コジゼラ

よもやま話を雑文で

2007年11月

正座

サガギク11月30日(金)
(サガギク)

いま、とっても閑だから、またぞろ、なん10回目かになる恒例行事をやっている。「剣客商売」と「鬼平」の読み返しだ。本を読むとき、寝転がって読むってことはあまりしないね。寝転がっていると読書そのものよりも、居眠りする快感の方が魅力的だからだ。いつのころからか、あぐらかくより正座する方が楽になってきた。だから、鬼平なども正座して読むことになる。ちっとも苦にならないのがわれながら可笑しい。葬式の席で、よく足がもつれてひっくり返る例をよく見ていて、他人事ではないなって思ったのがまるでうそのようだ。

鬼平の連作の中で、何回読んでもいいなあって思う傑作は、「おれもこれで最後になるかもしれない」って、鬼平に思わせたものすごい奴の襲撃を受ける「本門寺暮雪」、鬼平がたまさか乗った船で、老船頭が鬼平の愛用しているキセルでタバコをうまそうに吸いだした「大川の隠居」、引退した元盗賊が、閑をもてあまし一人盗めをする「穴」などだが、読後の爽快感に格別のものがある。

さて、その「穴」の主人公、扇屋を営む平野屋源助は「鶴のように痩せた---」、七十がらみの白髪の老人だった。痩せてはいるが老顔の血色は実に美しく、近所では「平野屋の旦那は、いつ見てもまるで湯上りのように艶々した顔をしていなさる」と評判だった。お節介な奴が「長生きの秘訣を教えてくださいな」って尋いたら、「それには先ずむだ口をきかないことですよ」。続けて、「らちもないおしゃべりをするたんびに、その口から躰中の精がすこしずつ外へ出てしまう。もったいない、もったいない」といったそうだ。

これって、大いに共感することがあったね。人と話をする機会が少なくなって、ただ一人のにょうぼとでさえ、まともな会話すらしなくなった昨今だ。もっとも、にょうぼは耳が遠くなったし、コチトラの声はかすれ気味、その上早口だから、中々通じないってこともあるけれどね。だから、にょうぼがひとりでしゃべり、ひとりでうなずいているって光景が多くなった。たまに息子たちが訪ねてきても、すぐにしゃべるのに飽きてしまい、腹ん中では「そろそろ帰ってくれないかなあ」なんて秘かに思っていたりする。つまり、しゃべるのが億劫になったのかもしれない。これって、一種の対人恐怖症ってことなんかなあ。

秋深し

サクラモミジ・枝川11月28日(水)
(枝川のサクラモミジ)

「秋深し隣はなにをする人ぞ」、いまはそんなお節介なことなんかどうでもいい時代になってしまったね。窓の下のサクラの大木がようやくオレンジ色に色づいてきた。日ごとにその色の濃さが増し、存在感を示し始めている。季語では、サクラモミジというそうだが、カエデとは違った味わいを感じるね。寂しさのないのがいい。サクラは春秋2回にわたって人を楽しめてくれるけど、周辺住民にとっては後始末も大変だね。

ケヤキも黄葉を増し、竹ぼうきの準備に入っているし、公園ではブナや刈り込まれたドウダンツツジが真っ赤に色づいている。考えてみれば当たり前の話で、暦では12月を迎えたのに、本来は冬来たりなばという季節なのに、秋深しって感じなんだから、やはりどこかが少しずつ狂ってしまっているね。そういえば、今年はどこからか漂ってくるキンモクセイ、あの妙に甘ったるい香りをあまりかがなかったなあ。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」、柿といえば、枯枝にモズが突き刺したカエルなんて構図をよく見たもんだったけど、いまじゃ、まったく見られなくなったね。以前、都内の生家にあった柿は、ものすごい渋柿だった。あの渋さがトラウマとなって、未だに柿が食べられない。二股になった柿の枝を登り屋根にたどりつく。大きな木だったので、たわわに実る柿を屋根に上ってもぎ取るのがひと仕事だった。ちゃんともぎ取っておかないと、熟した柿や折れた枝が樋などにひっかかって雨漏りの原因になる。

モミジの写真が比較的うまく写せないのは、花でなくて葉っぱだという点、それと色は奇麗だけど、所詮は枯葉だという点にある。カメラの目は肉眼では感じない枯葉の哀れな面、痛々しい面を活写してしまうからだ。接写を得意としているコチトラにとっては、鮮明な画像が狂って写っているだけで、許せない気になってくる。全体像についても日照時間の関係もあり、光と影の演出が思うようにできないのが口惜しい。遅寝遅起きを信条としているから、撮影に最適な午前中は苦手、どうしても強い西日を浴びての撮影が多くなってしまう。どうも苦手なんだなあ。

気になっていた

丁子菊(ピンク)11月20日(火)
(ピンクのチョウジギク)

このブログ、実は11月20日付で発信したものだが、なにか手違いで記載されていないのが分かった。用心のため、同じ内容をほかに2つのブログに記載しており、その照合の結果、このコジゼラだけが欠落しているのが分かった。そんなこんなで追加記載することにした。

フランスの作曲家フランクは作品の数は少ないが、いずれも傑作ばかり、その重厚なメロデイと緻密な構成には定評があった。いまでも続いているNHK−BSのクラシック音楽放送、深夜3時間ほどの時間帯で、プログラムの合間の休憩時間に流される曲がある。いつも同じ曲で、もう、耳にタコができるほど、そらんじているのだが、曲名がわからない。弦楽4重奏で流れるように演奏されているが、以前からフランクっぽいなって思っていた。でも分らないまま、この曲が流れてくると、ほっとするとともに、いつ咽喉に刺さった魚の骨が取れないようなもどかしさも感じていた。

先日、3チャンネル「芸術劇場」で、バイオリンとビオラの独奏会があった。器楽による独奏はあまり好きでないので、原則として見ないことにしているが、たまたま、放送欄を読んでいたら、ビオラ独奏、清水直子とあった。曲目はフランクのバイオリン・ソナタとある。あれ、これって、もしかして、ベルリン・フィルの首席ビオラ奏者の清水さんなのかなって、そして、もしかしてフランクのこの曲こそっアレじゃなかって、急に興味が出てきて、樫本大進のバイオリンは聞き流して、その時を待った。

清水さんはベルリン・フィルではクラウデオ・アバトの時代からすでに気になっていたが、サイモン・ラトルになって、一層の出世を遂げたようである。なにしろ、目立たないビオラ部門だが、たまにカメラが映し出すと、いつも反り返った、けれん味たっぷりの演奏ぶりで、いやでも目につくのだ。さて彼女の演奏会の時間となり演奏が始まった。ところが、これが意外に地味目だったのには驚かされた。ベルリン・フィルで見慣れた闊達な演奏ではなく、じっくりと丁寧に音を紡いでいく。

ビオラの豊潤な音で演奏された、フランクのバイオリン・ソナタ、予想にたがわず、休憩時間で流されていたアノ曲そのものであった。この曲が流れだすと、しばし陶然として聞き惚れたものだ。なにせ4分足らずの休憩時間だから、いつもさわりの部分で終わってしまう。通して聴けば聴くほど名曲だったってことが分かった。原曲を弦楽4重奏に編曲して演奏しているようだ。今宵思わぬ収穫にニンマリしたものだったが、肝心の録画ができなかったのが残念至極、3チャンだったから、録画可能だったかもしれないのに。


一陽来福

丁子菊(オレンジ)11月26日(月)
(オレンジのチョウジギク)

晴天に恵まれた3連休だったが、ついに一歩も外に出なかった。日だまりの中でウツラウツラしているうちに昼過ぎになってしまい、出そびれてしまうのだ。3時過ぎには競馬のビッグレースガアリ、ゴルフ、大相撲とテレビ中継が続くっていうこともあるのだが。せっかく気力体力が回復してきたのに、怠けぐせだけは元に戻らない。今日はいい天気だから出かけようかと思いつつも、出かけるのが面倒くさいのである。

予定でも入っていれば、気楽に出掛けるのに、ノン・スケジュールだと、わざわざ出掛けるのが鬱陶しくなる。新宿御苑、六義園、小石川植物園、皇居東御苑、明治神宮、北の丸公園、どれもこれも電車に乗るのが面倒くさいって思っちゃう。一つには写真を撮るのに飽きてきたせいもあるが、やはり感動するシーンに出くわさなくなったことが一番大きいのかなあ。それとも感動しなくなったといった方がいいのかなあ。

ひところ体重が減ったのが悩みの種だったけど、医師にこの辺りがベスト体重だと、再三にわたり説教され、そんなものかと納得してからは、あまり気にならなくなった。それまで悩みの種だった便秘気味の下半身も、打って変って快腸となり、ヨーイドンすれば、気持ちよく応えてくれるようになった。食欲も完全に元に戻ったし、相変わらずよく眠るし、心身共に快調なのに、いま一つ覇気といったものが出てこない。

早稲田の杜にある穴守稲荷に行って、「一陽来福」のお守りを授かり、東南の角に祀り、来年に備えようかなあ。今年は春先の体調不良が長期化し、八重桜の季節を逸し、神田祭、三社祭、地元の深川祭も見逃すなど、諸々の恒例行事に参加することができなかった。紅葉狩りだけは、なんとかものになりそうだが、あまりにも寂しすぎる。神頼みではないけれど、覇気を取り戻して来年を迎えなくっちゃね。来年を期するなんて気持ちが出てきただけでもよかったけれどね。

光と影

チョウジギク(イエロー)11月24日(土)
(気色のチョウジギク)

初来日を果たしたオランダの至宝、フェルメール「牛乳を注ぐ女」が一般公開され、相も変らぬ物好きな日本人がどっと押し寄せて、大変な騒ぎとなっているようだ。フェルメールの絵画はたったこれ1枚だけ、あとは当時の風俗画ばかりで、芸術的評価の低いものばかり、だれが商売上手なのかは想像するとして、こういのを一攫千金というのだろう。多数押しかける観衆の列を見ながら、カーテン裏では、毎日高笑いが止まらないだろうね。

それにしても、この絵、40cm足らずの小さな絵だったのには驚かされたね。あんな小さな絵じゃ、パンダならともかくとして、順番に見せられる観衆には、大雑把な印象しか残らなかったに違いない。しょうがないから、目録を買って見直す、そこで、主催者にはまた、大きな儲けが出る、なんというありがたい話だろう、まさにお客様は神様ですって思いだろうね。

あんな小さな絵の中に、常識では考えられないほど、色々なものが書き込まれていて、そのどれもが光と影を伴っているというのが素晴らしいね。真っ白に塗られた壁の一部にクギが刺さっていて、そのクギにも窓からの光を受けて影が描かれているし、クギを抜いた穴のまわりに鉄さびまで描かれている。こうした克明な描写が嫌味とはならず、かえって静謐さを保つ力になっているのがすごい。

田舎の女、または農婦、または使用人、そのどれとでもいえそうな平凡な女性をターゲットにしながら、この絵のもっとも注目すべきことは、スカートとテーブルクロスの一部に、高価な宝石ともいえる究極のブルー「ラピスラズリ」をふんだんに使っている点にある。オランダのデルフトから生涯外へ出たことのない、平凡な市民階級に属していたフェルメールが、いかに理想の色を追求していたかは分るとしても、どうして、このような贅沢ができたのかが不思議でならない。なりわいが宿屋の主人だったから、世界の最新情報に通じていたとしてもだ。

ラピスラズリは当時世界でも、アフガニスタンでしか採掘できなかった貴重な産物であり、ルビーやエメラルドにも匹敵する超高価な宝石だった。一介の市井人には簡単に手に入る代物ではなかったはずである。後世、日本の北斎が浮世絵の傑作「凱風一晴」で、見事な青を縁取りに使って評判になった。でも、このプルシャンブルーはドイツの科学者が開発した人工のラピスラドリで、比較的手に入りやすかった。それだけに、フェルメールとラピスラズリとの出会いには謎を感じるのだ。

木枯らし

丁子菊(シロ)11月22日(木)
(白のチョウジギク)

木枯らし一号が吹いたと思ったら、急に寒くなったね。季節からいえば、11月半ばなんだから当然なのだけど、暖冬に慣らされている身体では急に切り替えができないね。今年はインフルエンザの流行が噂されているし、いくらワクチンを打ったからといって油断はできない。そういうわけで、我が家も久し振りに、朝から灯油ストーブがともった。

木枯らしは凩とも書くが、こちらの方が一段と寒さを感じるね。気象庁では、10月半ばから11月末にかけて西高東低の冬型の気圧配置になったとき、北よりの風速8メートル以上の風が吹くとその風を「木枯らし」と認定し、毎秋最初の木枯らしを木枯らし一号として発表する。ここ10年来で、関東地方の平均では11月7日頃であるから、やはり例年に比べてかなり遅かったことになる。

木枯らしと対照的な言葉に春一番がある。立春から春分の間に、初めて吹く南寄りの強風の事。春先、日本海を進む低気圧に向かって南側の高気圧から風が吹き込む事で、この現象が発生する。春一番が吹いた翌日は西高東低の冬型の気圧配置となり、寒さが戻ることが多い。和やかな感じの言葉とは裏腹に、各地で被害をもたらしたりする。春うららというわけにはいかないようだ。

気温が10度以下になると紅葉が急速に進むというから、今週末六義園など都内の紅葉も見ごろとなるだろう。紅葉というのは、高地や盆地など、気温と冷気、日照との兼ね合いで生じるものだから、ただでさえ樹木の少ない東京では見る場所が限られている。六義園、後楽園など名所はあるが、小規模構成で群生は見られず、どうしてもワンポイント鑑賞とならざるをえない。おや、窓から見えるサクラの大木もまだら模様になってきた。これも、けっこう味があるね。

液晶テレビ

フクシア11月18日(日)
(フクシア・晴海トリトン)

10年ほど前の正月に、その前のテレビが壊れてしまい、慌てて電気屋に飛び込み購入したのが、いま茶の間で見ているテレビだった。画面が暗くなり、山田洋次のように暗闇の撮影を得意にする映画なんかほとんど見えない。しかも、日の光を反射するから、天気のいい日は朝からカーテンを降ろしてテレビを見ることになる。むろん変換装置をつけているけど、当然の如くアナログである。そんなこんなで、思い切って31型の液晶テレビを購入、そのあまりにも美しい画面を楽しんでいたのだが。

「なんということでしょう」、BSの録画ができなくなってしまったのだ。折から芸術の秋、NHKではNHK音楽祭が盛大に開催されるっていうのに。あの美しい画面をクラシック番組で録画して、ゆっくり秋の夜を楽しもうと思っていたのにである。なんたるチア、サンタルチア、惨憺たるものとなった。
色々調べてみたら、原因はビデオにあった。10年ほど前に買った我が家のビデオはデジタル画面の録画ができないモノクロ専用機だということが分かったのだ。

買い替えるしかないと、近所の家電量販店に行ってみたら、デジタル専用機はほとんどがDVD主体となっており、録画できる機種は安いもので10万円、中級品で20万円前後もすることが分かった。しかも、今後の主体となるものがソニー・松下連合のブルーレイかビクター・日立連合のVHSかも決まっていない。うっかり先物買いをすれば、ババを掴む可能性もある。そのうえ、ビデオとDVD併用の機器は数少ないときている。ほんと、やになっちゃったよ、時代の波に取り残された思いをまざまざと感じたね、トホホ。

オノマトペ

ダリア11月16日(金)
(ダリア・日比谷公園)

ベロンベロンに酔っぱらってしまった。もうグデングテン、足はメロメロ、心臓はドキドキ、息はゼエゼエと上がりっぱなし。歩けばフラフラ、ヨレヨレとなり、つまずいて、スッテンコロリとひっくり返ってしまった。見上げる夜空には星がキラキラ光っていたが、あまりの快さに目の前がボーっとして、思わずウツラウツラと船をこいだ。ビュービュー吹きすさぶ木枯らしとワンワンほえる犬の声で目覚めて、トボトボと歩き出した。

上記文章中カタカナで表記した言葉を、オノマトペというらしい。しかもフランス語だそうで、どうやら、こういう「声喩」は万国共通のものらしい。オノマトペ(フランス語: onomatopée)は音声を字句で模倣した修辞技法の一つ。一般的には擬音語・擬声語を指すが、日本語においては擬態語も含まれる。擬音語とは物が発する音、擬声語とは動物が発する声をそれぞれ字句で模倣したものである。

「日本語にオノマトペが多いのは、他の言語に比べて音節、つまり音のかたまりの数が圧倒的に少ないため。アイウエオの50音にガ行などの濁音、パ行の半濁音、ニャなどの拗音を合わせて112しかありません。この“貧弱な”音節を補うために、日本人は『イライラ』『ムカムカ』といった、漢字では書けない二音節反復型のオノマトペを数多く発明してきたんです」(専門家談)

まあ、難しいことはここまでとして、ふだん使い慣れてる言葉がフランス語であるというのは、なんか悲しい気がするね。情景描写とか、感情表現、仕草や動作、自然現象を表すには難しい表現を使わずとも音感だけで表現できるのがいい。しかも立体的だから、なおさら分かりやすい。だから、数多く使ってしまうし、身近にある親しみのある表現だ。それだけにオノマトペというくくりは納得できないのだ。美しい日本語は数多くあるんだから、もっとふさわしい日本語でくくってみたいものだ。

インフルエンザ

トンボ11月14日(水)
(アカトンボ・木場公園)

去年は例年より2週間遅かったが、今年は2週間も早くなった。四国では学級閉鎖も始まったという。インフルエンザの流行だ。普段、豊洲病院にしかいっていないから、インフルエンザ注射を頼んだら3週間後といわれ、昨年もそうだったから、当然のように受け止めていた。ところがにょうぼは通っているクリニックに照会し、いつでもいいですよとの返事で、さっさと注射を済ませてきた。にょうぼの薦めもあって、近くの医院に出掛け、注射を済ませてきた。やれやれ、これで一安心、だが一体どうなってんだろう、大病院の体制っていうのは。あったまに来ちゃったよ、まったく。

今年の半分を棒に振ってしまったのは、元はといえばインフルエンザにかかったこと。それで、医院で調合してもらったタミフルを服用、モーロー状態に陥り転倒、腰を痛め、救急車で知らない病院に運ばれ、退院後、整形外科で調合された消炎剤で下血し、再度担ぎ込まれた豊洲病院で胃潰瘍と診断され、即刻内視鏡による手術を受けた。退院後も体調は一向回復せず、食欲減退、体重の激減、意欲の喪失、それらを取り戻すのに半年もかかってしまった。そんな1年だったから、インフルエンザに対する恐怖心は人並み以上に強い。

ここにきてようやく心身ともに回復したので、採血による検査結果を楽しみにしていたが、主要数値は軒並み悪化していた。医師によれば、だから言ったでしょう、体重が減るのはちっとも悪いことじゃないって。体調がよくなれば、どうしても過剰なカロリーを摂りすぎる。だから、多少歩いたって取り戻せないんです。やれやれ、体調を取り戻して喜んでいたら、数値は逆に悪くなるっていうんだから、ほんと世の中うまくいかないもんだねえ。だけど、せっかく体調も戻ったんだから、マイペースでやるしかない。それで数値が悪けりゃ、断食でもするか。


小春日和

丁子菊11月12日(月)
(丁子菊・新宿御苑)

11月8日は立冬だった。旧暦だとはいえ、この日から冬になるという暗示でもあった。立冬を過ぎると、使い慣れた小春日和をなんの遠慮もなく使えることになる。小春日和の日、日溜りを追って室内を移動する楽しさはこたえられたいね。今日は朝から絶好の好天、昨日までの雨がウソのように、一点の雲もない。窓辺に寝そべって小春日和を楽しもうとしたが、汗がジワジワとしみだしてくる。小春日和どころではない、まるで夏の陽気だ。

着ている物を脱ぎすて、強い日差しの中で日光浴としゃれこんだ。いつもなら、文庫本を手にするところだが、今日は補助用具はなし、ただ、ぼんやりと陽光を浴びることにした。きのう、ある作家のいっていることがとても気になったからだ。最近の人は考えることが少なくなった。インターネットで疑問を検索すると、いとも簡単に正解を教えてくれることも起因しているようだ。つまりインターネット検索が人から考えることを奪ってしまった。だから、ボクはつとめてボヤーとすることにしている。ボヤーとしていると、人は常に何かを考えているからだ。

だけど、凡夫のあさましさ、ぼんやりと陽光を浴びていると、思考どころではなく、眠気の方が先に襲ってきた。この魅力的な誘惑に耐えられるはずがなく、たちまち沈没の憂き目となった。目覚めてから、改めてボヤっとしてみたら、確かになんかを考えているね。ゆうべのスキヤキ、久し振りにうまかったなあ、長男坊の嫁さん、まもなく出産だなあ。センデル・ミノッソって、確かペルーの反フジモリ派の武装組織だったなあ、スペインの国旗って、なんであんなに複雑な文様なんだろう。確かにボーっとしながらも、いろんな思いが錯綜してくる。だけど、センデル・ミノッソって合っているかなって、ついつい検索したくなるのも事実だよ。便利なのも考えものだよね。
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