【海戦メモ】スラバヤ沖海戦・バタビア沖海戦【近代史】奇跡の指揮官 木村昌福提督 第2回

2015年07月25日

【近代史】奇跡の指揮官 木村昌福提督 第1回


松子「今回から5回にわたって、大東亜戦争において大活躍された海軍中将・木村昌福(きむら・まさとみ)提督をご紹介したいと思います。将口泰浩『キスカ 撤退の指揮官』をもとに伝記をまとめた後、最終回は映画『太平洋奇跡の作戦 キスカ』をご紹介します」 注1

優希「カイゼル髭が印象的な、通称、ショーフクさん。映画や艦これでも有名だけど、キスカ島撤退作戦だけじゃない! 真に偉大な帝国軍人!

松子「ケ号作戦(キスカ島撤退作戦)については、まさに奇跡、天佑神助としか思えません。そしてそれは、木村提督の人徳のなせるわざであったのだと思います。運命を味方につけた真の英雄、その生涯を追っていきます

優希「ショーフクさんは、楠木正成公と吉田松陰先生と乃木希典大将とヤン・ウェンリー提督を合わせたような理想的人物。全ての日本人が、平和国家日本のためにショーフクさんから学ぶべき! 以下の『当たり前』のことを実際に出来る人物は少ないと思う」

木村は指揮官として注意すべき三つの条件を挙げている。
・ただ無理矢理突っ込むのは匹夫の勇。敵を知り己を知ることによって初めて真の戦ができる。
・「危険なことはおれがやる」という部下を思う至情と、指揮官先頭の気迫と責任感が必要だ。
・部下が迷ったときには指揮官として何らかの指示を与え、自分の立場、自分の責任を明確にすべきだ。
(p. 12)


1, 誕生~海軍兵学校

松子「木村提督の生誕の地は、静岡県静岡市紺屋町、静岡駅すぐ近く、小梳神社すぐ西の家でした。1891年11月26日生まれです。母方の鳥取藩士・木村家の養子となっており、祖父は俳人でした。木村提督御自身も、書道や漢詩など芸術に秀でた人でした

優希「ショーフクさんが生まれた1891年11月26日、その日には第2回帝国議会の開会式があったんだって。世はまさに立憲政治に足を踏み出し、日本が近代国家として急成長し、日清・日露戦争に向かっていく時代。その開会式で明治天皇が仰せられた『帝国の隆昌と人民の幸福』にちなんで、昌福という名前が付けられたんだって」

松子「その名に相応しい立派な人物です。木村提督のご両親はいずれも気骨ある人物で、実父は代言士(弁護士)をしており、政治活動も行っていました。実母は東京女子師範学校(お茶の水女子大)第一期生で、時代の最先端を行く男勝りの女性。女性教育者のはしりで、『さすがは明治の教育家にふさわしい、優しさのなかに厳しさを備え、重厚味のある立派な婦人』(p. 17)と評されていました」

優希「そんなご両親の下で育ったショーフクさん、静岡中学校(静岡高校、現在でも県内トップ)に進学。その通学ではおそらく駿府城の近くを通ったはず。柔道部(柔道二段)や弓道部の猛者で、『普段はのんびり構え、落ち着き払っていた』(p. 22)、弁論大会では『忍耐』という題で話をしたショーフクさんは、『海道一の弓取り』と称された今川義元や徳川家康の如き慎重さと勇敢さを兼ね備えていたんだね」

松子「1910年春に中学を御卒業されると、江田島の海軍兵学校に進学されました(41期生)。木村提督の兄も弟も海軍兵学校に入りましたが、現在で言えば東大です。倍率は25倍以上。東京帝国大学、陸軍士官学校、海軍兵学校が日本の超エリートとされていました。現在も江田島には海上自衛隊の学校があります」

優希「有職読みの『ショーフク』で親しまれた木村中将、相変わらず柔道が強く、寛容で後輩にも人望厚かった。コセコセせず、志士の風格を持ったクラスメートでしたね』(p. 38)と言われた。入学から3年、1913年12月に卒業。ハンモックナンバー(成績)は118人中107番だった。中学時代から成績はあまり良くなかったみたいだけど、海軍兵学校に合格したあたり、勉強嫌いで定期試験に弱く模試や入試に強い天才肌かも?」

松子「海軍兵学校41期の留魂碑には以下の文句があります」 注2

我々は生は時と所を異にするも、ともに志を同じくして、江田島に集まり、死生を誓い生涯同じ道を進む者、死後は魂の故里、江田島に集まらん(p. 39)


2, 大東亜戦争始まる

優希「ショーフクさんは少尉候補生となり、装甲巡洋艦『浅間』に乗艦。1914年7月、米国への航海からの帰途、キスカ島南方150海里、濃霧の中を通過。その直後、第一次世界大戦が勃発。8月、装甲巡洋艦『八雲』に乗艦し、青島攻略作戦に参加。それにより勲六等瑞宝章を授与される」

松子「一等海防艦『相模』、防護巡洋艦『須磨』、南洋群島防備隊(パラオ)、戦艦『三笠』を経て、砲艦ブリヤットに乗艦され、尼港事件後の尼港へ向かいました。若い頃の木村提督は第一次大戦やシベリア出兵で経験を積まれたのですね。1920年12月、大尉に昇進され、第二艇隊艇長兼海軍水雷学校教官となられました。第二艇隊は横須賀防備隊の水雷艇4隻からなり、その内の白鷹・鴎の艇長となったそうです」

最後まで、木村はこう言ってはばからなかった。「おれは水雷屋だぜ」
(p. 63)

優希「よっ、水雷屋! 1939年、給油艦『知床』艦長時代、三宅島を通過する際に、乗員に三宅島出身者が居たので、わざわざ停泊して両親を艦に乗せてあげたんだって。部下思いのショーフクさん」

 人をほめて自慢は決してされず、ぼつりぼつりと何気なく話される罪のない失敗談がどんなにそれを聞く者の気持ちを快いものにするかを強く印象付けられた(浅井秋生)
 いつも泰然としておられ、こまごまとしたことに口を出されたことを見たことがなく、しかも大事なことは「こうしたら、どうか」と述べられる程度で、決して「ああしろ、こうしろ」とは言われなかった(細谷宏)
(pp. 67-8)

松子「1923年9月1日正午頃、関東大震災が起きました。土曜日でみんな帰宅していました。しかし、木村提督は急いで港に戻り、水雷艇『鴎』に乗船し、活動を始めました

「士官の多くは上陸の途にあり、平素、優秀と目された者がそのまま、帰宅した。ことがあってこそ、平素の心構えが表れるところである」(p. 69、草鹿龍之介)

優希「1924年のこと、海軍大学校入試の勉強のため、みんなで草鹿龍之介の官舎に泊まり込んだんだって。ショーフクさんのほかには橋本信太郎、大森仙太郎などがいて、せっせと勉強していた。だけど論文提出締め切りの朝、論文が完成していないのにショーフクさんはのんきに将棋を指していたんだって」

あんまりコセコセ学問しないものだから、甲種(海大)に入らずに終わりましたが、決して頭は悪くなかった。(p. 72、保科談)

優希「きっと頭が良いのに学校の勉強が嫌いなタイプだね。海大に落ちたから自分は大佐止まりだと考えていたみたい。ショーフクさんは1922年5月に結婚。翌年、鎌倉・扇ヶ谷に家を建て、祖父の戒名から秋草庵と呼んだそう。このあたりには、鶴岡八幡宮や源頼朝の墓、葛原岡神社と日野俊基の墓、建長寺、円覚寺、鎌倉宮と護良親王の御陵などがあるよ。武士道と尊皇の聖地だね!」

松子「1939年1月、特設工作船『香久丸』艦長時代、海南島攻略作戦に参加されました。その時、部下が油田を発見したので『天皇陛下万歳 我れ油田を発見す』との電報を打ったのですが、実はこれはドラム缶から油が流出していただけでした。そして1940年11月、鈴谷艦長となります(この時大佐)」

優希「なんか、ヌメヌメするぅ! そうか、航空巡洋艦に載せたドラム缶から油がこぼれてヌメヌメしてたんだ。ああ素晴らしき甲板ニーソ」

松子「はいはい。あと鈴谷は重巡洋艦です。11月20日朝、呉を出航。1941年12月2日夕方、海南島三亜にてマレー作戦準備中だった鈴谷は、『ニイタカヤマノボレ』の電報を受信しました。これを木村提督が艦内放送で発表したところ、歓声が起きたそうです。もっとも、大東亜戦争を望んでいたのは将兵のみならず、全国民が連合国の圧迫に憤激していたのでした」

優希「鈴谷は、熊野を旗艦とする第七戦隊(司令官:栗田健男少将)に所属。さらにそれは、南遣艦隊(馬来部隊)(司令長官:小沢治三郎中将)に所属していて、第七戦隊は護衛隊本隊だった。第11駆逐隊の『初雪』を先頭に、12月4日朝、三亜を出航。南遣艦隊は輸送船18隻に陸軍約2万人を輸送していた

百錬持満数千隻皇師
艨艟将雄発
昭和辛巳晩秋 昌堂
(p. 93、皇師=皇軍、艨艟=軍艦)

松子「12月8日未明、次の電文を受信しました。『皇国の興廃かかりてこの征戦にあり 粉骨砕身各員その任をまっとうすべし』 そして真珠湾攻撃に先駆けて、山下奉文中将率いるマレー上陸作戦が始まったのです。皇軍はマレー半島東岸コタバルに上陸を開始します。アジア・太平洋の大戦争が各地で始まり、真珠湾攻撃やマレー沖海戦も起きました。緒戦で米英軍は壊滅状態に陥りました」

奇襲剿滅布哇州
邀撃覆没馬来沖
劈頭震駭満天下
安知百練期此秋
(p. 96、布哇=ハワイ、安知=いずくんぞしらん、期此秋=このときをきす)

松子「ということで次回に続きます。物語はいよいよキスカ島撤退作戦に移ります」

優希「帰ろう。帰れば、また来られるからな」


現在は、将口泰浩『キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯』(新潮文庫)として出ています。


同期には、
秋山輝男中将(木村提督の後、三水戦司令官となりクラ湾夜戦で新月にて戦死)
橋本信太郎中将(木村提督の前の三水戦司令官などを務め、最後は第五戦隊司令官としてペナン沖海戦で羽黒にて戦死)
草鹿龍之介中将(一航艦参謀長、連合艦隊参謀長など)
田中頼三中将(二水戦司令官など、ルンガ沖夜戦で有名)
大森仙太郎中将(一水戦司令官など)
よく考えると大戦時の水雷戦隊司令官が多いですね。その中でも木村提督は第一・第二・第三水雷戦隊の司令官を歴任されました。本当にご苦労様でございました。ちなみに、草鹿龍之介にすき焼きを奢らせたエピソードが出ています。仲が良かったみたいですね。


↓松子「いつもありがとうございます! 応援、よろしくお願いします! コメントもお気軽にどうぞ」↓


にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

このエントリーをはてなブックマークに追加


トラックバックURL

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

【海戦メモ】スラバヤ沖海戦・バタビア沖海戦【近代史】奇跡の指揮官 木村昌福提督 第2回