【近代史】奇跡の指揮官 木村昌福提督 第3回【映画】太平洋奇跡の作戦 キスカ

2015年07月28日

【近代史】奇跡の指揮官 木村昌福提督 第4回


松子「5回にわたって、大東亜戦争において大活躍された海軍中将・木村昌福(きむら・まさとみ)提督をご紹介しています。将口泰浩『キスカ 撤退の指揮官』をもとに伝記をまとめた後、最終回となる次回は映画『太平洋奇跡の作戦 キスカ』をご紹介します」 注1

優希「前回はキスカ島撤退作戦だったね。今回はいよいよ逝去までのお話だよ!」


9, 礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)

松子「1944年10月、木村司令官率いる第一水雷戦隊(旗艦阿武隈)は、レイテ沖海戦に参加しました。スリガオ海峡に向かった、志摩清英中将を司令長官とする志摩艦隊の一員でした。10月25日、スリガオ海峡付近で敵魚雷艇の雷撃が阿武隈に命中、一水戦司令部は霞に移乗します。その後(26日)、阿武隈は空襲で沈没。志摩艦隊も混乱のため帰投しました」

優希「真珠湾攻撃以来、大活躍を続け、最期は坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と運命を共にした歴戦の武勲艦『霞』 キスカ島沖で壊滅した第18駆逐隊の霞と、キスカ島撤退の指揮官・水雷屋ショーフクさん、その不思議な出会いだった」

松子「第二次・第四次多号作戦(レイテ増援輸送作戦)では霞を一水戦旗艦として木村提督が座乗されています。どちらも成功に終わりました。そして1944年11月20日、一水戦は解散し、木村提督は第二水雷戦隊司令官となりました」

優希「12月15日、米軍はフィリピン・ミンドロ島に上陸。そこに巡洋艦2隻・駆逐艦6隻の計8隻の挺身部隊が突入する『礼号作戦』発令。やはり制空権がない中、危険極まりない作戦だった」

艦隊司令部はヒゲが三本足りないな」(p. 214)

松子「木村提督は旗艦にやはり霞を指名しました。巡洋艦の足柄や大淀ではなく、歴戦の駆逐艦というところが、水雷屋の面目躍如ですね」

僕は駆逐艦乗りだよ。ひょろ長い水雷艇の時代から水雷屋なんだ
(p. 214)

優希「ある霞乗員が言うには、司令官はどうせ死ぬなら駆逐艦で死にたいと考えたのだろうって。でも、天はショーフクさんに味方した。12月24日朝、カムラン湾(ベトナム)を出撃、26日夜、敵機来襲、大淀被弾、清霜が雷撃を受け沈没してしまう。それでも艦隊はミンドロ島に到達し、敵艦船や地上施設へ攻撃を敢行、27日未明、反転帰投」

松子「帰投する途中、霞と朝霜が清霜救助に向かいます。敵の制空権下、機関を停止し、司令官自ら双眼鏡を覗きこんで、できるだけ多くの乗員を救助しようと努めます。その結果、多数の乗員を救出し、艦隊は帰投することが出来ました。礼号作戦は敵輸送船1隻撃沈、数隻損傷の損害を与え、我が軍は清霜を喪失しました。大局に影響を与えることは出来ませんでしたが、帝国海軍の駆逐艦が雷撃を成功させた最後の戦いであり、帝国海軍が勝利した最後の海戦となりました

優希「ちなみに、最後の水上戦闘と言われるペナン沖海戦で戦死された第五戦隊司令官・橋本信太郎中将は、ショーフクさんの同期ね」 注2

本年は元旦極北幌筵、歳末は南溟に、
この間いくたの戦友僚艦を失いつつ
抵抗を続けたるも一退また一退
いまだ曙光見えず
明年はさらに堅忍持久不撓不屈頑張らむ
願わくば神明鑑をたれたまえ
(p. 219、木村提督戦時中の最後の日記、44年大晦日)


10, 終戦、そして……。

松子「その後、木村提督は防府で教育にあたっていました。着任の挨拶では、『海軍少将木村昌福、まさは日を二つ重ねた昌、とみは福神漬けの福』などと冗談を飛ばしていました。そして迎えた1945年8月15日正午、少将木村昌福御歳53歳、玉音放送は雑音が酷く内容が何も分からなかったそうです。翌日、皆に内容を伝える際には、嗚咽して何度も中断せざるを得ませんでした。多くの同期・先輩・後輩が戦死し、多くの同胞が倒れた大東亜戦争、そのあまりにも悲しい幕切れに、『忍耐』の木村提督も感情を堪えられなかったのでした」

優希「郷里へ帰る海軍の生徒たちには『歴史を勉強しなさい』と言ったんだって。それから、あの実に立派だったカイゼル髭も剃ってしまった。戦に負けて髭でもないだろ』って。皇軍将兵の勇戦敢闘もむなしく……。ショーフクさんにとっても本当に悲しいことだったんだね。この悔しさ、悲しさを日本民族は永久に忘れちゃいけない……」

松子「しかし、戦争に負けても木村提督の人間としてのエネルギーが尽きることはありませんでした。木村提督の頭の中には、いつでも仲間たちのため、国家のため、何をすべきかということがありました。1946年3月、職を失った部下たちのため、海軍が所有していた二ノ枡塩田の払い下げを受け、塩田開発組合を立ち上げたのです。その守訓には、『信義誠実もって一身を製塩報国に捧げよ』『士魂商才もって剛健闊達の社風に生きよ』などとありました」

君たちは警備隊で、銀行で、海運会社で、わしは塩を作ることで国のために尽くしていることは戦場で闘うのと同じことであると思う。海軍で闘ったように国のために働くことがわれわれが子孫に伝える海軍魂(ネイビースピリット)だと思う」(p. 226)

優希「それとショーフクさんは、元来書道を好み、部下の転勤や昇進では一筆書いて渡していたそうだけど、1951年以降、無償で書道教室を開いて、多くの人に書道を教えてあげたんだって。謝礼を持ってきた人からは、菓子折のみを受け取り、お金は辞謝した。書く題材は子供であっても頼山陽や杜甫、李白などの漢詩で、書いた後は皆で朗読した。子供にも腰が低く丁寧だった。卜伝先生と呼ばれたそうだけど、私にはまるで松陰先生のように思えるなあ

松子「木村提督は部下が自慢しない人と言っていたとおり、あれほどの武勲がありましたが、他人に偉ぶることがなかったのですね。なにしろ、文藝春秋に記事が出るまでご子息ですらキスカ島撤退作戦の指揮官だったとは知らなかったそうです」

優希「そんなショーフクさんにも最期の時が迫る。1959年11月、10年以上続いた製塩事業も、供給過多のため国の方針でやむなく廃業に」

ここにおいて新たなる道を切り拓く勇猛心を出さねば。順調のとき偉そうなことを言って暮らしているのはだれでもできる。大変に臨んで直ちに新進路に方向をつけて人を導いてやることが大事なり、あとは部下の者若い人たちが智力、体力を綜合してやっていく、大将たるものはそこに意義があるわけなり(p. 232)

優希「今でも『大将』だったショーフクさん、ご高齢にもかかわらず、他の人たちとともにブラジルに渡るつもりだったんだって。だけど、それは叶わなかった。ショーフクさんは末期がん(胃癌)だったの。それが分かると、義理の弟がいる胃癌の権威の千葉大学付属病院に行き、医学の役に立ててくれと手術を申し出た。1959年11月17日、手術が行われる。だけど2月13日の朝、ショーフクさんが倒れているのが見つかる。13時45分逝去。御歳68歳だった

松子「2月21日、鎌倉英勝寺にて葬儀が行われ、戒名は春厳院泰徳瑞雲昌福居士でした。春風駘蕩、泰然自若、明治天皇が仰せられた『帝国の隆昌と人民の幸福』にその一生を捧げられた、帝国軍人の鑑でいらっしゃいました。そして、最後まで人々を導いてくださいました」

死の直前、書道塾の子どもたちに当てた随想を書いた。──人の上に立ってものをするとき、部下の者に仕事の一部を任した場合、どちらでもよい事はその人の考え通りやらせておくべし、そのかわり、ここはこうしなければ悪くなるとか、ここで自分が取らなければ、その人に責任がかかるという時には猶予なく自分でとること、人の長たる者心すべき大事なことの一つなり(p. 239)

優希「徳川家康公の如き慎重さと勇敢さ、楠木正成公の如き知恵と至誠、吉田松陰先生や乃木希典大将の如き至誠と教育、ヤン・ウェンリー提督の如き判断力と人命尊重とユーモア、木村提督の才能と人格は、まさに日本の歴史と伝統が生んだものであり、日本民族ある限り、いや世界人類から見ても、真に理想とし先哲として仰ぐべき人物だと思う。真の英雄・真の偉人」

松子「次回(最終回)は映画のご紹介ですので、木村提督のご生涯はここでおしまいなのですが、まとめてみて本当に素晴らしい人物だということが分かりました。戦後七十年を経た今日こそ、いよいよ御遺徳が輝くのではないかと思います。この一連の記事に登場した、木村昌福中将をはじめとする全ての皇軍将兵に感謝と哀悼の念を捧げ、終わりとさせていただきます」

自分なぞ大佐止まりと卑下された ヒゲの中将 衷情より慕ふ 優希
皇国は七十年(ななそとせ)経て五里霧中 導き給へ福の提督 松子 

現在は、将口泰浩『キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯』(新潮文庫)として出ています。


1945年5月16日、ペナン沖海戦にて沈没した重巡洋艦「羽黒」 その艦体はペナン島沖(マレー半島西側、マラッカ海峡)に眠っていた。しかし昨年、サルベージ業者が、軽巡洋艦「球磨」などとともに違法サルベージを行い、スクラップとして売却していた。武蔵発見のような朗報もあれば、こんなに酷い話もあるわけ。単なる鉄くずと言えば、その通りかもしれない。でも、そんなことを言ったら全ての文化遺産が石や鉄であり、生物は化学物質に過ぎないわけで、人類の遺産に敬意を表さないのは野獣に等しいと思う(サルベージを行ったのは支那人という報道がある。あと「イスラム国」も文化遺産を破壊している)。 


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この記事へのコメント

1. Posted by masa   2015年11月05日 21:14
木村さんの事を知ることができました.有難うございました。  父が第2次・第4号多号作戦(レイテ増援輸送作戦)に輸送船香椎丸の船員で乗り組んでいて救助され事を今も聞くと救助された時に、素麵を食べさせてもらったと話してくれます、助けてくれた木村昌福という人だと言う事を伝えたいと思います。香椎丸が何とか沈まず海南島まで行きその修理の為に8か月、香椎丸の船員でいました。
2. Posted by くすのき歴史クラブ   2015年11月06日 20:06
こちらこそ、ご感想ありがとうございます。僕のような素人が海軍を語るのは本当はおこがましいのですが、少しでも多くの人に歴史を知っていただきたいという一心で書きました。
お父様、ご存命でいらっしゃるのですね。大切になさってください。貴重なお話、今は公表なされないにしても、記録なさってくだされば、日本人全体にとって貴重な歴史として世界の片隅に残ります。優希なんかは曾祖父のシベリア抑留の話を記録できなかったことを今でも残念がっております。
海南島で修理というのは、もしかすると1941年12月14日頃のお話でしょうか。僕の勘違いでしたら申し訳ございません。(松子)

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