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「一国の政治のレベルは、その国の国民のレベルに比例する。」サミュエル・スマイルズの言を待つまでもなく、世界中から尊敬される豊かな国家を築くことができるかどうかは、我々自身にかかっている。いま我々は何を考え、何をなすべきなのか。

「企業の」社会的責任

CSR。まさか自分がこんなに深く関わることになろうとは思っていなかったが、横浜型地域貢献企業に関わって7年目を迎えた。これまで様々な企業の事例を見聞きし、また学術的なことも勉強してきて、いま思うことを書いておきたい。

 「企業の社会的責任」は何かと問われた場合、「納税」と答える人が最も多い。少し勉強した人になると「生き残りの経営戦略」とか「継続すること」などという答えが返ってきたりする。 
いずれも間違ってはいないが、正解とも言えない。
 なぜなら「納税」は企業でなくても、普通の国家に生活している者であれば、個人であろうとNPOであろうとすべてに共通する社会的責任である。「生き残りの経営戦略」というのは、結果的にはそうなるのかもしれないが「責任」そのものを言い表してはいない。「継続」にしても、ただ継続することのみで「責任」が全うされたと考えるのは少々都合が良すぎる気がする。 

 そんなわけで最近ではCSRのうち「企業の」に相当する「C」を外して「SR」としようという動きが出てきている。社会的責任は企業だけの問題ではなく、社会に生きるすべての人が共通して負っているという解釈だ。従業員が会社のCSR活動だからといって強制的にかり出され、いやいや身の入らないボランティア活動をしているようなケースを揶揄する面もあるのだろう。

 東日本大震災では多くの人々が被災地にボランティアに出かけた。同胞が困っている時に団結して乗り越えようとする日本人の精神性に対して、諸外国から驚きと賞賛の声があがったのは、日本人としてとても誇らしいことだった。ところがゴールデンウィークを過ぎた頃からボランティアの数は激減し、今では被災地に行ってもボランティアの人たちはほとんど見かけない。
 無理もない。誰にも自分の生活があり、そうそう会社を休むこともできないし、被災地までの交通費だって何回も行っていれば負担になってくる。そもそも個人に頼った長期の支援活動は難しいのだ。

 本来であれば、いかにお役所仕事といえども、そろそろ役所がデバってさっさと復興が進んでいるはずなのだが、ご覧の通りの政治の混乱、財源不足、人手不足、そもそも自治体機能が停止している地域もあり思うに任せない。 

 そうなると残るは企業による支援しかない。筆者はすでに何度か被災地に足を運んでいるが、企業ができる支援は、規模の大小問わずたくさんある。企業とて本業で余裕があるなどというところは少数派であり、多くの企業がぎりぎりの人員でなんかと業務を回しているのが実情であろう。しかしそれでも個人でやるよりは、少しは余裕もあり、規模も大きなことができるはずである。被災地支援に関していえば、今はまさに企業の出番だ。

 翻って、敢えてCSRの「C」にこだわり、「企業の」社会的責任について考えるとき、被災地の復興に限らず、環境問題、福祉問題、教育問題、防災などといった社会的課題については、企業が解決に乗り出すというのが、もっとも現実的なのではないだろうかと思えてくる。それがビジネスとして成立するか否かはともかく、企業はあらゆる社会的課題の解決に対してもっと積極的であるべきなのではないのだろうか。

 CSRマネジメントシステムを取り入れる際、真っ先にやるのが「ステークホルダーニーズの析出」という作業だ。自社のステークホルダー(利害関係者)がどんなニーズを抱えているのか、つまり自社に対してどんな期待を抱いているのかを洗い出す作業である。
 私たちの税金が復興に向けられるとなれば、被災地は全国民にとってのステークホルダーである。そのステークホルダーが自社に対して何らかの「期待」をしているのであれば、それに応えるのは自社の社会的責任である。しかし多くの場合、その支援活動が「今現在の」自社の事業領域から外れているという理由から「慈善事業」扱いされ、ときに「中止」の判断がなされる。 
 さて、その判断は本当に正しいと言えるのだろうか。常に消費者や社会の動向を捉えてニーズを先取りし、多くの人の役に立つ商品やサービスを提供するのが企業の使命であるとするならば、被災地のニーズはその企業の将来のビジネスになり得るとは考えられないだろうか。いや、ニーズがある以上、それを事業化して継続的にそのニーズに応えられるようにするのが、それこそ「企業の」社会的責任なのではないだろうか。 
 景気低迷を言い訳にして、あまりにも「今現在の」事業領域にしがみつくばかりに、新しいニーズに応えようという気概を失ってしまったら、企業としての存在意義をも失うことになりはしないだろうか。 

 被災地復興、原発問題、 さらにはヨーロッパの情勢不安や北朝鮮の問題など複数の問題を抱え、国家運営にかなりの困難が予想される2012年。今年こそ企業人は「日本経済再興」の志を掲げ、自らの存在意義を社会に問うべきときである。後の世の教科書に、平成の危機は全国の企業人の私心を捨てた行動によって救われたと書かれるように、高らかに「CSR」を掲げ、立ち上がろう企業人。

いまここで感じている、ということ。

最近小林秀雄が静かなマイブームである。高校時代、大学入試の頻出作家だということで読まされていた頃にはほとんど意味もわからず、参考書の指示通りに接続詞をたどって論理展開を追いかけるのが精一杯だったが、この歳になって読み返してみると小林のすごさ、かっこよさが良くわかる。「本質を射抜く」という表現がぴったりのシンプルでシャープなものの見方には、思わずため息が漏れる。

その小林が『読者』の中で「批評の要諦」についてこんなことを書いている。
当時の「週刊誌ブーム」を文学の堕落だとして眉をひそめているジャーナリストとのやりとり。
『「マス・コミによる文学の質の低下というものをどう考えるか」
「質は、逆に向上すると思う。電気洗濯機を見たまえ」
「冗談は止めてもらいましょう」
「僕は、真面目に君に聞いているのだ。君は、何故ジャーナリストとして、そんな風に、読者というものを見下しているのですか」
「僕は、文学者としての貴方の意見を聞いているだけです」
「無論、そうでしょう。私は、話しをはぐらかしてはいない。文学者だって、文学の進歩が考えられる限り、売り込み競争が烈しくなればなるほど、品質もよくなると考えるべきだと思うのです。それとも、文学を向上させる、何か他に名案でもあるというのか。野球選手は何によって向上したのだ」』

そしてこう続ける。
『週刊誌ブームが、現代日本文化の一種の病気であると考えるのは勝手であろうが、 それが、ただの医者の見立てでは詰らない。自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰らない。批評家はすぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。』

人間が「いま、ここで感じていること」よりも確かなことなど存在しない。いや、それが我々の世界のすべてである。医者は過去の膨大な臨床データから導いた経験則によって診断をするが、それで患者のすべてがわかるわけではない。Amazonは顧客の過去の購入・検索の履歴からデータマイニングという手法を使って、現在ないし将来にわたって顧客が何を欲するのかを予測しようとするが、それで顧客のすべてがわかるわけではない。それらはすべて「過去」の分析であり、「いま」に追いつくことは永遠にできないのだ。小林がAmazonを見たら何と言っただろうか。

もっと合理的であろうとすること、もっと時間を短縮しようとすること、理性的成長願望がもたらす再帰性によって、人々は「目の前で起きていることを感じる」ことから遠ざかり、空想の世界を彷徨いつつあるように感じる。
広井良典が指摘する「倫理の外部化」の本質は、倫理が外部化されることによる「経験の喪失」であるように思われる。リアルな経験なくして倫理観は育たない。

そこに身を置くこと、そして感じること。経験だけが倫理と感性を育む。科学技術が発達し、遠く離れた場所でもインターネットを介して容易に連絡を取り合うことができ、簡単に情報が取り出せる時代だからこそ、経験することの意味が際立ってくる。目の前の人が何を欲しているのか、それを感じて、それに応えようとすること、思いやること。それはビジネスの本質でもあり、民主主義の本質でもあり、それを「愛」と呼ぶのではないかと思う。

『自分の私生活は、自分にとって貴重であって、自分自身にも分析の適わぬほど微妙なものだ、という強い自覚があれば、他人の私生活について仔細らしく語れもしまい。他人の私生活に関する動物的な好奇心を抑制するものも、そういう自覚の他にあるとは考えられない。それが、デモクラシイ倫理の塩ならば、塩の利かない民主主義的生活なぞ食えた代物ではない。』 

簡単に辿り着けるゴールなどない。いま一度謙虚になろう。

人類史上2度目の環境破壊

台風12号が猛威をふるった。雨の量(温暖化)に問題があるのか、治水に問題があるのかはわからないが、とにかくここのところ水害が多い。温暖化にしても治水の問題にしても人間による環境破壊(改造)に原因があることはほぼ間違いないことだろう。

広井良典氏は著書『創造的福祉社会』の中で興味深い指摘をしている。
カール・ヤスパースが、現在の私たちが内面の在りようも含めて言うところの「人間」が出現したと指摘する「枢軸時代」(紀元前5〜3世紀頃) にも、人類は環境問題に直面していたというものだ。
人類が農耕を始めたのは今から約1万年前とされるが、以来人類は農地を拡大し、人口を飛躍的に増加させた。その結果棄てられた農地は荒地に変わり、木々を伐採された山々はみな禿げ山に変わっていった。ソクラテスが当時のギリシャの状況をそのように語っていることからもほぼ事実であると考えて間違いない。
そのような自然環境の変化は、おそらく現代でいうところの「ゲリラ豪雨」のような気候変動をもたらし、保水力を失った山からは土石流が度々襲って来たに違いない。人々はこれ以上欲望に任せた開発を抑制しなければいけないと考え、紀元前5〜3世紀というきわめて短い時間に、世界各地で同時多発的に宗教や哲学といった自制的な規範や学問を生み出した。論語を初めとする中国の思想、ギリシャ哲学、旧約思想など、現在の宗教や思想の源流はほぼこの時代に遡ることができる。そのように価値観を拡大から自制に切り替えていったことで、人類は危機を乗り越えることができたのではないかと氏は推論する。

「農地開拓のやりすぎ」を「工業化のやりすぎ」に置き換えてみれば、枢軸時代前夜の状況はそのまま現代にあてはまる。そしていま、環境問題は世界共通の課題となり、これまでの欲望に任せた拡大一辺倒の成長路線に疑問を呈する声が広がっており、2度目の枢軸時代の訪れを予感させる。
人間が外的、物質的なことから、内的、精神的な事柄に関心を向けるとき、芸術や学問や教育が花開く。 芸術や学問や教育を大切に守り、育みながら、新たな枢軸時代の到来を静かに待ちたい。

MUDフィールドワーク開催

7月30日(土)神奈川県印刷工業組合経営革新・マーケティング委員会主催の「MUD実践プロジェクト・フィールドワーク」を開催した。

このプログラムは同委員会が昨年より実施している「実践プログラム」の一環で、机上での学習だけでなく、実際に挑戦してみようというもので、昨年は「電子書籍」今年は「メディアユニバーサルデザイン(MUD)」と、日常業務の中ではなかなか手が回らない新分野について、OFFJTの形をとって教育実践する試み。
当日は飛び入り参加も含め、社会人20名、学生10名の総勢30名が参加し、MUDについて熱心に勉強した。

【内容】
1.MUD基礎講習(NPO法人メディア・ユニバーサル・デザイン協会理事長 伊藤裕道氏)
2.MUDフィールドワーク
   会場近くの横浜駅東口地下街ポルタと日産本社ギャラリーを、MUD的視点で観察
3.印刷物のMUD評価ディスカッション
   各参加者が持ち寄った印刷物について4テーブルに分かれてのディスカッション
4.テーブル発表

今後は、今回の学習内容を踏まえ、カレンダー制作に挑戦。
スケジュール管理の電子化が進む中、カレンダーの役割とはどのようなものになるのか?またそのときにMUDはどうあるべきなのか?などについて議論しながら、社会人と学生のペアチームがそれぞれカレンダーデザインを進め、10月の成果発表会を経て、カレンダーのデータを組合員企業に配布する計画。


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伊藤理事長による講演

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日産本社ギャラリーをチェック

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色覚シミュレーション眼鏡をかけて色の見え方を体験

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ディスカッションでの気付きを発表




義捐金

「ぎそんきん」などと読み違える人がいるせいか、最近「義援金」の字があてられることが多いようだが、正しくは「義捐金」。いやむしろ「ぎえんきん」は「義捐金」と書かねばならぬ。

「捐」は「すてる」の意。つまり義捐金とは「義のためにすててしまうお金」という意味。「捐」でなければならない理由は「義」にある。

「義」とは儒教における五常(仁・義・礼・智・信)のひとつであり、「ものの道理」「人として守るべき正しい道」のことを指す。儒教が自らの行いを律する教えであることを考えれば、「義」とは他人ではなく、己の行いに対する教義であると言える。

保険会社のアヒルに言われるまでもなく、我々にとってお金は大事なものである。その大事なものを「すてる」ことで、自らが人として正しい道を歩んでいることを確認する行いが「義捐金」ということなのではないだろうか。だから「援」ではいけない。「大事なものをすてる」という行為によって、被災者の方たちと痛みを分かち合うことが、義のためにはどうしても必要なのだから。

近代理性主義による人間社会は、やはりこのことを間違えたのだ。自分が大事なものは決して捨てない、離さない。それが「個人の権利」として保護される。人として守るべき「義」は、税による相互扶助というシステムに呑み込まれ、個々が考え、感じることをやめてしまった。

小4の娘が一緒に買い物にいったスーパーのレジで、全部で300円ぐらいしか入っていない財布からおもむろに10円を取り出し、レジ横に置いてあった「義捐金」の募金箱にチャリンと入れた。「義を見てせざるは勇無きなり」父も慌てておつりの小銭を募金箱に入れ、顔を見合わせて笑った。

「義」はどこにあるか。日本人にはまだ感じる力が残されている。大丈夫。きっといい社会を作ることができる。 

がんばろう日本!〜復興のシナリオ〜

まだ行方不明の方がたくさんいらっしゃる中で、復興の話を持ち出すのは早すぎるのかもしれないが、20日世界銀行から日本の今期の経済成長と、今回の震災の被害総額推計が発表された。世界銀行によれば、経済成長の鈍化は一時的なもので、今年後半には回復の見込。また被害総額は1220億ドル(約9.9兆円)〜2350億ドル(約19兆円)としている。

現在非難されている方の人数が35万人ほどで、およそ10万軒の家屋に被害が出ていると仮定して、1軒平均1000万円で再建すると考えると合計で1兆円。インフラの回復にその10倍〜20倍要すると考えると、すべてを復興するのに10〜20兆円程度かかると筆者は見ていたので、あながち間違っていなかった。

2010年の日本の名目GDP予測値が477兆円だから、20兆円の被害としてGDP比で4.2%。10年で返すと考えれば1年あたり0.42%。つまり10年間続けて名目GDPを0.42%押し上げることができれば、今回の被害はゼロに戻せることになる。09年から10年の成長率は0.6%。必ずしもプラス要因ばかりではない今日、0.42%の成長は楽ではないが、やらねばならぬ。まずは自社の売上を1%でもいいから上乗せすること。衰退は許されない。

その「自粛」は何のため?

googleカレンダーをびっしり埋め尽くしていた予定が次々にキャンセルされ、なんとなく手持ち無沙汰である。世の中「自粛、自粛」でいっせいに色々なことが取りやめになっているようだが、このムードには異議を唱えたくなる。

「ゴルフコンペを中止にします」これはやむを得ないと思う。しかし、卒業式の謝恩会を中止にするとか、吹奏楽部の定期演奏会を中止するとか、経営の勉強会を中止するとか、業界団体の総会を延期するとか、まったく意味のわからない中止の判断が全国的になされていることは情けない限りである。

それは「自粛」ではなくて、単にお叱りを恐れての「事なかれ主義」ではないのか?確かに強行して世間から冷ややかな視線を浴びせられたり、「電車が動いてないのに来れないとわかっていて開催するのか!」などというクレームをもらうのは誰だっていやだ。いやだから中止。中止にした方が無難。実施するにはどうすれば良いか?などということを検討した形跡もない。

第一、電車なんて災害時でなくてもしょっちゅう止まっているのだ。普段はなんとかして行こうと努力するのに、こうなってしまうと考えることもしない。緊急時にかこつけてサボっているだけではないのか?

こういうときだからこそ、リアルなコミュニケーションをして、人の温もりを感じるべきなのだ。こういうときだからこそ、面と向かって、被災地のこと、これからの日本のことについて話し合い、知恵を出し合うべきなのだ。

ガソリンスタンドの行列、食材の買い占め、なぜか電池とトイレットペーパーが売り切れ…
利己的なご都合主義で行動するのではなく、今の私「たち」に何が必要なのか、何ができるのか、ひとり一人が思考停止にならずに考え、工夫し、そして助け合うことが必要だと心からそう思う。

うばい合うと 足らないけれど
わけ合うと あまっちゃうんだなあ
みつを 

日本の経済、日本の社会

2011年3月11日、文字通り未曾有の大災害が日本を襲った。被災地の悲惨な光景は筆舌に尽くしがたく、被災者の方々の心痛は察するに余りある。心よりお見舞い申し上げるとともに、1日も早い復興に向け、国民一丸となって取り組まねばならないと思う。

大震災によって首都圏も混乱している。週明けの今日も多くの鉄道が運休し、多くの工場が操業停止を余儀なくされている。情報が錯綜し、暴動が起きてもおかしくないような状況にもかかわらず、あくまでも静かに、そして礼儀正しくふるまう日本人の姿に海外から賞賛の声が上がっていると聞く。

地震当日の夜はこんなに人がいたのかと思うほどの帰宅困難者で歩道が埋め尽くされた。そんな中、公共の施設はもとより、ホテルやスーパーマーケットなどの民間企業もが、仮眠や休憩のための場所を提供し、おにぎりなどをふるまうという心温まる光景が見られた。その後も携帯キャリアがメールを無料化したり、クリエイターが節電ポスターのデザインを無償提供したりと、日本人らしい粋なはからいが随所で展開されている。

政治哲学者のマイケル・サンデル教授の議論に、「災害時に便乗値上げするのは妥当か?」というのがある。個人の権利を重視し、市場の原理を貫くことを「正義」と見なすアメリカでは、先の行為は正当化される傾向にある。 ハリケーン・カトリーナの被害のときは、通常$1のミネラルウォーターが$10で販売されたが、ネオ・リベ経済学者たちは「It's market price !」とむしろ歓迎した。もちろん日本人にも、ここぞとばかりに便乗値上げを目論む輩はたくさんいて、そういう人たちに「何甘いこと言ってんだ」と言われると、どうも反論できないでいたのがこれまでのパターンだったと思うのだが、サンデル教授は明確に「NO!」と言う。 

私たち日本人は「理(ことわり)」(サンデル教授の言う「正義」)より大事な「善」があることを知っている。しかし近代日本を成功に導いた「理」、すなわちアメリカから輸入した経済合理主義があまりにも豊かな生活をもたらしたがために、どうも自分たちが信じている「善」よりも、アメリカの「理」の方が立派なものなのではないかと錯覚してしまっていたようだ。

この未曾有の大惨事に直面して、私たちは改めて自分たちの信じた「善」が、経済合理主義の「理」よりも大切なものであることを思い出している。こんなときによこしまなことを考えるのを「不謹慎」と感じ、不快だと思う感性が紡ぎ出す「善」の価値観。助け合いや福祉までをも市場に委ねるのは、やはり日本人の流儀にはあわない。

自分の儲けを削っても全体としての「善」を貫くその真面目さ、高潔さ。それが日本人の気質なのだとすれば、その気質にあった経済、その気質にあった社会を、どこの国のマネでもなく、独自に自信をもって築き上げていけばよい。東北が復興する頃には、もうひと回り大きく成長した日本になっていたい。

2011年に日本がなすべきこと

昨年の正月に2010年からの10年間は人類にとって大きな意味を持つ10年間になりそうな気がすると書いたが、まずはその期待を裏切らない一年が過ぎた。時代はポスト近代に向けて具体的に動き出している。しかしその時代の移り変わりに我が日本国がうまく乗れているかというと、残念ながら「否」と言わざるを得ない。

ポスト近代への対応という課題はすべての先進国に共通のものであり、近代がもたらした社会の歪みは各国が抱えてはいるものの、例えばヨーロッパではいち早く多国間の共同体であるEUを成立させて、環境や文化・芸術などの次世代の価値観に基づいた産業構造への転換を始めているし、アメリカでは積極的な移民政策によって次世代の担い手の確保を周到に進めており、先進各国ではそれなりに対策を講じている。ところがわが国では、ようやく昨年「産業構造ビジョン」なるものが示されたばかりで、依然として国際競争力の多くの部分を近代の象徴的産業である製造業が担っているし、国家予算の収支バランスを激変させてしまう少子高齢化への有効な政策も示されないまま、人口減少にも、高齢化率上昇にも改善の気配すら見られない。また国内政局の混乱のせいかどうかは定かでないが、近年クローズアップされてきている国際通貨競争にも完全に遅れをとっており、超円高状態が所与のものとされつつある由々しき状態にある。さらには政治の弱体化を見透かされての対中、対ロ外交での失策と、まったくもって「イケてない」のである。

このような厳しい状況を打開すべく2011年に日本がなすべきことを考えてみたい。

①政権の安定

まずはなんといっても政権が安定してもらわなくてはならない。しかしだからといって政権が安定するまで何もしなくて良いわけではない。現政権の動きを見ていると「すべての改革は政権が安定した後でないと無理」と決め込んで諦めているようにも見える。確かに予算が関係するものは国会で予算案が通らなければ手も足も出ないわけだが、改革は金をかけずにできることもあるのだから、まずはできることから着実に取り組んでほしい。

民主党は参議院で過半数をもっていないばかりか、衆議院でも再議決に必要な三分の二に達していないため、強行採決に踏み切ることができない。となると政権安定のためには早期解散しか選択肢はない。本来であれば政界再編の後に総選挙をして国民が政権選択すべきところだが、今のような緊急時には、大連立織り込み済みの選挙をやることも仕方ないのはないだろうか。とにかく急ピッチで改革が進められる体制を一刻も早く確立してほしい。

②少子高齢化対策

日本の高齢化率(全人口に占める65<歳以上人口の割合)は世界一である。しかも多くの先進諸国では2030年ぐらいを境に高齢化率の上昇は鈍化してくる見込みだが、日本はその後も上昇を続けることになっている。言うまでもなく高齢化率が上昇すれば、年金や医療費などのいわゆる義務的経費が増加し、攻めの予算が限られたものになるため、ますます成長戦略を描きづらくなってしまう。社会保障費の縮減を進めつつ、子供を増やす政策を第一優先課題とすべきである。具体的には子供を産むことで新たな家計の支出が生まれないような支援が必要だ。財源はすべての社会保障費を少しずつ削って賄うしかないだろう。国の未来のためにみんなで少しずつ我慢する。民主主義とはそういうものなのだから仕方ない。大変心苦しいことだが、先輩たちに我慢していただくしかない。

しかしせっかく我慢していただいても、日本人のライフスタイルや価値観がすでに変化しているため、金銭的補助でだけでは不十分であることも考えられる。そのための対策として移民の受け入れは避けて通れない。労働人口と総人口を増加させ、高齢化率を引き下げると同時に内需を拡大するためには極めて有効な政策である。敗戦の影響なのか、外国人の流入を極端に嫌う人も多いが、これほどまでにグローバル化した世界において「純血主義」のような議論はまったく意味をなさない。冷静になってよく考えてほしいものだ。

③官民一体となったMade in Japanの売り込み

日本のモノづくりを新たな価値観に基づいてプロデュースし直して、再び世界に打って出る政策はすでに経済産業省でも実施しているが、まだまだ売り込みが不十分である。経済に国家は介入すべきでないという説もあるが、市場にはできる限り介入しないに越したことはないと思うが、グローバル市場での国際競争が当たり前の現代にあっては、官民一体となった国をあげてのセールスプロモーションが欠かせない。特に中小企業に至っては、優れた技術はあるが、それを新しい価値観に基づいて展開するだけのアイデア、人材、資金など、多くの経営リソースが不足している。中小企業の海外展開には一層の政府の支援が必要である。

④国家安全保障の再考

尖閣問題、北方領土問題、北朝鮮の核開発問題など、今年わが国を取り巻く安全保障環境は激変する可能性が高い。日米安保は「実効支配」している領土にのみ適用されることから、尖閣や北方領土で何かが起きても、米軍が介入できる余地はほとんどない。日米安保条約は北朝鮮がいきなり東京にテポドンを打ち込んでくるような、あまりあり得ない場合にしか適用されない=現実的にはほとんど機能しないということが明らかになってきている。冷戦終了から10年以上が経過し、日米安保の役割はすでに終わっていると考える方が現実的ではないだろうか。我々は現在の日本が置かれている状況に即した安全保障のあり方を考える、いや考えざるを得ない時期に来ている。それが2011年ではないかと考える。

⑤国民的政治教育の実施

その国の政治のレベルは国民のレベルに比例する。現政権の政治のレベルが低いというのであれば、それは国民のレベルが低いということだ。それもそのはずわが国には国民が政治を学ぶ機会がまったく提供されていない。何も知らないのに「選べ」と言われても、何を根拠に誰を選んだら良いのかわからないのは当然のことである。世界にひけをとらないハイレベルな政治を実現するためには、国民的政治教育は不可欠である。教育関係者はもとより、保護者に至っても教育の現場に政治を持ち込んだりすることにアレルギー反応があるように見受けられるが、その反応そのものが、無知がもたらす弊害であるのは言うまでもない。

この5つをとりあえず懸命にやってみたら、事態はたいぶ改善されるはずだと思うのだが、問題はこの5つを優先課題にするというコンセンサスを誰がとるかということであり、結局そのことに終始してしまうことだ。だから先に進まない。権力者が保身のための権力争いに終始する。まさに民主主義の誤謬だ。自分たちに与えられた権力を自分たちで実効性のあるものにできないなら、そんな権力は放棄して天皇にでも預けてしまえと言いたい。

2011年。今年も世界はまた一歩次の時代に向けて歩みを進める。その歩みに日本がついていけるかどうか。明暗のわかれる一年になりそうである。

 

無邪気なナショナリズムを問う その1 〜尖閣問題の本質〜

国民生活が困窮してくるとナショナリズムが台頭するというのは定説なのだろうが、それにしても無邪気で偏狭なナショナリズム的言説が筆者の周囲でも目立ってきた。
「鎖国してしまえ!」のような極論も時折聞かれるが、江戸時代の生活レベルに戻って、なおかつ独裁または封建的な身分制度を受け入れる覚悟があるなら鎖国も良いが、それはほとんどの国民が望むところではないだろう。やはり我々は国際社会の中で、諸外国との綱引きをしながらも、互いに繁栄する道を探し続けなければならない。そして日本はその主導的役割を果たして行かねばならないと思う。そこを原点として最近の気になる問題について整理しておきたいと思う。

今回は尖閣沖での漁船衝突事故を考えてみたい。船長の釈放やビデオの扱いについて政府の対応がまずかったということで、官房長官や大臣の不信任決議にまで発展しているが、筆者はビデオ流出の一件を除けば、政府の対応にまずさがあったとは思わない。
 
中国が尖閣諸島の領有権を主張し出したのは1970年代であり、何も最近になって騒ぎ出したことではない。これまでにも何度も中国が領有権を主張したり、尖閣諸島周辺での小競り合いなどは起きているが、基本的にはすべて日本の法律に基づいて処理されており、日本が実効支配していることには変わりはない。
2004年に中国人活動家が7人が尖閣諸島の魚釣島に上陸したときは「出入国管理法違反(不法入国)」で逮捕したし、今回の船長は「公務執行妨害」で逮捕した。「出入国管理法違反」や「公務執行妨害」というのは言うまでもなく日本の法律であり、日本の法律に基づく権力を行使して国際社会から何ら非難されないということは、尖閣諸島は日本固有の領土であると国際社会も認めているという証左である。

我々国民としては尖閣諸島を中国に盗られなければ良いわけなので、船長を処分するかしないかということは国益には直接関係がない。日本人ならいざ知らず、所詮は外国人なのだからさっさと帰してしまった方が良いのだ。それを「なぜ釈放した!?」のようなことで騒ぐのは、まったく合理性を欠いた単なる感情的な噴き上がりでしかない。

また、ビデオの公開に関して、あれをもっと早く出していれば、中国はグウの音も出せずに謝罪したはずだとする見解があるが、それも間違いである。そもそも中国は尖閣沖は自国の領海だと主張しているわけなので、自国の領海で日本の海上保安庁が活動すること自体を認めていない。だから謝罪などするはずもないし、ビデオを公開しても何の意味もない。
しかし自国の領海だというわりには、中国は今回の衝突事故について、中国の国内法に基づく対応、つまり「領海侵犯」で拿捕するなどの行動はとっていない。一方で先にも述べたように日本は日本の国内法に基づき船長を逮捕した。これこそが尖閣問題での日中のポジションを示す紛れもない事実なのである。 

日本との地下資源を巡っての駆け引きだけでなく、台湾との領海問題、シーレーンを巡るアメリカとの問題等々、中国にとって尖閣諸島は外交上の重要なカードである。いくら日本国民が騒いだところで、中国は絶対に日本の領有権を認めない。実際中国が欲しいのは島ではなく、漁業権や地下資源を含めた東シナ海でのプレゼンスであるわけなので、我々としては東シナ海の警備をしっかり固めつつ、個別の案件できちんと交渉を進めていけば良い。「弱腰外交」などと騒ぐ問題ではないのだ。

そんなことよりメドベージェフが北方領土に来てしまったことの方がよほど大問題である。いったい外務省は何をしているのか?名もない活動家や田舎の漁師ではなく、大統領が「我が国固有の領土」と主張している場所に、何の断りもなく来てしまったのだ。この問題こそ外務大臣の問責に値するものではないのだろうか。野党もまったくだらしがない。本質はそっちのけでマスコミ受けしそうなネタだけを探して責めたてるような、つまらない足の引っ張りあいは直ちにやめて欲しい。

対中国にしても、対ロシアにしても「日本を怒らせたらどうなるか思い知らせてやれ!」のようなことを言う人がいるが、そういうものでもないと思う。外交といったって所詮は人と人との交渉なのだし、ケンカ腰でうまくいくものでもない。我々国民は外交に関して感情的に反応するのをやめて、政府と一緒にロジカルに考える習慣を身につけるべきだ。日本国民は世界から尊敬される成熟した国民として、常に世界の調和を考えて行動する国民であって欲しい。
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