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ダダとは?ダダと12人のダダイストたち その思想と作品
今回は、ニューヨーク・ダダの創立者の一人であるアメリカの写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(1864−1946)です。
下2枚目はスティーグリッツ、1、4、5、6枚目は作品。2枚目は今朝私がうちの窓から撮った朝焼けのスカイツリーです。縁起が良さそう。

彼のギャラリー「291」は、写真だけでなく、ヨーロッパの前衛芸術をいち早くアメリカに紹介したことでも有名です。さらに、291はジョージア・オキーフなどの有名画家を生み出しました。オキーフはスティーグリッツの奥さんでもありました(まあ、形だけですが)。
アルフレッド・スティーグリッツ(1864−1946)は、ニュージャージーのホボケンで1864年に生まれました。父親はドイツ系ユダヤ人の移民でエドワード・スティーグリッツと言い、当時は陸軍の中尉をしていましたが、その後、会社を経営し成功します。スティーグリッツは6人兄弟の長男で、父親の愛情を一身に受けて育ちます。
1871年、当時ニューヨークで最も格式の高い私立校Charlier Instituteに入学します。ニューヨーク市立大学の入学資格を手にいれるため、卒業の1年前に公立に転校、ところが、公立高校のレベルはスティーグリッツには低すぎ、父親は大学に入学させる前にドイツで教育を受けさせる決意をしました。
1881年、父親は自分の会社を40万ドルで売り払い、スティーグリッツの教育のため家族でヨーロッパに引っ越しました。スティーグリッツは、カールスルーエの学校へ、他の兄弟はヴァイマールの学校に入学しました。
翌年、スティーグリッツは、ベルリンの技術高校に入学します。ここで、写真の分野で著名な化学者ヘルマン・ヴォーゲルのクラスに入りました。
同時にアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ハセマンに出あい、写真を教わりました。彼はカメラを購入し、いろいろなところへ出かけては写真を撮りまくりました。
1884年、両親はアメリカへ帰国、20歳のスティーグリッツはドイツに残りました。スティーグリッツはこの頃から、写真や写真家に関する本を集め始めます。彼のコレクションは後に巨大な図書館となります。
1887年、最初の論文「ドイツのアマチュア写真家についての一言二言」を「アマチュア写真家」という雑誌に投稿しました。
その後、イギリスとドイツの雑誌に技術的な側面と美学的な側面からの論文を次々と投稿するようになりました。
さらに、「The Lake Joke, Bellagio」(下)がアマチュア写真家のコンペで大賞を受賞、次の年も大賞と2位を獲得し、雑誌に写真が掲載されるようになりました。
1890年、妹のフローラが出産時に死亡してしまいます。
スティーグリッツは、両親にアメリカへ帰ってくるように言われますが、帰りたくないスティーグリッツはのらくらとかわしていました。
しかし、最終的に父親から「仕送りを止めるぞ」と脅され、仕方なくニューヨークに戻ることにしました。
どこまでもスティーグリッツに甘い父親は、ニューヨークの写真会社を買い取って息子が自由に仕事をすることができる環境を整えてあげました。
しかし、スティーグリッツの品質へのこだわりの強さと、社員への高い賃金によって、会社は常に赤字でした。
スティーグリッツは写真雑誌「アメリカのアマチュア写真家」の編集者と知り合い、定期的に論文を寄稿するようになります。
さらに、ボストン・カメラ・クラブをはじめ、フィラデルフィアやニューヨークなどの写真家組織の写真展の賞を次々と獲得して名声を手中にしました。
1893年には「アメリカのアマチュア写真家」の共同編集者になります。
この年、両親のプレッシャーにより、29歳のスティーグリッツは、9歳年下のエミリン・オバーメイヤーと結婚しました。
スティーグリッツは、愛はまったくなく、エミリンの若さと、オーバーメイヤー家の財産に惹かれたと書き残しています。下はスティーグリッツとエミーです。
その当時、ニューヨークには「アマチュア写真家協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」の2つの写真クラブがありました。しかし、両クラブとも保守的で、経営状態は青息吐息でした。
1895年、スティーグリッツは、二つの組織を統合し、「The Camera Club of New York」を設立。他の仕事を辞め、副会長に就任します。
1897年、写真雑誌「カメラ・ノート」の初版を発行します。カメラ・ノートは、すぐに世界で最も注目される写真雑誌に成長しました。
1898年、娘キティーが誕生(下)。エミーの資産で家庭教師やお手伝いさん、コックまで雇用しましたが、スティーグリッツ自身はカメラ・クラブと自分の作品に没頭、家族を顧みることはありませんでした。
同年、ミュンヘンで「ミュンヘン分離派」に属する写真家と、ムンクやロートレックなどの画家たちの合同展覧会が開催され、参加したスティーグリッツは分離派の考え方に大変感銘を受けました。
しかし、スティーグリッツは、この年、過労により精神的に消耗し切ってしまいました。家族でヨーロッパ各地を回り、休養をとったスティーグリッツは、ニューヨークに帰って来るとカメラ・ノートのエディターを辞任してしまいました。
1902年、ミュンヘン分離派に影響され、「フォト・セセッション展(写真分離派展)」を開催、さらに、ヴィジュアルに焦点を当てた世界最初の写真雑誌カメラ・ワークを発行します。
この仕事で疲れたのか、1904年には再度精神疲労によりベルリンで休養を取っています。もしかしたら躁鬱病だったのかもしれませんね。
1905年、「フォト・セセッションのための小さなギャラリー」をオープン。最初のシーズンで15000人が訪れ、大盛況になりました。
この頃、スティーグリッツは4つのフルタイムジョブを持っていましたが、贅沢三昧の生活を送っていたためエミーの財産も底をついてしまいました。
スティーグリッツの目標は、写真が絵画と同じように芸術として評価されることでした。そのためには、絵画と一緒に展示されたり出版されたりする必要があると彼は考えていました。
1907年、当時無名だった女流画家パメラ・コールマン・スミス(下)の絵画作品展を開催したところ、大盛況となりました。この成功によって、スティーグリッツは、写真と絵画の垣根を壊すことを目指すようになります。
1908年、金銭的な問題で一旦閉じたギャラリーを再開し、ストリートの名前に因んで「291」と名付けました。291では、あえてトラディショナルな作品と一緒に論争を呼ぶような問題作品を展示しました。
また、写真だけではなく、ヨーロッパの前衛絵画を積極的に紹介しています。1912年のカメラ・ワークの特集は、なんとピカソとマティスでした。
1913年、「国際現代美術展(アーモリー・ショー)」がニューヨークで開催され、ヨーロッパの前衛芸術が広くアメリカに紹介され、賛否両論が渦巻きます。
1914年、第一次世界大戦の影響で経済的に行き詰ったスティーグリッツは、起死回生の策として雑誌「291」を発行。雑誌は好調に売り上げを伸ばしました。
1916年、当時無名であったジョージア・オキーフのポートフォリオを見て感銘を受け、彼女の許可なく291で展覧会を開催します。
オキーフは友人から勝手に展覧会が開催されたことを聞き、スティーグリッツに苦情を言いに行きますが、そこではじめてオキーフと会ったスティーグリッツは、オキーフに一目惚れしてしまいました。
下はスティーグリッツ撮影のオキーフと彼女の作品です。
1917年、オキーフとの関係が深まったスティーグリッツは、291を閉じたり、エミーと別れたりと、それまでの生活を清算し始めました。
1918年、オキーフのアトリエをニューヨークに作り、ニューメキシコから呼び寄せました。
1924年、オキーフと結婚。しかし、オキーフはニューメキシコで仕事をし、スティーグリッツはほとんどニューヨークを離れることはありませんでした。
この年、ボストン美術館がスティーグリッツの27作品を購入しています。大きな美術館が写真を買い取るのははじめてのことでした。スティーグリッツの目指していた「写真を芸術として認めさせる」という目標が達成された瞬間でもありました。
1925年、新しいギャラリー「The Room」をオープンします。ギャラリーの事務として22歳のドロシー・ノーマンを雇用しました。
とにかく若い女性好きの64歳スティーグリッツは、ドロシー・ノーマンと愛人関係になります。ちなみにノーマンも結婚しており、子供もいました。
1928年、新しいギャラリー「The Place」をオープンします。
1938年、はじめての心臓発作に見舞われました。スティーグリッツは、その後の8年間で6回の発作を起こし、体力的に弱っていきます。
1946年、スティーグリッツは最後の発作で昏睡状態になってしまいます。この時になってはじめてオキーフは病院にスティーグリッツを見舞っています。
オキーフがニューメキシコから病室に到着すると、そこには付きっ切りで看病していたドロシー・ノーマンがいました。オキーフを見たドロシーは何も言わず、そっと病室をあとにします。
スティーグリッツはオキーフに看取られ死亡しました。82歳でした。
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今回は、ニューヨーク・ダダの創立者の一人であるアメリカの写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(1864−1946)です。
下2枚目はスティーグリッツ、1、4、5、6枚目は作品。2枚目は今朝私がうちの窓から撮った朝焼けのスカイツリーです。縁起が良さそう。


彼のギャラリー「291」は、写真だけでなく、ヨーロッパの前衛芸術をいち早くアメリカに紹介したことでも有名です。さらに、291はジョージア・オキーフなどの有名画家を生み出しました。オキーフはスティーグリッツの奥さんでもありました(まあ、形だけですが)。
アルフレッド・スティーグリッツ(1864−1946)は、ニュージャージーのホボケンで1864年に生まれました。父親はドイツ系ユダヤ人の移民でエドワード・スティーグリッツと言い、当時は陸軍の中尉をしていましたが、その後、会社を経営し成功します。スティーグリッツは6人兄弟の長男で、父親の愛情を一身に受けて育ちます。
1871年、当時ニューヨークで最も格式の高い私立校Charlier Instituteに入学します。ニューヨーク市立大学の入学資格を手にいれるため、卒業の1年前に公立に転校、ところが、公立高校のレベルはスティーグリッツには低すぎ、父親は大学に入学させる前にドイツで教育を受けさせる決意をしました。
1881年、父親は自分の会社を40万ドルで売り払い、スティーグリッツの教育のため家族でヨーロッパに引っ越しました。スティーグリッツは、カールスルーエの学校へ、他の兄弟はヴァイマールの学校に入学しました。
翌年、スティーグリッツは、ベルリンの技術高校に入学します。ここで、写真の分野で著名な化学者ヘルマン・ヴォーゲルのクラスに入りました。
同時にアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ハセマンに出あい、写真を教わりました。彼はカメラを購入し、いろいろなところへ出かけては写真を撮りまくりました。
1884年、両親はアメリカへ帰国、20歳のスティーグリッツはドイツに残りました。スティーグリッツはこの頃から、写真や写真家に関する本を集め始めます。彼のコレクションは後に巨大な図書館となります。
1887年、最初の論文「ドイツのアマチュア写真家についての一言二言」を「アマチュア写真家」という雑誌に投稿しました。
その後、イギリスとドイツの雑誌に技術的な側面と美学的な側面からの論文を次々と投稿するようになりました。
さらに、「The Lake Joke, Bellagio」(下)がアマチュア写真家のコンペで大賞を受賞、次の年も大賞と2位を獲得し、雑誌に写真が掲載されるようになりました。

スティーグリッツは、両親にアメリカへ帰ってくるように言われますが、帰りたくないスティーグリッツはのらくらとかわしていました。
しかし、最終的に父親から「仕送りを止めるぞ」と脅され、仕方なくニューヨークに戻ることにしました。
どこまでもスティーグリッツに甘い父親は、ニューヨークの写真会社を買い取って息子が自由に仕事をすることができる環境を整えてあげました。
しかし、スティーグリッツの品質へのこだわりの強さと、社員への高い賃金によって、会社は常に赤字でした。
スティーグリッツは写真雑誌「アメリカのアマチュア写真家」の編集者と知り合い、定期的に論文を寄稿するようになります。
さらに、ボストン・カメラ・クラブをはじめ、フィラデルフィアやニューヨークなどの写真家組織の写真展の賞を次々と獲得して名声を手中にしました。
1893年には「アメリカのアマチュア写真家」の共同編集者になります。
この年、両親のプレッシャーにより、29歳のスティーグリッツは、9歳年下のエミリン・オバーメイヤーと結婚しました。
スティーグリッツは、愛はまったくなく、エミリンの若さと、オーバーメイヤー家の財産に惹かれたと書き残しています。下はスティーグリッツとエミーです。
その当時、ニューヨークには「アマチュア写真家協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」の2つの写真クラブがありました。しかし、両クラブとも保守的で、経営状態は青息吐息でした。
1895年、スティーグリッツは、二つの組織を統合し、「The Camera Club of New York」を設立。他の仕事を辞め、副会長に就任します。
1897年、写真雑誌「カメラ・ノート」の初版を発行します。カメラ・ノートは、すぐに世界で最も注目される写真雑誌に成長しました。
1898年、娘キティーが誕生(下)。エミーの資産で家庭教師やお手伝いさん、コックまで雇用しましたが、スティーグリッツ自身はカメラ・クラブと自分の作品に没頭、家族を顧みることはありませんでした。

しかし、スティーグリッツは、この年、過労により精神的に消耗し切ってしまいました。家族でヨーロッパ各地を回り、休養をとったスティーグリッツは、ニューヨークに帰って来るとカメラ・ノートのエディターを辞任してしまいました。
1902年、ミュンヘン分離派に影響され、「フォト・セセッション展(写真分離派展)」を開催、さらに、ヴィジュアルに焦点を当てた世界最初の写真雑誌カメラ・ワークを発行します。
この仕事で疲れたのか、1904年には再度精神疲労によりベルリンで休養を取っています。もしかしたら躁鬱病だったのかもしれませんね。
1905年、「フォト・セセッションのための小さなギャラリー」をオープン。最初のシーズンで15000人が訪れ、大盛況になりました。
この頃、スティーグリッツは4つのフルタイムジョブを持っていましたが、贅沢三昧の生活を送っていたためエミーの財産も底をついてしまいました。
スティーグリッツの目標は、写真が絵画と同じように芸術として評価されることでした。そのためには、絵画と一緒に展示されたり出版されたりする必要があると彼は考えていました。
1907年、当時無名だった女流画家パメラ・コールマン・スミス(下)の絵画作品展を開催したところ、大盛況となりました。この成功によって、スティーグリッツは、写真と絵画の垣根を壊すことを目指すようになります。
1908年、金銭的な問題で一旦閉じたギャラリーを再開し、ストリートの名前に因んで「291」と名付けました。291では、あえてトラディショナルな作品と一緒に論争を呼ぶような問題作品を展示しました。
また、写真だけではなく、ヨーロッパの前衛絵画を積極的に紹介しています。1912年のカメラ・ワークの特集は、なんとピカソとマティスでした。
1913年、「国際現代美術展(アーモリー・ショー)」がニューヨークで開催され、ヨーロッパの前衛芸術が広くアメリカに紹介され、賛否両論が渦巻きます。
1914年、第一次世界大戦の影響で経済的に行き詰ったスティーグリッツは、起死回生の策として雑誌「291」を発行。雑誌は好調に売り上げを伸ばしました。
1916年、当時無名であったジョージア・オキーフのポートフォリオを見て感銘を受け、彼女の許可なく291で展覧会を開催します。
オキーフは友人から勝手に展覧会が開催されたことを聞き、スティーグリッツに苦情を言いに行きますが、そこではじめてオキーフと会ったスティーグリッツは、オキーフに一目惚れしてしまいました。
下はスティーグリッツ撮影のオキーフと彼女の作品です。
1917年、オキーフとの関係が深まったスティーグリッツは、291を閉じたり、エミーと別れたりと、それまでの生活を清算し始めました。
1918年、オキーフのアトリエをニューヨークに作り、ニューメキシコから呼び寄せました。
1924年、オキーフと結婚。しかし、オキーフはニューメキシコで仕事をし、スティーグリッツはほとんどニューヨークを離れることはありませんでした。
この年、ボストン美術館がスティーグリッツの27作品を購入しています。大きな美術館が写真を買い取るのははじめてのことでした。スティーグリッツの目指していた「写真を芸術として認めさせる」という目標が達成された瞬間でもありました。
1925年、新しいギャラリー「The Room」をオープンします。ギャラリーの事務として22歳のドロシー・ノーマンを雇用しました。
とにかく若い女性好きの64歳スティーグリッツは、ドロシー・ノーマンと愛人関係になります。ちなみにノーマンも結婚しており、子供もいました。
1928年、新しいギャラリー「The Place」をオープンします。
1938年、はじめての心臓発作に見舞われました。スティーグリッツは、その後の8年間で6回の発作を起こし、体力的に弱っていきます。
1946年、スティーグリッツは最後の発作で昏睡状態になってしまいます。この時になってはじめてオキーフは病院にスティーグリッツを見舞っています。
オキーフがニューメキシコから病室に到着すると、そこには付きっ切りで看病していたドロシー・ノーマンがいました。オキーフを見たドロシーは何も言わず、そっと病室をあとにします。
スティーグリッツはオキーフに看取られ死亡しました。82歳でした。
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