きょうは、ヤン・トーロップと並んで、ベルギー象徴主義最大の画家と目されているフェルナン・クノップフです(ヤン・トーロップについてはヤン・トーロップの項を参照してください)。
クノップフは、妹のマルグリットに異常なまでの執着を持っていて、絵のモデルは特定の人物のポートレート以外、すべてマルグリットです。
さらに、死後、いろいろな衣装を着たマルグリットの写真が山のように発見されました。絵を描く際には、それらの写真を見ながら描いていたようです。かなり気色の悪いオヤジですね。
マルグリットの結婚時には相当落ち込んだようですが、クノップフ自身も50歳を過ぎて未亡人と一度結婚しています。しかし、この結婚もわずか3年しか持ちませんでした。当然、原因はクノップフにあるのでしょう。
クノップフの友人にはジョセファン・ペラダンという、これまた変人の鏡のような人物がいます。彼は神秘主義者で、カトリックとカバラを合わせた新しい宗教の確立を目指し、カトリック薔薇十字会を設立しました。
ペラダンは、性別があることが退廃を招いているとし、両性具有のアンドロギュノスこそ理想であると考えていたようです。アンドロギュノスは、プラトンの「饗宴」の中にでてくる古代の人間です。
むかし、人間は、性別がなく、頭が二つ、手が4本、足が4本ありました。この人たちをアンドロギュノスといいます。アンドロギュノスは神を敬わなかったため、ゼウスの怒りに触れ、男と女のふたつに引き裂かれてしまいました。それ以来、完全体になるために男女は相手を求めるようになりました。
私は、美人を見ると「彼女こそ、自分の片割れに違いない。これでやっとアンドロギュノスの仲間入りができるぞ」と思うのですが、不思議なことに相手はそう思わないようです。たぶん彼女の記憶に問題があるのでしょう。
まあ、そんなこんなで普通はゼウスに引き裂かれた相手に出会うことはない(出会ったところで、相手の記憶に問題があることが多い)ので、適当なところで妥協することになるわけです。
クノップフにとって、アンドロギュノスになるための片割れは、妹のマルグリットだったのでしょう。古来から両性具有の象徴としてスフィンクスが描かれてきましたが、クノップフもマルグリットの顔でスフィンクスを描いています。スフィンクスは宿命の女(ファム・ファタール)の象徴でもあります。
クノップフは、ペラダンの主催する薔薇十字展(1892)にも出品しています。本展には、ヤン・トーロップも出展し、音楽はサティが担当したというのですから、ペラダン自身もそこそこの影響力はあったのでしょうね。ただ、モローとルドンには出展を断られています。
フェルナン・クノップフ 1858−1921
ベルギー生まれ。代々法律家の裕福な家庭 に育つ。幼少期をブリュージュで過ごした。のちにローデンバックの小説「死都ブリュージュ」の表紙を描き、内容に触発されて「見捨てられた街」を作製。ブリュージュの近代化を忌み嫌っていた。
親の意向で、1975年に18歳でブリュッセル自由大学法学部に入学する。入学後文学に傾倒し、マックス・ワラー、エミール・ヴァラーレンらと親交を結ぶ。
その後、法学部を退学。1976年から、ブリュッセル王立アカデミーでクサヴィエ・メレリに師事して美術を学ぶ。
1978ー79年パリに移住。アカデミー・ジュリアンのジュール・ジョゼフ・ルファーブルに師事。この時期、ギュスターヴ・モロー、エドワード・バーン=ジョーンズと知り合い、象徴主義に傾倒する。
1883年にベルギー20人会の創立メンバーとなる。
その後、 神秘主義者ジョセファン・ペラダンが率いるカトリック薔薇十字会、イギリスのラファエル前派、グスタフ・クリムトを頂点とするウィーン分離派などと親交を結ぶ。
50歳で2人の子連れのマルト・ウォルムスと結婚するが3年後に離婚。
1921年に死亡。
ここまで、すべてモデルはマルグリットです。上の7人に関しては全員マルグリットだそうです。どれだけ妹が好きなんでしょう・・・。異常だ。
象徴主義目次へ戻る
総目次に戻るにはここをクリック!
クノップフは、妹のマルグリットに異常なまでの執着を持っていて、絵のモデルは特定の人物のポートレート以外、すべてマルグリットです。
さらに、死後、いろいろな衣装を着たマルグリットの写真が山のように発見されました。絵を描く際には、それらの写真を見ながら描いていたようです。かなり気色の悪いオヤジですね。
マルグリットの結婚時には相当落ち込んだようですが、クノップフ自身も50歳を過ぎて未亡人と一度結婚しています。しかし、この結婚もわずか3年しか持ちませんでした。当然、原因はクノップフにあるのでしょう。
クノップフの友人にはジョセファン・ペラダンという、これまた変人の鏡のような人物がいます。彼は神秘主義者で、カトリックとカバラを合わせた新しい宗教の確立を目指し、カトリック薔薇十字会を設立しました。
ペラダンは、性別があることが退廃を招いているとし、両性具有のアンドロギュノスこそ理想であると考えていたようです。アンドロギュノスは、プラトンの「饗宴」の中にでてくる古代の人間です。
むかし、人間は、性別がなく、頭が二つ、手が4本、足が4本ありました。この人たちをアンドロギュノスといいます。アンドロギュノスは神を敬わなかったため、ゼウスの怒りに触れ、男と女のふたつに引き裂かれてしまいました。それ以来、完全体になるために男女は相手を求めるようになりました。
私は、美人を見ると「彼女こそ、自分の片割れに違いない。これでやっとアンドロギュノスの仲間入りができるぞ」と思うのですが、不思議なことに相手はそう思わないようです。たぶん彼女の記憶に問題があるのでしょう。
まあ、そんなこんなで普通はゼウスに引き裂かれた相手に出会うことはない(出会ったところで、相手の記憶に問題があることが多い)ので、適当なところで妥協することになるわけです。
クノップフにとって、アンドロギュノスになるための片割れは、妹のマルグリットだったのでしょう。古来から両性具有の象徴としてスフィンクスが描かれてきましたが、クノップフもマルグリットの顔でスフィンクスを描いています。スフィンクスは宿命の女(ファム・ファタール)の象徴でもあります。
クノップフは、ペラダンの主催する薔薇十字展(1892)にも出品しています。本展には、ヤン・トーロップも出展し、音楽はサティが担当したというのですから、ペラダン自身もそこそこの影響力はあったのでしょうね。ただ、モローとルドンには出展を断られています。
フェルナン・クノップフ 1858−1921
ベルギー生まれ。代々法律家の裕福な家庭 に育つ。幼少期をブリュージュで過ごした。のちにローデンバックの小説「死都ブリュージュ」の表紙を描き、内容に触発されて「見捨てられた街」を作製。ブリュージュの近代化を忌み嫌っていた。
親の意向で、1975年に18歳でブリュッセル自由大学法学部に入学する。入学後文学に傾倒し、マックス・ワラー、エミール・ヴァラーレンらと親交を結ぶ。
その後、法学部を退学。1976年から、ブリュッセル王立アカデミーでクサヴィエ・メレリに師事して美術を学ぶ。
1978ー79年パリに移住。アカデミー・ジュリアンのジュール・ジョゼフ・ルファーブルに師事。この時期、ギュスターヴ・モロー、エドワード・バーン=ジョーンズと知り合い、象徴主義に傾倒する。
1883年にベルギー20人会の創立メンバーとなる。
その後、 神秘主義者ジョセファン・ペラダンが率いるカトリック薔薇十字会、イギリスのラファエル前派、グスタフ・クリムトを頂点とするウィーン分離派などと親交を結ぶ。
50歳で2人の子連れのマルト・ウォルムスと結婚するが3年後に離婚。
1921年に死亡。
ここまで、すべてモデルはマルグリットです。上の7人に関しては全員マルグリットだそうです。どれだけ妹が好きなんでしょう・・・。異常だ。
象徴主義目次へ戻る
総目次に戻るにはここをクリック!
Sponsored Link