2016年03月14日

義経の最期 【平泉澄『物語日本史』を読む】 第29回


松子「前回、平家が滅亡した後、義経が鎌倉に入れてもらえなかったという話までしましたね。それで義経が京都に帰ると、頼朝は刺客として土佐坊昌俊を送り込んできました」

優希「遂に生命まで狙うなんて、頼朝のやつ!」

松子「義経たちはこれを倒した後、弁慶、佐藤忠信、静御前などを連れて吉野山へ向かいます。そこで静御前と最期の別れとなりました」 注1

優希「神武天皇、天武天皇、西行法師、後醍醐天皇、後村上天皇といった方々の歴史ある吉野山。桜が美しいけれど、どこか悲しい歴史の山」

松子「そして静御前は捕らえられて鎌倉に送られ、鶴岡八幡宮にて、命じられて頼朝の前で舞を舞いました」

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の あとぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな

優希「黒板勝美先生が仰るとおり、これを烈婦と言わずして誰を言う!? そして静といえば、乃木静子夫人」

松子「一方、義経は奥州平泉へ(勧進帳はこのあたりの話です)。平家を倒した義経が、少年の頃と同じように奥州に落ちねばならなかった胸中は如何。しかも父親代わりで後ろ盾だった秀衡はやがて病気で亡くなってしまいます。秀衡は跡取りの泰衡がいまいち信用できなかったのか、義経を助けて兄弟が一致団結して鎌倉と対するように遺言しましたが……」

優希「小人、泰衡! 奥州を統べる手腕なし!」

松子「泰衡は頼朝を恐れ、頼朝と通じ、自分の兄弟たちを討った後、義経の衣川館に攻め寄せました。弁慶ら、わずかな家来が義経を守りますが、もとより多勢に無勢。弁慶は立ち往生したと言われています。義経は遂に切腹し、その首は鎌倉に送られました。1189年6月22日、平家滅亡から4年後のことでした」

優希「嗚呼、英雄義経の悲惨なる最期! 敵である鎌倉の武将たちですら涙を流さない者はなかったとか

松子「この後、奥州平泉は頼朝にあっさり攻め滅ぼされてしまいます。こうして4代90年に及ぶ奥州藤原氏の栄華は幕を閉じました。秀衡の遺言に従っていれば、と悔やんでも後の祭りです。中尊寺こそ残りましたが、奥州平泉の荘厳な建築は次々と灰燼に帰しました」

優希「黄金の都、平泉。芭蕉、おくのほそ道に曰く、夏草や兵どもが夢の跡。いつしか判官贔屓という言葉が生まれ、日本民族の国民精神にまで高まった。義経こそ日本の象徴の一人

松子「義経が亡くなった時、数え31歳でした。頼朝と黄瀬川で対面してから約9年が経っていました。その最も活躍した時期は、義仲との決戦から壇ノ浦までの僅か1年と少しの間でした。謎に包まれた幼年時代、他の追随を許さない無敵の全盛期、そして頼朝に追い詰められた晩年。まるで映画のような展開ですね。彼の首塚は神奈川県藤沢市の白旗神社に、胴塚は宮城県栗原市栗駒沼倉の判官森にあります。なお北海道にはアイヌの伝承?により義経神社(と義経資料館)がありますが、史実とは関係ありません」

優希「義経は北海道でアイヌを指導した後、モンゴルに渡ってジンギスカンになったんだよ!」

松子「それは置いておいて、平泉澄先生のお師匠さんの黒板勝美先生の『義経伝』によれば、義経は父の敵を討つことを悲願としており、彼には少しも私心なく、源氏の家のことしか頭になかったとのことです。黒板先生は義経が本当に大好きで、『義経は武士の花である』『我が国史を通じて、最も尊敬し、最も追慕すべき人物である』と書いています」 注2

優希「まあ憶測の部分も多いけど、憶測で義経を貶すよりはマシだからね」

松子「義経の真意は分かりませんが、いずれにせよ源氏の家はこの後大変なことになっていきます」


鎌倉幕府の混乱

松子「鎌倉幕府に関しては、大江匡房の曾孫・大江広元が政所の別当として頼朝を輔佐しました。頼朝は義経追討を名目に日本全国に守護と地頭を置きました(1185年)。守護は各国の軍事・警察を、地頭は各地の治安・徴税を司り、要するに日本中の治安維持・徴税を行うようになったのです。ただ、朝廷も権力がゼロになったわけではありません(承久の乱の後も)。基本的に二元体制です

優希「あれ? いい国作ろう鎌倉幕府で1192年じゃなかったっけ」

松子「それについては、鎌倉幕府の成立は大義名分を重んじて、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年と考えますが、幕府の組織自体は1185年に整えられたと言っていいでしょう。こうして頼朝は全く新しい武家時代・幕府政治を開いた後、1199年に亡くなりました。落馬が原因と言われています。伊豆での挙兵から約20年が経っていました」 注3

優希「義経を倒して後顧の憂いを絶ったと思っていたのかな? この後どんなことになるかも知らずに」

松子「さて頼朝は、決して朝廷を倒すために幕府を立てたのではなく、逆に『勅命に従わぬ者は日本から出て行け』とまで言ったのでした。結局、頼朝の心の中にあったのは如何にして日本の秩序を回復するか、そのためにどのような新しい政治体制を打ち立てるかであったのでしょう」

優希「武家政治に移行したのは時代の趨勢だね」

松子「ええ。思想や経済や科学が変化してくれば、政治体制が変化するのは当然のことです。ただ、政体は変わっても国体は変わりません。頼朝は義経を倒したり幕府を立てたりしたものの、優秀な人物であることに間違いなく、国体を守ったのでした。そして明治維新までの間、様々な将軍がおり、中には皇位を狙ったと言われる者もありますし、徳川幕府は朝廷を軽んじた不敬の部分もありますが、全体としては天皇によって将軍に任命され、あくまで天皇の臣下として日本の秩序を維持するという任務を守っていたのでした。もし承久の乱に際して頼朝や実朝が生きていたならば、どのような結果になっていたでしょうか。しかし、実際には北条氏が反逆の戦いをするのです。ただ、その北条氏にしても、皇統を護ることに異存は無かったのです」

優希「そういえば、義経と一緒に平家と戦っていた頼朝の弟・範頼ってどうなったの?」

松子「源範頼は静岡県磐田市か浜松市のあたりの生まれで、義経が亡くなった後も健在でしたが、1193年頃に伊豆修善寺で幽閉されて亡くなりました。範頼が殺された原因の一つは曾我兄弟の仇討ちの際の言動という話です。この範頼、平家物語が義経の話ばかりなので存在感がありませんが、本来は彼こそ大将です。ただ、どの程度活躍したかは分かりません。黒板勝美先生の『義経伝』を読んだ限りでは無能な凡将という感じですが……」

優希「少なくとも義経ほど優秀な武将でないのは事実なんじゃない?」

松子「さて、鎌倉幕府ですが、頼朝の死後、いろいろ混乱していきます。まず生前には、1184年に上総介広常が殺されました。89年に義経、93年に範頼、99年に頼朝が亡くなったわけですが、そのすぐ後の1200年に梶原景時が滅ぼされています

優希「ざまあみろ!」

松子「1203年には比企能員が滅ぼされ、頼朝の子・二代将軍頼家が伊豆修善寺に流された後に殺され、その前には頼家の長男・一幡も殺されています

優希「頼朝が流されたのが韮山で、その割と近くの修善寺に範頼や頼家も流されたんだね」

松子「1205年に畠山重忠、1213年に侍所の別当・和田義盛が滅ぼされました。北条時政も1205年に失脚しています。こうして権力を握ったのは北条政子・義時の姉弟で、義時は執権(侍所と政所の別当)となります」

優希「平家との戦いで功績あった人たちが軒並み倒されて、自分の父親まで失脚させちゃうなんて」

松子「頼家が流されて以降は、その弟の実朝が将軍となっていますが、権力を握っているのは政子・義時の姉弟です。やがて源氏は滅びてしまうのです」

優希「権力がどんどん下に下がっていく。下位制度に次ぐ下位制度。天皇、上皇、摂政関白、将軍、執権、一体誰に権力があるのか分からない。正規の法と関係ない制度が積み重なっていく」


今回の登場人物
静御前(しずかごぜん。義経の妾で白拍子。頼朝を恐れず舞った烈婦)
藤原泰衡(やすひら。奥州藤原氏・秀衡の子。義経を倒した後、滅亡する)
源頼家(よりいえ。二代将軍だが修善寺で殺される。長男の一幡も死亡)


静御前と義経の出会いは、一の谷の戦いの後の雨乞いの儀式だったそうです。白拍子の中でも踊りの名手だったようですね。

序文には「史書は編者の主義鮮明なるものありて始めて精神あり。伝記は著者の同情深厚なるものありて始めて生命あり」とあり、さすがは平泉先生の師匠と思います。古い本で、少し難解ではありますが、一般向けに書かれた読みやすい本です。

ちなみに頼朝以前に征夷大将軍に任命されたのは大伴弟麻呂と坂上田村麻呂だけだと思われます(木曾義仲の征東大将軍など似た名称はいろいろあります)。


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