【近代史】奇跡の指揮官 木村昌福提督 第1回【近代史】奇跡の指揮官 木村昌福提督 第3回

2015年07月26日

【近代史】奇跡の指揮官 木村昌福提督 第2回


松子「前回から5回にわたって、大東亜戦争において大活躍された海軍中将・木村昌福(きむら・まさとみ)提督をご紹介しています。将口泰浩『キスカ 撤退の指揮官』をもとに伝記をまとめた後、最終回は映画『太平洋奇跡の作戦 キスカ』をご紹介します」 注1

優希「前回は誕生から大東亜戦争開戦までだったね。今回はいよいよキスカ島撤退作戦に突入するよ


3, 重巡洋艦「鈴谷」の活躍

松子「木村提督が艦長を務める鈴谷は、緒戦でマレー作戦の南遣艦隊に所属し、山下奉文中将率いる陸軍の輸送を行ったのでしたね。その後、鈴谷は陸軍をビルマに輸送するなどしていました。そして1942年4月上旬、南雲機動部隊(第一航空艦隊)がセイロン沖海戦を戦っている頃、ベンガル湾の通商破壊に参加しました」

優希「第一南遣艦隊は多くの商船を撃沈! この時、消費弾薬が熊野と比べて半分くらいだったんだって。鈴谷は艦長も乗員も優秀! 艦長が褒め上手なら、乗員も褒められて伸びるタイプなんです!」

松子「はいはい。この時ですが、なるべく相手にも犠牲が出ないように努められたそうです。輸送船から乗員が退去したのを確認してから沈没させています。敵がボートで逃げようとしている時には、『撃っちゃいかんぞお』と叫んで味方を止めています」

「たとえ戦意を喪失した者や非戦闘員であっても、戦場で敵側の命を守るために、身を挺してその前に立ちはだかるなど、ふつうの人間にできることではない
「艦長の非戦闘員に対する配慮に深く敬服した
(pp. 104-5、運用長や水雷長)

優希「武士の情け。戦争とは、国家の政治的・戦略的目的を達成するためにあり、そのためには敵味方ともに被害は最小にしなければならない。孫子以来、兵法家の王道。でも、実践できる人は少ないんだよねえ」

松子「ミッドウェー海戦では第七戦隊は、第二艦隊(ミッドウェー島攻略部隊)の支援隊(輸送船団護衛部隊)に属していましたが、ミッドウェー島砲撃を命じられ、接近したところで中止となりました。そこで反転・退避するのですが、敵潜水艦を発見して回避しようとした際、最上と三隈が衝突します。熊野と鈴谷はそのまま帰投しますが、三隈は撃沈されました」

優希「空母4隻を失い、さらに僚艦の三隈沈没、最上大破、ショーフクさんの胸中如何。第七戦隊は二艦のみとなって(後年、第八戦隊の利根・筑摩が合流)、司令官は栗田健男中将から西村祥治少将に交代(ともにレイテで有名)」

松子「1942年夏から秋、空母機動部隊同士の決戦である、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に、第三艦隊(南雲中将の機動部隊)メンバーとして参加しています。南太平洋海戦では鈴谷に敵雷撃機9機が来襲。左右から挟撃され、航海長はどうしていいか判断に迷いましたが、

「私は間髪入れずに『真っ直ぐに行け』と命令した。われながらうまくいったと今でも思う。直進すれば、回避できるとは思っていなかったが、信頼する部下が迷ったときは、艦長として何らかの指示を与えて、自分の立場、自分の責任を明確にすべきだと思った」(p. 120)

松子「艦長の英断もあってか、魚雷全部の回避に成功します。それから数日後、少将に昇進。自分は大佐止まりだと考えていた木村提督は、大変嬉しがったそうです。1942年11月13日(第三次ソロモン海戦の第一夜戦と第二夜戦の間)、重巡摩耶とともにガタルカナル島のヘンダーソン飛行場を艦砲射撃しました

優希「ショーフクさんは松陰先生や乃木将軍と同じ精神を持っていて、下士官や若い水兵に対しても分け隔てなく接したんだって

「精神棒はよくないぞ。棒で叩くのは馬と同じじゃないか」
「一度言ってわからないときは二度でも三度でも言う。心を込めて教えれば、どんな人間でもやるようになる。といっても甘やかせというのではない。いつも威厳を持っていなければならない」
いつも愛情を持ってやれ。いまは平時ではなく戦時だ。いつどのようになっても一緒に笑って死ぬことできるように。摩擦を起こしてお互いに恨みを抱くようではいい死に方ができない」
(p. 141)

優希「足腰が痛かったので、従兵にお灸をすえてもらった時、こんな冗談を」

「本艦で一番偉いのは従兵だな。艦長に灸をすえるのだから」(p. 142)

松子「2年以上を鈴谷艦長として過ごされた木村提督でしたが、横須賀鎮守府出仕となり、1942年11月25日、鈴谷を退艦されます

「総員帽振れ」の合図で乗員が一斉に帽を振る。このとき、ボートに乗っていた木村が突然、「鈴谷万歳」と叫んだ。艦上からも「鈴谷万歳」「鈴谷万歳」「鈴谷万歳」がわき起こった。(p. 142)

優希「鈴谷万歳! 鈴谷万歳! 鈴谷万歳!」

松子「それ、艦これのほうじゃありませんよね?」

優希「うっ……若干混じってるかも。ともかく、ショーフクさんと鈴谷乗員、きっと親子の別れのような名残惜しさがあったに違いないよ。そんな鈴谷は、後にレイテ沖海戦に参加し、敵航空機の攻撃を受けて大爆発を起こし沈んでいった。大日本帝国海軍の終焉の時……」

松子「開戦から約1年間、鈴谷が最も活躍した時期の艦長が、木村提督だったのですね」


4, 第八十一号作戦(ビスマルク海海戦)

松子「1942年12月5日、舞鶴海軍警備隊司令官兼舞鶴海兵団長となられます。海軍警備隊は舞鶴鎮守府を守るもの。海兵団は新兵の学校のようなものです。つまり、舞鶴鎮守府を守りながら新兵の教育に努められました。木村提督は教育家に適任の人物で、『個性指導に留意すること極めて必要』とお考えでしたが、約2ヶ月後の1943年2月5日、第一艦隊司令部付きとなり、第三水雷戦隊司令官に就任しました

優希「そこで最初に与えられた任務が『第八十一号作戦』(ラバウルからニューギニアへの輸送作戦)だった。ラバウルに到着した時には、既に作戦協議が終わっていたんだって。第八艦隊参謀(神重徳大佐)が『全滅覚悟でやってもらいたい』と言った無謀極まりない作戦

松子「1943年2月28日夜、輸送船団はラバウルを出航しました。白雪を旗艦とせる駆逐艦8隻の第三水雷戦隊、輸送船8隻からなる船団は、3月2日朝、敵航空機の攻撃を受け輸送船1隻が沈没します。そして運命の3月3日、敵航空機の大編隊が来襲、ミッドウェー海戦とは逆で直掩の零戦は高度を上げて戦いましたが、その隙にB-25爆撃機やA-20攻撃機が低空で反跳爆撃を行い、旗艦白雪を含む駆逐艦4隻、輸送船全てが撃沈されました

優希「司令官ショーフクさんも機銃掃射により左太もも、右肩、左腹部に被弾して重傷。敷波に移乗し、横になって指揮を執り、救援に来た初雪とともに駆逐艦4隻がラバウルに帰投。結果として駆逐艦4隻、輸送船8隻を失い、陸軍の半数近い約三千名の人命も失われた。ダンピールの悲劇とも呼ばれるビスマルク海海戦は、帝国海軍の完全敗北。第八十一号作戦は完全に失敗した

松子「人命を重んじられた木村提督にとって、果たしてどれほど悔しい作戦だったでしょうか。察するに余りあります。提督は『絶対に内地に帰らない』(p. 146)と仰っていましたが、重傷のため3月6日横須賀鎮守府付きとなり海軍病院に入院、1ヶ月も経たずに三水戦を離れることとなりました。南太平洋での戦いは木村提督にとって不本意な形で終わってしまったのです」


5, 玉砕の島・アッツ島

優希「MI作戦(ミッドウェー作戦)と同時に行われたAL作戦(アリューシャン作戦)で、日本から比較的近い(占守島は日本の歴史的領土だった)、アリューシャン列島西部のアッツ島・キスカ島を占領した。1942年6月6日にアッツ島(熱田島)、7日にキスカ島(鳴神島)」

松子「そこに米軍が反攻作戦を開始したのですね。海上では1943年3月27日、アッツ島沖海戦が起きました。5月12日よりアッツ島守備隊と米軍の戦いが始まり、5月18日、大本営はアッツ島放棄、キスカ島撤退を決定します。5月29日、山崎保代司令官が陣頭指揮を執って敵軍に猛攻撃を加え、玉砕。生存者はわずか1%でした

部隊の長として 遠く不毛の地に入り
骨を北海の戦野に埋む 真の本懐に存じ候
況んや護国の神霊として 悠久の大義に生く決なる哉
(p. 125、山崎保代中将から知人への手紙)

その期至らば、在島将兵全員喜んで一丸となって死地につき、魂魄は永く祖国を守るものと信ず
(pp. 133-4、5月20日山崎保代中将の電信)

敵に最後の鉄槌を下しこれを殲滅、皇軍の真価を発揮せんとす。生きて捕虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり
(p. 134、5月29日夕方の山崎保代中将の最後の電信)

松子「天皇より、玉砕後の誰もいないアッツ島に向け『最後まで良くやった』と打電せよとのお言葉があったという説もあります。こうしてアッツ島は、最初の玉砕の島として、その悲壮な記憶を後世に残したのでした


6, ケ号作戦(キスカ島撤退作戦)準備

優希「いよいよ『ケ号作戦』(乾坤一擲)が発令! 連日、敵から空襲や艦砲射撃を受けているキスカ島に、潜水艦が救出に向かう。だけど小さな潜水艦では埒が明かない。第一潜水戦隊(司令官:古宇田武郎少将)の潜水艦15隻が撤退作戦を行ったけど、約800名しか撤退させられなかった。それに対して我が方の損害は潜水艦伊7、伊9、伊24の3隻」

松子「そこで、水雷戦隊が濃霧に紛れて敵に気付かれずに撤退を行うこととし、第一水雷戦隊司令官となった木村提督が救出に向かうことになりました。この時、第八十一号作戦とは逆に、第五艦隊司令長官・河瀬四郎中将に次のように言われました」

「木村君ご苦労だが願います。この撤収は容易ならざる作戦であって、敵包囲の中から全員を無傷秘密裏に引き揚げることは激戦死地に飛び込む以上に苦心と忍耐がいる。どうか最後のご奉公のつもりで善謀善処好機を捕捉、これを決行していただきたい」
本作戦は一水戦司令官に一任する
(p. 152)

(それに対し木村提督は)
全部乗艦せしめ得ればあとは根拠地に到着し得ずとも『成功』というべき程の困難なる作戦なり
(p. 158、木村提督の日記)

優希「この作戦も極めて危険で、守備隊の半分を撤収できれば大成功と考えられていたみたい。作戦立案は有近六次先任参謀に一任

「とにかく至急、計画を立ててくれ。まず連れていく艦は何にするか。何を連れていくにも俺は先頭艦に乗って黙って立っているから、後は全部貴様に一任する
「先任参謀、ただひとつ注意しておくが、責任は俺が取るから、決して焦るなよ。じっくり落ち着いて計画し、十分訓練してから出かけることにする。霧の利用期間はまだこれから二カ月もあるんだから」
(p. 153)

優希「ショーフクさんは全て自分でやるワンマンタイプではなく、部下を信頼して一任するタイプだった。だけど、もちろん責任は全て自分で取るし、重大な決断は部下に任せなかった。さて、そこで先任参謀は、気象専門士官の派遣、駆逐艦10隻、その中に最新鋭の駆逐艦『島風』を含むことを要望したんだって。はっやーい! え? 速力じゃなくて最新鋭のレーダーが必要だったって?」

松子「1隻だけ速くても仕方ありません。それよりも濃霧の中で眼の役割を果たす電探・逆探が必要なのでした(地形の把握にも役立つ)。準備は他に、米艦に見せかけるため旗艦の軽巡洋艦『阿武隈』の煙突を一本白く塗りつぶしたり、駆逐艦に偽装煙突を付けたりもしました。効果があるのか不明ですが、できることは何でもやっておこうという意気込みですね。もちろん、濃霧の中での航行訓練、収容訓練も行われました」

優希「ショーフクさんは阿武隈航海士によれば『ヒゲは豪傑でも春風駘蕩のムードがある村長さんみたいな人』(p. 151)だった。だけど、その内側に燃える魂は英雄の気概を備えていた。キスカ島の陸軍司令官峯木十一郎が、敵艦隊に発見された場合は陸軍は撤兵せず敵と戦うと伝えてきたんだって。それに対しショーフクさんは、

「敵艦隊に遭遇したときは援護に任ずる艦隊の主力は撃破に任ずる。しかし、撤収を主目的とする戦隊は一隻でも二隻でもキスカ島に突入させ、一兵でも多くの陸軍部隊の収容に任じたい。海軍部隊は同僚であるから遠慮してもらう
藤井は陸軍を優先すると断言した木村の姿勢に深く感動し、戦後になっても忘れられないと周囲に語っていた。(p. 155)

松子「それともう一つ。作戦を何としても成功させるべく、撤収作業は1時間以内に完了させることを木村提督は決して譲らなかったそうです。そのため、荷物はカバン一つまでとし、通常なら絶対に捨てない武器も放棄すれば、大切な手紙や写真も焼き捨てました。陸海軍はキスカ島守備隊の全てのメンバーの生命を救うべく、一致協力するのでした

優希「1943年7月7日夜、第一水雷戦隊は日本のほぼ最北端・幌筵島を出航、一路キスカ島へ! 次回に続く!」


現在は、将口泰浩『キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯』(新潮文庫)として出ています。


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