ロシア・アヴァンギャルド アレクサンドル・ロトチェンコ ー20世紀初頭の美術35ー
今回はグラフィック・デザインの父と目され、さらに、写真家としても有名なアレクサンドル・ロトチェンコ(1891−1856)です。ロシア・アヴァンギャルドと言えば、マレーヴィチ、タトリン、そして、ロトチェンコ(下)でしょう。
ロトチェンコの面白いところは、マレーヴィチの影響を受け、抽象画からスタートしているところです。マレーヴィチは、感覚のみで絵画を描く「シュプレマティズム」を理論化しました。
その後、ロトチェンコはタトリンに師事します。その結果、感覚や感情を抑制し、卓越した技術と計算された構図で作品を構成する「ロシア構成主義」のメンバーとなりました。
絵画の歴史は、写実主義において技術と構図がまず発達し、その後に画家の個人的な感情や感覚を描く抽象画へと進んできました。
しかし、ロトチェンコは絵画史をある意味逆走しているのです。
才能のある人物というのは学んだことと違う方向に進むものなのでしょうか。少なくとも、学んだことをただ一生繰り返している人間は才能がないと言うことなのでしょう。
アレクサンドル・ロトチェンコは、1891年、サンクトペテルブルクに生まれました。18歳でプロレタリアートの父親が死亡すると一家で現タタールスタン共和国のカザンに移住しました。
翌年カザン美術学校に入学、生涯の伴侶となるワルワーラ・ステパーノワ(下)に出会います。
その後、1914年からモスクワのストロガノフ研究所で絵画の研究を進めます。この頃のロトチェンコは、カジミール・マレーヴィチの影響を受けた抽象画を作成していました。
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(ロトチェンコの抽象画ってあまり皆さん見たことないのではないでしょうか?なかなかですよ。)
その後、ロシア構成主義の指導者であるウラジミール・タトリンに師事したロトチェンコは、ロシア構成主義を学びます。
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1921年、30歳のときにロシア構成主義のメンバーとなり、感覚や感情表現を排除した計算された画面構成で「日常生活に密着した芸術」を目標に「生産的芸術」を目指しました。
1920年代に政府から芸術学校と美術館の再編を任されたロトチェンコは、モスクワ芸術家組合の理事を勤め、人民委員会の芸術部門を創設しました。さらに、1930年まで高度技術ー芸術スタジオで教員を勤めました。
ロトチェンコは、1920年から絵画制作をやめ、詩人ウラジミール・マヤコフスキーと共同で共産党のプロパガンダ・ポスターなどを作成しました。
また、1923年から1928年までマヤコフスキーと左翼芸術雑誌「レフ」のデザインと挿絵を制作しています。
さらに、妻であるワルワーラ・ステパーノワ(1894−1958)とともに舞台装置、工業デザイン、インテリア・デザイン、ビルの壁面装飾などさまざまな分野に進出していきます。
ステパーノワのデザインは、定規やコンパスを用いた幾何学模様が特徴です。彼女はテキスタイルや衣服のデザイン、ポスター、本の丁壮などの分野で活躍しました。
1924年、第一次大戦後のダダイズムのフォトモンタージュに触発され、写真を始め、「遠近短縮法」などの新しい手法を開発しました。
1930年、ウラジミール・マヤコフスキーが自殺します。
ちなみに、ウラジミール・マヤコフスキーは、1893年にグルジアで生まれました。マルクス主義文学に傾倒し、ボルシェビキのメンバーとなり逮捕されます。
出所後、モスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学し、多くの芸術家と親交を結びますが中退、革命後は共産党のプロパガンダ・ポスターを制作しました。
1923年には、党の肝いりで芸術左翼戦線「レフ」を結成します。しかし、1924年、レーニンが死亡、レーニンと不仲であったスターリンが実権を握ると状況が変化し始めます。(レーニンはスターリンを危険人物と考え、トップに据えないよう遺書を残していましたが、遺書は無視されてしまいました。)
中央集権が進み、ロシア・アヴァンギャルドなどの役に立たない前衛芸術は否定されるようになりました。マヤコフスキーもロシア・プロレタリア作家協会「ラップ」からプロレタリアート的でないと指弾され、1929年に同協会に加盟しました。
しかし、当時すでに精神的に追いつめられていたマヤコフスキーは自室でピストル自殺を遂げました。
1934年になると「社会主義リアリズム」が唯一のスタイルであるとの決定をソ連共産党中央委員会が下しました。
社会主義リアリズムでは、芸術は革命を賛美した具体的かつ現実的なものであり、かつ、労働者の社会主義精神を養うものでなくてはならないとしています。このスローガンのもと、芸術の大衆化をめざしました。
一方、それまでのロシア・アヴァンギャルドは共産党に弾圧されました。その理由の一つは、前衛芸術が難解で労働者や指導者階層に人気のなかったこと、二つ目は、芸術家同士の確執が激化したこと(マレーヴィチとシャガールの喧嘩など)です。
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ロトチェンコは、1930年代後半から再び絵画に戻り、1956年、65歳でモスクワで死亡しました。
では、クールなロトチェンコの世界をどうぞ。
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今回はグラフィック・デザインの父と目され、さらに、写真家としても有名なアレクサンドル・ロトチェンコ(1891−1856)です。ロシア・アヴァンギャルドと言えば、マレーヴィチ、タトリン、そして、ロトチェンコ(下)でしょう。
ロトチェンコの面白いところは、マレーヴィチの影響を受け、抽象画からスタートしているところです。マレーヴィチは、感覚のみで絵画を描く「シュプレマティズム」を理論化しました。
その後、ロトチェンコはタトリンに師事します。その結果、感覚や感情を抑制し、卓越した技術と計算された構図で作品を構成する「ロシア構成主義」のメンバーとなりました。
絵画の歴史は、写実主義において技術と構図がまず発達し、その後に画家の個人的な感情や感覚を描く抽象画へと進んできました。
しかし、ロトチェンコは絵画史をある意味逆走しているのです。
才能のある人物というのは学んだことと違う方向に進むものなのでしょうか。少なくとも、学んだことをただ一生繰り返している人間は才能がないと言うことなのでしょう。
アレクサンドル・ロトチェンコは、1891年、サンクトペテルブルクに生まれました。18歳でプロレタリアートの父親が死亡すると一家で現タタールスタン共和国のカザンに移住しました。
翌年カザン美術学校に入学、生涯の伴侶となるワルワーラ・ステパーノワ(下)に出会います。
その後、1914年からモスクワのストロガノフ研究所で絵画の研究を進めます。この頃のロトチェンコは、カジミール・マレーヴィチの影響を受けた抽象画を作成していました。
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(ロトチェンコの抽象画ってあまり皆さん見たことないのではないでしょうか?なかなかですよ。)
その後、ロシア構成主義の指導者であるウラジミール・タトリンに師事したロトチェンコは、ロシア構成主義を学びます。
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1921年、30歳のときにロシア構成主義のメンバーとなり、感覚や感情表現を排除した計算された画面構成で「日常生活に密着した芸術」を目標に「生産的芸術」を目指しました。
1920年代に政府から芸術学校と美術館の再編を任されたロトチェンコは、モスクワ芸術家組合の理事を勤め、人民委員会の芸術部門を創設しました。さらに、1930年まで高度技術ー芸術スタジオで教員を勤めました。
ロトチェンコは、1920年から絵画制作をやめ、詩人ウラジミール・マヤコフスキーと共同で共産党のプロパガンダ・ポスターなどを作成しました。
また、1923年から1928年までマヤコフスキーと左翼芸術雑誌「レフ」のデザインと挿絵を制作しています。
さらに、妻であるワルワーラ・ステパーノワ(1894−1958)とともに舞台装置、工業デザイン、インテリア・デザイン、ビルの壁面装飾などさまざまな分野に進出していきます。
ステパーノワのデザインは、定規やコンパスを用いた幾何学模様が特徴です。彼女はテキスタイルや衣服のデザイン、ポスター、本の丁壮などの分野で活躍しました。
1924年、第一次大戦後のダダイズムのフォトモンタージュに触発され、写真を始め、「遠近短縮法」などの新しい手法を開発しました。
1930年、ウラジミール・マヤコフスキーが自殺します。
ちなみに、ウラジミール・マヤコフスキーは、1893年にグルジアで生まれました。マルクス主義文学に傾倒し、ボルシェビキのメンバーとなり逮捕されます。
出所後、モスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学し、多くの芸術家と親交を結びますが中退、革命後は共産党のプロパガンダ・ポスターを制作しました。
1923年には、党の肝いりで芸術左翼戦線「レフ」を結成します。しかし、1924年、レーニンが死亡、レーニンと不仲であったスターリンが実権を握ると状況が変化し始めます。(レーニンはスターリンを危険人物と考え、トップに据えないよう遺書を残していましたが、遺書は無視されてしまいました。)
中央集権が進み、ロシア・アヴァンギャルドなどの役に立たない前衛芸術は否定されるようになりました。マヤコフスキーもロシア・プロレタリア作家協会「ラップ」からプロレタリアート的でないと指弾され、1929年に同協会に加盟しました。
しかし、当時すでに精神的に追いつめられていたマヤコフスキーは自室でピストル自殺を遂げました。
1934年になると「社会主義リアリズム」が唯一のスタイルであるとの決定をソ連共産党中央委員会が下しました。
社会主義リアリズムでは、芸術は革命を賛美した具体的かつ現実的なものであり、かつ、労働者の社会主義精神を養うものでなくてはならないとしています。このスローガンのもと、芸術の大衆化をめざしました。
一方、それまでのロシア・アヴァンギャルドは共産党に弾圧されました。その理由の一つは、前衛芸術が難解で労働者や指導者階層に人気のなかったこと、二つ目は、芸術家同士の確執が激化したこと(マレーヴィチとシャガールの喧嘩など)です。
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ロトチェンコは、1930年代後半から再び絵画に戻り、1956年、65歳でモスクワで死亡しました。
では、クールなロトチェンコの世界をどうぞ。
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