2:2018/05/29(火) 23:10:49.66 ID:X1ZFxUTf0

彼は、古びた道場の中心に座していた。

年の頃は32。

剣道の師範を勤め、生計を立てている。

彼は一人の少女を待っていた。

脇山珠美。

美城プロダクション所属。 デビュー前。

9月20日生まれ、16歳。乙女座。B型。

145cm、38kg。

彼女を、待っていた。

彼は珠美の、剣道の師だった。

そして、剣士としての彼女の、第一のファンだった。



3:2018/05/29(火) 23:11:27.56 ID:X1ZFxUTf0

初めて出会った時の感動。

彼を遥かにしのぐ天賦の才。

真摯に修行に取り組む精神。

体格からは想像もつかない、勇猛果敢な戦い方。

脇山珠美に剣を教えられたことは、

彼にとって望外の喜びだった。

だからこそ、彼女から“アイドルになった”と打ち明けられた時、

彼は困惑した。

街で歩いていたら、突然スカウトされたのだという。

しかも相手は、天下の美城プロダクション。

騙されていると思った。

しかし、美城プロダクションに確認を取ると、

たしかに脇山珠美は候補生として所属扱いになっていた。



4:2018/05/29(火) 23:12:31.43 ID:X1ZFxUTf0


彼ははじめ、“なぜ自分に相談もせず”と憤った。

だがしばらく考えてみると、当然とも思った。

年頃の少女にとって、剣道の修行漬けの毎日は不毛である。

そして、剣道は道場経営・大学専属コーチなどを除けば、金にならない。

さらにその経営者、コーチの大半は男性で占められている。

日本は、女性が剣一本では食っていける社会ではない。

アイドルになりたいというなら、

少しくらい夢を見させてやってもいいではないか。

別に、デビューできると決まったわけでもない……。



5:2018/05/29(火) 23:13:06.78 ID:X1ZFxUTf0

だが彼の予想に反して、脇山珠美のデビューは

トントン拍子に決定した。

彼は驚きながらも、妙に納得するところがあった。

脇山珠美は愛らしい少女だ。

さらっと爽やかな栗色の毛。

ぱっちりとした瞳。

形の良い、小さな鼻

笑顔が似合う、やわらかな頬。

プロポーションはこれからに期待、といったところだが。

加え、物事に手を抜かない、手を抜けない実直さ。

きっと養成所で、めきめきと頭角を現していったのだろう。



6:2018/05/29(火) 23:13:39.13 ID:X1ZFxUTf0

デビューの予定が定まったとなると、彼は一層、

脇山珠美の才が惜しくなった。

彼女はアイドルになる決めた時から、道場に顔を出す頻度が下がった。

一流の武芸者が1日修行を怠ると、勘を取り戻すのに3日かかる。

1週間休むと丸々1ヶ月。

1ヶ月以上休むと、いくら才能があっても錆び付く。

半年以上となると、もう使い物にならない。

懸命に修行に取り組んでも、前と同程度に届けば幸い、

大抵は第一線から置いていかれ、必ず後悔する。



7:2018/05/29(火) 23:14:19.92 ID:X1ZFxUTf0

彼は脇山珠美に、“アイドルになるのをやめてくれ”と頼んだ。

彼女が剣のみに生きてくれるなら、いずれ道場を譲ってもよいとさえ思った。

雇ってもらえるよう各大学に土下座しても構わない。

それも無理なら、一生かけて彼女を養うつもりだった。

だが、彼女の意志は固かった。

彼女は脇山珠美だから。

彼は断られるのは予想していた。

なので、“自分から一本を取れたら、アイドルになってもいい”と言った。

とんでもない横暴。パワーハラスメントの極み。

これしか策が思いつかなった。

彼は一度も、脇山珠美に負けたことはない。

彼女に才があるとはいえ、体格で大きく優っているし、

なにより経験が違う。

だが、脇山珠美はその条件を飲んだ。



8:2018/05/29(火) 23:14:59.78 ID:X1ZFxUTf0

道場の、立て付けの悪い戸が開く。

脇山珠美がやってきた。

きたな。彼は言った。

きました。彼女は言った。

それからは言葉もなく、両者は防具を身につけた。

道場の中心で向かい合う。

彼の体格は169cm、68kg。

男としては大柄ではないが、脇山珠美に比べれば優位。

同時に振れば先に届く。

彼は中段に構えた。

対して、脇山珠美は大上段に構えた。



9:2018/05/29(火) 23:15:50.10 ID:X1ZFxUTf0

彼は驚いた。

大上段は、振り上げの動作を先取りするため攻撃に移りやすい。

その一方で、面と胴が完全に空く。

つまり、相手の攻撃が先に届くような状況で取る構えではない。

脇山珠美には、あるのだ。

師より速く、正確に打ち込む自信が。

舐めるなよ。

彼は奥歯を噛んで、ジリジリと距離を詰めた。

こちらからは初手は取らない。

脇山珠美からの攻撃を、全て弾く。

アイドルになるという心を完全に折ってから、倒す。



10:2018/05/29(火) 23:16:30.70 ID:X1ZFxUTf0

脇山珠美が踏み込み、振り下ろす。

彼は受け止めた。

そして驚愕する。

以前は竹刀の中心で受けていたのに、

今は鍔競りの形になっている。

格段に速くなっている。

さらに威力も向上している。

剣に体重を、余すところなく乗せているのだ。

間合いの優位は消失した。

だがそれでも。

彼は竹刀を押して、脇山珠美を突き放した。

力はまだ彼の方が上。

もっと、もっと打ち込んでこい。

彼は竹刀を小さく振った。



11:2018/05/29(火) 23:17:04.42 ID:X1ZFxUTf0

それに合わせるように、脇山珠美が動く。

左からの胴。

これも防ぐ。だが、彼は腕に痺れを覚えた。

彼の知っている脇山珠美の動きは、よく言えば剛直、

悪く言えば、直線的で分かりやすい。

だが、現在は流水のようになめらかで、非常に読み辛い。

体さばき、重心の移動が格段に上手くなっている。

それでも彼は、攻撃を仕掛けない。

相手の倍の年月を生きて、剣だけに生きてきた。

アイドルが……。



12:2018/05/29(火) 23:17:40.30 ID:X1ZFxUTf0

次に繰り出されたのは、裏からの払い。

彼はやや下がり、竹刀を合わせる。

小手を狙われていた。

彼の首筋に、じわりと汗が流れる

脇山珠美の身体が、やけに大きく見える。

彼は威圧され、ゆえに無意識に後退してしまった。

払い小手の回避は、その無意識に助けられた。

しかし身体を襲うプレッシャーは、集中力を蝕み、

体力を著しく消耗させる。

彼はその後、数度攻撃をしのいだが、息切れを起こしてしまった。



13:2018/05/29(火) 23:18:53.08 ID:X1ZFxUTf0

こんなことは初めてだった。

一方の脇山珠美は、呼吸も構えも全く乱れていない。

養成所でのレッスン。

不適合者を容赦なく振り落とす、地獄の有酸素運動の毎日。

脇山珠美は、それをくぐり抜けた。

彼は余裕を失い、先ほどの決意も忘れ、自分から打ち込んだ。

面から竹刀を合わせての、払い胴。

だが脇山珠美は、師よりも一歩先に踏み込み、華麗に面を決めた。



14:2018/05/29(火) 23:19:43.02 ID:X1ZFxUTf0

いくのか。彼は道場の中心で仰向けになり、肩で息をしながら言った。

いってきます。彼女は戸を静かに開き、道場から去った。

実に、良い笑顔だった。




15:2018/05/29(火) 23:20:20.98 ID:X1ZFxUTf0

アイドルになれば剣道が強くなるのだろうか。

俺も強くなりたい、と彼は呟いた。

すると、戸が開いた。

「力が……欲しいか」

彼がそちらに顔を向けると、黒いスーツの男が、

直立不動で名刺を差し出していた。



16:2018/05/29(火) 23:20:54.25 ID:X1ZFxUTf0

おわり

過去を捏造してすいませんでした


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