今日は、ピカソのライバル、アンリ・マティス(1869−1954)です。
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 アンリ・マティスは、フランスのル・カトー=カンブレジ で産まれました。実家は穀物などを扱う小さな雑貨屋で、母親のアンナ・へロイズ(上2枚目写真)は、店のペンキ売り場を担当し、顧客からの色彩の相談や色を調整を行っていました。後に、マティスは、「私の色彩のセンスは母親譲りである」と述べています。

 アンリ・マティスは、父親の意向で法律家を目指し、18歳でパリへ上京、1888年にパリ大学法学部に入学します。卒業後は、法律家の書記として働きはじめました。しかし、書記の仕事にあまり興味を持てないでいました。
 そんな中、21歳のときに虫垂炎を煩いました。マティスは、病気療養中に母から贈られた絵の具に夢中になりました。マティスの母親は、彼のやることすべてを喜び、また、応援したと言います。このときも「ルールにこだわることなく、感情に従いなさい」と絵を描く際のアドバイスをしています。

 絵を描くことに夢中になったマティスは、反対する父親を押切り、1891年、23歳のときに書記をやめ、アカデミー・ジュリアン(美術の私塾)でブーグローの指導を受けますが、1年で嫌になってしまいます。その後、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で教鞭をとっていた、ギュスターブ・モローから指導を受けるようになりました。このときに同じくモローの弟子であったジョルジュ・ルオーと、親交を結び、その友情は生涯続きました。

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 1896年には、「読書の女」(下)ほか2点が政府買い上げとなり、次第に画家として認知されるようになってきました。
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 1897年と98年には、ジョン・ピーター・ラッセルを訪ねています。マティスはのちに、「ラッセルこそ私の先生だ。ラッセルがカラー・セオリーを教えてくれた」と語っています。また、ラッセルのもとで無名であったゴッホとも出会っています。この出会いによってマティスの絵の傾向が変わっていきます。
 1897年以降は下のように色彩が豊かになっていきました(下1枚目1897年、2枚目1898年、3枚目1901年です)。
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 1898年、マティスはアメリー・パレイルと結婚します。二人はたまたまパリの結婚式で出会い、ワインを飲んでいるうちに意気投合しました。その頃、マティスにはすでに恋人キャロライン・ジョブロウがおり、娘も産まれていました。結局キャロラインは、身を引きますが、マティスとの関係が悪化することはなく、娘は長年マティスのモデルを務めました。
 このあたりが他の画家と違うところですね。普通は自殺騒動が起こるのですが・・・。

 アメリー・パレイルは人気婦人用品店を経営し、帽子のデザインなどをやっていましたが、1902年に両親の死亡と詐欺事件に巻き込まれ、廃業に追い込まれてしまいます。それ以来、彼女は疑り深い人間になってしまいました。

 その後、南仏のニースに移り住んだマティスは、降り注ぐ太陽のとゴッホやゴーギャンの影響によってさらに色彩が大胆になっていきます。

 1905年、サロン・ドートンヌ(秋のサロン)で「帽子の女」(下1枚目)、「開いた窓」(下2枚目)、「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」(下3枚目)などを発表。モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらとともにその奔放な色彩と筆使いから「フォービズム(野獣派)」と呼ばれるようになります。
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 1906年にマティスは、パブロ・ピカソと出会います。ピカソはマティスより11歳年下でしたが、ステイン家を共通のパトロンとして持つ二人はこの後、よき友人でありライバルとなります。

 さらに、1908年には「赤い部屋」(下1枚目)、1909年には「ダンス」(下2枚目)を発表します。フォービズムが盛り上がったのは3年ほどです。その後は、それぞれ異なる手法を追求していきました。
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 1917年、ニースに移り住むと、その後、静かで心地よい作品を描くようになります。マティスは、「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」と語り、フォービストと呼ばれるのを嫌いました。

 1939年、離婚。1941年には十二指腸癌を煩い、車椅子生活になってしまいます。マティスの世話は、かってモデルであったリディア・ディレクトルスカヤが行いました。
 この頃から、健康上の理由で絵筆を使うことが難しくなり、リディアに手伝ってもらって、ガッシュで着色した紙をはさみで切り抜く「切り絵」に熱中、「ジャズ」シリーズ(下)などを制作します。
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 1941年、看病に当たった看護学生のモニカ・ボジェスとの間に友情が芽生えます。この友情は1954年、マティスが亡くなるまで続きました。

 1943年ヴァンスに移住したマティスは、シスターとなったモニカとともに1947年から4年かけてヴァンスのロザリオ礼拝堂のステンドグラス、聖母子像、そのほかの内装などを作製しました。これらの作品はマティスの集大成と目されています。
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 それでは、その他の作品をどうぞ。2日にわけないと数が多いかも・・・。
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 やっぱり、一回じゃ無理でした。残りはまた明日です。

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