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 ブログもはじめてから5ヶ月目に突入したので、まとめの意味で10分で読める近代絵画史を掲載しました。お気に入りの画家や気になる画家が見つかったら、総目次からその画家のページへ移動してみてください。

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 近代美術の夜明け「印象派」


 近代西洋絵画史は諸説ありますが、通説的には1874年、フランスの第1回印象派展にはじまります。印象派とは、1870年代にフランスで起きた絵画の流れです。絵の具の進歩は戸外で絵を描くことを可能とし、そのため、光を捉えようとする印象派が生まれました。
 また、印象派展は、それまでサロンが牛耳っていた画壇に対し、新しい芸術を求めた画家たちが反旗を翻した歴史的転換点でもありました。

 印象派という名前から、風景の心象を捉えた絵画のように思いがちですが、印象派は写実主義にあたります。印象派の目標は自然の光を忠実のに画面に写し取ることにあったのです。

 印象派といわれる画家には、
 エドゥアール・
マネ
 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
 カミーユ・ピサロ
 エドガー・ドガ
 アルフレッド・シスレー
 ポール・セザンヌ
 クロード・モネ
 ベルト・モリゾ
 ピエール=オーギュスト・ルノワール
 アルマン・ギヨマン
 メアリー・カサット
 ギュスターヴ・カイユボット
などそうそうたる面々がいます(マネとコローは正確には印象派ではありませんが創立時の重要人物です)。
下の作品は上記の名前順
 マネ2
 コロー 
 ピサロ3
 ドガ2
 シスレー
 セザンヌ2
 モネ2
 モリゾ
 ルノワール
 ギヨマン
 カサット
 カイユボット
 印象派の作品はいまでこそ高値がつき、展覧会をすれば人があふれますが、当時は完全な負け組でした。印象派という名前も風刺新聞シャリヴァリに「印象的にへたくそだ」と書かれたことに由来します。このコメントは、印象派展のモネの作品「印象ー日の出」(下)を揶揄したものでした。
 モネ
 ーそもそも当時のフランスの画家の勝ち負けがなにで決まるかというと、唯一の展覧会である「サロン」に入選できるかどうかでした。サロンという名は1725年にルーブルのサロン・カレで展覧会が開かれたことに由来します。当時、芸術家の発表の場はサロンしかなく、出品数が増したことから1798年に審査制度が導入されました。
 
 審査制度が導入されれば当然落選する画家がでてきます。落選した画家は地位や名誉も失い、作品も売れず、パトロンからは見放され・・・とあらゆる窮地に見舞われることになります。当時の画家が生き残るためにはサロンに入選することが絶対条件だったのです。

 当然のことながら、落選した画家からは審査に対する苦情が殺到します。この苦情は時の皇帝ナポレオン3世も無視出来ないほどになりました。ナポレオン3世は苦情を考慮し、1863年、サロンの開催と同時に落選作を別館に展示する
「落選者のサロン」を開催しました。

 マネ、ピサロ、セザンヌ1863年の落選者のサロンで作品を発表しています。そのときのマネの作品が有名な「草上の昼食」(下図の上)です。
 一方、
1863年のサロンの一番人気はカバネルでした。カバネル1863年のサロンで「ヴィーナスの誕生」(下図の下)を発表し絶賛されました。この絵はナポレオン3世が買い上げています。
 マネ
 カバネル
 印象派のほとんどの画家は落選続きですが、もっとも好成績を残しているのはドガ(下1枚目)です。ドガはただ一人一度も落選したことがありませんでした。
 一方、ただひたすら負け続けたのがセザンヌ(下2枚目)です。セザンヌは落選者のサロンでデビューを飾り、その後、落選に次ぐ落選で(9年連続の落選)印象派展までとうとう一度もサロンに出品ができなかったのです。全敗は印象派のなかでもセザンヌただ一人です(そんなセザンヌも1883年に初入選をはたします)。
 今日「近代絵画の父」言われるセザンヌは当時負け組中最下位だったのです。
 ドガ
セザンヌ
 落選者のサロンは大評判となり、多くの人が詰めかけました。ただし、落選した画家たちの「審査員ではない多くの人に見てもらって認めてもらいたい」という思いとは裏腹に、観客は彼らの作品を指差し、笑い転げて帰っていったのです。そんなわけで、落選者のサロンは1863年と64年の2回で打ち止めとなってしまいました。

 負け組だった印象派の画家たちは、落選者のサロンの再開を嘆願します。かれらは既存のアカデミーや権威を壊そうとか、新しい流れを作ろうとかそんなつまらないことは考えていなかったようです。ただひたすら「自分の作品を発表できる機会がほしい」と願い、請願書に署名を続けました。
 彼らはみんな入選したかったのです。ただひたすら入選したい、自分の絵を認めてもらいたい、そのため、落ちても落ちても毎年サロンに応募し続け、落選者のサロンの再開を嘆願しました。

 しかし、当局は落選者のサロンの再開を許しませんでした。さすがに業を煮やした負け組たちは自分たちの展覧会を企画します。これが「印象派展」です。第一回印象派展は1874年の4月15日から1ヶ月間開催されました。実に落選者のサロンから10年が経過していました。
 一ヶ月の入場者数はサロンが40万人、一方、印象派展は3500人ほどに留まっています。ちなみに日展の入場者数は20万人弱です。

 印象派展はその後8回ほど開催され、ゴーギャンゴッホ、スーラ、ルドンなども参加しています。結局、印象派展は10年ほどで幕を閉じましたが、芸術後進国であったフランスの絵画を牽引する礎を築きました。




 印象派から新印象派へ 


 印象派の特徴は、色彩分割にあります。画面を一様に塗るのではなく、光を捉えるために筆のストロークを短くして色を塗り重ねました。
 その後、印象派の手法はニュートンゲーテによる色彩学を取り入れ、点描画へと発展して行きました。点描画は「ネオ印象派(新印象派)」と呼ばれます。ネオ印象派の代表的な画家はスーラです。スーラは自身の代表作「グランドジャット島の日曜日の午後」で点描画を完成させます。
 スーラ
 スーラの「グランドジャット島の日曜日の午後」が発表されたのは、1886年第8回印象派展(最後の印象派展)でのことでした。これが、色彩分割を理論的に押し進め、点描画に到達した「ネオ印象派」の船出となります。フランスの新印象派の画家には以下のような画家がいます。
 ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャック、カミーユ・ピサロ、アンリ=エドモン・クロス、マクシミリアン・リュス(下はシニャックのからリュスまでの作品)
 シニャック
 ピサロ
 クロス
 リュス
 当時、ネオ印象派の点描画は、手法に力点がおかれているため、表層的にすぎるとの批判が続出しました。さらに、さまざまな画家が独自路線を追求しはじめたフランスでは定着しませんでした。
 
 その後、フランスは、ポスト印象派へと移行していきます。ポスト印象派とは、R・フライがイギリスで企画した展覧会「マネとポスト印象派の画家たち(1910年)」に由来する便宜上の呼称です。
 ポスト印象派の共通点は、画家独自の視点に立ち、自分たちの美学を追求するという、その姿勢にあり、派閥としての様式的な結びつきは希薄です。ポスト印象派の代表的な画家は、ゴッホゴーギャンセザンヌなどです。

 一方、ネオ印象派は、ベルギーやスペインなどの国で受け入れられました。ベルギー・オランダのネオ印象派には次のような画家が入っています。
 ヤン・トーロップ、ヘンリ・ファンデ・フェルデ、ジョルジュ・モレン、テオ・ファン・レイセルベルへ、ジョルジュ・レメン
 下の作品は順にトーロップ、レメン、最後の2枚がレイセルベルへです。ネオ印象派とは言ってもトーロップはどちらかというと象徴派のような絵が多く、フェルデはアール・ヌーヴォーの建築家です。なんと言ってもアール・ヌーヴォーという言葉はフェルデの作品を形容するためにできたくらいなのですから。
 トーロップ28 レメン2
 レイセルベルへ11 レイセルベルへ20


 反写実主義の台頭「ポスト印象派」
 

 印象派は、光を捉えようとし、その一つの到達点としてネオ印象派の点描に至ります。その結果、印象派は袋小路に入ってしまいます。光を追求するあまり、対象物の形がおろそかになり、また、科学的になりすぎたため、情緒性が失われてしまいました。

 1880年代半ば過ぎから写実主義に対する反動が生じます。この反発はさまざまな主義・主張を生み出して行きます。印象派以降の様々な主義をまとめてポスト印象派と言います。ポスト印象派でもっとも重要な画家は、ゴーギャン、セザンヌゴッホです。

  ゴーギャンは、1888年、素朴な絵画表現に魅せられ、遠近法を無視し、平面をべったりと塗る新たな表現法を採用しました。このような表現を「クロワソニズム」または「プリミティヴィズム」と呼びます。この方法は、自然を忠実に写し取るのではなく、描き方によって画家の心象を表現する「表現主義」を生み出しました(下:ゴーギャン初のクロワソニスム作品、「説教あとの風景」)。
 ゴーギャン
 また、ゴーギャンは自分の絵画に実際には存在しない天使などを描き込みました(上の絵の右上側)。このように実際には目の前に存在しないものを描き、自分の内面を表すことを「象徴主義」と呼びます。
 象徴主義では、実際の事物を写し取ることよりも、人間の内面に焦点を当てます。絵画は描き手の内面を象徴するものなであり、さまざまなシンボルを使って描き手の内面を画面上に再構成することを目指します。
 ゴーギャンの代表作にして最後の作品が下の「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」です。
 ゴーギャン2
 平たく言えば、目に映るものを忠実に捉える「写実主義」から、画家の内面を描画手法によって表現する「表現主義」と、象徴的なものを描き込んで内面を表す「象徴主義」へと変化していったのです。

 さらに、現実と人間の内面との融合を目指ざす統合主義(総合主義)に行き着きました。統合主義では、現実と人間の内面との融合を目標とします。現実をあるがままに画面に写し取るのではなく、脳内のイメージと現実を「統合」したものを画面上に再構成します。

 すごく平たく言うと、統合主義とは、抽象画と写実画の中間です(もちろん、この時代に抽象画はありませんが)。写実画は現実を、抽象画は人間の内面を描くものですが、統合主義では、両者を統合し、バランスのとれた美しい(様式化された)画面構成を目指します。

 人間の内面に焦点を当てるという意味では象徴主義も統合主義も同じです。ただし、統合主義は絵画に限定されたムーブメントですが、象徴主義は文学から始まったもっとずっと大きなうねりでした。
 
象徴主義は世紀末のヨーロッパ全体を巻き込む、芸術の一大ムーブメントであり、その言葉の由来は、1886年に発表されたジャン・モレアス「象徴主義宣言」です。
 象徴主義は、文学、音楽など芸術の全分野に渡って繰り広げられ、当時のヨーロッパ全域の耽美的で退廃的な世紀末芸術へと繋がっていきます。
 とは言っても、統合主義も絵画にとっては大変重要なムーブメントだったのです。

 絵画において象徴主義の萌芽はギュスターヴ・モローからすでに認められました(下)。
モロー もろー2
 その他に象徴主義の要素のある絵を描いている画家には以下のような人々がいます。
 ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
 オディロン・ルドン
 フェルナン・クノップフ
 ジョヴァンニ・セガンティーニ
 エドワード・バーン=ジョーンズ
 オーブリー・ピアズリー
 アーノルド・ベックリン
 フェルディナント・ホドラー
 フランツ・フォン・シュトゥック
 マックス・クリンガー
 グスタフ・クリムト
 下の絵は上記の名前の順です(ただし、セガンティーニが2枚あります。4枚目と5枚目)。
 シャヴァンヌ86
 
ルドン79
 クノップフ2
 セガンティーニ74
 セガンティーニ76
 ジョーンズMirror of Vinus
 ピアズリー56サロメ
 ベックリン1
 ホドラー23
 シュトック31
 クリンガー90
 クリムト66
 さて、ゴーギャンと並んで近代美術に多大な影響を与えたポスト印象派の画家がセザンヌです。セザンヌの最大の功績は、それまでの単視点描画をやめ、絵画に多視点を取り入れたことです。中世以降、絵画は画家が一点から見た対象を画面に描きました(単視点描画)。一方、セザンヌは、対象を様々な角度から眺め、それを画面上に再構成しました(多視点描画)。セザンヌ1セザンヌ1視点ローラン
 上の左の絵はセザンヌの静物画です。一見自然に見えますが、よく見るとさまざまな視点から見たパーツを再構成して描いていることがわかります。とくに壷の口の部分が一番わかりやすいですね。

 多視点描画は、ピカソブラックキュビズムへと継承されていきます。




 フォービズム、キュビズム、ドイツ表現主義、イタリア未来派の誕生


 ● フォービズム

 ゴーギャンの対象に捕われない自由な色彩表現は、ポン=タヴァン派ナビ派の画家たちを経て、「フォービズム」へと繋がっていきました。下はポン=タヴァン派のアンクタン、ナビ派のドニ、ボナール、ヴァロットン(1枚目から順番に)です。
 フォービズムは目で見た色彩をそのまま画面上に置くのではなく、画家の内面にある色をで画面を構成します。したがって、表現主義の一形態ということになります。
 アンクタン10 ドニ13  
 ボナール19 ヴァロットン90
  当時のパリでは、在野のサロンとして春に開催されるアンデパンダン展がありましたが、 1903年からは秋にサロン・ドートンヌが開催されるようになりました。1905年には、アンデパンダン展でヴァン・ゴッホ回顧展が、また、1907年には、サロン・ドートンヌでセザンヌ回顧展が開催されています。

 そんな中、1905年のサロン・ドートンヌの一室にアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクらの作品が展示されました(下1枚目からマティス、ドラン、ヴラマンク、デュフィ)。
 彼らの作品は、原色を使い、乱雑に描きなぐったような表現を用いたことから「野獣(フォーヴ)」のようだと揶揄され、ここから「フォービズム(野獣派)」という言葉が産まれました。フォービズムからは、ジョルジュ・ブラックラウル・デュフィなども影響を受けています。
 マティス12 
 ドラン79
 ヴラマンク66
 デュフィ42


 ● キュビズム

 一方、セザンヌの多視点絵画やアフリカのプリミティヴ芸術に触発されたピカソブラックは、1907年に多視点をさらに推し進めて「キュビズム」を生み出しました。

 「キュビズム」とは、パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックが確立した、複数の視点から捉えた画像を単一の画像上に表現しようとする試みです。これは、単一視点から描くというルネサンス以降の絵画の常識を覆した画期的な実験であると目されています。しかしながら、ルネサンス以前にも多視点描画は存在したので、いばるほどのことではありません。

 ルネサンス以降、最初に多視点(複数視点)描画をはじめたのは上述ひたようにセザンヌだと言われています。ジョルジュ・ブラックは、セザンヌに感銘を受け、風景画を作成(下2枚)、その風景画を見たマティスが「小さなキューブによる絵のようだ」と語ったことがキュビズムの語源です。
 ブラック10 ブラック8
 一方、パブロ・ピカソは、アフリカなどの原始芸術に魅せられ、独自に多視点描画を取り入れた「アヴィニョンの娘たち」1907年に完成させました。
 ピカソ2
 目指すものに共通性を感じたブラックとピカソは、その後緊密に連絡を取りながらキュビズムを押し進めていきました。
 1911年には、ロベール・ドローネー、フェルナン・レジェ、マルセル・デュシャンらが「サロン・キュビスト」と題したグループ展をアンデパンダンとサロン・ドートンヌで開催しています。下の最初の2枚がドローネー、3枚目レジェ、4枚目がデュシャンです。
 ドローネー4 ドローネー38
 レジェ33 デュシャン23
  キュビズムを進めると、対象が分解されてしまうため、なにを描いているかわからなくなります。さらに、分解によって色を失ったキュビズムはなにを描いても同じような絵になってしまいました。
 ピカソとブラックは、キュビズムの突破口としてコラージュの手法を開発しましたが、キュビズムは行き詰まり、急速に人気を失います。
 このコラージュの手法はその後「ダダ」へと引き継がれました。

 このようなフランスの絵画動向はヨーロッパ各国にも波及していきました。



 ● ドイツ表現主義

 ドイツ(正確にはドイツ語圏)でもフランスと同様に旧態然としたアカデミズム主導の画壇に反発する若手芸術家たちが現れました。このような芸術家たちは、従来の組織を離れ、新たに自分たちの組織をつくりました。このようなグループを「分離派」と呼びます。

 分離派には3つのグループが存在しました。1つ目は、1892年にフォン・シュトゥックが組織したミュンヘン分離派、2つ目は1897年に設立されたクリムト率いるウィーン分離派、3つ目は、1899年に結成されたマックス・リーバーマンマックス・クリンガー率いるベルリン分離派です。
 下1ー2枚目はシュトック、2枚目クリンガー、3枚目クリムトです。
 シュトック14 クリンガー84
 クリムト300
 このように新しいものを受け入れる素地の整ったドイツでは、世紀末という時代性と内相的なドイツ人の性格が相まって、人間の内面を抉るような象徴主義表現主義が花開きました。

 分離派は象徴主義的な側面を多分に持っており、その中でも最大のウィーン分離派はアール・ヌーヴォー様式の影響を受けていました。これらの象徴主義は、マックス・クリンガーらによってシュールレアリスムへと繋がって行きました。


 1910年前後のドイツでは、ドレスデンの「ブリュケ」、 ミュンヘンの「青騎士」といった表現主義を代表するグループが誕生しました。

 「ブリュケ(橋)」とは、「アカデミックスタイルを退け、新しい表現スタイルを確立するため、古典的なモチーフと前衛との架け橋となる」という意味があります。ブリュケは、1905年にエルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー、エーリッヒ・ヘッケルらのドレスデン工科大学の4人の学生により結成されました。彼らは、旧勢力への対抗と生命の自由を旗印に、ドレスデン郊外で共同生活を送りました。
 下はブリュケの創立メンバーの作品です。1枚目から順にキルヒナー、ロットルフ、ヘッケル、ブライルです。最後の作品は1回だけブリュケに参加したノルデの作品です。
 
キルヒナー11ロットルフ17
 ヘッケル3
 フリッツ2
 ノルデ15
 青騎士は、1911年にヴァシリー・カンディンスキーフランツ・マルクらによって結成されました。二人は、精神的な芸術の創造を目指し、静謐で内省的な傾向の作品を制作しました。二人の作品はその後抽象化へと進んでいきました。下1枚目はカンディンスキーのコンポジション、2枚目はマルクの作品です。マルクは動物が大好きで動物になりたいと思っていました。人間も動物なんですけどね・・。
 
カンディンスキー91
 マルク53
 このようにドイツはフランスに次いで近代芸術を牽引してきました。しかし、1930年代にナチスが台頭してくると風向きが変わって来ます。
 1933年、ナチが政権を掌握すると、近代絵画は精神疾患者が描いたものであるとして「頽廃芸術」のレッテルを貼られました。さらに、ナチスは推奨される芸術を集めた「大ドイツ芸術展」を開催、その翌日から「退廃芸術展」もあわせて開催し、近代絵画を晒ものにしました。
 ちなみにヒトラーも画家を目指していました。ヒトラーの作品は近代絵画を嫌うだけあって、極めてアカデミックです(下、建築家になりたかっただけあって、建物の作品が多いのが特徴)。
 
ヒトラー3
 さらに、美術館から数千点の絵画を集めて焼き払い、頽廃芸術に指定された画家の活動を禁じ、預金を凍結してしまいました。そのため、多くの画家が国外へと亡命しますが、彼らもお金がなく、喰うや喰わずの生活を強いられました。


 ● イタリア未来派

 この当時、イタリアは自身の歴史が重荷となり、先端技術の導入において他国に遅れをとっていました。そんな中、発生したのが、機械文明を賛美した芸術運動である「未来派」です。

 未来派は、1909年、イタリアの詩人フィリッポ・マリネッティがフィガロ紙に「未来主義創立宣言」を発表したことから始まります。その内容は、戦争と機械文明がもたらすダイナミズムやスピードを礼賛したものであり、「疾走する自動車はサモトラケの二ケよりも美しい」という有名な文句を残しました。

 未来派の高慢で偏った思想は、ムッソリーニをして「私の師」と言わしめるファシズムの父、ジョルジュ・ソレルが前年に著した「暴力論」の影響があり、極めて右翼的かつ好戦的です。これらの運動はその後ファシズムと結びついて行きます。

 1910年には、未来派画家宣言」「未来主義絵画技術宣言」ウンベルト・ボッチョーニ、ジーノ・セヴェリーニ、ジャコモ・バッラ、カイロ・カッラ、ルイージ・ルッソロが署名しました。
 機械化やスピードを賛美する未来派は、画面に動きやダイナミズムを取り入れようとしました。それまで、一瞬の光を捉えようとしてきた微分値的な絵画の常識を破り、時間を取り入れた積分値的な絵画の作成を目指しました。キュビズムの多視点描画法にヒントを得て、対象物の動きを一画面に収める試みなど実験的なものが見られます。
 1枚目ボッチョーニ、2ー3枚目セヴェリーニ、4枚目バッラ、5枚目カッラ、6枚目ルッソロです。
 ボッチョーニ10
 セヴィリヤーニ10 セヴィリヤーニ17 
 バッラ1
 カッラ36
 ルッソロ7



 抽象絵画の誕生 

 1910年代前半、上記の流れの当然の帰結として「抽象絵画」が誕生します。抽象絵画は、現実を忠実に写し取るものではなく、現実とは異なる理論に則って作られる独立した存在であり、現実という表層の下に隠れた世界の本質を表現することを目的としています。

 抽象絵画の創始者たちには、チェコ出身のフランティシェク・クプカ、ドイツのヴァシリー・カンディンスキー、オランダのピート・モンドリアン、ロシアのカジミール・マレーヴィチなどです。
 下は順番にクプカ、カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチです。
 
クプカ72
 カンディンスキー31
 モンドリアン17
 マレーヴィチ2
 「抽象絵画」は1910年代に「事物の表層に捕われるのではなく、その裏にある本質を捉えよう」として始まりました。歴史的に見ると、大きく4つの流れが土台になっています。

 1) まず、1つ目は、コーギャン、ポン・タヴァン派、ナビ派から始まる色彩の破壊と再構成です。ゴーギャンたちの「必ずしも見たままの色彩を使う必要はない」という考え方は、色彩を現実世界の縛りから解き放ちました。その結果、さらに自由な色彩を使う「フォービズム」が誕生します。

 2) 2つ目は、ピカソブラックによる空間の破壊と再構成です。ピカソとブラックは、さまざまな視点から事物を観察して、画面上に再構成する「キュビズム」と呼ばれる手法を確立しました。

 3) 3つ目は、イタリア「未来派」による時間の破壊と再構成です。未来派は機械化やスピード化などを賛美し、画面上に動きを取り入れようとしました。

 4) 4つ目は、表現主義、象徴主義に見られる内省的な絵画の成熟です。これらは、風景を写し取るという客観性よりも画家の内面や主観性を大切にしました。

 このような「色彩」、「空間」、「時間」の破壊と再構成という手技と、表層ではなく、画家の内面や世界の本質を見極めようとする姿勢が「抽象絵画」を生み出しました。

 抽象絵画は、画家の主観に頼ります。このような絵画の追求は、「美とは何か?」「普遍的な美は存在するのか?」といった問題の提起に繋がりました。
 その結果、モンドリアン「新造形主義」マレーヴィチ「シュプレマティズム」、デュシャン「レディメイド」に見られるような芸術論を生み出しました。




 総合芸術への流れ 


 このように、フランスを起点として絵画の自由と自立を求める運動が発生し、それは抽象絵画へと繋がって行きました。

 一方で、芸術にはイギリスのアート・アンド・クラフツ運動を起点とするもう1つの潮流がありました。この流れを作っていたのは、工芸などの物作りを基本とし、生活に密着した製品に芸術性を取り入れることを目指す芸術家たちです。

 世界で最初に産業革命の起きたイギリスでは、1800年代の半ばに「アート・アンド・クラフツ運動」が起きました。アート・アンド・クラフツ運動は、産業革命によって画一的かつ粗悪になった製品が大量に出回ったことを受け、手工芸を見直そうとする動きです。
 この運動は、モリス、バーン=ジョーンズ、ロセッティ1861年に設立したモリス商会が牽引しました。モリス商会は壁紙(下)や家具、装飾品、ステンドグラスなど生活に密着したものを多く手がけました。
 モリス商会
 このような運動はその後、「アールヌーヴォー 」に繋がって行きました。アール・ヌーヴォーとは「新しい芸術」という意味であり、1900年前後に西側諸国で起きた芸術運動です。1900年のパリ万国博覧会で最も隆盛を極めました。

 アール・ヌーヴォーでは、
 1)ガラスや金属など近代的な素材と技術を用い、時代に則した新たな造形を生み出すこと
 2)「絵画」や「建築」といった芸術の縦割りを改め、分野の垣根を取り払うこと
 3)芸術家の個性や感性を尊重し、実用品などの制作を通して社会生活へと浸透させること
を目指しました。
 下1枚目は最初のアール・ヌーヴォー建築であるタッセル邸、2番目はティファニーのランプです。3枚目からミュシャ、ロートレック、スタンラン、非水、ブラッドリーのポスターです。
 
アール・ヌーヴォー6 アール・ヌーヴォー13
 ミュシャ12 ロートレック26
 
スタンラン140 非水21
 his book1
  アール・ヌーヴォーの特徴は、植物や昆虫などの有機的なモチーフと曲線美にあります。アール・ヌーヴォーの装飾は安っぽく表面的で、過剰だとして1900年のパリ万博を過ぎると急速に廃れてしまいました。
 そのかわりに現れたのが直線を基調とし、過剰な装飾を避け、デザインをシンプルにしたアール・デコです。アール・デコは1925年のパリ万博のタイトルに由来します。アール・デコもアール・ヌーヴォーと同様に1925年以降急速に衰えてしまいました。



 ロシア・アヴァンギャルド 


 このようにヨーロッパでは、純粋芸術の抽象化と工芸芸術の総合化が進んできました。このような芸術の美しい調和が見られるのが1900年代初頭のロシアです。

 ロシアでは、ロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる芸術運動が展開されました。ロシア・アヴァンギャルドとは、1900年ころから1930年代初頭までのロシアの前衛芸術運動です。過去の芸術をブルジョア的であると否定し、新たな材料や手法、理論を展開、社会との関わりを積極的に進めました。

 ロシア・アヴァンギャルドが生まれた背景には社会状況が影響していました。当時のロシアは、ロマノフ朝による絶対専制でした。しかし、生活の苦しい農民には不満が鬱積していました。また、産業革命以降の工業化により、労働者階級(プロレタリアート)が急速に増加していました。

 急速に増加した貧しいプロレタリアートの不満は爆発し、1905年の「血の日曜日」事件から、1917年のロマノフ朝の崩壊へとつながっていきます。このようなプロレタリアートの台頭と社会主義革命の後押しによってロシア・アヴァンギャルドは隆盛を極めました。


 ロシア・アヴァンギャルドには2つの主流があります。1つ目はマレーヴィチに代表される「シュプレマティズム」、2つ目はタトリンの確立した「構成主義」です。

 そもそも、ロシア・アヴァンギャルドは、ロシア伝統の素朴な絵画への回帰を目指す「ネオ・プリミティヴィズム」にはじまるとされます。
 ロシアの画家ミハイル・ラリオーノフは、1909年から「ダイアのジャック」「ロバのしっぽ」など「ネオ・プリミティヴィズム」を基盤とした芸術家グループを結成し、ロシア・アヴァンギャルドの端緒を開きました。ラリオーノは、プロレタリアートである庶民を対象とした絵を描きました。
 
ラリオーノフ15
 ネオ・プリミティヴィズムでは、ブルジョア的芸術を否定し、プロレタリアートを賛美します。そのため絵画の対象も農民や労働、日々の生活などが主体となりました。
 ネオ・プリミティヴィズムは、その後、キュビズムや未来主義などの海外の潮流を取り入れ、「立体未来派」へと進んで行きます。立体未来派によって抽象化した絵画は、より先鋭的な「シュプレマティズム」という芸術思想を生み出しました。

 「シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)」とは、マレーヴィチが1910年代半ばに体系化した芸術理論です。シュプレマティズムでは、唯一絶対的な美は人間の感覚の中にあると考えます。このため自然を模倣した絵画を否定しました。さらに、芸術の自由と自立性を目指し、対象物を描くこと自体も否定してしまいます。このような絵画を「無対象絵画」と呼びます。対象物を描くという制約から解き放たれた絵画は絶対的自由を獲得するとマレーヴィチは考えました。
 「無対象絵画」は、意味を徹底的に排除し、純粋に「感覚」のみを追求した抽象的作品であり、抽象絵画のひとつの到達点であると考えられています。シュプレマティズムの特徴は正方形や円などの幾何学模様です。
 マレーヴィチ60 マレーヴィチ63

 一方で、産業革命以降の工業労働者の増加と技術の向上は、工業素材を組み合わせ、新たなものを作り出す「構成主義」を生み出しました。
 この構成主義の基礎を築いたのがタトリンです。構成主義の語源は、タトリンが制作した鉄や木片を使ったレリーフ(下1枚目)にあります。タトリンはこのレリーフを「構成」と呼んでいました。
 タトリン1 タトリン8
 構成主義では、従来のブルジョア的芸術を否定し、ガラスや金属、木材などの工業的な材料で立体を構築します。構成主義は、プロレタリアート的な材料を組み合わせ、構成することによって、新たな時代を象徴する作品を作り出すことを目指しました。なかでも400メートルの高さを誇るタトリンタワー(上2枚目)は構成主義の象徴的作品となりました(実際には完成しませんでしたが・・・)。

 このようなロシア・アヴァンギャルドは革命の広告塔として、ソヴィエトのプロパガンダに使われるようになりました。このような運動がグラフィック・デザインの父と言われるロトチェンコや、インスタレーションの祖であるリシツキーなどの芸術家を生み出しました。下3枚はロトチェンコのポスター、4枚目はリシツキーの「プロウンの部屋」です。リシツキーは部屋全体を作品と見なし、鑑賞者の経験こそ芸術であると考えていました。
  ロトチェンコ112
 ロトチェンコ115 ロトチェンコ124
 リシツキー1
 しかし、1934年、ソヴィエトが社会主義リアリズム」を唯一の芸術であると宣言したため、ロシア・アヴァンギャルドは終焉を迎えました。

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