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 ロマン主義 ロマン主義とは? ロマン主義の画家たち


 
今回は
19世紀イタリアのロマン主義を代表する画家フランチェスコ・アイエツ(Francesco Hayez 1791−1882)です。アイエツは、情緒的で感傷的な場面を写実的に描画しました。彼は、写実的な作品の制作の際に写真を使っていたことでも知られています。
Self-Portrait
Francesco Hayez1

The Meditation (1851)
アイエツ4
アイエツ5
Ruth (1835)
Samson and the Lion (1842)
Reclining Odalisque (1839)
Odalisque (1867)
Woman after Bath (1859)
Ballerina Carlotta Chabert as Venus (1830)
 アイエツの代表作は1859年制作の「接吻」(下)です。この絵はミラノ貴族のアルフォンソ・ヴィスコンティ・デ・サリシュート伯爵によって依頼されました。

 この作品では、隠れた恋人同士と思しき男女が熱烈なキスを交わしています

 男性は左足を階段にかけた安定した構図となっており、女性は男性にしなだれかかる状態になっています。この構図のために、男性の大胆さと女性の男性に対する熱愛度が伝わってきます。
 さらに、左右に広がる影が不安感を煽ります。
The Kiss (1859)
 この絵の描かれた1859年はイタリア独立戦争の真っ最中です。この絵は男女の接吻を描いているだけではなく、フランス(青い女性)とイタリア(赤い男性)の密約(プロンビエールの密約)の隠喩であるとも言われています。

 イタリアは476年、西ローマ帝国の滅亡後、多くの小国に分裂してしまいました。その後も、各国さらには、それらを取り巻く列強国の思惑も絡み、19世紀まで統一されることはありませんでした。

 19世紀初頭、ナポレオンの侵攻により、イタリア半島はフランス直轄地とナポリ王国、イタリア王国に分けられることになりました。
 ナポレオンは、養子のウジェーヌ・ド・ボアルネにイタリア王国を任せ、さらに、ナポリ王国は兄のジョセフ・ボナパルトを王位につけました(後にジョアシャン・ミュラ)。
イタリア
 ナポレオン体制崩壊後、ボアルネはオーストリアに寝返り、イタリア王国はオーストリア支配下になってしまいます。

 ナポリ王国を支配するミュラは、イタリア統一を旗印に(とは言っても本人はフランス人ですが)、オーストリアに宣戦布告するもあっさり撃破され、かつてヨーロッパ全域に名を馳せたミュラ将軍もあっけなく処刑されてしまいました。

 その後、イタリアはオーストリアが直接もしくは間接的に統治する十数の小国に戻ってしまいます。


 しかし、1820年代から30年代になると、ヨーロッパ各地で革命が起こり、民族主義が盛んになってきました。イタリアでも1820年頃から独立と統一の機運が盛り上がり、各地で革命が勃発しますが、ことごとくオーストリア軍に鎮圧されてしまいました。

 1848年、ヨーロッパ各地で革命が起き、ウィーン体制が崩壊してしまいます。イタリアでは、中部イタリアのロンバルディアで民衆が武装蜂起し、オーストリア軍が撤退してしまいました。

 これを好機と捉えたイタリアのサルディーニャ国は、翌年ロンバルディアを支配すべくミラノに進軍、オーストリアに宣戦布告します。
 この進軍の際に用いられたのが現在のイタリア国旗(緑、白、赤)です。当時はその上にサルディーニャ王国の紋章が入っていました。
イタリア国旗
 もともと、緑、白、赤の組み合わせは、フランス国旗の青、白、赤に由来します。ナポレオンはイタリア侵攻の際にフランス国旗の青を緑に変えて掲げ、軍隊を進めました。
 その後、この旗はサルディーニャ国国旗となり、さらにイタリア統一の象徴となっていきます。

 頑張ったサルディーニャ王国でしたが、結果はオーストリア軍に惨敗、残念ながら祖国統一な果たせませんでした。

 
 敗退したサルディーニャ王国でしたが、1回や2回の失敗で自分たちの野望を諦める気はまったくありませんでした。イタリア統一にはオーストリアが支配しているロンバルディアとヴェネチアが必要です。しかし、自国だけでオーストリアに勝利することは出来ません。

 時のサルディーニャ国首相カミッロ・カヴールは深慮遠謀の末、1858年、フランスのナポレオン3世とオーストリアに対して連合して宣戦布告する密約(プロンビエールの密約)を交わすことに成功しました。

 その結果、サルディーニャ=フランス連合軍はオーストリアに勝利し、1861年、イタリア王国の樹立となりました。下はその当時のイタリア王国旗です。
イタリア王国
 さて、アイエツの「接吻」は
プロンビエールの密約の翌年に制作されています。この絵で女性の青いドレスはフランス国旗の青を暗示しています。緑系の帽子に赤いマントの男性はイタリアを表し、両者は周囲の目を憚りながら秘密協定を結んだところです。

 ただ、当時の力関係から言えば、本当は男性がフランスで、女性のイタリアがしなだれかかっていたという構図のほうが真実に近い気がします。


 ちなみに、アイエツはイタリア王国が成立した1861年にもう一枚「接吻」を描いています。こちらの絵は青いドレスが白になり、イタリア王国国旗を暗示しています。まさに統一されたイタリアを象徴する作品です。
kiss2
 フランチェスコ・アイエツ(Francesco Hayez 1791−1882)は、1791年、イタリアのヴェネツィアの家庭に生まれました。アイエツは5人兄弟の末っ子です。

 アイエツの家庭は貧しかったため、彼は小さい頃に母方の叔母の家に里子にだされました。叔母の夫Giovanni Binascoは大きな商店のオーナーで
裕福でした。彼は美術収集を趣味としており、アイエツは小さい頃から絵に触れて育ちました。

 アイエツは成長とともに画才を発揮し始めます。叔父はそんなアイエツに期待を寄せ、絵画の修復家に弟子入りさせました。

 その後、アイエツは画家Francisco Magiottoに弟子入りし3年間学ぶと、1806年、15歳で美術アカデミーに入学、Teodoro Matteiniに師事しました。

 1809年、18歳でベネツィア・アカデミー主催の絵画展で受賞し、ローマの聖ルカ・アカデミーで1年間学ぶ権利を得ると、そのままローマで5年間を過ごします。
 アイエツはローマでアングルやカノーヴァの影響を受けました。

 1814年、アイエツはナポリ王
ジョアシャン・ミュラの招きでナポリを訪れ、「アルキノオスの法廷にいるユリシーズ」を制作しました。

 ジョアシャン・ミュラはナポレオン軍の将軍でしたが、ボナパルトの妹カロリーヌと結婚し、ナポレオンの兄ジョセフ・ボナパルトの後を継いで1806年にナポリ王になっています。一方、ジョセフはスペイン王ホセ1世となりました。

 ナポリ王のミュラは先述したようにナポレオン失脚後、オーストリアへの戦争を画策し処刑され、ジョセフは1813年に王位を剥奪されて国外追放となりました。

 1820年、29歳のアイエツはロンバルディアの中心地ミラノに移ります。その後、彼は91歳で亡くなるまでミラノで過ごし、
王宮の天井装飾や肖像画の制作を行いました。
 また、1850年にはブレラ美術館館長に任命されています。


 先述したようにこの頃のロンバルディア地方はオーストリアの支配下にありました。

 ロンバルディアでは1820年以降独立の気運が高まり、40年代後半には蜂起した民衆が革命を起こし、一時は臨時政府を樹立しました。
 しかし、オーストリアの進軍によりあえなく独立の夢は潰えてしまいました。

 1858年、イタリアはフランスとの秘密条約締結によって独立への一歩を大きく踏み出し、1861年、アイエツが70歳の時についに独立を勝ち取ったのです。
 ミラノとヴェネチアはイタリア独立の要と言われていました。ヴェネチアで生まれ、ミラノの動乱の中で生涯のほとんどを過ごしたアイエツにとっては、独立は長年の夢でだったのでしょう。

 1882年、アイエツは91歳でその生涯を閉じました。

 では、アイエツのその他の作品です。
Crusaders near Jerusalem (1836–50)
Destruction of Temple of Jerusalem (1867)
Meeting of Esau and Jacob
New Favorite in Harem
Refugees of Parga (1831)
Scene from Byron's Drama The Two Foscari
Sicilian Vespers scene 1 (1821–22)
Sicilian Vespers scene 3 (1821–22)
アイエツ6
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