1:2015/06/23(火) 02:02:09.30 ID:
 1

 私――秋月律子の活動停止が決まった。

 ずいぶん、唐突な話だと思った。私だって、死ぬまでアイドルを続けるつもりはなかったし、
いつかは終わりが来ると分かっていたけれど。

「悪かったよ、ろくすっぽ相談もせずに」

と、プロデューサーは頬をかいた。

「……少しくらい話してくれても、よかったんじゃない?」

「ごめん、悪かった」

プロデューサーは、そう繰り返した。

秋月律子65


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1434992519

2:2015/06/23(火) 02:02:49.84 ID:
 一年余り続けてきたアイドルとしての自分に、区切りがつく。
 あっけない終わりに、私は動揺できなかった。
 元より、自分からアイドルを志望したわけでなく、周りと比べても資質が劣っていることは自覚していた。
 年貢の納め時というのか、早い段階での活動停止も薄々は予感していたし、却ってよくやってきたものだと思う。

「引退ですか」

「それは、律子が自分で決めてほしい」

「続ける選択もあるってこと?」

「もちろん。どのみち、俺は律子の担当から外れるけど」

 なによそれ。喉元まで出かかった言葉を、反射的に飲み込んだ。


3:2015/06/23(火) 02:03:15.74 ID:
「今のままで居ても、これ以上の成功は……」

「あ、いや、私も限界は見えた気がする。大丈夫、ちょっとびっくりしただけだから」

 私は慌ててプロデューサーの苦そうな言葉を遮った。
 決まったことに対して、私からアレコレ言って困らせたくない。

 プロデューサーは少しさみしそうに笑って、ラストコンサートの計画を話した。
 私は一も二もなく賛成した。


4:2015/06/23(火) 02:03:42.15 ID:
 二人でラストコンサートについて話しているうち、
 活動停止という事実が私から遠ざかっているような気がした。

 活動停止を告げられた時刻が、すでに一時間も流されたように。
 けれど、事実は遠くなるどころか、近くへ迫っているのに。変な違和感があった。


5:2015/06/23(火) 02:04:39.31 ID:
 打ち合わせを終えたあと、私はいつものように雑務を手伝ってから、プロデューサーより早く事務所を出た。
 空模様は無地の赤一色で、赤信号の鉄枠が黄色い人影を透けた腹に押し込めていた。

 ポケットに手を入れ、携帯電話を弄くる。そのメモリには空想の部品が一つ、例えば海底に落ちた金貨みたいな。
 自分がアイドルを引退したあと、新しいプロダクションを立ち上げる。

 そんな絵空ごとを目の前の風景にしたら、プロデューサーを誘って、社長になってもらおうか、なんて。


6:2015/06/23(火) 02:05:06.95 ID:
 2

 レッスンが終わったあと、プロデューサーは必ず私を迎えに来る。
 今日もスタジオを出てすぐのところへ車をつけていた。

「ここに停めてて、無断駐車のキップ切られないの?」

「不思議とな」

 プロデューサーはちっとも不思議じゃなさそうに言って、運転席へ座った。
 キイを回すと、咳き込むようにエンジンがかかる。
 私は助手席へ乗り込んで、適切な力加減でドアを閉めた。
 慣れない頃は強すぎたり、弱すぎたり、プロデューサーにからかわれたこともある。

 シートにもたれかかると、ため息が出た。
 根拠のない倦怠感が染みて、眠気に似たものが私のまぶたを下ろそうとする。


7:2015/06/23(火) 02:05:45.26 ID:
「シートベルトしろよ」

 プロデューサーは言いつつ、サイドブレーキを下ろした。
 シートベルトをかちりと身体に巻きつける。車が動き出して、それから、やっと目をつむった。

 仕事やレッスンを終えたあとは決まって、息継ぎをしなきゃいけないみたいに、醒めた瞬間に気づく。
 それがゾッとするような感覚へ変わる前に、私はいつも疑問を抱えてみた。

 この人は、どうして、私を選んだんだろう。
 面と向かって訊いたことは何度もあるけれど、プロデューサーはそのときどきで違う理由を挙げた。

 今さら手垢のついた質問を繰り返す気にもならなかった。
 もうすぐ最後のコンサートもある。それに結局のところ、彼の本心は、私に測れないから。


8:2015/06/23(火) 02:06:21.83 ID:

「疲れたか、律子」

 声にまぶたを上げて、運転席の方へ目を向ける。
 プロデューサーはカーステレオのボリュームを絞っているところだった。
 それで、車内に音楽が流れていたことに気づいた。

「私は、別に」

「無理はするなよ、疲れたらすぐ……」

「疲れてないです。それに、弱音なんか吐いてられないでしょう」

 最後なんだからと言いかけて、喉が詰まる。
 プロデューサーは困ったように笑って、カーステレオを指さした。

「消す?」

「プロデューサーは?」

「俺は、ユーミン好きだよ」

 そういえば、プロデューサーの携帯電話の着信音はユーミンだったっけ。
 彼はフォーブル・サントノーレと口ずさんで、ボリュームのつまみを回した。
 私だって、ユーミンは嫌いじゃない。なんだかくすぐったいような気持ちがした。


9:2015/06/23(火) 02:06:52.92 ID:

 私が車を降りる頃には、とっくに歌は終わっていた。
 プロデューサーは、ゆっくり休めよ、と言い残して車をUターンさせた。
 きっと、コンサートの準備を進めるんだろう。
 人には休めと言っておいて、自分は頑張って――それは仕事だから?

 遠ざかって行く太陽が、空に赤紫の膜を広げる。
 その一方で、ひるがえった髪の艶のように、星明かりが淡雲を串刺した。

 私を選んだのも、あっさり活動停止を決められたのも、仕事だったから?
 それが理由でも、今さら嫌だと言う気さえない私が子どもなのだ。

 仕事だからと思ってた。それで納得して、それでいいと思ってた。けど、今さら寂しい。
 彼を困らせちゃいけないと思うけど、このままラストコンサートを終えたら、私のことなんか忘れられてしまうんじゃないか。
 そう考えてから、忘れられることが一体どうしていけないのか、分からない。


10:2015/06/23(火) 02:07:25.87 ID:
 3

 朝から雨が続いていた。
 アスファルトに灰色の根を伸ばすような空はいかにも憂鬱だったけれど、
レッスンへ集中できない理由とするには弱々しい。

 スポーツドリンクの缶のプルタブを意味もなく弾きながら、こめかみに垂れてくる汗を手探りで拭う。

 これで最後、最後なんだから。頭で繰り返すたび、気味の悪いくらい醒めていく。
 それは眠れない夜に似て、目を通る景色は、粘度の高い暗闇に輪郭から沈みこむように見えた。

「調子が悪いなら、今日は切り上げましょうか?」

トレーナーさんが言うのへ、私は首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。続けてください」

 私は未開封の缶を置いて、鏡の壁の前へ立った。そして、パシッと自分の頬を叩く。

「これで、最後なんだから」


11:2015/06/23(火) 02:07:51.82 ID:

 最近、ずっとこんな調子だ。集中しようと必死になるほど、気持ちが離れていく。
 結局、今日のレッスンもどこか浮いたような感覚をこそぎ落とせずに終わった。

 着替えを済ませてから、荷物と傘を取ってスタジオを出ると、プロデューサーが待っていた。
 彼は私に気づくと走り寄って来て、手に持っていた傘を傾けた。

「お疲れ。どうした、ムスッとして」

「は……えー、そんな顔してた?」

私は気恥ずかしく笑って、頬をかいた。

「まあ、無理もないよな」

そう言って、プロデューサーは柔らかく笑い返した。

 よく見ると、彼の目の下が黒くくすんでいるのに気づいた。私はまた、ムスッとしてしまっただろうか。


12:2015/06/23(火) 02:08:19.13 ID:
「あのぅ、プロデューサー。今日は私、一人で帰ります」

「どっか寄って行くのか?」

「まあ……、そんなところ。せっかく迎えに来てもらって、申し訳ないけど」

「それは別に構わないさ、気をつけて帰れよ」

「すみません。プロデューサーこそ、気をつけて」

 私は自分の傘を開いて、彼の傘を出た。
 プロデューサーは路肩へ停めた車に乗り込んで、ハンドルを握った。
 彼を乗せた車は水音を踏みにじりながら、物凄い速さで遠ざかって行くように見えた。


13:2015/06/23(火) 02:09:00.01 ID:
 私は水辺の道を、よたよたと歩いて行く。
 ふと、今日が私の誕生日だったと気づいた。私は十九歳になったらしい。

「また、忘れたのね」

 私は道を蹴った。雨が空に帰りそうなくらい跳ねた。
 ちょうど一年前も、プロデューサーは私の誕生日を忘れていた。
 そういえば、とわざとらしく、その日が自分の誕生日だと教えると、プロデューサーは申し訳なさそうに忘れていたことを白状した。
 今からでもなにかプレゼントを、とプロデューサーが言うのへ、結構です、と口を尖らせた覚えがある。

「忘れない、って気持ちが大事なんですよ。こういうのは」

 私は台本を読み合わせるように、一年前に飛ばしたセリフをなぞってみた。

 来年は忘れない、と言ったにも関わらず。
 つい、ため息が出る。この頃は忙しいし、プロデューサーだって私の誕生日どころじゃないんだろう。
 それに――これで最後なんだから。何度、自分に言い聞かせたか知れない言葉が、傘の中まで入り込む。


14:2015/06/23(火) 02:09:49.57 ID:
 4

「そういえば、この間、私の誕生日だったんですよ」

 プロデューサーとの軽い打ち合わせを終えてから、私は不意にイジワルをしてみたくなった。
 プロデューサーは寝不足の顔をあっと歪めて、それから頭を下げた。

「ごめん、忘れてた」

「あははっ、そんなことだろうと思ってました」

「今さら遅いけど、なにか……」

「こういうのはね、気持ちが大事なんですよ」

プロデューサーが言い切る前に、私は遮って言った。

「別にいいですよ、忙しいしね。わざわざ、気を使わなくてもいいですよ」

「本当にごめんな」

 そう言って、頭をかくプロデューサーに背を向けて、私はドアを開けた。
 鍔の短い帽子のような屋根のついた玄関口が、雨の垂れるアスファルトの集合体を見つめている。


15:2015/06/23(火) 02:10:29.76 ID:

 わざわざ、気を使わなくてもいい――心からそう思っていたら、口に出すものか。
 本当は気を使ってほしい、贅沢を言えば忘れないでいてほしかった。

 私のファンや、以前に仕事をした人、学生時代の友だち、家族――色んな人が私の誕生日を祝ってくれた。
 それを、プロデューサーに期待してはいけないのだろうか。

 ――恋人じゃあるまいし。

 ふっと自嘲的な笑いがこみ上げて、それは次第にほろ苦く歪んだ。
 そうか、私は多分、プロデューサーを恋人みたいに思っていたのかも知れない。
 彼が数ある中から私を選んだときから。


16:2015/06/23(火) 02:10:56.29 ID:

「私、なんだか、おかしな勘違いをしちゃったな」

 ほろ苦さにもう一度笑う気力はなく、今日まだ途切れない雨を傘で断つ。
 踏みつけた水たまりは思ったよりも柔らかく、スニーカーの布地に染みる冷たい感覚が足を引っ張った。

 彼は、プロデューサーは私のことを、どう思っていただろう。
 せいぜい、からかいがいのある同僚といったところか、それとも世話のやける後輩か。
 私が弱音を吐くと、プロデューサーはいつも励ましてくれた。
 けれど、本当のところ、私は弱かっただろうか。

 ただ甘えて、立ち向かうことから逃げていただけで。
 人手が足りなくて、他人に選ばれたから、辞めるわけにもいかなくて。

 私はずっと、迷っていたらプロデューサーか手を引いてくれると、思っていたのかもしれない。
 逃げたら追いかけてきてくれると。

「カッコ悪いな」

 私は傘の柄を撫で、それから、よし、と一人で頷いた。
 彼とはきっと、笑顔で別れよう。最後なんだから。


17:2015/06/23(火) 02:11:34.76 ID:
 5

 ステージ衣装を着ると、まさに身が引き締まる。
 身体のラインを綺麗に見せるために、少しタイトに作ってあるせいかもしれない。

「律子、きつくなってたりしないか」

「なんですか、太ったって言いたいわけ?」

「違う違う、律子もまだまだ成長してるかもってな」

「あははっ、そうね……でも、残念ながら、前に着たときと変わらないかな」

 そう言いつつ、腕をくるりと回してみたり、軽く跳んでみたり。
 次、次と、用意した衣装に袖を通していく。試しにアカペラで歌いながら、ステップを踏んだ。


18:2015/06/23(火) 02:12:01.46 ID:
 衣装合わせにはたっぷり時間をとるのがプロデューサーのやり方だった。
 スタジオで実際に衣装を着て、パフォーマンスに支障がないか確かめる。
 衣装の中には以前に使ったものもあって、なんだか懐かしい気持ちになる。

 ふと、プロデューサーは口を開いた。

「律子は、アイドル続けるのか?」

「ラストコンサートが終わったら?」

「そう。ラストとは言うけど、ひとつの区切りと思ってほしいんだ」

「……どうかな、続けるにしても、それだけの理由がないというか」

「続けたいだけじゃダメか」

「それだけで続けられるなら……」

と、そこまで言いかけて、私はやめやめと首を振った。

「そんなことより、今は目の前に集中しましょうよ」

「ん……ああ、そうだな」


19:2015/06/23(火) 02:12:42.53 ID:

 ラストコンサートは目前に迫っていた。準備の方もいよいよ峠を越えたらしい。
 プロデューサーは、やっと寝る時間ができたと冗談めかして笑っていた。

 私はと言えば、まだどこか信じられない気がしていた。
 アイドルとプロデューサーというぬるい表面が続いていくものだと。
 それがテープを切るみたいに終わるのは、なんだか想像も及ばない気がした。
 終わったあとに自分がどうなっているかなんて。


20:2015/06/23(火) 02:13:12.86 ID:
 6

 リハーサルではまず会場の大きさに圧倒されたけれど、観客が入り始めると、また違う種類の緊張が身体の中に意識される。
 私の身長くらいありそうなスピーカーが、開演までの間を埋めるようにBGMを流している。

 ステージ裏での時間には、結局、最後まで慣れないままらしい。
 私は水槽に移されたばかりのグッピーさながら、明かりが滲むだけで薄暗い中をうろついた。

「気分はどうだ」

 スタッフたちへ挨拶を済ませたプロデューサーが来て、ポンと私の肩を叩いた。

「カチコチだな」

「おかげさまで」


21:2015/06/23(火) 02:13:39.60 ID:
 開演十分前を知らせるアナウンスが会場へ放送されると、熱せられたように観客の声が波立った。
 嫌でも、身体に力が入る。

「リラックスしろ」

プロデューサーは私の肩に手を置いたまま、言った。

「無理だって」

足の指が騒ぐ。

「いいから、深呼吸しろ」

 プロデューサーの合図に合わせて、吸って、吐いてを繰り返す。
 ブルブルと唇が震えているような気がした。

「やっぱり、無理です」

笑ってみても、頬がこわばってしまう。

「深呼吸を続けて」


22:2015/06/23(火) 02:14:05.51 ID:
 会場のほうでわあっ、と歓声が湧いたのが聞こえた。
 流れていたBGMがいつの間にか、消えていた。じっとりと空気が張り詰める。

 いよいよ、開演する。これで、最後なんだ。

「律子、気分はどうだ」

 彼の声は鼓膜を震わせても、頭までは届いていないような気がした。

「プロデューサー、手ぇ握ってください」

 右手を目の高さまで持ち上げると、それは自分の身体と思えないほど他人行儀に強張っていた。
 プロデューサーは軽く頷いて、ぎゅっと両の手で私の手を包んだ。

「……手汗は大丈夫ですか」

彼の骨ばった手の意外な感触に、のんきなことを言えるくらいには緊張がとけた気がした。

「いいライブを期待してるよ」

 そう言って、プロデューサーは手を離した。
 私はにっと笑ってみせて、トンと右手を彼の胸元に押し付けた。


23:2015/06/23(火) 02:14:33.14 ID:

「……ね、プロデューサーは、私のこと、どう思ってた?」

「律子のこと?」

「私は、あなたを……あなたを親友に近い存在って、思ってた。……つまり、それくらい、気ぃ許してた」

「親友ね……」

「そう、親友。……じゃ、行ってきます」

 プロデューサーが答える前に早口で言って、私は小走りにステージの上へ向かった。
 骨の髄まで灰にしそうなライトがギリギリに輝いている。
 私は両の手を広げて、世界を抱く勢いで飛び出した。

 ステージの裏でポカンとしてそうなプロデューサーを思うと、泡立つような歓声が、他人ごとのように聞こえた。


24:2015/06/23(火) 02:15:39.96 ID:
 7

 私は幾千の目をほどくように手を振って、ステージを降りた。
 裏は開演前と相変わらず、薄暗い。
 プロデューサーが一番に、私を待っていることは分かっていた。
 けれど今は、彼の顔を見たくないと思った。

「律子っ、どこ行くんだ! 待てよ!」

 鼻の辺りがツンとした。プロデューサーの優しい手から逃げて、私は裏口から会場を走り出た。
 水たまりが雨上がりの夜を映している。
 アスファルトは腐食したように金属質な穴が空き、靴の踵に蹴られるとガラスのように割れた。


25:2015/06/23(火) 02:16:05.38 ID:

 少し走ると息が切れてしまって、河川の上へかかる橋の途中で立ち止まった。
 最後だと、これで最後なんだと分かっていたはずなのに。
 私は橋の欄干にしがみついて、やっとの思いで立っている。
 ステージの上へ、やっとの思いで立っていたように。

「結局、どこにも届かなかった」

 今、分かるのはそれだけだった。


26:2015/06/23(火) 02:16:44.45 ID:

「律子! このバカ!」

 プロデューサーの声が聞こえて、私はよかった、とため息をついた。
 彼は息を切らしながら走って、やって来た。

「逃げたら、追いかけてくれるって、そう思ってた」

「そりゃ、当たり前だ」

「私、ずっと、変わってない」

堪えきれず、涙を落とした。それを拭う余裕もない。

「ごめん……プロデューサー」

「ライブのことなら、気にするなよ」

「……失敗だったとしても、……どうせ最後だから?
 もう、一緒に、仕事をすることもないから、そんな言い方するの?」

「バカ、違うよ」

「じゃあ、なによ? ……気にするに決まってるじゃない!」


27:2015/06/23(火) 02:17:57.52 ID:
 心臓が押さえつけている下で、破裂しそうな魂が金切り声を上げていた。
 足元の水たまりを思い切り踏みつけると、底に溜まっていた泥が煙のように混ざって、ひっくり返ったように跳ねた。
 普段は絶対はかない踵の高い靴、靴下、ひらひらのついたスカート、せっかく綺麗なのに、汚れてしまった。
 傷つけるように水を蹴って、みんな汚した。

「私とあなたには、なんにもないじゃないですか!」

「律子!」

 彼の声も、自分の喉の奥で響く唸りが押しのけて、汚した。
 水たまりは泥に濁って、すでに夜空も映さなかった。
 もっと汚れよう、そう片足を上げるとぐらりと重心がよれた。

 あ、と間の抜けた声が出た一瞬間、自分の手首がプロデューサーに捕まえられているのに気がついた。
 ぐいっと、そのまま身体を引っ張られる。


28:2015/06/23(火) 02:18:23.77 ID:

「バカっ、律子」

「は、離してください!」

 じたばたと力いっぱい暴れても、彼は必死に私を腕の中へ抱き入れた。

「離して! お願い、離してよ……」

 せっかく乾きかけていたのに、涙が細波のように頬を濡らした。
 彼は私の背中に腕を回して、強く私を抱きしめた。
 息が少し苦しいのはきっと、泣いているのと、彼が強く抱きすぎるからだった。


29:2015/06/23(火) 02:19:08.63 ID:

 私はようやく暴れるのをやめて、疲れきった身体を任せた。
 しゃくり上げる背中と、汗で湿ったままの髪を、彼の手は優しく撫でてくれた。
 子どもをあやすように、あるいは緩やかに踊るみたいに、少し揺らした。

「離れたくない」

 私はそう言って、眼鏡がずれるのも構わず、顔を彼の胸元に押し付けた。
 彼のワイシャツは私の涙と鼻水で、少しばかりしょっぱいかもしれない。

 プロデューサーは私の肩に手を乗せて、優しげに身体を離した。

「ごめんな、律子」

「プロデューサー殿は謝らなくても、いいんです」

 私はステージ衣装で、涙を拭った。


30:2015/06/23(火) 02:20:01.18 ID:

「これから……私、決めました」

「……先のことか」

「アイドル、続けます」

 私がそう言うと、プロデューサーは驚いたように目を見開いて、それからくしゃりと顔を歪めた。

「そっか、続けるのか……うう」

「なっ、なに泣いてるのよ」

「お前が言うな」


31:2015/06/23(火) 02:20:42.64 ID:
 プロデューサーはゴシゴシと涙を拭って、両の手を私の頬へそっと添えた。

「な、なに……?」

「頑張れよ。絶対、忘れないからな」

「あっ、えっ、はい……はい、私も忘れないから!」

「どうした。やっぱり、疲れは隠せないか」

「えーと……あははっ、今日はさすがにね。でも、これからはもっと頑張る!」

 胸がドキドキと鳴っている。キスでもされるんじゃないかと思った、そんなことはまだ言えなかった。
 私はプロデューサーから離れて、できるだけ丁寧に頭を下げた。

「……私は、プロデューサーとは、おさらばします」


32:2015/06/23(火) 02:21:14.23 ID:

「名残惜しいな」

「そういうこと言わないでよ、さよならが言いづらいじゃない」

「ああ、悪かったよ。けど、律子」

「なに?」

「また、一緒に仕事をすることがあったら……」

「……ふふっ、そうですね。よろしくお願いします。今は、さよならでもね」

「きっとだ」

「待っててくれる?」

「待つよ、ずっと待ってる」

「……それじゃ、ちゃんとお別れを言っておきます」

 私は一つ、深く呼吸をしてから、プロデューサーの目を真っ直ぐに見た。

「さようなら、プロデューサー」


33:2015/06/23(火) 02:21:48.31 ID:
 8

 はー、と思わずため息が転がり落ちそうになるのを、すんでのところで受け止める。
 祝賀パーティとは言うけれど、私には堅苦しくて仕方ない。

 踵の高い靴も徐々に慣れてきたと思っていたけれど、
夕方から続くパーティも零時を回ると、さすがに足腰も痛んでくる。

 会場を一回り、来賓に顔見せと挨拶を済ませて、私は帰り支度を始めた。
 こんなとき、未成年だから、という言い訳は便利だなと思う。

「一応、主賓なんだけどねーっ」

 オホホ、とおどけてから、周りに人が居ないことを確かめて胸を撫で下ろす。
 ピンヒールからぺったんこのパンプスに履き替えて、私はそそくさと会場の隅を歩いて行く。
 やることはやったし、周りの人間は気持ち良くお酒に酔っているし、あとは私が居なくてもさほど支障はないだろう。


34:2015/06/23(火) 02:22:34.77 ID:
 会場を出てすぐ、携帯電話を鞄から取り出す。
 一応、まだ会場に居るマネージャーに、先に帰る旨をメールしておこうと思って、だ。

 待ち受け画面を開くと、不在時に着信のあったことを示すアイコンが点滅していた。
 着信履歴の一番新しい名前に、私はついつい頬を緩めてしまった。
 すぐに、その番号へ電話をかけ返す。

 廊下に聴き覚えのあるメロディが響いた。まさか、と顔を上げる。

「やあ、律子」

 やっぱり、プロデューサーだった。
 彼は着信音に合わせて、フォーブル・サントノーレと口ずさんで、電話を取った。

「一年ぶりくらいか」

「あの、直接話しましょうよ」

つい、吹き出してしまう。

「それもそうだな」

彼は電話を切って、携帯電話をポケットにしまった。


35:2015/06/23(火) 02:23:51.68 ID:
「どうしたんです。もしかして、待ちきれなくなった?」

「えーとだな、まずは、おめでとう律子! ……と言わせてもらおう」

「ああ、えーと、ありがとう。大したことじゃないけど」

 私は会場入口の『祝 秋月律子 CDアルバム100万枚売上記念』と、
でかでか書かれた立て看板を振り返って、言った。

「なに言ってるんだ。国内どころか、海外にも飛び火しそうな勢いじゃないか」

「なんか、自分でも信じられないや」

 プロデューサーと別れてから、私はプロダクションへ移籍した。
 今では簡単に言えるけれど、セルフプロデュースさせることを条件に、
となると中々受け入れてくれるプロダクションは見つからなかった。

 だから、私を採用してくれた今のプロダクションには本当に頭が上がらない。
 と言いたいところだけれど、その辺りは売上できっちり恩返しはできたはずだから、ペコペコする必要もないだろう。


36:2015/06/23(火) 02:24:17.05 ID:

「頑張ったな、律子」

「あははっ、当然の結果ですよ」

私は照れくさく、頭をかいた。

 逃げ出したくなったとき、諦めそうになったときは、いつも、
プロデューサーが私を待っているんだと、気持ちを奮い立たせてきた。

 今なら、前よりもずっと素直に彼と話すことができる気がする。

「それで、プロデューサー。ただ、お祝いを言いに来ただけじゃないでしょ?」

 私がそう訊くと、今度はプロデューサーが照れくさそうに頭をかいた。

「あ、いや……実は、そうかも」

そう言いつつ、彼はなにやら包みを出して私の手へ握らせた。


37:2015/06/23(火) 02:24:44.33 ID:

「律子、誕生日おめでとう」

「へっ、あれっ、今日でしたっけ」

「もう日付変わったろ?」

「あ、そういえば……」

「俺だって、三回も忘れないさ」

プロデューサーは得意気に笑った。

「あははっ、ありがとうございます。今度は私が忘れちゃってましたね」

「今年で、二十歳か。律子もついに成人ってわけだ」

「あ、そうだ、会場の人たちには内緒にしてくださいね」

「いいけど、なんでだ?」

「いや、未成年だから帰ります、って言ってたんで……」

 それを聞いて、プロデューサーはくすりと笑った。


38:2015/06/23(火) 02:25:41.21 ID:

「……あの、プレゼント、開けてもいいですか?」

「どうぞ。この廊下じゃ、色気もないが」

 包みの中身は、ネックレスだった。
 銀のチェーンを指に絡めて、雫のように静かな緑の宝石をじっと見つめる。綺麗だった。

「ぷ、プロデューサーにしては、いいセンスしてますね」

多分、今、私の顔は真っ赤なんだろうと思う。

「つけてみたら」

「あ、えっ、はい……そうですよね、プレゼントだもんね……」

 鎖の中から金具を探りだして、ぴん、と外す。
 首に巻いて、外した金具を元のように付けようとするけれど、いつかのように手が震えてしまう。
 胸の上で緑のきらめきが楽しげに揺れている。


39:2015/06/23(火) 02:26:10.86 ID:

「あははっ、どうしよう、わ、私、こんな不器用だったっけかな……」

頬だけじゃなく、耳まで熱くなるのが分かる。

「どれ、貸してみろよ」

 プロデューサーはなにを思ったのか、正面から抱くように手を回して、私の手にあったネックレスの金具を取った。
 首の後ろがくすぐったい。そういえば、一年前もこんな風に彼の顔を間近に見た覚えがある。
 よかった、ずっと忘れないでいられたんだ、と自然に微笑む。
 ふっ、と目が合って、彼も私を忘れないでいてくれたことを知った。


40:2015/06/23(火) 02:26:50.51 ID:

「おかしいな……」

「どうしました、プロデューサー殿。まだ付けられませんか」

「うむ、俺も、こんな不器用だったっけか」

「さあね」

 ネックレスの金具が意地悪を続けている間に、私はつま先立ちでキスをした。


41:2015/06/23(火) 02:28:49.67 ID:
以上で『律子「待ちくたびれたプロデューサーへ」』を終わります。
拙い文章でしたが、読んでいただきありがとうございました。

律子、誕生日おめでとう。


42:2015/06/23(火) 02:37:13.51 ID:
おつおつ
いいね


43:2015/06/23(火) 07:38:33.05 ID:
おつ おめでとう律子


44:2015/06/23(火) 11:58:15.04 ID:
報われて良かった。この雰囲気はお別れエンドじゃねえかと思ってた

おつ


45:2015/06/23(火) 18:41:30.95 ID:
おつ
文体も中身もすごく良かった
律子の心情についてもよく書いてあって読み取りやすかった




SS速報VIPに投稿されたスレッドの紹介です。
元スレ:
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1434992519/

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