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今回は印象派の父、カミーユ・ピサロ(1830−1903)です。
ピサロの絵は地味です(上の絵は派手ですがほとんどは地味です)。明度と彩度の変化が少なく、トーンが一定なので、落ち着きはありますが、平板な感じがします。
ピサロが息子であり、画家でもあるリュシアン・ピサロに書き送った手紙には、「本物の印象主義とは、客観的観察の唯一純粋な理論となり得る。それは芸術を偉大にする一切を失わず、安易に人々を感傷に浸らせる誇張を持たない」とあります。客観的な観察に基づき、誇張をしない。これがピサロの絵画の原点です。で、結果、地味です(下の絵)。
絵だけでなく、なんとなく人生も地味なイメージのあるピサロですが、そんなことはありません。ピサロなくして印象派は存在し得なかったと言っても過言ではないのです。
ピサロは、後に印象派と言われる当時の若手画家たちより10歳ほど年上であり、温厚な性格でもあることから、エドゥアール・マネと並んで若手画家たちの中心的存在でした。
3分でわかるエドゥアール・マネ(3) 死の直前の作品
当時のパリのサロン(官展)は審査員制度が導入されたため、新しいものを取り入れようとする若手画家たちの作品は入選することができず、不満が鬱積していました。
詳しくは10分でわかる近代絵画史を参照してください。
そのような中、1873年に求心力のあるピサロは、15名の画家からなる新たなグループを結成します。このグループが翌年に開催した展覧会こそ「第1回印象派展」です。つまり、ピサロがいたから印象派展が開催できたのです。
印象派展は第8回まで開催されますが、ずべての展覧会に作品を出品したのはピサロだけです。自分が最初に組織化した展覧会なので、思い入れがあったのでしょう。
一方、同じく若手の兄貴分であったマネは最後までサロンにこだわり、印象派展には参加しませんでした。
ピサロはマネの2つ年上です。二人とも温厚な性格であり、周りから慕われていました。さらに、二人ともサロンの入選をなかなか果たすことが出来ませんでした。
このように、二人の境遇は似ていたにも関わらず、その行動は上述したように大きく異なります。ピサロはアカデミズムの権力に対抗しますが、マネは表立って対抗しようとはしません。あくまでもアカデミズムに追従する姿勢を見せています。
実は、ピサロは温厚な性格なのにアナーキスト(無政府主義者)なのです。ゆえに権力によって何かを押し付けられることを嫌います。
ピサロとしては、アカデミズムが牛耳っているサロンに疑問を感じていたでしょう。ピサロのアナーキズムは、「みんな自由に仲良く」が基本です。アカデミズムが仕切るサロンに自由はありません。ピサロの行動の背景には自分の政治的信条があります。
ピサロがアナーキズムに傾倒した理由は、その複雑な生い立ちにあると言われています。
ピサロは、1830年に当時デンマーク領であった、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のセント・トーマス島で生まれました。
父親はアブラハム・ガブリエル・ピサロという名で、貿易雑貨商を営んでいました。名前からわかるように、アブラハムはフランス国籍のポルトガル系ユダヤ人(セファルディム)、一方、母親はドミニカ共和国出身でした。そのため人種的偏見にさらされ、ピサロはユダヤ人の学校に行けず、黒人の学校で教育を受けたという記録があります。
当時の西インド諸島デンマーク領には奴隷制度がまだ残っていました。
西インド諸島は1492年にコロンブスによって発見され、1600年代にはヨーロッパ列強国の植民地となります。
各国は、現地人を奴隷としてこき使い、農業を始めましたが、酷使したため現地人が死に絶えてしまいました。そのため、イギリスとデンマークを除く列強国は引き上げてしまいます。
一方、現地人奴隷が絶滅してしまったため、イギリスとデンマークは、アフリカから黒人を奴隷として連れてきました。黒人奴隷たちは、サトウキビやコーヒー農園で酷使されました。
西インド諸島の奴隷が解放されるのは、1848年、奴隷による2回目の反乱のあとです。つまり、ピサロは、当時もっとも虐げられた人々と生活を共にしていたことになります。
このような体験がピサロの反権力思想の原点となっているのでしょう。
1841年、11歳のピサロは単身フランスに渡り、5年間パリの寄宿学校で教育を受けています。
1847年、学校を卒業するとセント・トーマス島に戻り、家業の貿易商を手伝っていました。
1852年、そんなピサロに転機が訪れます。コペンハーゲンから来ていたデンマークの画家フリッツ・メルビーと知り合ったのです。絵画に魅せられたピサロは、メルビーについて南米のベネズエラに移り住み、1854年までメルビーとカラカス島などへ旅行し、絵を学習しています。
下は1枚目がメルビー、2枚目がメルビーの作品「セント・トーマス港」です。
1855年、セント・トーマス島に戻った25歳のピサロは、両親を説得し、画家になるためにパリへ出て、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学します。余暇にはフリッツ・メルビーの兄である画家アントン・メルビーの助手をして過ごしました。
同年、パリでは万国博覧会が開催されました。ピサロは、博覧会で目にしたカミーユ・コローやギュスターヴ・クールベ、ドミニク・アングルの作品に深く感動しました。(下1−3枚目:コロー、4−6枚目:クールベ、7−9枚目:アングル)
特にコローに感銘を受け、複数回にわたりアトリエを訪ねて作品のコメントをもらっています。サロンに入選した時にはカタログにコローの弟子と書いたくらいです。
また、クールベのパレットナイフを用いた大雑把な表現法も取り入れています。
3分でわかるカミーユ・コロー バルビゾン派とは?
3分でわかるカミーユ・コロー バルビゾン派コローの真骨頂!風景画
1859年、29歳のときに「モンモランシーの風景」(下)でサロンに初入選を果たします。これがピサロにとって最初で最後のサロン入選でした。1863年には、「落選者のサロン」にマネやセザンヌと作品を並べることになります。
1861年、アカデミー・ジュイスに通い始め、モネ、セザンヌ、ギヨマンらと親交を結び、次第に若手画家たちの中心的な存在になっていきます。
1862年にはシャルル・グレール(下2枚はグレールの作品)の画塾にも通うようになり、バティニョール派のモネやルノワール、シスレー、バジールといった面々と仲良くなりました。このころからピサロは、モネやルノワール、セザンヌといった友人と戸外で絵を描くようになります。
ピサロの特徴は、写生といえども入念な下準備と時間をかけた仕上げをアトリエで行っていることです。
1866年、田園地帯のルーヴシエンヌにアトリエを構えました。
1870になると晋仏戦争が勃発、ピサロはロンドンのアッパーノーウッドへ避難し、現地でモネとジョセフ・マロウド・ウィリアム・ターナー(下1枚目−3枚目)やジョン・コンスタンブル(下4枚目)の作品を研究をしました。
1871にジュリー・ヴェレーと結婚し、その後8人の子供をもうけます。一人は出産直後に死亡、もう一人娘が9歳で死んでしまいましたが、息子5人は全員画家になりました。
リュシアン・ピサロ(長男)、ジョルジュ=アンリ・ピサロ(次男)フェリックス・ピサロ(三男)、ルドヴィク=ロド・ピサロ(四男)、ポーレミール・ピサロ(五男)、ちなみに、リシュアンの娘オロヴィダ・カミーユ・ピサロも画家です。ピサロ家は、そのほかにもたくさん画家を輩出しています。
この中でもっとも画家として成功を収めたのは、イギリスに渡った長男のリュシアン・ピサロでしょう(下作品)。
1872年、戦争が終わり、ルーヴシエンヌに戻ったピサロは、すでに作品もアトリエも破壊されているのを目にします。ピサロは新たなアトリエをポントワーズに構えました。
1873年、15人の画家のグループを結成、さらに翌1874年には「第1回印象派展」を開催します。
1884年にパリ北西部約70キロに位置するエラニー=シュル=エプトに移り住み、りんご園に続く納屋をアトリエに改造しました。一方、親友のモネは1883年からエプト川を30キロほど下ったジヴェルニーで睡蓮を描いていました。
1885年、ジョルジュ・スーラ(下1−2枚目)やポール・シニャック(下3−4枚目)の影響で点描画を始めます。ピサロのすごいところは、常に周りから新しいものを吸収しようとする姿勢にあります。まあ、一方で自分のスタイルが確立できないという欠点にもつながっているのですが。
しかし、1890年になると絵筆が感情に追いつけないと言って点描画を放棄してしまいます。点描画は時間がかかるので、描き始めのモチベーションを維持するのは至難の技です。下はピサロの点描画です。
晩年のピサロは慢性の眼病のため屋外での作品作りが困難になり、ホテルなどの部屋からみた街並みなどを描くようになりました。このころは、部屋からの風景を時間や天候を変えた連作を仕上げています(下)。
では、その他の作品です。今回も2回に分けます。
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今回は印象派の父、カミーユ・ピサロ(1830−1903)です。
ピサロの絵は地味です(上の絵は派手ですがほとんどは地味です)。明度と彩度の変化が少なく、トーンが一定なので、落ち着きはありますが、平板な感じがします。
ピサロが息子であり、画家でもあるリュシアン・ピサロに書き送った手紙には、「本物の印象主義とは、客観的観察の唯一純粋な理論となり得る。それは芸術を偉大にする一切を失わず、安易に人々を感傷に浸らせる誇張を持たない」とあります。客観的な観察に基づき、誇張をしない。これがピサロの絵画の原点です。で、結果、地味です(下の絵)。
絵だけでなく、なんとなく人生も地味なイメージのあるピサロですが、そんなことはありません。ピサロなくして印象派は存在し得なかったと言っても過言ではないのです。
ピサロは、後に印象派と言われる当時の若手画家たちより10歳ほど年上であり、温厚な性格でもあることから、エドゥアール・マネと並んで若手画家たちの中心的存在でした。
3分でわかるエドゥアール・マネ(3) 死の直前の作品
当時のパリのサロン(官展)は審査員制度が導入されたため、新しいものを取り入れようとする若手画家たちの作品は入選することができず、不満が鬱積していました。
詳しくは10分でわかる近代絵画史を参照してください。
そのような中、1873年に求心力のあるピサロは、15名の画家からなる新たなグループを結成します。このグループが翌年に開催した展覧会こそ「第1回印象派展」です。つまり、ピサロがいたから印象派展が開催できたのです。
印象派展は第8回まで開催されますが、ずべての展覧会に作品を出品したのはピサロだけです。自分が最初に組織化した展覧会なので、思い入れがあったのでしょう。
一方、同じく若手の兄貴分であったマネは最後までサロンにこだわり、印象派展には参加しませんでした。
ピサロはマネの2つ年上です。二人とも温厚な性格であり、周りから慕われていました。さらに、二人ともサロンの入選をなかなか果たすことが出来ませんでした。
このように、二人の境遇は似ていたにも関わらず、その行動は上述したように大きく異なります。ピサロはアカデミズムの権力に対抗しますが、マネは表立って対抗しようとはしません。あくまでもアカデミズムに追従する姿勢を見せています。
実は、ピサロは温厚な性格なのにアナーキスト(無政府主義者)なのです。ゆえに権力によって何かを押し付けられることを嫌います。
ピサロとしては、アカデミズムが牛耳っているサロンに疑問を感じていたでしょう。ピサロのアナーキズムは、「みんな自由に仲良く」が基本です。アカデミズムが仕切るサロンに自由はありません。ピサロの行動の背景には自分の政治的信条があります。
ピサロがアナーキズムに傾倒した理由は、その複雑な生い立ちにあると言われています。
ピサロは、1830年に当時デンマーク領であった、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のセント・トーマス島で生まれました。
父親はアブラハム・ガブリエル・ピサロという名で、貿易雑貨商を営んでいました。名前からわかるように、アブラハムはフランス国籍のポルトガル系ユダヤ人(セファルディム)、一方、母親はドミニカ共和国出身でした。そのため人種的偏見にさらされ、ピサロはユダヤ人の学校に行けず、黒人の学校で教育を受けたという記録があります。
当時の西インド諸島デンマーク領には奴隷制度がまだ残っていました。
西インド諸島は1492年にコロンブスによって発見され、1600年代にはヨーロッパ列強国の植民地となります。
各国は、現地人を奴隷としてこき使い、農業を始めましたが、酷使したため現地人が死に絶えてしまいました。そのため、イギリスとデンマークを除く列強国は引き上げてしまいます。
一方、現地人奴隷が絶滅してしまったため、イギリスとデンマークは、アフリカから黒人を奴隷として連れてきました。黒人奴隷たちは、サトウキビやコーヒー農園で酷使されました。
西インド諸島の奴隷が解放されるのは、1848年、奴隷による2回目の反乱のあとです。つまり、ピサロは、当時もっとも虐げられた人々と生活を共にしていたことになります。
このような体験がピサロの反権力思想の原点となっているのでしょう。
1841年、11歳のピサロは単身フランスに渡り、5年間パリの寄宿学校で教育を受けています。
1847年、学校を卒業するとセント・トーマス島に戻り、家業の貿易商を手伝っていました。
1852年、そんなピサロに転機が訪れます。コペンハーゲンから来ていたデンマークの画家フリッツ・メルビーと知り合ったのです。絵画に魅せられたピサロは、メルビーについて南米のベネズエラに移り住み、1854年までメルビーとカラカス島などへ旅行し、絵を学習しています。
下は1枚目がメルビー、2枚目がメルビーの作品「セント・トーマス港」です。
1855年、セント・トーマス島に戻った25歳のピサロは、両親を説得し、画家になるためにパリへ出て、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学します。余暇にはフリッツ・メルビーの兄である画家アントン・メルビーの助手をして過ごしました。
同年、パリでは万国博覧会が開催されました。ピサロは、博覧会で目にしたカミーユ・コローやギュスターヴ・クールベ、ドミニク・アングルの作品に深く感動しました。(下1−3枚目:コロー、4−6枚目:クールベ、7−9枚目:アングル)
特にコローに感銘を受け、複数回にわたりアトリエを訪ねて作品のコメントをもらっています。サロンに入選した時にはカタログにコローの弟子と書いたくらいです。
また、クールベのパレットナイフを用いた大雑把な表現法も取り入れています。
3分でわかるカミーユ・コロー バルビゾン派とは?
3分でわかるカミーユ・コロー バルビゾン派コローの真骨頂!風景画
1859年、29歳のときに「モンモランシーの風景」(下)でサロンに初入選を果たします。これがピサロにとって最初で最後のサロン入選でした。1863年には、「落選者のサロン」にマネやセザンヌと作品を並べることになります。
1861年、アカデミー・ジュイスに通い始め、モネ、セザンヌ、ギヨマンらと親交を結び、次第に若手画家たちの中心的な存在になっていきます。
1862年にはシャルル・グレール(下2枚はグレールの作品)の画塾にも通うようになり、バティニョール派のモネやルノワール、シスレー、バジールといった面々と仲良くなりました。このころからピサロは、モネやルノワール、セザンヌといった友人と戸外で絵を描くようになります。
ピサロの特徴は、写生といえども入念な下準備と時間をかけた仕上げをアトリエで行っていることです。
1866年、田園地帯のルーヴシエンヌにアトリエを構えました。
1870になると晋仏戦争が勃発、ピサロはロンドンのアッパーノーウッドへ避難し、現地でモネとジョセフ・マロウド・ウィリアム・ターナー(下1枚目−3枚目)やジョン・コンスタンブル(下4枚目)の作品を研究をしました。
1871にジュリー・ヴェレーと結婚し、その後8人の子供をもうけます。一人は出産直後に死亡、もう一人娘が9歳で死んでしまいましたが、息子5人は全員画家になりました。
リュシアン・ピサロ(長男)、ジョルジュ=アンリ・ピサロ(次男)フェリックス・ピサロ(三男)、ルドヴィク=ロド・ピサロ(四男)、ポーレミール・ピサロ(五男)、ちなみに、リシュアンの娘オロヴィダ・カミーユ・ピサロも画家です。ピサロ家は、そのほかにもたくさん画家を輩出しています。
この中でもっとも画家として成功を収めたのは、イギリスに渡った長男のリュシアン・ピサロでしょう(下作品)。
1872年、戦争が終わり、ルーヴシエンヌに戻ったピサロは、すでに作品もアトリエも破壊されているのを目にします。ピサロは新たなアトリエをポントワーズに構えました。
1873年、15人の画家のグループを結成、さらに翌1874年には「第1回印象派展」を開催します。
1884年にパリ北西部約70キロに位置するエラニー=シュル=エプトに移り住み、りんご園に続く納屋をアトリエに改造しました。一方、親友のモネは1883年からエプト川を30キロほど下ったジヴェルニーで睡蓮を描いていました。
1885年、ジョルジュ・スーラ(下1−2枚目)やポール・シニャック(下3−4枚目)の影響で点描画を始めます。ピサロのすごいところは、常に周りから新しいものを吸収しようとする姿勢にあります。まあ、一方で自分のスタイルが確立できないという欠点にもつながっているのですが。
しかし、1890年になると絵筆が感情に追いつけないと言って点描画を放棄してしまいます。点描画は時間がかかるので、描き始めのモチベーションを維持するのは至難の技です。下はピサロの点描画です。
晩年のピサロは慢性の眼病のため屋外での作品作りが困難になり、ホテルなどの部屋からみた街並みなどを描くようになりました。このころは、部屋からの風景を時間や天候を変えた連作を仕上げています(下)。
では、その他の作品です。今回も2回に分けます。
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