インドネシア進出サポート

中小企業の皆様のインドネシアへの進出を、ゼロから水先案内人としてお手伝いします。連絡先はkojiono@inh.co.jpまたは090-7866-9343まで。詳しい情報はホームページhttp://www.inh.co.jp/~kojiono/index.htmlからご覧になれます。

メーカーでの15年間に及ぶインドネシア工場駐在経験と、サプライチェーンマネジメントのコンサルティング経験を基に、進出前の企画、会社設立、事業運営をサポートします。連絡先はkojiono@inh.co.jpまたは090-7866-9343まで。詳しい情報はホームページhttp://www.inh.co.jp/~kojiono/index.htmlからご覧になれます。

 50歳でサラリーマンを辞めるまでは政治に対してほとんど関心を持たなかった。インドネシア駐在時代は、現地の人達に対して、『日本は誰が首相をやっても何も変わらない国だよ』と平気で話していた。もちろん彼らは驚いていた。しかし私にはその驚きさえも理解出来なかった。
 しかしフリーのコンサルタントになり、時間的な制約も少なくなって、ネット上での色々な番組を視聴するうちに、これまではどうでも良いと思っていたことが、実はとんでもない大事なことで、自分の人生だけでなく、子供達や孫達の人生にも大きな影響を及ぼすことに気が付いた。
 特に政治、軍事、経済、教育の分野において今の日本はとんでもない大問題を抱えていることに気が付き、その原因や背景についても次第に理解出来るようになって来た。
 そしてこれらの問題意識を可能な範囲で発信することが国民としての義務でもあると考えるようになって来た。しかし、時として小野さんは右翼?と聞かれることがある。
 私は右翼でもなく、保守でもない。本来これらの立場は相対的なもので、国の性格が180度変わると反対になってしまうものである。
 最近はグローバリストか、それともナショナリストかと区別されるようになって来た。こちらの方がまだ判り易い。国境を無くして人・物・金の移動を自由にして国益よりも資本家利益を優先しようとするグローバリスト。今の世界はまだこの人達によって支配されていると言って良いであろう。
 それら反して国益と国民の利益を優先しようとするナショナリストの台頭が最近の傾向である。アメリカのトランプ大統領がその代表とも言われている。行き過ぎたグローバリスト達の欲望に対する世界的な反動かもしれない。
 私は間違いなくナショナリストである。しかし50歳までは間違いなくグローバリストのお先棒を担いでいた。現在、コンサルティング契約を結んでいる顧客企業の事業のなかにも、グローバリストの軌道に乗っているものがある。
 しかし、私は2600年以上の歴史を持つ日本という国を愛しているし、日本人として自分たちの子孫に対する責任も感じている。今の私のコンサルティング活動はあくまでもこの意識を基にしている。

 学校を卒業してからは仕事柄、日本以外の色々な国の人達と付き合って来た。特に付き合いが長くて多いのがインドネシア人で、その次がインドネシアの華僑を含む中国人、そしてアメリカ人である。他にも僅かではあるが、インド人、ベトナム人、スリランカ人、ニュージーランド人、オランダ人、ドイツ人等との付き合いもあったが、前記の三国民に較べると無いに等しい。
 逆にこれらの国々の人達と付き合うことで、日本人のことも客観的に良く視ることが出来るようになった。そして最近になって、この四ヶ国の国民の特徴と言うか国民性が、自分なりに多分こうなのではないかと考えられるようになって来た。
 まず日本人であるが、とにかく物事に几帳面で、何事も細部にわたりきちっと仕上げないと気が済まない人達である。いや、それが当たり前と思い込んでいるのである。だから、それが出来ない他国民のことを馬鹿にしたりもする。
 この特徴はモノ作りにとって大事なことであり、だから日本のモノ作りは世界にその名を知られているのである。ドイツのモノ作りも立派であるが、繊細さという面ではとても日本には及ばない。日本人はこれからもこの分野で優位性を保つことに努力しなくてはいけないと痛感している。
 次にインドネシア人であるが、自然の恵みをこれほど多く与えられた国民は世界のどこにもいないと思われる。熱帯といってもさほど暑くはなく、一年中を薄着で過ごせる気候。土地は豊かで農作物や果実には困らない。15,000にも及ぶ島々からなる海域には溢れる様な魚介類が生息する。鉱物資源もどこかを掘ると何かが出て来る始末。
 何もしなくても天の恵みで生きていける。だから運を天に任せるような生き方が出来る。日本人のように厳しい季節変化に合わせてあくせくと働く必要など何もない。大地や海の自然に合わせて生きる能力があれば良い。
 そして中国人である。6,000年以上前の昔、黄河と長江の間にある太原に商と呼ばれる王国があったらしい。ここの人達はあちらで仕入れた物を、こちらで売り払い、その利ザヤで儲ける才能があったと言われている。この人達を他の人達は、この才能がある人達を商人と呼ぶようになったらしい。
 インドネシアにいる華僑は人口比率は3%くらいであるが、インドネシアの経済全体の90%を支配していると言われている。まさにこの才能が活かされているのである。
 大陸の中国本土は世界の工場と言われているが、モノ作りを追求しているのではなく、商売のためのモノを大量に作っていると言うのが正しい表現であろう。
 だから彼らは平気で技術を盗み、当然のように偽物を大量に販売する。彼らに日本人のモノ作りのルールや感性を訴えても馬耳東風、馬の耳に念仏なのである。
 最後にアメリカ人であるが、彼らには無限に近い資源があり、土地も海も豊かで、先端技術を生み出す力も有している。まさに最強の国家であることは今後しばらくは変わらないであろう。
 そのような総合力を背景に彼らが得意とすることは、自分達に有利なルールの押し付けである。それは政治、経済、金融、軍事、文化とあらゆる分野に及ぶのである。そのルールを通じて益々自国の利益が増えるという仕組みを回している。
 それに従わない国はいろいろな理由の下に軍事的、経済的な制裁を受けて、酷い場合は国を亡ぼされてしまう。これはイギリスが植民地政策で行って来たことで、現在のアメリカはそれを継承しているだけである。
 面白いことにこれら4カ国の特徴は士農工商の四文字で表される。士以外の現在の上下関係は必ずしもこの通りではないと思うが、案外近い将来にはこの通りになっているのかもしれない。

 2018年10月30日に一般社団法人日本インドネシアビジネス協会の設立記念セミナーが浜松市内で開催され、副理事長に就任した私は『インドネシアで成功する企業、失敗する企業』と題する講演を行いました。
 当日は地元の企業経営者、政府機関、金融機関、教育機関から50人以上の参加者があり、インドネシア投資調整庁BKPMの東京事務所長からも祝辞を頂きました。
 二次会の懇親会も多くの方々に参加して頂き、大いに盛り上がった設立記念イベントとなったことに、関係者の皆様には心から感謝致しております。
 さて、私の講演ですが、1975年にヤマハ株式会社、当時の日本楽器製造株式会社に入り2005年に50歳で早期退職するまではほとんどがインドネシア工場の運営と新設に関わる仕事で、その後は独立コンサルタントとして100社近い中小企業のインドネシア進出を支援する仕事に関わって来た経験を基に、以下の8つの観点からインドネシアで成功する企業と失敗する企業にはパターンがあると言うような話をしました。

1.進出決断までの経緯
2.進出形態の選択
3.現地トップは何でも屋
4.インドネシア人スタッフ
5.現地調達の壁
6.インドネシアの三大カントリーリスク
7.朝令暮改の法律に慌てない
8.本社社長のインドネシア理解

以下、それぞれの観点についての話の要旨を述べてみたいと思います。

1.進出決断までの経緯

 日本であろうがインドネシアであろうが、利益を生まない事業は失敗しますが、決断する際にちゃんと精度の高い数字に基づく試算をしたのかどうか怪しい事例が結構多くあります。5年経っても5%以上の純利益が得られないのであれば、投資金額をインドネシアの銀行に定期預金した方がはるかに楽で利口な方法です。定性的な話に魅かれて、定量的な評価を疎かにすると大変危険です。

2.進出形態の選択

 単純な輸出から合弁会社設立による進出まで色々な方法がありますが、製造分野の中小企業の中には独資の他に方法はないと考えているケースもあるようです。また、現地資本との合弁会社設立はメリットとデメリットがあることを良く検討した上で進めないと後から苦労することになります。一目惚れで結婚して後悔することのないようにしたいものです。

3.現地トップは何でも屋

 日本の社長は補佐してくれる社内外の専門家が既に存在しているのが普通ですが、新たな現地法人のトップは日本の社長よりも幅広い守備範囲を持つことになります。さらに外国語でのコミュニケーションがベースになります。これがどれだけ大変なことなのか、理解した上で社員を駐在させているのか疑問に思えるケースが多々あります。一番問題なのは、その大変さを理解出来ない本社の社長の感覚なのです。

4.インドネシア人スタッフ

 日本人が楽をするために日本語の出来るインドネシア人を優遇することは、色々な問題を引き起こす原因となります。あくまでもその人物の資質を重視して採用することが大事です。コミュニケーションの問題は日本人がインドネシア語を勉強すれば良いだけの話です。

5.現地調達の壁

 インドネシアでの部材の現地調達は政治がらみの障害が多く、最初に進出した輸送機器業界も現在のレベルに達するまでに50年の歳月を要しています。インドネシア政府も方針を変えつつありますが、時間のかかる大変なテーマです。

6.インドネシアの三大カントリーリスク

 現在のインドネシアは民主国家であり、特にジャカルタの街並みだけを見ていると先進国並みの環境にあるような錯覚を起こすかもしれません。しかし、実際には日本では想像出来ないリスクが、税務、労組、安全の面で潜んでいることを忘れてはなりません。 

7.朝令暮改の法律に慌てない

 日本人は真面目ですから、インドネシア政府が出す法律や規制にはすぐに対応しなくてはいけないと思いがちです。しかし、多くの場合は施行面で不備な場合が多く、酷い場合はいつの間にか消えてなくなってしまいます。日系だけてなく、ローカルの人達の対応も見ながら慎重に対処することが大事です。

8.本社社長のインドネシア理解

 今の世界はより速くより深い関係を持ちながら変わっています。インドネシアと日本の両国だけの関係ではなく、世界全体の動きの中で両国の関係がどのように変わって行くのかを考えるのも本社の社長の責務であると考えます。

 2018年11月6日、スマトラ島南部の都市BengkuluからJakartaに向かうSriwijaya航空の貨物室からドリアンの匂いがすると言うので客室内が大騒ぎになり、機外に退去するというニュースが報じられていた。
 航空会社の説明では、2トン強のドリアンが積み込まれたが、梱包は規定に従っており問題は無かったとしている。
 いやいや、ドリアンの匂いを梱包で消すのは並大抵のことではない。昔、本社の会長からドリアンを航空便で送れと言われ、30個くらいを試しに送ったことがあるが、アルミ箔とビニールシートで真空パックをしてから頑丈な木箱で封印しても頑固な匂いは消せなかった。本社からは開梱した後に社内に匂いが充満して大騒ぎになっているとの苦情が来た。
 ドリアンの語源はドリ=棘であり、果実全体を覆っている硬い皮から突き出た棘は真空パックのシートを簡単に破ってしまうのである。
 そもそもガルーダ航空以外の便は他の荷物に匂いが付いてクレームが来るからとして受け付けてくれなかった。ガルーダ航空だけは梱包を頑丈にしてくれれば良いと言ってくれた。
 たまに車のトランクやエンジンルームに入れて来たことがあったが、確かに一ヶ月くらいは車内も含めて匂いが消えなかった。
 このようなニュースがあると言うことは、インドネシアはそろそろドリアンの季節なのだ。あの味を想い出すと涎が出て来る。ドリアン大好き。

 インドネシア現地法人が設立され、操業を始めてから三年くらい経つと色々な問題点が見えてくるものです。それらの問題点に対して個別にモグラ叩き的に対処していたのでは、この後の企業成長や事業展開にとって適切でないことは誰から見ても明らかです。
 ではどのような対処が望ましいのでしょうか?
 私が実際に行っているのは下記の12分野について、経営幹部スタッフにそれぞれの現状課題と施策目標をヒアリングすることです。
 サブ分野は全部で53項目ありますが、それぞれについて全く何も実施ししていない【0点】から、完璧に実施している【10点】で点数を付け、それぞれの分野での平均点をレーダーチャートで表してみると弱点が良く見えます。
 分野は変えない方が良いのですが、サブ分野は会社の性格に合わせて修正することは可能です。大事なことは定期的に会社全体のレビューを俯瞰的に行うことです。

1.事業戦略の推進
 
 マーケット調査
 新規事業戦略の確立
 長期事業計画の更新
2.製品およびサービスの開発 
 既存商品の評価
 商品化の準備
3.マーケティングおよび販売 
 市場と顧客状況の把握
 マーケティング戦略の展開
 販売戦略の展開
 受注管理
4.調達・生産・納入 
 サプライチェーン計画
 資材・部材調達
 生産
 納入
 物流
5.アフターサービス 
 顧客サービスの企画
 顧客サービスの体制
 顧客サービスの評価
6.人材開発および管理 
 人材計画
 人員採用
 人材育成
 人事考査
 再配置および退職
 従業員情報管理
7.技術情報管理 
 ITインフラ活用
 技術情報の保護
 企業情報の保護
 知的財産の監視
 ITインフラの保全
8.会計・税務管理 
 管理会計
 収入会計
 財務会計
 固定資産計画会計
 給与支払い
 買掛金管理
 資金運用
 内部統制
 税務処理
 国際資金管理
9.資産管理 
 土地使用権
 設備保全
 固定資産の更新
 固定資産の処分
10.安全衛生管理 
 従業員の健康管理
 社会保険への加入
 安全教育
 11.リスク管理 
 労働組合対応
 従業員対応
 各種係争対応
 情報源の充実
12.経営の現地化 
 生産部門
 総務部門
 営業部門
 物流部門

 インドネシア進出のFSを共に展開し、合弁相手との交渉、現地法人の立上、土地の収用、工場建設、部材サプライヤ開拓、販路開拓、人材採用、管理体制構築等々を進めるうちに操業も順調になると、そろそろコンサルティングも終わりに近づく。
 この数年間の色々なことが思い出され、無事に操業出来た喜びと、これで自分の役割は終わるという寂しさの中、顧問契約は終了する。
 小学生の卒業式でそっと泣いていた担任の先生の姿を想い出す。

 ヤマハに入社した翌年の1976年夏、所属するビッグバンドのベーストロンボーン奏者として、アメリカのカリフォルニア州にある大学のキャンパスで開催されていた、スタンケントンオーケストラによるジャズクリニックに参加した。
 夏休みを利用して、アメリカ全土から中学生、高校生、そして大学生までのアマチュアジャズマンが参加者する一大イベントであった。
 私も参加者で編成されるバンドに組み込まれた訳であるが、レベルを確認するためのテストで、初見で演奏してみろと言って渡された楽譜がTime for a Changeという曲であった。
 この曲は七拍子で、一二三四、一二三、一二と数えなくてはならず、生まれて初めてのへんてこりんな曲にすっかり度肝を抜かれ、手も足も出なかった。
 そのためか、私が配属されたバンドは多分一番レベルの低い中学生で構成されるバンドであった。しかし、中学生といってもさすがはジャズの本場アメリカだけあって、そのレベルの高さには舌を巻いた。
 この時のアメリカ行はクリニックだけでなく、時には行く先の街で演奏会を開いたりして、西海岸を巡る旅であった。
 当時のアメリカは全世界のGDPの6割以上を占める全盛期で、その豊かさには驚かされた。見るもの全てが大きくて綺麗で、初めて見るものがほとんどであった。
 郊外の巨大なショッピングモール、高速道路沿いにあったファミリーレストラン、広大な敷地の公園のような大学のキャンパスと高級レストランのような学生食堂。
 しかし、この時期を境にアメリカ経済には陰りが見え始め、逆に日本経済が急激に成長して、Japan As Number Oneなどと言われるようになって来た。
 そして1990年頃に迎えたアメリカとの経済戦争で日本は太平洋戦争に次いで完敗して、未だに経済は低迷したままである。アメリカは自分達を超えようとする国を決して許しはしない。トランプ大統領が主張するAmerican Firstにはこの意味もあることを忘れてはならない。
 そして現在では経済と軍事の面でアメリカを超えようとしている中国が叩かれている。
 世界はTime for a Changeを何度も経験している。

 2018年10月、某プロジェクトの関係でインドネシア技術開発応用庁(BPPT)を訪問する機会があった。在日インドネシア大使館からの紹介ということもあってか、受付で訪問の用件を述べたところ、二階の長官室に案内されたのには少し驚いた。
 暫くして長官とその側近が現れたが、開口一番に『私は昨日、長官の職を解かれました』と言われて更に驚いた。
 用件を側近に話している間も心ここにあらずで、終始スマホをいじっていたのには少し呆れてしまった。
 詳しいことは研究施設を訪ねて欲しいと言われ、その後、ジャカルタの西方にある施設に向かった。
 途中は昔ながらの田舎町の狭い雑然とした道路で、本当にこの道で良いのかと不安になったが、横道に入ったところに突然巨大なゲートが現れ、その奥には広大な森林公園が広がっていた。
 ゲートの守衛に建物の場所を聞いて森林の中を進むと、所々に研究施設らしき建物が点在しており、まるでヨーロッパに居る様な錯覚に陥った。
 そう言えば、この機関を設立したのはドイツに留学し、メッサーシュミットというドイツの航空機メーカーの副社長にまでなった、ハビビ元大統領だったことに気が付いた。
 雰囲気はヨーロッパ風であったが、夕方四時になるとイスラムの礼拝を呼び掛ける声が聴こえて来て、皆が礼拝堂に向かう風景はやはりインドネシアだなと少しほっとした。

 1975年に日本楽器製造株式会社(現在はヤマハ株式会社)に入社する一ヶ月前に、『社史』と『私の履歴書』と題する書籍が自宅に送られて来て、入社式までに読んで感想文を提出するようにと言われました。
 浜松の楽器製造会社を世界のヤマハに成長させた、当時の社長である川上源一氏の下で働けることにワクワクしながら、故郷の秋田を後にして浜松に向かった40年前のことを今でも忘れません。
 入社後も平社員である私が川上源一社長を直接拝顔出来るのは新年の挨拶の時ぐらいでしたが、インドネシアに駐在している間には現地での音楽コンサートに来られた際に、端役ながら工場の責任者として何回か直接会話をする機会がありました。
 一棟だけで電子オルガンの外装部分の木工加工と組立を行っている時は、速足で工場の中を通り抜けた後に『何だ、これだけか』と言われてショボンとなりました。
 倉庫の一画で人海戦術でギターを作り始めた時には『俺だったらこの4倍は作るぞ』と言われ、その方法はと聞きたかったのですが、自分で考えろと怒られそうな気がして止めました。
 ジャカルタ湾の沖に広がる【千の島】の北の端にある二島をJALがリゾート開発しており、そこまでの移動手段にヤマハのスピードボートを使っていたので、その島に視察に行くことになりました。
 ボートは高速で進むため、デッキに出ることは禁止されていたのですが、途中の海を自分の体で確認したいとのことで、デッキに椅子を括り付けて座ってもらうことになりましたが、私がその横で監視することになりました。
 島に着いて視察した後にロッジで休憩してもらったのですが、部屋の中からガチャガチャ音がするので、どうしたのかと覗いて見ると、トイレの水槽が上手く機能しないので自分で修理していました。ロッジのスタッフを呼ぶからと言ったのですが、自分で直すからと頑張っていました。
 オートバイの工場を視察した時には、1Kmもある工場内を足早に通り過ぎ、40ヶ所の改善を指示して帰りましたが、その慧眼には本当に敬服するばかりでした。
 昭和の時代には、本田宗一郎、松下幸之助といった名実ともに偉人と言える経営者がいたのだとつくづく思います。

 ある商品のインドネシアでの輸入条件の調査で、当地の税関総局、商業省、インドネシア検査協会、国家規格庁、投資調整庁を訪問した。
 いずれの機関にも予約無しで相談出来る、エアコンの効いた涼しくて綺麗なコーナーが設置されており、入口で番号札の機械からカードを取ると、間もなくその番号を表示したカウンターに呼ばれる。
 相談員は皆若いが、法律や手続きに大変詳しく、大抵のことはその場で回答してくれる。そして何よりも嬉しいのはとても低姿勢で親切に話を聞いてくれることである。もちろん無料である。
 駐在していた頃の80年代は良く政府機関に相談に伺ったものであるが、最初の頃は冷たくあしらわれのが普通で、担当者に行き当たるまでたらい回しにされることも当たり前であった。何よりも嫌だったのは相談料としてなにがしの謝礼を暗に要求されることであった。
 何か嬉しい気持ちになった出張であった。

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