こころの時代

企業研修のファシリテーター、日々の雑感、徒然に

マティス国務長官、「狂犬」の意味

マティス国務長官

トランプ政権のマティス国務長官が
来日し、氏の異名が
"Mad Dog"=「狂犬」であることから、
日本に対してどのような姿勢で、
どのような要求をしてくるかが
関心の的になっていた。

ただこれに対して、某TV局の番組では
事情通のコメンテーターの方が、
「ここでいう"Mad Dog”に悪意はなく、
むしろ敬意・尊敬の念が込められている」
という趣旨の発言をされてた。

それに対し、別のコメンテーターから
「だとすると、例えば英語の慣用的表現で、
"Mad Dog”を「狂犬」という意味以外で
使うことがあるのですか? 」という質問が
投げかけられた。

ところがこの質問に対しては、
「特に慣用表現で別の意味はない」
と答えるにとどまり、何故、敬意・尊敬が
集まる人物に、"Mad Dog"なる異名が
つけられたのか、結局理解できなかった。

ところがあるブログにこの謎について
答えてくれる解説が載っていた。

その記述によれば、
そもそもマティス長官の出身である
海兵隊において「犬」とは、特別な意味を
もっているということであった。

第一次大戦中、アメリカ海兵隊は、
ドイツ軍の度重なる猛攻に耐えたことから、
ドイツ軍側から「魔犬」と呼ばれ、
その呼称を海兵隊自身も気に入り、
"Devil Dog”を自称するようになったらしい。

つまり、海兵隊にとって"Dog"は、
自身を表す象徴的な表現であり、
従って、マティス長官が"Mad Dog”という
異名で呼ばれることは、
「敵に恐れられているという名誉の証」
ということになる。

いずれにしても、
「7000冊の蔵書がある読書家」という
氏にまつわるエピソードと相まって、
TVのニュースで観るマティス長官の
凛として礼儀正しい振る舞いは、
文字通りの「狂犬」とは、
確かにほど遠いイメージであった。

考えてみれば、このあたりの
「狂犬」話で戦々恐々・・・も、
教養のあるやなしやに関わることなの
かもしれない。

そんなこともあり、
やけに小さな話になるけれど、
最近読書量が以前に比べて
少なくなっている小生としては、
真の修羅場を潜り抜けてきた
マティス氏のような人物にあらためて
「読書の大切さ」を語られると、
我が身を省み、それとなく気恥ずかしい
気持ちになるのである。




無意識の古層に残る

muishikitotaiwasuruhouhou

仕事仲間に薦められて
「無意識と対話する方法」(ワニ・プラス)
を読んでみた。

慶応義塾大学大学院教授
前野隆司先生と保井俊之先生の
対談形式で構成されている。

その28ページに、
この時代生きる人間として
常々私が感じていることを
端的に表現されている部分があった。
以下、そのまま抜粋する。

>保井
歴史において数々の文化と文化、
論理と論理がぶつかり合い、その都度
ある意味での勝ち負けが決まってきました。

ネイティブ・アメリカンも「征服」され
ましたが、負けたものが無になって
まったく消えるわけではありません。

論理ではない、意識されないところに
潜り込んでいくんです。

ですから、近年でいえば世界中に広がった
オキュパイ・ウォールストリート運動や、
香港での雨傘革命、
台湾のひまわり学生運動といった運動は
目的を必ずしも完全に達成することなく
終息しましたが、これらもまったく消えて
しまったわけではなく、
必ず人々の無意識の古層に残る。

そうしたものが私たちの次の振る舞いを
つくり出すのだと考えています。

>前野
「負けて勝つ」みたいなことでしょうか。
いや、むしろ負けてはいないのかも
しれませんね。

競争社会で打ち勝つ人を調べてみたら、
異常に闘争本能が強かったり、
極端なほどポジティブだったりするという
調査結果があるんです。

もし本当にそうだとすると、
現在社会は異常に勝ち好きな人が
勝ってしまう仕組みになっているのかも
しれません。普通の人は負けてしまう。

でも、本当は
彼らも勝っているんじゃなくて、
富や地位などを得ているから、
近代合理主義の価値観では一見、
成功しているように見えるだけじゃないか
ともいえます。

H VS T





信頼なければ業績見込めず

monkey

組織、チームにおいては、
メンバー同士の信頼関係がないと
本音をオープンにできない。

本音を言えば
足元をすくわれるかもしれない、
あるいは本音を言ったばかりに、
意見の対立が感情の対立に
発展するかもしれない。

したがって、
信頼のない組織・チームは
意見の対立を避ける。

意見の対立を避け、
本音で話し合いをせず、
表面的な議論に終始することになるから
この話し合いの結果=決定に
メンバーはコミットしない。
納得感がない。

コミットしていない結果に
従うのだから、やらされ感は満載、
責任感ももてない。

責任感のないメンバーで動くから
責任の所在もあいまいなままだ。

こうして、結果=成果に執着せず、
計画は進まず、業績は伸びない。

結果=業績が伸びなければ
ますます信頼し合う関係性が
築きにくくなり、同様のループが
強化されることになる。


 

トランプ賛成が多数派、反対は少数派

トランプ大統領

トランプ大統領が
中東やアフリカの7か国の人の
入国を一時的に禁止した大統領令が
不当な差別に当たり、憲法違反に
なるとの問題が呈せられている。

米国各地でデモが展開され、
トランプ大統領のこうした行動には
米国だけでなく、世界中で抗議デモが
行われているという。

イギリスでは トランプ大統領を
国賓として迎えるべきでない、と
170万人近い署名が集められ、
議会で検討されることになった。

またトランプ大統領の発した
大統領令に対し、異議を唱えた
司法省トップのイエーツ長官代行が
解任されたが、ここでは、
氏の毅然とした勇気ある行動が
賞賛されていると報道された。

イエーツ氏

こうしたマスコミから流される報道と、
これに一言付け加えられる
識者と称される人々のコメントを聴くと、
トランプ大統領の横暴ぶりに
世界中が一斉に非難の声をあげて
いるかのような印象を受ける。

ところが一方で、
ロイター通信の世論調査の結果が
明らかにされ、米国民の49%は
トランプ大統領の大統領令を支持、
反対はそれを下回る41%だという。

調査結果を見る限り、
ほぼ半数は大統領を支持しており、
しかも不支持の方が数としては
少ない少数派なのである。

マスコミの報道、論評を
眺めている限り、とてもそのような
状況にあるとは感じられない。

この数字を知らされなければ、
圧倒的に反対派が大多数で、
トランプ大統領はもはや就任早々
孤立してしまったかのようだ。

このような報道の在り方自体に
大きな問題を感じるが、それ以上に、
こうした「賛成49%」の数字があり、
賛成派多数であるにも関わらず、
相変わらずマスコミの論調は同じで、
「困ったもんです」的な典型的な
上からコメントだ。

ヒトラーを持ち出し、ルーズベルトの
日系人強制収容所政策を例えて
上から目線のお話で「賛成49%」を
たしなめている場合ではない。

今回の大統領令が
いかに矛盾をはらんでいる内容か、
そんな重箱の隅をつっつく話を
訴えても始まらない。

知性集団のマスコミやそこに
登場する人々は、
彼らの「正義の基準」に照らせば
とうてい承服しえない
この悪夢のような状況が、
何故49%もの人々に支持されるのか
真剣に考え、議論を土俵に
あげるべきである。

放置されたままになっている
もう一方の現実について、
正面から向き合い、口先だけの、
ステレオタイプの結論に落として
評論している状況ではない。

Trump!


怪しい研修がいっぱい

企業相手の研修業という仕事が
心に曇りなく働ける仕事かと言えば、
そんなことはない。

研修業もいろいろある。 

スキル研修はスキルを学ぶだけだから、
曇りあるもないもない。

むしろ問題は、
私の会社が扱うような領域、すなわち、
リーダーシップやチーム開発の研修だ。

ここには相当怪しい研修がはびこっている。

私もかつては企業の人事にいて
研修を受ける立場にあったから分かるが、
「はいはい、おっしゃる通り、
でも現実はそうは行きませんから」
参加者は常にそう思っている。

天才バカボン

こんな研修は
1000回やっても意味はない。
時間の無駄、カネの無駄、
誰もハッピーにならないという意味で
むしろ害がある。

これなら運営は単調であっても、
スキル研修を繰り返していた方が
ずっと世の中の役にたつし、
他人に迷惑をかけず、気が楽である。

研修を生業にして、
「こころに一点の曇りなく働ける」
と言うからには、
本当に役に立つものでなければ
ならない。

複雑性・多様性のある現実の中で
役にたつ研修であると言うなら、
そこには普遍的な解などあろうはずがない。

そして解を出すのは、実際のビジネスに
携わっている当事者である参加者自身である。

この前提にたって
意味ある研修を提供できるかどうかが、
この仕事に携わる者の
最も基本的で重要なスタンスだと
私は考えている。 

こちらが普遍的な解を提供できないのに
「意味のある研修だった」と感じていただける、
そんな研修でなければならない。

とは言え、毎回パーフェクトな研修に
なるとは限らない。

事前に落とし所がない真剣な研修で、
満足度100%以上の結果を
必ず残せる保証はない。

この意味での研修は生き物であり、
だからこそ、1回1回が真剣勝負である。



 

今の仕事、休日に思うこと

昨日まで、
成田のホテルで、
某企業さまの経営幹部オフィサイトの
運営とファシリテーション。

参加者の皆さんのご協力があり、
お陰様で実のある時間と空間を
ご提供できたと思う。

しかし、一般管理職の研修とは違い、
会社全体の舵取りの責任を担っている
人たちの集まりである。
ビジネスパーソンとして
人のレベルも違うし、真剣度も違う。
それはそれは神経を使う。

なので、プログラム中は
気が張っているので大丈夫だが、
終わると一気に疲労感に襲われる。

昨日休日は、午前中こそ仕事をしたが、
午後は、近所の参鶏湯屋に出かけ、
戻ってきたらそのまま眠ってしまった。 

目が覚めたら全豪オープン決勝、
フェデラーVSナダルの世紀の一戦、
もはや後半に突入していたが、
WOWOWの放送に見入った。


まだ体のダルさは抜けない。
頭もどこかぼーっとしたままである。


しかし、私は、今の仕事を
この上なく有難いと思っている。

私も10年前、今の職に就くまで
いろいろな仕事を経験してきた。

会社の経営をしていた時期もあったし、
深夜まで歩く外回りの営業もした。
仕事のない時期が続き、
工事現場の警備の仕事もした。
またブラックと言われるような企業で
ひたすら採用をしていた時期もある。


こうした過去のなかには、
正直、自己の良心に照らして
ある種の「やましさ」を感じつつ、
しかし「利益を上げるとはこういうこと」
などとどこかで自分を納得させながら
続けていたものもある。

率直に言えば、
そういう仕事の方が圧倒的に多かった。
そのことを否定する気持ちはない。

ただ今の仕事においては、
私自身の良心に照らして、
一点の曇りもない。
そう思える仕事である。

私自身、幼少のころから
世の中の裏をいろいろ見過ぎた
せいもあるだろう。
世の中、むしろ普通の仕事は、
何らか誰かの、あるいはどこかの
利益と相反するものであって、
従って、自己利益優先の観点から、
どこか「やましさ」が生まれて当然、
だからこそ一方で、
その「やましさ」を薄めるために
多くの利益を上げている者は、
得た利益の一部を、
社会に還元したり、慈善を行うのだ、
そんな考えをもっている。

私は子供の頃、
そばにいた大人に、
「世の中、
利益を上げるときは汚くなんだよ。
だからカネは綺麗に使うんだ」
と聞かされていた。

今でもこの考え方は、
広く現実に適っているように思う。

しかし、だからこそ、
今、私自身の仕事に関しては、
「一点の曇りない」と胸を張れる、
この自分の置かれている環境に、
感謝の念が尽きないのである。


休日、ぼーっとしながらも、
そんなことを考えながら過ごしていた。

ローマの休日



 

2017全豪オープン優勝はR.フェデラー

フェデラー

全豪オープンテニス・男子シングルス決勝、
ロジャー・フェデラーVSラファエル・ナダルは、
3時間半を超える大熱戦の末、フェデラーが
グランドスラム18回目の優勝を手にした。 

優勝が決まった瞬間、フェデラーは、
それまでの抑制がきいた振る舞いから
一気に豹変、 飛び上がって喜びを
爆発させた。その眼には涙が潤んでいた。

フェデラーは、2012年の全英オープン以来、
グランドスラムの優勝はない。

一方、ナダルも2013年の全米以来、
ずっと優勝から遠ざかっている。

二人ともかつてトップ選手として君臨、
しかし怪我などもあり、ここ数年不遇であった。
メディアなどでの評判は、
もはや世代交代によって、ピークを過ぎた
「過去の人」にされつつあった。

その二人が全豪の決勝で当たる。
この二人がファイナルで優勝を争うなんて、
誰が予想しただろうか?

この決勝の組み合わせを知ったとき、
最近にはなかった大きな期待感と、
同時に、どちらか一方にしか
勝利が与えられないという残酷な結果が
確実に訪れることに想いがおよび、
試合前から胸が締め付けられるような
気持ちになっていた。

果たして、優勝したのはフェデラー、
残酷な結果を受け入れねば
ならなかったのは、ナダルであった。

歓びを全身で表すフェデラーと
対象的に、敗者ナダルの落胆ぶりは
誰の目にも明らかであった。

優勝したフェデラーも、
「テニスは厳しいスポーツです。
引き分けがありません。
もし引き分けがあるなら、
ラファエルと分かち合ってもいい
という気持ちでした」 
とコメントしている。

とは言え、
この厳しさがあるからこそ、
人は本気になって頑張るのだし、
厳しさがあるゆえ、敗者に対しても
惜しみない賞賛と
労りの気持ちが生まれる。

まさに、人生とは、
こうあるべきだと思った。

そう思ったとき、
あらためてこの二人の
偉大なテニスプレーヤーに対する
賞賛と尊敬の念が沸き上がった。

素晴らしい試合だった。



53

1月で53になりました。

若かりし頃、
大人を見て想像していた
53歳と比べると、
自分は、うーん、という感じです。

この先、格好良く
生きていきたいですね、
地味に。

誰しも「格好良く」とは
思っているのでしょうけど。
自尊心って、
そういうことだと思うから。

ただ、何が「格好良く」なのかは、
人それぞれなのでしょうけど。

そこが問題なのでしょうけれど。

まあ、私は、
相当格好悪いです、
残念ながら。 



Life02


 

横綱・稀勢の里、万歳!

kisenosato

相撲ファンとしては、
稀勢の里の横綱昇進は、
まずは良かった。

でも父上は、親心として、
この昇進を気の毒な気持ちで
みているとのこと。

「横綱を期待された名大関 」のまま、
息長く大関を務めて終わる方が、
横綱として日々追い詰められた
精神状態で相撲を取り続けるより、
力士としては幸せではないか。

そう思う父上のお気持ちは
察して余りある。

とは言え、
当の稀勢の里関からすれば、
綱取りを期待され続けたまま、
土俵に上がらねばならなかったのは、
ずいぶんと辛かったことだろう。

「本番に弱い」
「プレッシャーに弱い」
「ここ一番で期待を裏切る」
などと言いたい放題言われ、
それで細く長く大関を続けるのは、
そう簡単なことではない。

それにしても今回の横綱昇進も、
「日本国民が期待していた」
なんて大げさな話になっているが、
そんなはずがない。

そもそもコアな相撲ファンは、
日本国民の何割いるというのだ?

少なくとも私の職場には
根っからの大相撲ファンはいないし、
稀勢の里の横綱昇進が話題に
なったこともない。

なので、稀勢の里関は、
「日本国民の横綱」なんて
誇大な話はどこふく風で、
気にする必要などまるでない。

1人の力士として、
これまで同様、
真摯に相撲道に精進すれば、
それで十分ご自身の務めは
果たされると思う。

横綱だろうが大関だろうが、
力士である以上、
土俵に上がって勝負に勝つだけ。
やることに変わりはない。

私は本心そう思うのだが、
とは言え、
期待を無視して役割が務まるような、
そんな甘っちょろい話が通らないのは、 
どの世界でも同じだろう。

自分の半径数メートル、
横綱だから数十メートルかもしれないが、
そんな周囲の声を気にしながら、 
「日本国民の横綱」として
ふるまって行かねばならいのだろう。


横綱・稀勢の里、万歳!

 

死んだらおしまい

matsukata_hiroki

昭和の大スター松方弘樹氏が亡くなった。

親友の梅宮辰夫氏のコメントが印象的だった。

「死んだらおしまいですよ」

何度も繰り返していた。

「遺品も花もない。
骨だけがバラバラになって出てきたんです。
悲しかった。
人間ってこんな簡単なのかとつくづく思った」

私も年末に父を亡くした。

火葬場で1時間ほどで
骨だけになって戻って来たとき、
同じような気持だった。

何十年もの時間を生き、
辛いことも苦しいこともあって、もがき続け、
それでも最後の姿は儚い、
実にあっけないものだと思った。

umemiya_tatsuo

梅宮氏の「死んだらおしまい」に
どんな想いが込められていたかは
わからない。

ただ、自分自身のことは文字通り、
「死んだらおしまい」だと考えている。

死んだ後に、続きはない。

私は、
目に見えない宇宙の力や、
人智の及ばない不思議が
この世に存在すると信じている。

信じてはいるが、
自分のような至らぬ人間が
そのような力を信じて、
お力をお借りするなど、
おこがましい。

死んだらおしまい、
自分の存在は
永久に「無」になると覚悟して、
潔く生きて、潔く死にたい。

もし死んだ続きがあれば
それは本当に儲けもの、
有難い話である。

その時はあらためて、
神に感謝したい。

合掌


 
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