まれながらに決まっていることになる。

 かつて尊敬する先輩経営者の方から「しあわせ育ち」という言葉を聞いたことがある。人間にはしあわせ育ちの人とそうでない人がいて、人間関係が深くなればなるほど、その違いは埋めがたい溝となって顕われてくるというのだ。かの先輩が上記の研究結果を知っていたかどうかは定かでないが、「しあわせ育ち」とは「幸せの遺伝子」を持って生まれてきたことを言っているのでないかと思い、そういう観点で周囲の人々を観察してみると、なるほど違いが見えてくるのである。

 「幸せの遺伝子」を持っている人、つまりいつも笑顔で感じが良く、見るからに幸せそうな人は、例外無く働き者である。愚痴をこぼさず、良く気がつき、いつも働いている。しかも楽しそうに。そして自分の持ち物や社会的地位にこだわず、人に尽くすことを最優先にしている。そういう人が幸せなのは言うまでもないことなのだが、物事陽があれば陰がある。我々が過ごしてきた近代は、50%の遺伝子ではなく、10%のモノや立場で幸せを計るような陰に支配された時代だったのだ。しかし時代は移ろい陽の勢力が強くなってきた。「しあわせ育ち」としては良い傾向である。

 今年6年生になった末娘は、兄妹の中で一番勉強ができないが、嫌な顔ひとつせず家の手伝いをする。黙々と洗濯物を畳んでいる娘に「おまえはきっと幸せになるよ」と言ったら、キョトンとした顔をしていた。

「企業の」社会的責任

CSR。まさか自分がこんなに深く関わることになろうとは思っていなかったが、横浜型地域貢献企業に関わって7年目を迎えた。これまで様々な企業の事例を見聞きし、また学術的なことも勉強してきて、いま思うことを書いておきたい。

 「企業の社会的責任」は何かと問われた場合、「納税」と答える人が最も多い。少し勉強した人になると「生き残りの経営戦略」とか「継続すること」などという答えが返ってきたりする。 
いずれも間違ってはいないが、正解とも言えない。
 なぜなら「納税」は企業でなくても、普通の国家に生活している者であれば、個人であろうとNPOであろうとすべてに共通する社会的責任である。「生き残りの経営戦略」というのは、結果的にはそうなるのかもしれないが「責任」そのものを言い表してはいない。「継続」にしても、ただ継続することのみで「責任」が全うされたと考えるのは少々都合が良すぎる気がする。 

 そんなわけで最近ではCSRのうち「企業の」に相当する「C」を外して「SR」としようという動きが出てきている。社会的責任は企業だけの問題ではなく、社会に生きるすべての人が共通して負っているという解釈だ。従業員が会社のCSR活動だからといって強制的にかり出され、いやいや身の入らないボランティア活動をしているようなケースを揶揄する面もあるのだろう。

 東日本大震災では多くの人々が被災地にボランティアに出かけた。同胞が困っている時に団結して乗り越えようとする日本人の精神性に対して、諸外国から驚きと賞賛の声があがったのは、日本人としてとても誇らしいことだった。ところがゴールデンウィークを過ぎた頃からボランティアの数は激減し、今では被災地に行ってもボランティアの人たちはほとんど見かけない。
 無理もない。誰にも自分の生活があり、そうそう会社を休むこともできないし、被災地までの交通費だって何回も行っていれば負担になってくる。そもそも個人に頼った長期の支援活動は難しいのだ。

 本来であれば、いかにお役所仕事といえども、そろそろ役所がデバってさっさと復興が進んでいるはずなのだが、ご覧の通りの政治の混乱、財源不足、人手不足、そもそも自治体機能が停止している地域もあり思うに任せない。 

 そうなると残るは企業による支援しかない。筆者はすでに何度か被災地に足を運んでいるが、企業ができる支援は、規模の大小問わずたくさんある。企業とて本業で余裕があるなどというところは少数派であり、多くの企業がぎりぎりの人員でなんかと業務を回しているのが実情であろう。しかしそれでも個人でやるよりは、少しは余裕もあり、規模も大きなことができるはずである。被災地支援に関していえば、今はまさに企業の出番だ。

 翻って、敢えてCSRの「C」にこだわり、「企業の」社会的責任について考えるとき、被災地の復興に限らず、環境問題、福祉問題、教育問題、防災などといった社会的課題については、企業が解決に乗り出すというのが、もっとも現実的なのではないだろうかと思えてくる。それがビジネスとして成立するか否かはともかく、企業はあらゆる社会的課題の解決に対してもっと積極的であるべきなのではないのだろうか。

 CSRマネジメントシステムを取り入れる際、真っ先にやるのが「ステークホルダーニーズの析出」という作業だ。自社のステークホルダー(利害関係者)がどんなニーズを抱えているのか、つまり自社に対してどんな期待を抱いているのかを洗い出す作業である。
 私たちの税金が復興に向けられるとなれば、被災地は全国民にとってのステークホルダーである。そのステークホルダーが自社に対して何らかの「期待」をしているのであれば、それに応えるのは自社の社会的責任である。しかし多くの場合、その支援活動が「今現在の」自社の事業領域から外れているという理由から「慈善事業」扱いされ、ときに「中止」の判断がなされる。 
 さて、その判断は本当に正しいと言えるのだろうか。常に消費者や社会の動向を捉えてニーズを先取りし、多くの人の役に立つ商品やサービスを提供するのが企業の使命であるとするならば、被災地のニーズはその企業の将来のビジネスになり得るとは考えられないだろうか。いや、ニーズがある以上、それを事業化して継続的にそのニーズに応えられるようにするのが、それこそ「企業の」社会的責任なのではないだろうか。 
 景気低迷を言い訳にして、あまりにも「今現在の」事業領域にしがみつくばかりに、新しいニーズに応えようという気概を失ってしまったら、企業としての存在意義をも失うことになりはしないだろうか。 

 被災地復興、原発問題、 さらにはヨーロッパの情勢不安や北朝鮮の問題など複数の問題を抱え、国家運営にかなりの困難が予想される2012年。今年こそ企業人は「日本経済再興」の志を掲げ、自らの存在意義を社会に問うべきときである。後の世の教科書に、平成の危機は全国の企業人の私心を捨てた行動によって救われたと書かれるように、高らかに「CSR」を掲げ、立ち上がろう企業人。

いまここで感じている、ということ。

最近小林秀雄が静かなマイブームである。高校時代、大学入試の頻出作家だということで読まされていた頃にはほとんど意味もわからず、参考書の指示通りに接続詞をたどって論理展開を追いかけるのが精一杯だったが、この歳になって読み返してみると小林のすごさ、かっこよさが良くわかる。「本質を射抜く」という表現がぴったりのシンプルでシャープなものの見方には、思わずため息が漏れる。

その小林が『読者』の中で「批評の要諦」についてこんなことを書いている。
当時の「週刊誌ブーム」を文学の堕落だとして眉をひそめているジャーナリストとのやりとり。
『「マス・コミによる文学の質の低下というものをどう考えるか」
「質は、逆に向上すると思う。電気洗濯機を見たまえ」
「冗談は止めてもらいましょう」
「僕は、真面目に君に聞いているのだ。君は、何故ジャーナリストとして、そんな風に、読者というものを見下しているのですか」
「僕は、文学者としての貴方の意見を聞いているだけです」
「無論、そうでしょう。私は、話しをはぐらかしてはいない。文学者だって、文学の進歩が考えられる限り、売り込み競争が烈しくなればなるほど、品質もよくなると考えるべきだと思うのです。それとも、文学を向上させる、何か他に名案でもあるというのか。野球選手は何によって向上したのだ」』

そしてこう続ける。
『週刊誌ブームが、現代日本文化の一種の病気であると考えるのは勝手であろうが、 それが、ただの医者の見立てでは詰らない。自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰らない。批評家はすぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。』

人間が「いま、ここで感じていること」よりも確かなことなど存在しない。いや、それが我々の世界のすべてである。医者は過去の膨大な臨床データから導いた経験則によって診断をするが、それで患者のすべてがわかるわけではない。Amazonは顧客の過去の購入・検索の履歴からデータマイニングという手法を使って、現在ないし将来にわたって顧客が何を欲するのかを予測しようとするが、それで顧客のすべてがわかるわけではない。それらはすべて「過去」の分析であり、「いま」に追いつくことは永遠にできないのだ。小林がAmazonを見たら何と言っただろうか。

もっと合理的であろうとすること、もっと時間を短縮しようとすること、理性的成長願望がもたらす再帰性によって、人々は「目の前で起きていることを感じる」ことから遠ざかり、空想の世界を彷徨いつつあるように感じる。
広井良典が指摘する「倫理の外部化」の本質は、倫理が外部化されることによる「経験の喪失」であるように思われる。リアルな経験なくして倫理観は育たない。

そこに身を置くこと、そして感じること。経験だけが倫理と感性を育む。科学技術が発達し、遠く離れた場所でもインターネットを介して容易に連絡を取り合うことができ、簡単に情報が取り出せる時代だからこそ、経験することの意味が際立ってくる。目の前の人が何を欲しているのか、それを感じて、それに応えようとすること、思いやること。それはビジネスの本質でもあり、民主主義の本質でもあり、それを「愛」と呼ぶのではないかと思う。

『自分の私生活は、自分にとって貴重であって、自分自身にも分析の適わぬほど微妙なものだ、という強い自覚があれば、他人の私生活について仔細らしく語れもしまい。他人の私生活に関する動物的な好奇心を抑制するものも、そういう自覚の他にあるとは考えられない。それが、デモクラシイ倫理の塩ならば、塩の利かない民主主義的生活なぞ食えた代物ではない。』 

簡単に辿り着けるゴールなどない。いま一度謙虚になろう。

人類史上2度目の環境破壊

台風12号が猛威をふるった。雨の量(温暖化)に問題があるのか、治水に問題があるのかはわからないが、とにかくここのところ水害が多い。温暖化にしても治水の問題にしても人間による環境破壊(改造)に原因があることはほぼ間違いないことだろう。

広井良典氏は著書『創造的福祉社会』の中で興味深い指摘をしている。
カール・ヤスパースが、現在の私たちが内面の在りようも含めて言うところの「人間」が出現したと指摘する「枢軸時代」(紀元前5〜3世紀頃) にも、人類は環境問題に直面していたというものだ。
人類が農耕を始めたのは今から約1万年前とされるが、以来人類は農地を拡大し、人口を飛躍的に増加させた。その結果棄てられた農地は荒地に変わり、木々を伐採された山々はみな禿げ山に変わっていった。ソクラテスが当時のギリシャの状況をそのように語っていることからもほぼ事実であると考えて間違いない。
そのような自然環境の変化は、おそらく現代でいうところの「ゲリラ豪雨」のような気候変動をもたらし、保水力を失った山からは土石流が度々襲って来たに違いない。人々はこれ以上欲望に任せた開発を抑制しなければいけないと考え、紀元前5〜3世紀というきわめて短い時間に、世界各地で同時多発的に宗教や哲学といった自制的な規範や学問を生み出した。論語を初めとする中国の思想、ギリシャ哲学、旧約思想など、現在の宗教や思想の源流はほぼこの時代に遡ることができる。そのように価値観を拡大から自制に切り替えていったことで、人類は危機を乗り越えることができたのではないかと氏は推論する。

「農地開拓のやりすぎ」を「工業化のやりすぎ」に置き換えてみれば、枢軸時代前夜の状況はそのまま現代にあてはまる。そしていま、環境問題は世界共通の課題となり、これまでの欲望に任せた拡大一辺倒の成長路線に疑問を呈する声が広がっており、2度目の枢軸時代の訪れを予感させる。
人間が外的、物質的なことから、内的、精神的な事柄に関心を向けるとき、芸術や学問や教育が花開く。 芸術や学問や教育を大切に守り、育みながら、新たな枢軸時代の到来を静かに待ちたい。

MUDフィールドワーク開催

7月30日(土)神奈川県印刷工業組合経営革新・マーケティング委員会主催の「MUD実践プロジェクト・フィールドワーク」を開催した。

このプログラムは同委員会が昨年より実施している「実践プログラム」の一環で、机上での学習だけでなく、実際に挑戦してみようというもので、昨年は「電子書籍」今年は「メディアユニバーサルデザイン(MUD)」と、日常業務の中ではなかなか手が回らない新分野について、OFFJTの形をとって教育実践する試み。
当日は飛び入り参加も含め、社会人20名、学生10名の総勢30名が参加し、MUDについて熱心に勉強した。

【内容】
1.MUD基礎講習(NPO法人メディア・ユニバーサル・デザイン協会理事長 伊藤裕道氏)
2.MUDフィールドワーク
   会場近くの横浜駅東口地下街ポルタと日産本社ギャラリーを、MUD的視点で観察
3.印刷物のMUD評価ディスカッション
   各参加者が持ち寄った印刷物について4テーブルに分かれてのディスカッション
4.テーブル発表

今後は、今回の学習内容を踏まえ、カレンダー制作に挑戦。
スケジュール管理の電子化が進む中、カレンダーの役割とはどのようなものになるのか?またそのときにMUDはどうあるべきなのか?などについて議論しながら、社会人と学生のペアチームがそれぞれカレンダーデザインを進め、10月の成果発表会を経て、カレンダーのデータを組合員企業に配布する計画。


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伊藤理事長による講演

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日産本社ギャラリーをチェック

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色覚シミュレーション眼鏡をかけて色の見え方を体験

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ディスカッションでの気付きを発表




義捐金

「ぎそんきん」などと読み違える人がいるせいか、最近「義援金」の字があてられることが多いようだが、正しくは「義捐金」。いやむしろ「ぎえんきん」は「義捐金」と書かねばならぬ。

「捐」は「すてる」の意。つまり義捐金とは「義のためにすててしまうお金」という意味。「捐」でなければならない理由は「義」にある。

「義」とは儒教における五常(仁・義・礼・智・信)のひとつであり、「ものの道理」「人として守るべき正しい道」のことを指す。儒教が自らの行いを律する教えであることを考えれば、「義」とは他人ではなく、己の行いに対する教義であると言える。

保険会社のアヒルに言われるまでもなく、我々にとってお金は大事なものである。その大事なものを「すてる」ことで、自らが人として正しい道を歩んでいることを確認する行いが「義捐金」ということなのではないだろうか。だから「援」ではいけない。「大事なものをすてる」という行為によって、被災者の方たちと痛みを分かち合うことが、義のためにはどうしても必要なのだから。

近代理性主義による人間社会は、やはりこのことを間違えたのだ。自分が大事なものは決して捨てない、離さない。それが「個人の権利」として保護される。人として守るべき「義」は、税による相互扶助というシステムに呑み込まれ、個々が考え、感じることをやめてしまった。

小4の娘が一緒に買い物にいったスーパーのレジで、全部で300円ぐらいしか入っていない財布からおもむろに10円を取り出し、レジ横に置いてあった「義捐金」の募金箱にチャリンと入れた。「義を見てせざるは勇無きなり」父も慌てておつりの小銭を募金箱に入れ、顔を見合わせて笑った。

「義」はどこにあるか。日本人にはまだ感じる力が残されている。大丈夫。きっといい社会を作ることができる。 

がんばろう日本!〜復興のシナリオ〜

まだ行方不明の方がたくさんいらっしゃる中で、復興の話を持ち出すのは早すぎるのかもしれないが、20日世界銀行から日本の今期の経済成長と、今回の震災の被害総額推計が発表された。世界銀行によれば、経済成長の鈍化は一時的なもので、今年後半には回復の見込。また被害総額は1220億ドル(約9.9兆円)〜2350億ドル(約19兆円)としている。

現在非難されている方の人数が35万人ほどで、およそ10万軒の家屋に被害が出ていると仮定して、1軒平均1000万円で再建すると考えると合計で1兆円。インフラの回復にその10倍〜20倍要すると考えると、すべてを復興するのに10〜20兆円程度かかると筆者は見ていたので、あながち間違っていなかった。

2010年の日本の名目GDP予測値が477兆円だから、20兆円の被害としてGDP比で4.2%。10年で返すと考えれば1年あたり0.42%。つまり10年間続けて名目GDPを0.42%押し上げることができれば、今回の被害はゼロに戻せることになる。09年から10年の成長率は0.6%。必ずしもプラス要因ばかりではない今日、0.42%の成長は楽ではないが、やらねばならぬ。まずは自社の売上を1%でもいいから上乗せすること。衰退は許されない。

その「自粛」は何のため?

googleカレンダーをびっしり埋め尽くしていた予定が次々にキャンセルされ、なんとなく手持ち無沙汰である。世の中「自粛、自粛」でいっせいに色々なことが取りやめになっているようだが、このムードには異議を唱えたくなる。

「ゴルフコンペを中止にします」これはやむを得ないと思う。しかし、卒業式の謝恩会を中止にするとか、吹奏楽部の定期演奏会を中止するとか、経営の勉強会を中止するとか、業界団体の総会を延期するとか、まったく意味のわからない中止の判断が全国的になされていることは情けない限りである。

それは「自粛」ではなくて、単にお叱りを恐れての「事なかれ主義」ではないのか?確かに強行して世間から冷ややかな視線を浴びせられたり、「電車が動いてないのに来れないとわかっていて開催するのか!」などというクレームをもらうのは誰だっていやだ。いやだから中止。中止にした方が無難。実施するにはどうすれば良いか?などということを検討した形跡もない。

第一、電車なんて災害時でなくてもしょっちゅう止まっているのだ。普段はなんとかして行こうと努力するのに、こうなってしまうと考えることもしない。緊急時にかこつけてサボっているだけではないのか?

こういうときだからこそ、リアルなコミュニケーションをして、人の温もりを感じるべきなのだ。こういうときだからこそ、面と向かって、被災地のこと、これからの日本のことについて話し合い、知恵を出し合うべきなのだ。

ガソリンスタンドの行列、食材の買い占め、なぜか電池とトイレットペーパーが売り切れ…
利己的なご都合主義で行動するのではなく、今の私「たち」に何が必要なのか、何ができるのか、ひとり一人が思考停止にならずに考え、工夫し、そして助け合うことが必要だと心からそう思う。

うばい合うと 足らないけれど
わけ合うと あまっちゃうんだなあ
みつを 
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