2016年12月31日

ご挨拶

森最小

ようこそ「思索の木蔭」へ。管理人の荻野誠人です。当ブログでは、心のあ
り方や生き方などを自分なりに考えた文章を載せていきたいと思います。同好
の方と交流できればうれしいです。皆さんのご意見もお聞かせください。

ブログの文章は、最近書かれたものが中心に読まれる傾向がありますが、
古くても出来れば読んでいただきたいものもあります。以下は、2012年以前の
文章で、私の考えのもとになっているものです。古い順です。よろしかったら、どうぞ。

自分は知り尽くせない失敗の勧め自分を好きになれない人へ死生観の自由
不仲もまたよし「暗い性格」の復権正論の攻撃メールの人間関係と寛容
目の前の人「ありのまま」と努力わたしが人を批判できなくなったわけ
人生に定められた目的はない時には「逃げてもいい」他人の感動
自由な心

このブログには掲示板やBBSがありませんので、この「ご挨拶」のコメント欄を
代わりにお使いください。

アメーバさんで「心を大切に」というグルっぽ(コミュニティー)を開設しました。
よろしかったら、一度のぞいてやってください。

え〜、それから、先日私の小さなエッセイ「『木星感謝の日』を」が賞を
頂きました。拙文が人様から評価されるなんて、最初で最後でしょう。
その発表のページを、よろしかったら、どうぞご覧ください。

「ブログ村」さんの催しで当ブログの記事を投稿して優勝させて頂きました。
ご町内の「のど自慢大会」みたいな気軽な感じですので、お時間がありましたら、
ちょっとのぞいてやってください。
 なんで人は生きるんでしょうねトーナメント 参加者37名。
 日本をより良くしたい!3トーナメント 参加者23名。
 人間関係トーナメント 参加者45名。
 超空想・・・トーナメント 参加者28名。
 嫌な夢トーナメント 参加者13名。
 古代ローマ映画トーナメント 参加者13名。
 初夏は読書トーナメント 参加者49名。
 ちょっとした文句トーナメント 参加者32名。
 小さな親切トーナメント 参加者22名。
 自分で自分を誉めようトーナメント 参加者41名。
 心遣いトーナメント 参加者11名。

長々とご挨拶、失礼しました。では、どうぞよろしくお願いいたします。

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kokoro_no_fukei at 16:00コメント(27)トラックバック(0)雑文 

2016年05月26日

「生きた」プレゼント


 昔々のこと。ある外国人家族にお世話になったので、お礼のプレゼントを差し上げることにしました。旦那さんは、なぜか動物が苦手でした。そこで・・・。

 それが何の日だったかもう忘れました。とにかくそのお宅で、奥さんや子供たちもいるところで、プレゼントを手渡す直前に、私は「プレゼントは生きてます」と言いました。その瞬間、旦那さんの顔がこわばります。「生きてる?!」

 すかさず私は別の部屋に飛んで行って、隠してあったプレゼントを持ってきました。それは・・・盆栽でした。旦那さんはホッとした顔になって「オー、オー」と声を出し、ほかの家族も皆笑顔になりました。旦那さんは庭で花などを育てていましたので、植物は好きだったのでしょう。こういう、人をちょっとびっくりさせることが、その家族のお好みだったようです。

 その盆栽が何の木だったか覚えていませんが、私でも買えた安物で、ひょっとすると本格的なものではなかったかもしれません。一応育て方の英文パンフレットと肥料も差し上げました。

 あれからずいぶん経ちますが、あの盆栽、今どうなっていますか・・・。振り返ると、余りいいプレゼントではなかったかもしれませんが。つい先日、テレビで盆栽が外国人にも人気だというニュースを見て、思い出した出来事でした。





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kokoro_no_fukei at 08:00コメント(0)トラックバック(0) 

2016年05月20日

人の不幸に・・・


 ある女性がブログで家族の死を静かにつづっていました。

 それに対して、私が最初にそのブログに行った時点では、「いいね!」が10件余り。書き込みはありませんでした。そのことにどうも違和感が・・・。もちろん、人の不幸をいいことだ、などと思ったのでないことは分かりますが。

 肝腎なのは、そのブログの主宰者がどう受け取っているかでしょうが、そのような立ち入ったことを尋ねるほどの間柄でもなく・・・。ひょっとしたら、全然気にしていないかもしれません。そういう人が多数派なのかもしれません。ですが、私がその人なら、ちょっと納得できない気持ちになるかも、と思ったのが、この文章を書くきっかけでした。

 「いいね!」を押した人にも言い分はあるでしょう。

 ・・・それは単に「読んだよ」という意味なんだ。・・・弔意を込めてクリックしたんだけど。・・・ブログに「いいね!」しか選択肢がないので、やむをえず・・・。

 それぞれ分かります。柔軟な受け止め方をする方がいいのでしょう。それに「悲しい」「がんばれ」のようなボタンがあったら、多くの人がそれを押したでしょうし。

 でも、そんなに時間がかかるわけでもないですし、やはり何か一言お悔やみを書いた方がより良かったのではないかと・・・。人生の一大事なんですから。



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kokoro_no_fukei at 10:00コメント(0)トラックバック(0)出来事雑文 

2016年05月14日

「いいこと」依存症


 あるテレビ番組で有名人の犯罪をきっかけに依存症が取り上げられていました。

 ホストクラブ、ぬいぐるみ、ミュージカル、野球の巨人戦、といったものに大金をつぎ込む人たちが紹介されていました。それだけ夢中になれるものがあって幸せだという見方もあるでしょうが、個人の自由とはいえ、将来の人生設計が成り立たなくなりそうで、ちょっと心配です。余計なお節介になるかもしれませんが、周囲の人が見守った方がいいのではないかという気がしました。

 依存症には実に色々なものがあるようです。アルコールやギャンブルなどはよく聞きますが、家庭を顧みないような極端な仕事中毒もその一つとか。

 想像してみましたが、ひょっとすると、「いいこと」依存症などというのも、あるかもしれません。いつも親切などのいいことをしていないと気が済まないタイプです。こういう人は、周囲から褒められ、愛され、尊敬されるので、自分を懐疑的な目で見る機会には余り恵まれません。そもそも自分の生き方に問題があるなんて思えないでしょう。

 いいことがごく自然にやれていれば、本当に立派な人です。でも、そうでなければ、どこかに無理があるのなら、時々は怠けたり、ばかばかしいことをやったりするのもいいかもしれません。その方がいいことをより長く続けられるのではないでしょうか。あくまで、そういう人がいれば、の話ですが・・・。




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kokoro_no_fukei at 08:00コメント(0)トラックバック(0)思索雑文 

2016年05月09日

枝切り


 今年からお隣さんが町内会の班長になってくれました。

 私が世帯調査アンケートの書類をお隣さんに届けたときに、奥さんに「うちの庭からはみ出している木の枝を切りたいんですけど、そちらの敷地に脚立を持ち込んで切ってもいいですか」とお願いして、了解を得ました。それまで自分の庭からですと、どうしてもうまく切れない枝があったのです。

 たったこれだけのことを言うまでに、ずいぶん長い時間が過ぎていたと思います。ふだん話す機会がないので。玄関が互いに別の道に面していることもあって、偶然顔を合わせることもほとんどありません。まさに都会。お隣さんが引っ越してきたとき、赤ちゃんだった子はもう歩けるようになっていました。

 そんなこと、さっさと訪ねたり電話したりして言えばいいじゃないか、という声が出るでしょうね。はい、その通りです。まったく、非社交的で引っ込み思案なもので・・・。(^^;)

 数日後、お隣さんに声をかけて、敷地に脚立を持ち込んで、枝切りをしました。やっぱりお隣の敷地からですと、楽に手が届いて、ずっとやりやすかったですね。それでも、不器用ですし、慣れていないので、脚立から落ちないよう、おっかなびっくり。木全体の姿を考えるなんて余裕はなく、突き出た枝をのこぎりとはさみでひたすら切りました。

CIMG1705

 せいぜい30分ぐらいしかやらなかったと思うんですが、それでも写真の通りかなり大量の枝が・・・。植物の生命力はすごい。お隣さんのインターフォンにお礼を言ってその日の作業を終えました。

 後日、その枝を短く切り、ビニール袋に詰めて、ゴミとして出しました。こちらの方が手間がかかりましたけど。

 枝切りがきっかけで、お隣さんと話しやすくなったのは、成果でした。




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kokoro_no_fukei at 09:30コメント(0)トラックバック(0)出来事雑文 

2016年04月29日

不必要な発言


 「専業主婦って暇なんだよね〜」と言われて頭に来たという話。よく聞きますね。私の周囲でも最近ありました。今、この瞬間にも日本のあちこちでそのせりふが飛びかっているのでしょう。

 確かに、仕事と家事・育児の両方をやっている人よりは、自由な時間が多いのかもしれません。しかし、頭に来た理由はそれを指摘されたからではないでしょう。

 「専業主婦って・・・」というせりふに、専業主婦に対するあなどりといったものが感じられるから、怒るのではないでしょうか。

 おそらく発言した人の一部にはそういう思いがあるのでしょう。そして、相手の反応を見、自分の優位を確認して悦に入るわけです。

 もっとも、忙しい人の方が暇な人より上とか偉いとかいうことはないと思うんですけど・・・。

 専業主婦だけでなく他人を馬鹿にするような言動は、どんな場合でも必要ないんじゃないでしょうか。そりゃあ、私も含めて多くの人がそういう思いを抱くことはあるでしょう。自分の方が勝ってるんだ、と思いたいですから。

 しかし、それを言葉にしてしまえば、人間関係はこわれます。一瞬自己満足できるだけで、自分の株は下がり、敵ばかり作って、なんのいいところもありません。

 人のためになることを積極的にするのはなかなか大変ですが、不必要なことを言わないだけでも、実は陰ながら人間関係に大いに貢献しているのだと思います。




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kokoro_no_fukei at 13:56コメント(0)トラックバック(0) 

2016年04月17日

思いを批判するのは・・・


 あるテレビ番組で、待機児童のいる8人のお母さんに「一瞬でも『産まなきゃよかった』と思うことありますか」と質問をしたそうです。すると、4人がイエスのボタンを押したとのこと。それに対してネット上で「甘ったれるな」「母親失格」等の批判的な意見が多く出たとか・・・。番組をきっかけにしたアンケートの一つをのぞいてみますと、書き込まれた意見の中では「思ったことがある」という意見の方が少数派でした。

 番組での心情の吐露は、自分から積極的に発言するスピーチやブログのようなものとは違うでしょう。いわば胸に秘めた思いではないでしょうか。その思いを尋ねられて表明しただけで、堰を切ったように批判が始まるというのは、どうも分からないのですが・・・。

 そのお母さんたちが、何か問題のある育児をしているというのなら、批判も分かります。その問題の原因が心の中の思いなら、思いを批判するのも自然な流れでしょう。しかし、問題のある育児をしているかどうか分からない段階で批判を始めるというのは、早過ぎるのではないか、と。

 「産まなきゃよかった」などと思わない方がいいに決まっています。しかし、どうでしょうか、少なからぬ人が、長い人生を歩んでいくうちには、つらい状況に陥ったりして、例えば人の不幸を願うなど、良くない思いを抱く瞬間があるのではないでしょうか。みんながみんな聖人君子ではないのですから。

 それでも、ほとんどの人がそういう思いを表に出すことなく、自分を律して生きています。それはそれで立派な生き方でしょう。さらに、そういう思いを抱いたことを自覚している人は、謙虚に振る舞い、人には寛容で、人の苦しみも理解できるかもしれません。思いが必ずしも行ないに直結するわけではありません。

 ですので、上記のお母さんたちも、たとえイエスのボタンを押したとしても、しっかり育児さえやっていれば、特に批判されるようなことはないと思うのです。



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kokoro_no_fukei at 09:00コメント(2)トラックバック(0)思索出来事 

2016年03月28日

完全主義と偉人伝


 完全主義。あまりいい印象を与えない言葉かもしれません。

 成人する以前の私はかなりの完全主義者でした。手抜きをせず、自分に厳しかったですし、自責の念も強く、小さな失敗や欠点も見過ごせませんでした。

 しかも私の完全主義はたちが悪かったと思います。なぜなら、偉そうに他人にも完全であることを求め、欠点や失敗を責めたりしたからです。完全主義を全面否定するつもりはありませんが、今振り返ると、自分の心にも負担が大きかったと思います。しかし、当時はそんな自分のあり方を特に問題だとは思っていませんでした。

 それが成人して以降、完全主義から次第に離れていったのは、その弊害を説く文章に何度も接して、自分でも納得していったからです。完全主義は疲れる、緊張するといった主張があったかと思うのですが、それに共感したのは、自分も心の底で長年同じように感じていたからでしょう。完全主義から離れるにつれて、何か解放されたような気持ちになっていったものです。

 同時に他人の欠点や失敗も段々気にならなくなりました。そういうものに気づかなくなったわけではありませんが、批判することが減っていったのです。それにつれて、もめごとの絶えなかった人間関係も次第に穏和なものに変わっていくことになります。ただ、この変化には、当時、少しずつ他人の立場に立てるようになり、思いやりも多少は身についてきたといったことも影響しているでしょうが。

 完全主義者だった私が言うのはおかしいでしょうが、そもそも「完全」という言葉には、何か自分には合わないものも感じます。完全というのは、すばらしいことはすばらしいのですが、その言葉の与える印象には、固定している、きゅうくつ、それ以上伸びない、といったものもありました。それよりは、天井のない、どこまでも自由に伸びていける境地の方が今の私は好きです。

 完全主義が性に合っている人もいることでしょう。そういう人は完全主義で何も問題ないと思います。例えば、細かいところもおろそかにしない芸術家は、完成度の高い作品を生み出せるのではないでしょうか。また、仕事は完全主義だが、それ以外はおおらかに、というように、場合によって使い分けるという生き方もあると思います。

 では、なぜ私は子供の頃から完全主義者だったのでしょうか。両親は完全主義には無縁の人でした。周りから教え込まれたのではありません。これはあくまで仮説ですが、原因は小学生の頃から多読した偉人伝ではないかと考えています。

 私は本が好きでしたし、両親は惜しみなく本を買ってくれました。その中には子ども向けの偉人伝がたくさん含まれていました。

 野口英世、豊臣秀吉、二宮金次郎、宮本武蔵、リンカーン、キュリー夫人、ヘレンケラー・・・。私はすばらしい人たちに大きく心を動かされました。あんな人たちになりたいと思ったものです。これはかなり強い思いでした。今の私の心の中にも、世の中のためになりたいという気持ちがあるのですが、それは偉人伝のおかげが大きいのではないかと思います。偉人伝を読んだのは、間違いなくよかったのです。

 ところが、両親や偉人伝の作者にとって予想外のことも起こりました。「偉人のようになろうとしている僕はなんて偉いんだろう。それに比べれば、自分のことばかり考えている周りの人間は本当にくだらない」。次第にそう思うようになったのです。

 偉人伝中の偉人は理想化されて、完全な人として描かれていました。ですので、私も完全を目指して完全主義者になっていったのです。そして、そんな偉人を基準として人を判断するのですから、他人に対しては非常に厳しくなりました。以上が私の仮説です。

 もちろんすべてを偉人伝のせいにするつもりはありません。偉人伝を多読する子供がみんな私のようになるでしょうか。いや、むしろそういう子供は珍しいでしょう。私の傲慢で不寛容な完全主義は、偉人伝を都合のいいように利用する私自身の資質がなければ生まれませんでした。例えば、偉人たちは人には優しくて、決して欠点や失敗を責めたてたりはしなかったはずです。しかし、私はそういう美点をまねすることはなかったのです。

 上記のような途方もない思い上がりは小中学生ぐらいだから大目に見てもらえるので、そのまま大人になったら、とんでもないことになるところでした。

 今やかつての完全主義者はすっかり物分かりがよくなって、少年少女に「甘いー」と評されるまでに。これが好ましい変化かどうかは判断が分かれるかもしれませんが、少なくとも私は、まあこれでいいんだろうとおおむね受け入れています。




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kokoro_no_fukei at 10:00コメント(0)トラックバック(0)思索出来事 

2016年03月20日

愚痴でもいいから


 ネット上の知人が、困った状況に陥っているらしいです。常識の枠をはずれた出来事で、なかなか理解が難しいです。それを私が知ったのは、その知人がブログでそう書いたから。

 やっぱりSOSを発信することって大事だと思うんですね。

 知人は、自分の文章を「愚痴」と言って卑下していました。私は余り愚痴だとは思いませんでしたが、仮に愚痴でも、いいじゃないですか。一人で抱え込んでいるよりは、ましです。つらい状況では、なかなかいい智恵はわいてこないものです。

 すべての愚痴がいいとは思いませんけど、こういう場合はむしろ言ってくれてよかったのではないかという気さえします。黙っていれば、知人にじかに接していない私などは状況を知りようがありません。

 もっとも、知ったところで、少し提案したぐらいで何もできませんでしたけど、他の人は色々な励ましやアイデアを書き込んでいました。今は一応小康状態に入っているようですが・・・。

 時々、周囲に何も言わずに、痛ましい結末を迎えてしまうニュースが届きます。それぞれ言えない事情はあったのでしょうが、それでも、どんな形でも、誰かに何か言えばなあ・・・という思いがやみません。





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kokoro_no_fukei at 10:00コメント(0)トラックバック(0)出来事思索 

2016年02月21日

私を変えたキツイ言葉たち



 最近ネット上の友人と「自分を変えた言葉」という話題で話す機会がありました。それをきっかけに、問題の多かった私の性格を変えた言葉を思い出してみました。

 ここでは、本ではなく、人から言われた言葉に限り、まず列挙します。説明はあとでつけます。     

1 「石を投げれば、荻野が嫌いだという奴に当たるよ」
2 「君は人の欠点をつくのはうまい。だけど、その欠点を直してやろうという気はあるのかい」
3 「荻野君て、愚痴言うの好きね〜」
4 「お前、あいつら(同じ歳の仲間)をバカにしてるな。人をバカにするときは同じ価値しかないんだ」
5 「切り捨てたりしないで、全員受け入れてやればいいじゃないか」
6 「せっかく協力しようと張り切ってやって来たのに、荻野君の(突き放すような)言葉でやる気なくなったらしいよ」

 これらはみな、性格が最も変わった、宗教をやっていた18歳から24歳ごろに、周囲の信者たちからかけられた言葉です。実際には、この何十倍もの言葉が投げかけられたはずですが、長い年月が経ってみんな忘れてしまいました。

 記憶に残っていたのは、すべて私にとってはありがたい言葉なのですが、ずいぶんとキツイものばかりです。でも自業自得でしょう。当時の性格を如実に表しています。褒め言葉も多くちょうだいしましたが、それは自信や宗教をやる原動力にはなりましたが、性格を変えることはさほどなかったようです。

 ところで、ネット上の友人は、言葉が単独で人を変えるのではなく、言葉が発せられたときの状況や聞く側の受け入れ態勢といったものが整って初めて人を変えるのだろうと主張しましたが、その通りでしょう。私が聞く耳をもたなかったら、せっかくのいい言葉も徒花に終わったでしょうから。

 以下、説明します。ただし、記憶だけに頼っていますので、不正確なところがあると思いますが。
 
 1 「石を投げれば、荻野が嫌いだという奴に当たるよ

 1と2は早世した同じ歳の親友に言われたものです。私たちは、学生信者の中で指導的な立場にいました。

 それまである程度の自覚はありましたが、面と向かってはっきり言われますと、かなりの衝撃でした。ですから、よく覚えているのです。

 しかし、この言葉は私の出発点になりました。現状のひどさを思い知り、そこから何とか脱けださなくてはならないという思いを強くしたのです。

 親友は余り感情的にならない人でしたが、このときは堪忍袋の緒が切れたのかもしれません。私は悔しまぎれに「君なんか、何の感化力もないじゃないか」と言い返しましたが、大人げないこと、この上なしでした。ずいぶん傷つけたようです。

 2 「君は人の欠点をつくのはうまい。だけど、その欠点を直してやろうという気はあるのかい

 これは、当時の私の問題点をえぐり出したもので、ぐうの音も出ないとは、まさにこのことです。

 私は自分の考え方を変えざるを得ませんでした。と言っても、欠点を直してあげようという考え方を取り入れても、それだけで肝腎の他人に対する思いやりが直ぐにわいてきたわけではありません。そうなるまでには実に長い年月が必要でした。しかし、少なくとも思いやりを導く水路のような役割は果たしたのではないかと思います。

 2は確か学生の会議の席上で言われたもので、大いに面目を失いました。少なくともそう感じました。

 こう言われた頃はまだ友人とは呼べない関係だったと思いますが、次第に親しい間柄になっていきました。優秀な人で人望もあり、早く亡くなったことは、私の人生にとっても大きな痛手でした。
 
 3 「荻野君て、愚痴言うの好きね〜

 これは10歳くらい年上の女性指導者に言われたものです。皮肉まじりの口調でした。当時の私は愚痴ってばかりいましたが、そうからかわれたのが悔しくて、それ以来ぴたりと言わなくなってしまいました。私が個々の欠点を直すのには、ふつう年単位の時間がかかったものですが、この時ばかりは一瞬でした。自分でもみっともないと思ったのです。

 なお今の私は、愚痴はいいとは思っていませんが、他人の愚痴をすべて否定しようとはしません。

 4 「お前、あいつら(同じ歳の仲間)をバカにしてるな。人をバカにするときは、同じ価値しかないんだ

 これは10歳くらい年上の男性指導者に言われたものです。口調が厳しかったのを覚えています。この人は「同じ価値」ではなくて「相手以下の価値」と言おうとしたのではないかと思います。性格の激しい人でしたが、色々とお世話になりました。

 確かに人をバカにするのは私の悪癖でした。ただ、そう指摘されるまではそれほど意識していなかったように思います。ですので、新たな課題を見つけたという形になり、改善に取り組んでいきました。この欠点の修正についてはこちらで少し詳しく述べています。

5 「切り捨てたりしないで、全員受け入れてやればいいじゃないか

 これは、2歳年上の学生指導者の言葉です。

 私たち学生信者は、県単位で夏休みに合宿を行なっていました。ある夏休み、参加希望者が非常に多くて、施設に収容しきれないことが分かりました。そこで、合宿運営側の会議で、あとから申し込みをした人達を断ろうと決めたのです。責任者は私でした。5は、そのことを聞きつけた先輩が私たちに向かって発した言葉です。そして、合宿を2回やれば済むじゃないか、と批判してきました。

 合宿は大がかりなもので、2回やるのは運営側にとって大きな負担でした。アルバイトなどで忙しい中を参加している人もいましたし。しかし、参加希望者を断るというのは、自分の都合を優先させた冷たい判断だと言われてもしかたありません。自己犠牲を唱える宗教の信者なら、少なくとも参加者の希望に何とか応えようと考えるべきでした。そういう発想が心にまるで浮かばなかったということは、愛情の乏しさを表しています。

 結局合宿は2回行なわれました。大変でしたが、特に大きな問題もなく終えることができたように覚えています。

 こういった出来事をきっかけに、何を中心に考えるべきなのか、といったことを考える習慣が心の中に徐々に形作られていったのではないかと思います。

 先輩は、口八丁手八丁といった感じで、当時特別の印象はなかったのですが、今思い出すと、優しく温かい人だったようで、私のことも考えてくれていたようです。

 6 「せっかく協力しようと張り切ってやって来たのに、荻野君の(突き放すような)言葉でやる気なくなったらしいよ

 これは、1歳年下の後輩信者に言われた言葉です。

 合宿に協力しようとやってきた母親世代の人たちに私が説明をしたのですが、「学生の自主性を育てたいので、余り口出しをしないでください」というようなことを言ったらしいのです。

 その趣旨が間違っていたとは思いませんが、わざわざ奉仕しようとやって来た目上の人たちに対する感謝やねぎらいといったものが欠けていたのが、非常にまずかったです。それがもろに態度に出てしまったのでしょう。6を言われたときは、自分の至らなさや言葉の未熟さを痛感しました。言われなければいつまでも気づかなかったはずです。

 今では言葉づかいに気をつけ、人の気持ちをくんで尊重しようと努力するようになっていますが、この後輩の言葉が一つのきっかけとなったのでしょう。なお、この人は現在も私の友人です。
 
 私が宗教をやっていたのはそれほど長期間ではありませんでしたが、性格を形作る上で決定的な役割を果たしてくれました。相手の性格に関わるようなことでも遠慮なく言い合える場というものには、なかなか出会えないのではないでしょうか。しかも、当時心の優れた人たちが多くいて、周囲から陰口を叩かれるだけの私を受け入れて指導してくれました。とても幸運でした。






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kokoro_no_fukei at 13:00コメント(2)トラックバック(0)出来事思索 
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