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シュールレアリスムの系譜(1) シュールレアリスムの歴史と手法 ダダからシュールレアリスムへ
シュールレアリスムの系譜(2) シュールレアリスムの主要画家リストと詳細記事へのリンク・リスト
今回からシュールレアリスムの大御所、ポール・デルヴォー(Paul Delvaux 1897−1994)を3回でお送りします。
デルヴォーの2、3回目はこちらへどうぞ。
ポール・デルヴォー(2)自分の好きなものを並べてシュールな世界を作ったデルヴォーの作品集
ポール・デルヴォー(3) デルヴォーの人生後半の作品群
シュールレアリスムと言えば、ダリ、マグリット、エルンスト、そしてデルヴォーでしょう。デルヴォーはベルギーの画家です。同じくベルギーのシュールレアリストであるマグリットとは1歳違いで、二人はベルギー・シュールレアリスム界の双璧を成しています。
デルヴォーの作品はポール・デルヴォー美術館 http://www.delvauxmuseum.com で見られます。
また、姫路市とベルギーは姉妹都市の関係にあるため、姫路市立美術館 http://jmapps.ne.jp/ には100点以上のデルヴォーの作品があります。
ポール・デルヴォーの作品には裸婦、汽車、ローマ風の街、骸骨などが何度も繰り返し出てきます。さらに、夜の場面が多く、画面からは静寂が感じられます。

ポール・デルヴォー(Paul Delvaux 1897−1994)は、1897年 ベルギー東部リエージュ州アンテイトで裕福なブルジョア家庭に生まれました。
父親は弁護士、母親のロール・ジャモットは音楽家で大変厳格でした。さらに、デルヴォーを溺愛し、生涯子離れができませんでした。
デルヴォーが4歳の時、一家はブリュッセルに引っ越し、デルヴォーは1910年から16年まで、ブリュッセルのサン・ジル高等学校でギリシャ、ラテンの古典教育を受けています。彼はこの頃から神話の風景を描くようになりました。特にホメロスが気に入っていたようです。
1916年、19歳のときブリュッセル美術アカデミー建築科(ブリュッセル・アカデミー・デ・ボザール)に入学するものの、数学で落第し、建築科を卒業することを断念しました。
1919年、デルヴォーの風景画が宮廷風景画家のフランツ・クルテンス(Frans Courtens)とアルフレッド・バスティアン(Alfred Bastien)の目にとまりました。
彼らはデルヴォーに画家になるよう勧め、両親も説得してくれました。
下はクルテンス(1−2枚目)とバスティアン(3−4枚目)の作品です。
1920年、ブリュッセル美術アカデミーで絵画を学ぶことを決意、ベルギー象徴主義の画家のコンスタン・モンタルド(Constant Montald)とジャン・デルヴィル(Jean Delville)に師事しました。デルヴォーは4年間アカデミーに在籍しています。
下はモンタルド(1−2枚目)とデルヴィル(3−4枚目)の作品です。
一方、この頃のデルヴァオーの作品はこんな感じです。



あんまり先生たちの作品と似てませんね。
実は、この頃のデルヴォーの作品は、先生たちよりベルギー表現主義の画家コンスタン・ペルメク(Constant Permeke)やグスタフ・デ・スメット(Gustave De Smet)などの影響を受けてるんです。
下はペルメケ(1−2枚目)とスメット(3−4枚目)の作品です。
1925年、デルヴォーは初めての個展を開催しました。
1929年、32歳のデルヴォーはタムと恋に落ちますが、親の反対で別れることになりました。このあとから同じ顔の女性を描くようになります。
同年、ブリュッセルでジェームス・アンソール(James Ensor)の回顧展を見て感銘を受けています。さらに、翌年はコンスタン・ペルメクの回顧展を見ています。
下はアンソールの作品です。
1932年、ブリュッセル・フェアでスピッツナー博物館の人体模型を見てショックを受けました。
1934年、エルンストやダリ、マグリット、キリコの作品が展示された「ミノトール展」でシュールレアリスムに傾倒するようになります。
翌年にはアンソールを訪れ、シュールレアリストたちと親交を結んでいます。
1926年頃には、デルヴォーはすでにキリコの作品を目にしていましたが、デペイズマンの手法を使い、自分が愛着を持つものを画面上に並べるようになったのはこの頃からです。
デルヴォーは、これによって「理性的な論理に背く自由を与えられた」と言っています。
デペイズマンについてはこちらを参照ください。
3分でわかるジョルジュ・デ・キリコ 形而上絵画とは? シュールレアリスムの先駆者キリコの人生と作品
3分でわかるジョルジュ・デ・キリコ(2) ニーチェとキリコ キリコの人生と作品
1937年、40歳のデルヴォーは、ローマを訪れ、遺跡に感銘を受けました。さらに、同年シュザンヌ・ピュルナルと結婚しています。
1938年、シュールレアリスム国際展に参加しました。デルヴォーはシュールレアリストに分類されますが、シュールレアリスム運動にはまったく興味がなく、自分の好きなものを並べ、独自の世界を開拓していきます。
1944年、ブリュッセルで回顧展が開催され、映画「ポール・デルヴォーの世界」が制作されました。
1947年、50歳のデルヴォーは避暑地サンティデスバルトを訪れた際、偶然タムと再会しました。二人は5年後に結婚し、生涯を共にします。
1950年、ブリュッセル王立美術学校の教授になります。
1965年、ブリュッセル王立美術学校校長に就任しました。
1979年、王立アカデミー会員となりました。
1982年、ポール・デルヴォー美術館を開設しました。
1986年、最後の油彩画「カリュプソー」を制作、この頃はほとんど盲目状態でした。
1889年、最愛のタムが死去。
1994年、94歳で亡くなりました。
では、明日はデルヴォーの2回目です。最近、つい画像が多くなり、ライブドアブログのブログ快適度が0点になってしまいました。なので、3回くらいに分けないとダメかもしれません。
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シュールレアリスムの系譜(2) シュールレアリスムの主要画家リストと詳細記事へのリンク・リスト
今回からシュールレアリスムの大御所、ポール・デルヴォー(Paul Delvaux 1897−1994)を3回でお送りします。
デルヴォーの2、3回目はこちらへどうぞ。
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ポール・デルヴォー(3) デルヴォーの人生後半の作品群
シュールレアリスムと言えば、ダリ、マグリット、エルンスト、そしてデルヴォーでしょう。デルヴォーはベルギーの画家です。同じくベルギーのシュールレアリストであるマグリットとは1歳違いで、二人はベルギー・シュールレアリスム界の双璧を成しています。
デルヴォーの作品はポール・デルヴォー美術館 http://www.delvauxmuseum.com で見られます。
また、姫路市とベルギーは姉妹都市の関係にあるため、姫路市立美術館 http://jmapps.ne.jp/ には100点以上のデルヴォーの作品があります。
ポール・デルヴォーの作品には裸婦、汽車、ローマ風の街、骸骨などが何度も繰り返し出てきます。さらに、夜の場面が多く、画面からは静寂が感じられます。


ポール・デルヴォーは、ベルギーの裕福な家庭に生まれました。父親は弁護士、母親は音楽家で大変厳しく、かつ、デルヴォーを溺愛し、束縛していました。
デルヴォーは32歳の時にアンヌ=マリー・ド・マルトラール(愛称タム)と出会い、恋に落ちます。デルヴォーはタムと結婚したかったのですが、母親の猛反対にあい、泣く泣く諦めました。32歳ですよ?しょうがないなぁ。デルヴォーはマザコンなんです。
母親は「女は体で男を絡め取り、破滅させる悪魔なのよ」とデルヴォーを教育し、死に際には、デルヴォーにタムと二度と会わないと約束させました。
タムと別れた頃からデルヴォーは、同じ顔の裸の女性を繰り返し描くようになります。この裸の女性こそデルヴォーのミューズ、タムなのです。
デルヴォーは、結局タムを諦め、40歳の時にシュザンヌ・ピュルナルという女性と結婚しました。
デルヴォーの絵に繰り返し現れるその他のモチーフ(汽車、ローマ風の街、骸骨など)も彼が執着したものばかりです。
デルヴォーは32歳の時にアンヌ=マリー・ド・マルトラール(愛称タム)と出会い、恋に落ちます。デルヴォーはタムと結婚したかったのですが、母親の猛反対にあい、泣く泣く諦めました。32歳ですよ?しょうがないなぁ。デルヴォーはマザコンなんです。
母親は「女は体で男を絡め取り、破滅させる悪魔なのよ」とデルヴォーを教育し、死に際には、デルヴォーにタムと二度と会わないと約束させました。
タムと別れた頃からデルヴォーは、同じ顔の裸の女性を繰り返し描くようになります。この裸の女性こそデルヴォーのミューズ、タムなのです。
デルヴォーは、結局タムを諦め、40歳の時にシュザンヌ・ピュルナルという女性と結婚しました。
デルヴォーの絵に繰り返し現れるその他のモチーフ(汽車、ローマ風の街、骸骨など)も彼が執着したものばかりです。
デルヴォーは汽車がとても好きでした。彼は15歳から鉄道模型を作り、鉄道で旅行に頻繁に行き、駅長になることを夢見ていました。
デルヴォーは建築物も好きで、ブリュッセルの美術学校の建築科に入学しています(数学で点数が取れず、結局落第してしまいましたが・・・)。さらに、後年ローマを訪問し、遺跡群に感銘をうけました。このような経験が神秘的な街のもととなっているのでしょう。
また、35歳の時にブリュッセル・フェアでスピッツナー博物館の人体の骨格模型を見てショックを受け、骸骨を描くようになりました。
デルヴォーの絵には科学者(下)もよく登場します。この科学者はメガネをずらしていっつも何かを観察してるんです。
こちらは、彼の愛読書、ジュール・ベルヌの小説「地底旅行」に登場するオットー・リーデンブロック教授だと考えられています。
いいでしょ、この教授?周りに裸の女性がいてもまったく関心を示さず、一心に何かを見つめています。レーデンブロック教授は地質学者なので、たぶん石ころです。


1947年、そんな気弱なマザコン、デルヴォーに運命の女神が微笑みます。微笑んだなどという生易しいものではないかもしれません。本人にとっては運命の女神が爆笑したくらいのインパクトでしょう。
1947年、50歳になったデルヴォーは、たまたま小さな避暑地サンティデスバルトを訪れました。すると何とそこでばったりタムに出会ったのです!18年ぶりの再会です!
二人はその後文通をし、友人宅の一室を借りて会うようになります。結局、デルヴォーは離婚し、55歳の時にタムと再婚しました。
その後デルヴォーとタムは共に過ごしましたが、1889年タムが先だった後、デルヴォーは二度と絵筆を握ることはありませんでした。その5年後、デルヴォーも帰らぬ人となりました。
デルヴォーは「私の絵の中で描かれる女性たちは、女神であり、ミューズなのです」と語っています。タムは生涯デルヴォーの女神でありミューズだったのです。
下はデルヴォーがタムと18年ぶりに出会った直後に描かれた「森」です。タムとの再会の喜びと満足感が感じられるとされる作品です。
確かにデルヴォーが森を描くのは珍しいんですが、喜びが感じられるかって言われると・・・そうでもないかな。
実は同じ年に制作された他の作品も特に明るい感じはしません。まあ、絵を描いている方ならお分かりかと思いますが、作品はそれほど日々の感情に左右されるものではありません。研究者は作品と作者の状況を無理やり結びつけたがるものですが。
一方、下は1886年に描かれた89歳のデルヴォー最後の油彩、「カリュプソー」です。カリュプソーはギリシア神話に登場する海の女神です。
この頃、デルヴォーはすでにほとんど目が見えていませんでした。記憶の中のタムがモデルなのでしょう。
タムはこの3年後に亡くなります。

デルヴォーは建築物も好きで、ブリュッセルの美術学校の建築科に入学しています(数学で点数が取れず、結局落第してしまいましたが・・・)。さらに、後年ローマを訪問し、遺跡群に感銘をうけました。このような経験が神秘的な街のもととなっているのでしょう。
また、35歳の時にブリュッセル・フェアでスピッツナー博物館の人体の骨格模型を見てショックを受け、骸骨を描くようになりました。
デルヴォーの絵には科学者(下)もよく登場します。この科学者はメガネをずらしていっつも何かを観察してるんです。
こちらは、彼の愛読書、ジュール・ベルヌの小説「地底旅行」に登場するオットー・リーデンブロック教授だと考えられています。
いいでしょ、この教授?周りに裸の女性がいてもまったく関心を示さず、一心に何かを見つめています。レーデンブロック教授は地質学者なので、たぶん石ころです。



1947年、50歳になったデルヴォーは、たまたま小さな避暑地サンティデスバルトを訪れました。すると何とそこでばったりタムに出会ったのです!18年ぶりの再会です!
二人はその後文通をし、友人宅の一室を借りて会うようになります。結局、デルヴォーは離婚し、55歳の時にタムと再婚しました。
その後デルヴォーとタムは共に過ごしましたが、1889年タムが先だった後、デルヴォーは二度と絵筆を握ることはありませんでした。その5年後、デルヴォーも帰らぬ人となりました。
デルヴォーは「私の絵の中で描かれる女性たちは、女神であり、ミューズなのです」と語っています。タムは生涯デルヴォーの女神でありミューズだったのです。
下はデルヴォーがタムと18年ぶりに出会った直後に描かれた「森」です。タムとの再会の喜びと満足感が感じられるとされる作品です。
確かにデルヴォーが森を描くのは珍しいんですが、喜びが感じられるかって言われると・・・そうでもないかな。
実は同じ年に制作された他の作品も特に明るい感じはしません。まあ、絵を描いている方ならお分かりかと思いますが、作品はそれほど日々の感情に左右されるものではありません。研究者は作品と作者の状況を無理やり結びつけたがるものですが。
一方、下は1886年に描かれた89歳のデルヴォー最後の油彩、「カリュプソー」です。カリュプソーはギリシア神話に登場する海の女神です。
この頃、デルヴォーはすでにほとんど目が見えていませんでした。記憶の中のタムがモデルなのでしょう。
タムはこの3年後に亡くなります。

ポール・デルヴォー(Paul Delvaux 1897−1994)は、1897年 ベルギー東部リエージュ州アンテイトで裕福なブルジョア家庭に生まれました。
父親は弁護士、母親のロール・ジャモットは音楽家で大変厳格でした。さらに、デルヴォーを溺愛し、生涯子離れができませんでした。
デルヴォーが4歳の時、一家はブリュッセルに引っ越し、デルヴォーは1910年から16年まで、ブリュッセルのサン・ジル高等学校でギリシャ、ラテンの古典教育を受けています。彼はこの頃から神話の風景を描くようになりました。特にホメロスが気に入っていたようです。
1916年、19歳のときブリュッセル美術アカデミー建築科(ブリュッセル・アカデミー・デ・ボザール)に入学するものの、数学で落第し、建築科を卒業することを断念しました。
1919年、デルヴォーの風景画が宮廷風景画家のフランツ・クルテンス(Frans Courtens)とアルフレッド・バスティアン(Alfred Bastien)の目にとまりました。
彼らはデルヴォーに画家になるよう勧め、両親も説得してくれました。
下はクルテンス(1−2枚目)とバスティアン(3−4枚目)の作品です。
1920年、ブリュッセル美術アカデミーで絵画を学ぶことを決意、ベルギー象徴主義の画家のコンスタン・モンタルド(Constant Montald)とジャン・デルヴィル(Jean Delville)に師事しました。デルヴォーは4年間アカデミーに在籍しています。
下はモンタルド(1−2枚目)とデルヴィル(3−4枚目)の作品です。





実は、この頃のデルヴォーの作品は、先生たちよりベルギー表現主義の画家コンスタン・ペルメク(Constant Permeke)やグスタフ・デ・スメット(Gustave De Smet)などの影響を受けてるんです。
下はペルメケ(1−2枚目)とスメット(3−4枚目)の作品です。

1929年、32歳のデルヴォーはタムと恋に落ちますが、親の反対で別れることになりました。このあとから同じ顔の女性を描くようになります。
同年、ブリュッセルでジェームス・アンソール(James Ensor)の回顧展を見て感銘を受けています。さらに、翌年はコンスタン・ペルメクの回顧展を見ています。
下はアンソールの作品です。
1932年、ブリュッセル・フェアでスピッツナー博物館の人体模型を見てショックを受けました。
1934年、エルンストやダリ、マグリット、キリコの作品が展示された「ミノトール展」でシュールレアリスムに傾倒するようになります。
翌年にはアンソールを訪れ、シュールレアリストたちと親交を結んでいます。
1926年頃には、デルヴォーはすでにキリコの作品を目にしていましたが、デペイズマンの手法を使い、自分が愛着を持つものを画面上に並べるようになったのはこの頃からです。
デルヴォーは、これによって「理性的な論理に背く自由を与えられた」と言っています。
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3分でわかるジョルジュ・デ・キリコ 形而上絵画とは? シュールレアリスムの先駆者キリコの人生と作品
3分でわかるジョルジュ・デ・キリコ(2) ニーチェとキリコ キリコの人生と作品
1937年、40歳のデルヴォーは、ローマを訪れ、遺跡に感銘を受けました。さらに、同年シュザンヌ・ピュルナルと結婚しています。
1938年、シュールレアリスム国際展に参加しました。デルヴォーはシュールレアリストに分類されますが、シュールレアリスム運動にはまったく興味がなく、自分の好きなものを並べ、独自の世界を開拓していきます。
1944年、ブリュッセルで回顧展が開催され、映画「ポール・デルヴォーの世界」が制作されました。
1947年、50歳のデルヴォーは避暑地サンティデスバルトを訪れた際、偶然タムと再会しました。二人は5年後に結婚し、生涯を共にします。
1950年、ブリュッセル王立美術学校の教授になります。
1965年、ブリュッセル王立美術学校校長に就任しました。
1979年、王立アカデミー会員となりました。
1982年、ポール・デルヴォー美術館を開設しました。
1986年、最後の油彩画「カリュプソー」を制作、この頃はほとんど盲目状態でした。
1889年、最愛のタムが死去。
1994年、94歳で亡くなりました。
では、明日はデルヴォーの2回目です。最近、つい画像が多くなり、ライブドアブログのブログ快適度が0点になってしまいました。なので、3回くらいに分けないとダメかもしれません。
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シュールレアリスムの系譜(1) シュールレアリスムの歴史と手法 ダダからシュールレアリスムへ
シュールレアリスムの系譜(2) シュールレアリスムの主要画家リストと詳細記事へのリンク・リスト
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