コジゼラ

よもやま話を雑文で

2004年04月

花おりおり


4月30日(ヤマブキ・仙台堀公園)

「コジーとゼラチャン」の巻頭を花の写真で飾るようになって3ケ月ほど経過したが、春から初夏にかけての季節は百花繚乱だから、素材に困ることのないのは有難い。大体、そんなに長く続くとは思えない一方で、花が枯渇する夏場と冬場とをどうしのいでいけるのか、なんてことももう脳裏を掠めているんだから、とり越し苦労もいいとこだよねえ。

とはいえサラファン、この挿入の手順が面倒で、時々投げ出したくなることもある。原画の1280X960を半分に圧縮し、マイドキュメントに保存しているのを、取り出しさらに半分に圧縮、その上70%に縮める作業が面倒なのだ。その上、文字を英数字に置き換えないと挿入できないから、これまた厄介なことである。通常、画面上をダブルクリックすると、絵が拡大表示されるのはいまや常識だけれども、その機能さえ付いていないのも、これまた辛いところである。写真を小さく圧縮すると、どうしても画面が暗くなってしまうから、それまで艱難辛苦、色んな加工をしてきた努力の程も伝えられないもどかしさも大いにある。

再三触れていることだけど、スラスラと頭の中に入っていく歴史や地理、漢字の得意分野と違い、花の名前は東風とらにとっては最大の難関だ。手元に花の辞典を何種類か置いていながらも、未だに花の名前が覚えられず苦闘している。覚えたつもりが忘れてしまったり、知っているんだけど咄嗟に名前が出てこない場面に遭遇しては、挫折の思いに打ちひしがれるのだ。

知らない花に出あったときは必ずメモしているんだが、急いで走り書きした字が、天眼鏡でためつすがめつ見直しても判別できない悲哀を何度も味わい、われながら自分の悪筆には呆れ返る次第だ。ずいぶん勉強したつもりだが、野草雑草のたぐい、樹木の名前など、いまだにチンプンカンプン、ちっとも身についていないから、とっくに覚えるのを諦めている。

サクラのシーズンもようやく終わりを告げ、毎日のように続いていた御苑詣でも一段落となった。振り返ってみると、ここには50種類ものサクラが散在していて、色、花びら、形状などで識別できることになっているけれど、この判別も頭の痛いところである。要所要所には花の名前が掲示されているけれど、混在している場所には目立った標識もないから、家に帰ってから見直しするとき悩みに悩むのだ。

そんなに神経質になることはないんだが、A型人間の悪い特性、つまらないところが気になるのである。そしてもう一つの特性、いい加減さも頭をもたげてくるからどうしようもない。この二律背反はいつも後者の勝ちになるのは言うまでもない。かくして、きょうもきょうとて、間違った名前で堂々と写真を掲示しているかもしれないが、ご勘弁の程を。

花おりおり


4月30日(ヤマブキ・仙台堀公園)

「コジーとゼラチャン」の巻頭を花の写真で飾るようになって3ケ月ほど経過したが、春から初夏にかけての季節は百花繚乱だから、素材に困ることのないのは有難い。大体、そんなに長く続くとは思えない一方で、花が枯渇する夏場と冬場とをどうしのいでいけるのか、なんてことももう脳裏を掠めているんだから、とり越し苦労もいいとこだよねえ。

とはいえサラファン、この挿入の手順が面倒で、時々投げ出したくなることもある。原画の1280X960を半分に圧縮し、マイドキュメントに保存しているのを、取り出しさらに半分に圧縮、その上70%に縮める作業が面倒なのだ。その上、文字を英数字に置き換えないと挿入できないから、これまた厄介なことである。通常、画面上をダブルクリックすると、絵が拡大表示されるのはいまや常識だけれども、その機能さえ付いていないのも、これまた辛いところである。写真を小さく圧縮すると、どうしても画面が暗くなってしまうから、それまで艱難辛苦、色んな加工をしてきた努力の程も伝えられないもどかしさも大いにある。

再三触れていることだけど、スラスラと頭の中に入っていく歴史や地理、漢字の得意分野と違い、花の名前は東風とらにとっては最大の難関だ。手元に花の辞典を何種類か置いていながらも、未だに花の名前が覚えられず苦闘している。覚えたつもりが忘れてしまったり、知っているんだけど咄嗟に名前が出てこない場面に遭遇しては、挫折の思いに打ちひしがれるのだ。

知らない花に出あったときは必ずメモしているんだが、急いで走り書きした字が、天眼鏡でためつすがめつ見直しても判別できない悲哀を何度も味わい、われながら自分の悪筆には呆れ返る次第だ。ずいぶん勉強したつもりだが、野草雑草のたぐい、樹木の名前など、いまだにチンプンカンプン、ちっとも身についていないから、とっくに覚えるのを諦めている。

サクラのシーズンもようやく終わりを告げ、毎日のように続いていた御苑詣でも一段落となった。振り返ってみると、ここには50種類ものサクラが散在していて、色、花びら、形状などで識別できることになっているけれど、この判別も頭の痛いところである。要所要所には花の名前が掲示されているけれど、混在している場所には目立った標識もないから、家に帰ってから見直しするとき悩みに悩むのだ。

そんなに神経質になることはないんだが、A型人間の悪い特性、つまらないところが気になるのである。そしてもう一つの特性、いい加減さも頭をもたげてくるからどうしようもない。この二律背反はいつも後者の勝ちになるのは言うまでもない。かくして、きょうもきょうとて、間違った名前で堂々と写真を掲示しているかもしれないが、ご勘弁の程を。

あらすじ本


4月29日(タマカンアオイ・自然教育園)

日本や世界の名作文学を数ページ分に要約した「あらすじ本」がブームだ。すでに10冊以上の類似書が書店に並ぶ。若者の読書離れを食い止めようと現場の高校教師が出した1冊の本がきっかけだが、雑学ばやりの昨今、主な購読層は中高年サラリーマンという。

ブームのきっかけは「あらすじで読む日本の名著」。私立狭山ケ丘高校の小川義男校長が同校の教師約30人とともに「マンガ世代の生徒に文学と出合うきっかけを与えたい」と企画し、出版社に持ち込んだ。これ1冊に近代日本文学の古典28作品のあらすじや作品の背景が収録されている。1作品を5ページにまとめ、原典の印象的な文章はそのまま生かした。教科書風の作りで、文字も大きい。昨年7月に出版すると爆発的に売れ、昨年12月までに3巻まで出版。1〜3巻で計30万部を超えた。

しかし「中高生向け」の狙いははずれた。「中高生」よりも「中高年」が飛びついたのだ。「昔触れた作品が懐かしかった」というシニアや、「教養としてあらすじだけ知っておきたい」という忙しいビジネスマンに受けているようだ。大型書店では今、「あらすじ本」が文学書コーナーの一角を占める。「類似書の数はもう把握できない」状態だ。

類似本には、要約化が一層進んだものが目立つ。1作品当たりわずか2ページで1冊に100作品もの収録をうたう本が増えてきた。「千夜一夜物語」もダンテの「神曲」もわずか2ページなのである。原典の文庫を持ち歩くのがちょっとしたファッションにもなっているとか。しかし、一般の書店では「原典が売れた、という目立った動きはない」(三省堂)という。さて、このブームを名作の復権と喜ぶべきか、それとも文化の衰退となげくべきか、その裏側には、教養としてあらすじを知っておきたいという、ちょっとした見栄がのぞき隠れする。

中高年が買ってるらしいけど、もうほんと情けない。幻冬社の出すやつは、「千夜一夜物語」も「神曲」も2ページでまとめてるとか。おそらくまとめたやつも原典は読んじゃいないだろう。保坂和志はかく語りき。<小説とかは「あらすじ」が大事なわけじゃないだろう。小説という散文の表現形式を通じていか表現できない「何か」を表現するためにあるんじゃないのか。「あらすじ」だけ知ってることが教養なんだろうか? そんな教養にしがみつかなきゃならないなんて悲しすぎる。「あらすじ」なんて覚えてなくても、その読書体験が強烈なものとして残っていたり、どうしてもその一節が頭に焼き付いて離れなくなったり、ってそういう経験のほうが僕は幸せだけどなぁ。「失われた時を求めて」や「チボー家の人々」なんかも2ページにまとめるのだろうか?>

あらすじ本


4月29日(タマカンアオイ・自然教育園)

日本や世界の名作文学を数ページ分に要約した「あらすじ本」がブームだ。すでに10冊以上の類似書が書店に並ぶ。若者の読書離れを食い止めようと現場の高校教師が出した1冊の本がきっかけだが、雑学ばやりの昨今、主な購読層は中高年サラリーマンという。

ブームのきっかけは「あらすじで読む日本の名著」。私立狭山ケ丘高校の小川義男校長が同校の教師約30人とともに「マンガ世代の生徒に文学と出合うきっかけを与えたい」と企画し、出版社に持ち込んだ。これ1冊に近代日本文学の古典28作品のあらすじや作品の背景が収録されている。1作品を5ページにまとめ、原典の印象的な文章はそのまま生かした。教科書風の作りで、文字も大きい。昨年7月に出版すると爆発的に売れ、昨年12月までに3巻まで出版。1〜3巻で計30万部を超えた。

しかし「中高生向け」の狙いははずれた。「中高生」よりも「中高年」が飛びついたのだ。「昔触れた作品が懐かしかった」というシニアや、「教養としてあらすじだけ知っておきたい」という忙しいビジネスマンに受けているようだ。大型書店では今、「あらすじ本」が文学書コーナーの一角を占める。「類似書の数はもう把握できない」状態だ。

類似本には、要約化が一層進んだものが目立つ。1作品当たりわずか2ページで1冊に100作品もの収録をうたう本が増えてきた。「千夜一夜物語」もダンテの「神曲」もわずか2ページなのである。原典の文庫を持ち歩くのがちょっとしたファッションにもなっているとか。しかし、一般の書店では「原典が売れた、という目立った動きはない」(三省堂)という。さて、このブームを名作の復権と喜ぶべきか、それとも文化の衰退となげくべきか、その裏側には、教養としてあらすじを知っておきたいという、ちょっとした見栄がのぞき隠れする。

中高年が買ってるらしいけど、もうほんと情けない。幻冬社の出すやつは、「千夜一夜物語」も「神曲」も2ページでまとめてるとか。おそらくまとめたやつも原典は読んじゃいないだろう。保坂和志はかく語りき。<小説とかは「あらすじ」が大事なわけじゃないだろう。小説という散文の表現形式を通じていか表現できない「何か」を表現するためにあるんじゃないのか。「あらすじ」だけ知ってることが教養なんだろうか? そんな教養にしがみつかなきゃならないなんて悲しすぎる。「あらすじ」なんて覚えてなくても、その読書体験が強烈なものとして残っていたり、どうしてもその一節が頭に焼き付いて離れなくなったり、ってそういう経験のほうが僕は幸せだけどなぁ。「失われた時を求めて」や「チボー家の人々」なんかも2ページにまとめるのだろうか?>

ラーメン


4月28日(ハナミズキ・北の丸公園)

支那ソバ、そしていまでは拉麺(ラーメン)全盛の時代である。マニアともなれば、東に新しい店ができれば、直ぐに飛んでいき、長い行列もものかわ、並び込んで席にありつくのがファッションだ。西にどっかの支店ができると聞けば、すっ飛んでいき、「このダシはカツオ風味の昆布だしをベースに、トリガラを五種類の野菜とともに二晩煮込んで、最後に隠し味でアゴの煮干をちぎって入れてるな」、なんて食べるどころじゃあない。

なにせ、ラーメン専門誌などもあり、ラーメン専門家などが競って新しいネタを書き込む上に、インターネットでは色んな情報が飛び交い、そのたんびにラ−メンおたくを自称する連中がどっと押しかける。有名店はどこへいっても長い行列、多少味がまずけりゃパフォーマンスで補うのもあったりまえ、いつのまにか800円前後が当たり前の価格になってしまったようだ。評論家と称する連中の中には、調子よくオベンチャラ記事を書く輩も五万といるから、評判なんてすぐ倒れてしまう倣い、人の噂も75日、気が付きゃ閑古鳥がピーヒャラ鳴いていて、奢る平家は久しからずと相成る次第。

大久保の辺鄙な場所にあったが、薫玉とジュイーシーなチャーシューが評判だった「竈」も激戦に刀折れ撤退するようだ。なんでも渋谷に引越しして心機一転やり直すとのことだが、その大事なことでさえ、自前のホームページに掲載できないくらい、周章狼狽しているようだ。この店のチャーシューは口に入れると溶けてしまうような柔らかさと、脂身の旨さが絶品だったが、ぜひ再起を期してもらいたいものだ。

学生時代、食い物の中で一番安かったのがラーメン、金がないときゃ、いつも学食で25円のラーメンをすすっていた。このまずいこと、まさに天下一品、どうすればこのような味を出せるのか不思議に思ったくらいだった。就職して、地方出張ともなれば、昼飯はラーメンライスが定番、醤油の味ばっかりするラーメンを空しい思いで食べていたっけなあ。時は移りあの国民的大衆食がいまやグルメ垂涎のものになるってんだから、世の中分んないねえ。

カップラーメンは食わず嫌いで久しく食べなかったが、最近では積極的に100円のカップ麺を食べるようになった。家で食べるんだから、慌てて湯を注いで蓋をするなんてことはしない。鍋に湯を沸騰させ、じっくり煮込み、ありあわせの野菜かななんかをちょっと炒め、トーバンジャンをちょびっと混ぜれば一丁上がり。これが思った以上に旨いのである。色んな種類が売られているから、トッピングの楽しさとともに、もはや病み付きになりそうである。

ラーメン


4月28日(ハナミズキ・北の丸公園)

支那ソバ、そしていまでは拉麺(ラーメン)全盛の時代である。マニアともなれば、東に新しい店ができれば、直ぐに飛んでいき、長い行列もものかわ、並び込んで席にありつくのがファッションだ。西にどっかの支店ができると聞けば、すっ飛んでいき、「このダシはカツオ風味の昆布だしをベースに、トリガラを五種類の野菜とともに二晩煮込んで、最後に隠し味でアゴの煮干をちぎって入れてるな」、なんて食べるどころじゃあない。

なにせ、ラーメン専門誌などもあり、ラーメン専門家などが競って新しいネタを書き込む上に、インターネットでは色んな情報が飛び交い、そのたんびにラ−メンおたくを自称する連中がどっと押しかける。有名店はどこへいっても長い行列、多少味がまずけりゃパフォーマンスで補うのもあったりまえ、いつのまにか800円前後が当たり前の価格になってしまったようだ。評論家と称する連中の中には、調子よくオベンチャラ記事を書く輩も五万といるから、評判なんてすぐ倒れてしまう倣い、人の噂も75日、気が付きゃ閑古鳥がピーヒャラ鳴いていて、奢る平家は久しからずと相成る次第。

大久保の辺鄙な場所にあったが、薫玉とジュイーシーなチャーシューが評判だった「竈」も激戦に刀折れ撤退するようだ。なんでも渋谷に引越しして心機一転やり直すとのことだが、その大事なことでさえ、自前のホームページに掲載できないくらい、周章狼狽しているようだ。この店のチャーシューは口に入れると溶けてしまうような柔らかさと、脂身の旨さが絶品だったが、ぜひ再起を期してもらいたいものだ。

学生時代、食い物の中で一番安かったのがラーメン、金がないときゃ、いつも学食で25円のラーメンをすすっていた。このまずいこと、まさに天下一品、どうすればこのような味を出せるのか不思議に思ったくらいだった。就職して、地方出張ともなれば、昼飯はラーメンライスが定番、醤油の味ばっかりするラーメンを空しい思いで食べていたっけなあ。時は移りあの国民的大衆食がいまやグルメ垂涎のものになるってんだから、世の中分んないねえ。

カップラーメンは食わず嫌いで久しく食べなかったが、最近では積極的に100円のカップ麺を食べるようになった。家で食べるんだから、慌てて湯を注いで蓋をするなんてことはしない。鍋に湯を沸騰させ、じっくり煮込み、ありあわせの野菜かななんかをちょっと炒め、トーバンジャンをちょびっと混ぜれば一丁上がり。これが思った以上に旨いのである。色んな種類が売られているから、トッピングの楽しさとともに、もはや病み付きになりそうである。

黄昏


4月27日(桑楡のウコン・新宿御苑)

ヘンリー・フォンダが主演した「黄昏」の原名が思い出せず、ヤキモキしながらインターネット検索をしたんだよ、いやあ、驚いたね。グーグルの5000件を越える「たそがれ」は全部「たそがれ清兵衛」に関する記述だった。あったまにきてヘンリー・フォンダでひき直して、やっと目的を遂げたんだけど、これもヤフー検索の方が役に立ったよ。

「黄昏」は老境に差しかかったヘンリー・フォンダの頑固親父ぶりがいい。不器用に心を開いて通わせて行く様も違和感なく好感が持てる。題名の通り、人生の黄昏を感じさせる心温まる作品だった。原題の「on golden pond」では、映画の内容もさっぱり分らないから、けだし名訳だよなあ。フォンダと不仲だった娘のジェーン・フォンダ、晩年のキャサリーン・ヘップバーンの共演も興味をそそられた。この作品でヘンリー・フォンダはアカデミー男優賞を獲得したが、これは一種の論功行賞的な意味合いが強かった。

そこには、柱によりかかり青く輝いた目で「クレメンタイン」をぶしそうに見ていた、若き日の保安官ワイアットアープの片鱗はうかがわれず、ただただ老残の哀れさが目立っていた。この映画を見たときはまだ壮年のときだったから、他人事みたいに心温まる思いで鑑賞できたが、いま見たら果たして感動どころか吐き気がしてくるかもしれない。

「黄昏」という邦訳は完全に意訳だが、この二文字が映画の内容を鮮明に表現していて、日本語の持つ魔力、磁力を強く感じさせられた名訳だった。この頃以降、このような優雅な意訳は陰を潜み始め、いまじゃあアメリカ映画のほとんどが、原題の英語名をカタカナに置き換えるだけの味気ないものになってしまった。映画の題名なんかはその余韻を人の感性に訴えなくてはどうしようもないはずだが、軽佻浮薄の時代、優雅な日本語を解せない連中も増えているんだから、どうしようもないかもしれない。かくして映画館、もとえシネコンへ行く機会は着実に減っている。

きょう68歳の誕生日を迎え、また一段と人生の終わりに近づいたような気がして気が滅入ってくる。いまは史上最高といっていいほど、体調も精神面も絶好調だが、これが果たしていつまで続くんだというと、まったく自信が持てないのも事実である。「天気晴朗なれど波高し」の繰り返しでダンダンと衰えていくんだろうなあって漠然と考えている。

気力の充実だけじゃあどうしようもない「黄昏」、「林住期」「老境」だもんなあ。人生の黄昏を「桑楡」(そうゆ・夕暮れ)ともいうそうだが、なんか湿った語感だなあ。いずれにせよ、毎日の貴重なはずの時間があっという間に通り過ぎていくのは防ぎようもない。まあ、明日を考えずに今日をよりよく生きようと思うしかないが、ほんとやんなっちゃうねえ。

黄昏


4月27日(桑楡のウコン・新宿御苑)

ヘンリー・フォンダが主演した「黄昏」の原名が思い出せず、ヤキモキしながらインターネット検索をしたんだよ、いやあ、驚いたね。グーグルの5000件を越える「たそがれ」は全部「たそがれ清兵衛」に関する記述だった。あったまにきてヘンリー・フォンダでひき直して、やっと目的を遂げたんだけど、これもヤフー検索の方が役に立ったよ。

「黄昏」は老境に差しかかったヘンリー・フォンダの頑固親父ぶりがいい。不器用に心を開いて通わせて行く様も違和感なく好感が持てる。題名の通り、人生の黄昏を感じさせる心温まる作品だった。原題の「on golden pond」では、映画の内容もさっぱり分らないから、けだし名訳だよなあ。フォンダと不仲だった娘のジェーン・フォンダ、晩年のキャサリーン・ヘップバーンの共演も興味をそそられた。この作品でヘンリー・フォンダはアカデミー男優賞を獲得したが、これは一種の論功行賞的な意味合いが強かった。

そこには、柱によりかかり青く輝いた目で「クレメンタイン」をぶしそうに見ていた、若き日の保安官ワイアットアープの片鱗はうかがわれず、ただただ老残の哀れさが目立っていた。この映画を見たときはまだ壮年のときだったから、他人事みたいに心温まる思いで鑑賞できたが、いま見たら果たして感動どころか吐き気がしてくるかもしれない。

「黄昏」という邦訳は完全に意訳だが、この二文字が映画の内容を鮮明に表現していて、日本語の持つ魔力、磁力を強く感じさせられた名訳だった。この頃以降、このような優雅な意訳は陰を潜み始め、いまじゃあアメリカ映画のほとんどが、原題の英語名をカタカナに置き換えるだけの味気ないものになってしまった。映画の題名なんかはその余韻を人の感性に訴えなくてはどうしようもないはずだが、軽佻浮薄の時代、優雅な日本語を解せない連中も増えているんだから、どうしようもないかもしれない。かくして映画館、もとえシネコンへ行く機会は着実に減っている。

きょう68歳の誕生日を迎え、また一段と人生の終わりに近づいたような気がして気が滅入ってくる。いまは史上最高といっていいほど、体調も精神面も絶好調だが、これが果たしていつまで続くんだというと、まったく自信が持てないのも事実である。「天気晴朗なれど波高し」の繰り返しでダンダンと衰えていくんだろうなあって漠然と考えている。

気力の充実だけじゃあどうしようもない「黄昏」、「林住期」「老境」だもんなあ。人生の黄昏を「桑楡」(そうゆ・夕暮れ)ともいうそうだが、なんか湿った語感だなあ。いずれにせよ、毎日の貴重なはずの時間があっという間に通り過ぎていくのは防ぎようもない。まあ、明日を考えずに今日をよりよく生きようと思うしかないが、ほんとやんなっちゃうねえ。

極楽トンボ


4月26日(スルガダイニオイ・新宿御苑)

ジャイアンツの惨状、予想以上にひどいもんだねえ。こんなにひどくなるとは思わなかった。戦前から予想された弱体投手陣にはなにも手を打たず、やたら4番打者ばかりをかき集めたやりかたが齟齬をきたすのは分っていたけど、なにせ打線につながりがない上に、酒乱じゃあなかった守乱まで加わっているんだから始末が悪い。このまま手をこまねいていると史上最低の成績となるに違いない。複雑な心境で叫んじゃおう、クソッタレのバカヤローって。

閑人、楽隠居、クソジジー、熟年、シニアライフ、スローライフ、無駄飯食い、レット・イット・ビー、孫フェチ、お年寄り、老齢年金受給者、死にぞこない、あぶれ者、はみ出し者、ひねくれ者、ジージ、恍惚の人、頑固一徹、老醜、仙人、ハゲチャビン、プータロー、常住坐臥、悠々自適、髪結いの亭主、極楽トンボ。東風とらには敬称、蔑視、おふざけ、侮り、決め付け、自称他称など、色んな範疇のボキャがあるようで、色々と使い分けされるのには参っちゃうなあ。とりわけ古い友人からは羨望の念をこめて、この果報者、「髪結いの亭主」めっていわれるのに弱い。

髪結いの亭主って言葉、にょうぼがもっとも嫌がる言葉だが、周囲では既成常識として認知されていて、男友達の誰もがいつも羨ましいって囁くもんだから、いくら否定したって、いまさらどうしようもないわけだ。にょうぼはどうもこの言葉には女を小バカにした意味があるように勘違いしている節もあるようだ。それとも、こんなバカ野郎に人生を託してしまった過ちを、その言葉を聞くたんびに後悔させられるってことかな。あな、恐ろしや、あな、恐ろしや。

マア、はっきりいって「極楽トンボ」っていう言葉が正解に近いんかなっって思っている。正直言って、忙しい思いで仕事に集中している、まして最近は苦闘しているって感じの、にょうぼ殿を片目で見ながら、極楽トンボを決め込むには、かなりの度胸もいるんだけど、別に手伝えるわけじゃあないんだし、悟りを開いたつもりで開き直るしかない。まあ、口ではそんなことを言ってるが、実際の行動たるや、堂々たる昼寝三昧とか、ちーっとも気にしてないっていうのが、極楽トンボたる所以なんだろうなあ。

恍惚の人には深夜、毎晩ベランダで変身しているし、クソジジー、ハゲチャビンなんて言葉は、自転車でのんびり走っているときに、よーくクソガキどもに浴びせ掛けられる罵声だ。老齢年金受給者カードは月に1回、病院の窓口で提示を求められ、そのたんびにむっとさせられる。お年寄りってことばは、テレビでよく使われるんだが、それが自分たちの年代を指しているんだってことが分かると、必ず恨み骨髄バンクの眼で、テレビを見返してしまう自分が情けない。

極楽トンボ


4月26日(スルガダイニオイ・新宿御苑)

ジャイアンツの惨状、予想以上にひどいもんだねえ。こんなにひどくなるとは思わなかった。戦前から予想された弱体投手陣にはなにも手を打たず、やたら4番打者ばかりをかき集めたやりかたが齟齬をきたすのは分っていたけど、なにせ打線につながりがない上に、酒乱じゃあなかった守乱まで加わっているんだから始末が悪い。このまま手をこまねいていると史上最低の成績となるに違いない。複雑な心境で叫んじゃおう、クソッタレのバカヤローって。

閑人、楽隠居、クソジジー、熟年、シニアライフ、スローライフ、無駄飯食い、レット・イット・ビー、孫フェチ、お年寄り、老齢年金受給者、死にぞこない、あぶれ者、はみ出し者、ひねくれ者、ジージ、恍惚の人、頑固一徹、老醜、仙人、ハゲチャビン、プータロー、常住坐臥、悠々自適、髪結いの亭主、極楽トンボ。東風とらには敬称、蔑視、おふざけ、侮り、決め付け、自称他称など、色んな範疇のボキャがあるようで、色々と使い分けされるのには参っちゃうなあ。とりわけ古い友人からは羨望の念をこめて、この果報者、「髪結いの亭主」めっていわれるのに弱い。

髪結いの亭主って言葉、にょうぼがもっとも嫌がる言葉だが、周囲では既成常識として認知されていて、男友達の誰もがいつも羨ましいって囁くもんだから、いくら否定したって、いまさらどうしようもないわけだ。にょうぼはどうもこの言葉には女を小バカにした意味があるように勘違いしている節もあるようだ。それとも、こんなバカ野郎に人生を託してしまった過ちを、その言葉を聞くたんびに後悔させられるってことかな。あな、恐ろしや、あな、恐ろしや。

マア、はっきりいって「極楽トンボ」っていう言葉が正解に近いんかなっって思っている。正直言って、忙しい思いで仕事に集中している、まして最近は苦闘しているって感じの、にょうぼ殿を片目で見ながら、極楽トンボを決め込むには、かなりの度胸もいるんだけど、別に手伝えるわけじゃあないんだし、悟りを開いたつもりで開き直るしかない。まあ、口ではそんなことを言ってるが、実際の行動たるや、堂々たる昼寝三昧とか、ちーっとも気にしてないっていうのが、極楽トンボたる所以なんだろうなあ。

恍惚の人には深夜、毎晩ベランダで変身しているし、クソジジー、ハゲチャビンなんて言葉は、自転車でのんびり走っているときに、よーくクソガキどもに浴びせ掛けられる罵声だ。老齢年金受給者カードは月に1回、病院の窓口で提示を求められ、そのたんびにむっとさせられる。お年寄りってことばは、テレビでよく使われるんだが、それが自分たちの年代を指しているんだってことが分かると、必ず恨み骨髄バンクの眼で、テレビを見返してしまう自分が情けない。
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