2017年12月14日

【日本の近代】福田歓一『近代の政治思想』を読む 第3回


前回の続きです。


3 コメント

 いつの時代も、近代はオワコンというようなことを言う人がいるけれども、オワコンと言われているうちは終わってなどいないし、本当に終わってしまえばオワコンだなどとわざわざ言う人もいなくなる。少なくとも今後数十年は近代は終わらない。
 イデオロギーの終焉というのもそうで、狭い意味でのイデオロギーはもう流行らないかもしれないけれど、広い意味では人間は何らかの思想を持って生きているのであって、例えば自由主義や民主主義といったものは現代の日本人の中にもはっきりと生きている。くすのき歴史クラブでは、野原ライちゃんが近代の終焉とかイデオロギーを捨てようとか言っているけれど、それを推し進めると、また一つのイデオロギーになる。

 それとは別に国際政治の世界は、国内政治と違ってイデオロギーで考えるべきではない。確かに国際政治でもイデオロギーの問題はあるけれども、大抵の場合はパワー・ポリティクスの道具に過ぎない。特にリアリストはそう考える。ただ、福田歓一が言っているように軍事力は単なる物理力ではない。イデオロギーの中で、国際政治に関わる唯一の例外と言っていいのがナショナリズムで、近代史の中でナショナリズムが有るか無いかで軍事力は大きく変わった。それとナショナリズムがなければ「国家」が成立しないから、権力者の権力闘争しかないことになる。戦争という概念はナショナリズム以前と以後で全く変わってしまった。

 イスラム教徒は連帯感が強いことで知られている。その理由は、コーランという一種の歌の存在だろう。どの宗教にも歌はつきものだが、イスラームの場合はコーランという啓典そのものが歌のように読まれている。ところが、日本の宗教には歌が全然ない。神道の儀式で人々が合唱するところは想像がつかない。お祭りで「そいやっ! そいやっ!」みたいな掛け声があるが、そのくらいだろう。近代日本では文部省唱歌や軍歌が宗教歌のような役割を担った。
 そこで、ナショナリズムが果たして連帯と言えるのかどうか。国民が一丸となって取り組むものといえば、戦争があった。戦争とは、変な言い方をすれば民族の祭典であった。オリンピックなどは大して連帯感を生まない。日本代表を応援するより自分の学校の野球チームを応援するほうが連帯感を感じられる。また、君が代は神聖なものだが、お祭り意識とは程遠い。それよりも自分の学校の応援歌のほうがお祭りという感じがする。要するに、応援するなら国家レベルよりも学校や会社だというわけだ。連帯は人数が少ないほど深いものとなる。イスラム教徒の場合はメッカ巡礼で様々な人と顔を合わせる。ところがオリンピックなどはテレビで観るだけだから連帯感も何もない。戦争なら何らかの形で動員されるし、地元のスポーツなら実際に会場に行って応援する。テレビやネットだけで連帯感が生まれるはずがない。
 したがって、戦争がない時代にナショナリズムが実感を伴うことは考えにくい。ナショナリズムは危機に比例して大きくなる。このことは日本における黒船来航、ドイツにおけるナポレオンの侵略を考えても分かる。


 それから、「暴力装置」という言葉は、素人が聞くと自衛隊を暴力団と同一視するのかなどと言いそうだけども、これはれっきとした政治学の用語であって、国家が独占している正当な暴力のこと(似たような話で、天皇機関説について、当時の一般人の中には、天皇は機関車ではないと言う者もいたという)。合法的・物理的強制力と言ってもいい。正当防衛を除けば、自衛隊や警察が合法的に用いる以外の暴力は全て違法行為。逆に言えば死刑は殺人じゃないし、懲役刑は監禁じゃない。
 国家権力とは物理的強制力(暴力装置)を持つものであり、精神的強制力である権威とは大きく異なる。権威は宗教との関連が深く、日本では天皇など。権威は暴力装置と異なり、対象者が権威を権威として認める場合にのみ存在し得る。権力は、天皇や日本国憲法といったものから正統性(権威)を付与されて初めて有効に成立するのであって、もしそれがなければ暴力でしかない。また、憲法から明らかなように、権力の源泉は国民である(ヴェーバーの用語で合法的支配)。天皇は、目には見えない国民を象徴している。ここに言う国民とは歴史的国民(ナシオン)である。
 天皇は、神武創業、明治維新、及び終戦の御聖断においては「カリスマ的支配」(ヴェーバーの用語)の主体であった。しかし、これはあくまで例外的な状況である。天皇は、いわば潜在的カリスマである。天皇と国民が有する主権は、普段は憲法に従って作用する。しかし、憲法が完全に停止すると、国民は何らの組織も持たないため(国民という名前の組織は存在しない)、天皇のほかに主権を行使できる存在がいなくなる。もちろん、憲法の完全停止は戦後一度も起こっていないように、極めて珍しいことである。
 権威主義というのは、お上に全てお任せするというパターナリズム(家父長制的)の政治体制を指す。徳川幕藩体制も権威主義だが、徹底的な独裁・専制である全体主義とまでは言えない(幕藩体制における社会統制は時代により大きく異なる)。全体主義は究極の権威主義である。
 なお、近代日本と、上に挙げた「カリスマ的支配」を除く期間は、「伝統的支配」であった(前近代的な永遠の昨日)。もっとも、聖徳太子、天智天皇、天武天皇、源頼朝、豊臣秀吉、徳川家康などの政治も「カリスマ的支配」である。カリスマは日本社会の大転換を行うものであり、逆に言えばそれが起こらないかぎり真のカリスマとは言えない。また、カリスマは戦争とも関連が深い。神武天皇と神武東征、聖徳太子と物部氏の戦争、天智天皇と乙巳の変、天武天皇と壬申の乱、頼朝と源平合戦、明治天皇と戊辰戦争、昭和天皇と大東亜戦争。ところが、昭和天皇だけは敗者である。ここに、昭和天皇の奇蹟がある。天皇の本質が英雄であれば、敗北は死を意味する。しかし、天皇は神であり、不滅である。

 国家権力は国内の暴力を独占しているけれども、国際社会にはそういうものは存在しない。つまり全ての国家が権利においては全く対等に暴力を所持していて、行使できる。もしこういうアナーキーが国内社会に存在したら、そこにはもはや国家はない。国際社会はそのようなアナーキー世界になっている。だからこそ国際法は慣習法としてしか成立しないし、国際政治は剥き出しのパワー・ポリティクスとなる。
 それと軍隊を統制する思想というのも確かに重要で、戦前の日本では、あれだけ軍人は政治に関わらずと天皇から言われていたにもかかわらず、天皇の統帥権とか言って拡大解釈して政治に関与していき、軍隊を統制するどころか軍隊が政治を統制するところまで行ってしまった。ここで軍隊をコントロールするのに必要なのはまさに思想であって、私たちの改憲案でも念のためクーデターを防ぐための規定を設けている。

 マキャヴェリの考える政治というのはリアリズムな政治なんだけども、そこに秩序がしっかりと構築されるとすれば、それはネオ・リベラル制度論と同じような考え方ということになる。これはゲーム理論とも同じことで、個々のアクターは利己的なんだけども、自分の利益を守るには何らかの秩序や制度に従うほうがよいのだというような。個人の悪徳は全体の美徳(これは別に制度に限らず、それぞれが勝手に贅沢するというようなことも含まれるけど)。


 人間は全て平等であるというのは、宗教改革によって人間は全く無価値だとされたことによる。ただ、宗教的には予定説によって救われる者と救われない者の二分法があるのだが、それは現実世界とは全く関係なく、内心の問題である。国王とか貴族とか庶民とかの違いはない。

 前編の注11にあるような、ルソーの「自由への強制」論は、カントを彷彿させる。カントが人間と動物を区別したことは、日本を含む東洋思想でも常套句であるが(例えば松陰)、カントの「自律」は明らかに極端であり、理性信仰に等しい。フランス革命においては「最高存在の祭典」というカルトにまで発展する。これと比べると日本人が重んじるのは「自然」と呼ばれる。そこでは人間と動物の差異は比較的小さい。特に神道において、そうである。
 理性、自律、人民主権、一般意志などの概念は、極めて危険である(もちろん通俗的な意味での理性や自律には問題はないが)。権力制限という意味での自由と、抽象的・哲学的な自由とは、全く異なる概念である。古典的な自由主義は、もちろん権力制限という意味である。消極的自由、権力からの自由ともいう。消極的自由と積極的自由は、全く異なる概念なので、同じ言葉で呼ぶことがおかしい。
 経験論に基づくホッブズやロックがあくまで政治学の問題を考えていたのに対して、ルソーは観念論に基いて政治学に哲学を混入させた、と言ってよいのではないか。今日でも、ただ哲学という場合と、政治哲学・法哲学・倫理学という場合には、内容に大きな違いがある。ニーチェやサルトルのような哲学は、人生においては有用かもしれないが、政治には必要ない、いや有害ですらある。政治は価値中立的であるべきなので、それは個人で言うところのニヒリズムでいいというわけだ。ニヒリズムを超越する具体的な価値観は政治が追求すべきものではなく、個人がそれぞれ考えれば済むことだ。

 原始的な宗教であっても極めて人間的であるということについては、神話の話で触れたとおり、神話とは非自然である、人間的なものである、文化的なものである、ということ。おそらく人間は極めて最初の段階から宗教を持っていて、人間的な営みに意味を与えてきた。それと同じことは今日でも当然ある。
 伝統宗教を破壊すると、フランス革命や共産革命から分かるように、カルト宗教や独裁者崇拝に繋がり、恐怖政治や大虐殺も起きる。だから宗教の破壊は決して人間の解放にはならない。アノミーが発生するだけだ。

 中世ヨーロッパは全体が一つのキリスト教共同体だったということだけど、日本では歴史を通して全体が一つの天皇共同体だった。それは中世でもそうだし、江戸時代になると特にそういう観念が強かった。それは日本書紀を読んだって、平家物語でも太平記でも、能でも歌舞伎でも、天皇が出てきて、日本の象徴的権威だったから。おかげ参りもそうだし、忠臣蔵も最初にあるのは勅使を迎える場面。尊皇思想の歴史については和辻哲郎『尊皇思想とその伝統』(全集 第14巻)が詳しい。

関連記事
室町時代の尊皇精神 【平泉澄『物語日本史』を読む】 第49回

 日本の中世と近世の違いについては以下の記事を参照。日本と西欧ではもちろん違いがあるけれども、似ているところも多い。

織田信長公・豊臣秀吉公と日本の近代 【物語日本史】第50回


次回に続きます。





↓松子「読んでくださり、ありがとうございます! 応援、よろしくお願いします! コメントもお気軽にどうぞ」↓


にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

このエントリーをはてなブックマークに追加


kokoku2700 at 19:00|Permalinkコメント(0)日本の近代 | 書籍