February 23, 2012

スタバの幸福スタッフ

香りたつコーヒーとシナモンロール
朝、駅前に出ると、
ミーティングスタートまで
15分ある。
まだ間に合う。
どうしてもコーヒーがほしい。

スタバに駆け込んだ。

運の悪いことに、
いつもならこの時間、
レジに列を作って
待ち人がいることはないのだが、
今日に限って私の前に
4人待ち。

「これは駄目かな・・・。
間に合わないかもな」

ただ、いつもは
2人体制で受け付けているのに、
今朝のレジスタッフは一人。

見ると、
レジ脇の棚に並ぶ
カップだの何やらの
グッズの説明を、
もう一人のスタッフが、
客の求めに応じて
やっている。

とってもさわやかな笑顔で。

このカップは、
なんじゃらと、親切丁寧に
説明している。

その説明を
有り難そうに
聞き入っている客。

一方、
一人でレジ対応している
スタッフは赤ら顔。
あきらかに
あせりを浮かべている。

そうこうするうち、
私の後ろにも
また二人あらたな客が
列に並んだ。

ここのスタバは
店内が狭い。
7人の男女が
朝の慌しい時間のなかで、
辛抱強く待っている。

相変わらず
グッズの説明に
酔いしれている
スタッフは幸福そうだ。

馬鹿らしくなって
列から外れた。
店を出た。

外の風は冷たい。

一杯のコーヒーを
求めただけなのに、
なんで朝から
こんなに不快な気分に
ならなきゃならんのだ。

本当に不快。

自分の存在が
蔑ろにされたことで
怒っている
わけではない。

確かに
時間に追われて
イラついた自分が
いたことは認める。

しかし
この不快の根源は、
あの幸福スタッフの
無神経なふるまいである。

私だけでない。
あの場にいた
数名の男女の存在に
まるで配慮しない、
あの無神経さ、
あの鈍感さ、
あの無垢の微笑みに
不快さ極まるのである。

冬の風吹く
オフィスまでの道々、
スタバのコーヒーは
手にはない。

PCの入った
ずっしり重いカバンだけを
さみしく手にしながら、
あの幸福スタッフの
生い立ちやら、
家庭環境やら、
あることないこと
勝手な妄想をめぐらす。

「ああいう娘を
嫁にもらった日には
一生不幸になるだろう。
しかしながら確実に、
その不幸を手にする
男性が、おそらく
最低一人はこの地球上に
存在するわけだ」
などと、未来については
そこまで思う。

そこまで思ってしまう
自分の怒りの大きさに
少し怖くはなったが、
自責の念はない。

私の生い立ちは、
ああいうとんまな
振る舞いをしていると、
怒鳴られた挙句、
嫌味たっぷりで
なじられたりしたもんだが、
彼女の生い立ちに
そんな経験は
皆無なのであろう。

私のような
生きるのに余裕のない
育ちの悪い人間からすると、
あの鈍感さが
日常蔓延る
穏やかなる環境は、
想像すればするほど、
不気味に思えて
仕方がない。



それで?

あいすいません。
この話は
これで終わり。

そうは言っても、
よくある話です。
きっと。




kokoronojidai at 18:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!プライベート 

February 22, 2012

下地先生、そりゃ駄目ですよ

国民新党 下地幹事長
22日、衆議院予算委員会で
トホホなやり取りがあった。
野田総理と国民新党の
下地幹郎幹事長である。

国会で情けない
やりとりがあること自体は、
もはや日常の風景と
化してはいるのだが。

まず野田総理が、
消費税増税に際して、
連立を組む、国民新党の
下地幹事長に
いやらしいくらいの
御礼の言葉を述べていた。

国民新党の中でも
増税反対の声が強いなか、
下地幹事長が奮闘して
くださるからこそ、
党として意見が割れずに
済んでいる・・・として、
あの体の大きい
下地幹事長を大いに
持ち上げた。

確かに事実としては
下地幹事長の功績は
野田総理からすれば
とっても大きいのだろうが、
しかし連立を組んでる党の
幹事長としては当たり前の
仕事をしているわけである。

それを国会の場で、
日本国の総理大臣が
「おかげさまで」ってなもんで
腰低くして答弁するのも、
なんだかすぶんと
卑屈な姿勢に感じられた。

あんな感じで答弁する
国家のリーダーは
世界中見回しても、
野田総理だけじゃ
ないだろうか。

オバマ大統領が
やるとは思えないし、
いわんや
プーチンに至っては、
何度生まれ変わっても
あんな言い方は
することができないだろう。

現に、その野田総理の
答弁場面においては、
大口開けて笑っている
議員が何人もいた。

世界中のリーダーで
誰にも真似のできない、
卑屈に見えるくらいに
頭を垂れる事ができる
リーダー。それは、実は
器の大きい、
日本人のリーダーにしか
することのできない
尊敬に値する話・・・
ならばよいのだが。


さて、一方、
大いに持ち上げられた
下地幹事長。

これがまた
一国の総理が
そこまでして太鼓持ったにも
関わらず、情け容赦ない。
自信たっぷりに切り捨て、
突き放す。

このへんも嫌な気分。
あなた一体、何様なんだと。
このあたりの
微妙なバランス感覚が、
自分も日本人なのか。

「総理、そりゃあやりますよ。
連立組んでるんですからね」
とにべもない。

そして続けて
「ただし、
野田内閣の支持率が
今のままでは困ります。
せめて支持率50%ないと、
このまま消費増税賛成
とはいきません」

これもまた明け透けの
本音なのだろうけど、
この本音の意味する
ところが国民に
どう伝わるかを理解して
発言しているのだろうか?

要は、支持率50%にも
満たないなかで消費増税
に踏み切れば、
弱小政党の国民新党、
次期選挙では
壊滅状態になるのは必至。
なので、支持率が賛成の
交換条件だという話は
わかりやすい。

しかしである。
政治家たるもの、
本来、実行・実現すべき
政策がはじめにあるべきで、
「支持率が高くなければ
やりませんから」って、
ポピュリズム政治の
そのものではないか。

はじめに支持率ありきで、
支持されそうもない政策は、
それがどんなに
国家の命運を左右する
大事なものであっても、
国民に訴えない、
実現のために身を粉する
努力もしないなんて、
馬鹿げている。

こういう事態を
意味する内容のことを
恥ずかしげもなく
堂々と意気揚々と答弁する。

100歩譲って、
野田総理に支持率50%を
求めるにしても、
それこそ連立組んでいる
政党の幹事長なんだから、
あの丸投げ感は
ないだろう。

支持率50%を求める、
なので、野田総理には、
是非とも、
これとこれとこれは
速やかに実現してほしい。
そのために
国民新党としては、
こういう支援なり協力をする、
・・・そういう答弁を
するべきだろう。



ただ、こういうあり得ない
政治家たちの答弁を
周りで見ている国民が、
「あり得ない!」と
感じていないとしたら、
むしろそのことの方が
本当の問題なのかもしれない。













kokoronojidai at 21:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!政治・経済 

February 21, 2012

山口県光市母子殺害事件

遺族の本村さん
山口県光市の母子殺害事件。
20日最高裁判所で死刑の
判決が下された。
殺害当時被告が18歳という
ことで、厳罰で対処するより、
更生の機会を
与えるべきではないかという
争点に注目が集まっていた。

悲しいかな、
この類の事件にはよくある
ことで、この少年にもやはり
情状をくむべき事情はあった。
中学のとき母を自殺で亡くし、
高校2年で父親が再婚、
父親の暴力もあったやに
聞く。家庭に居場所が
ないまま、高校を出て就職。
10日目には無断欠勤、
14日目の犯行だった。

この少年の親の責任は重い。
極めて重い。

自分の子が
何の落ち度もない
二人の生命を残虐に奪った、
その罪と、わが子自身を
死刑に追いやった罪である。


死刑判決の是非については
改めて述べる気にならない。
私の中では、
この事件の死刑は
避けられないことだと
考えている。

一言だけいえば、
10000歩譲って
惨殺が「間違い」だったと
深く反省しても、
世の中には、
自己の生命をもって
償わなければならない
取り返しのつかない
「間違い」がある
ということである。

この説明の中に、
すべての想いが
込められている。


ところで、
マスコミの報道で
違和感を覚える説明がある。
被告人の実名報道のことだ。

実名報道の理由として、
すべてのマスコミが
同じ理由を挙げる。

「これまで被告人が、
犯行当時18歳の少年で、
今後、更生の可能性がある
かもしれないということで、
実名報道を控えてきたが、
死刑判決が確定し、
もはや更生の機会がない
ことになったので、実名報道
することにしました」

この説明には
強い違和感を覚える。
更生可能性の
ある・なしだけが
実名報道を決める
基準になっていることに
違和感がぬぐえない。

少年法の趣旨からすれば、
更生可能性の有無が
重要視されるのはその通りだが、
しかし、実名報道を
控える理由はそれだけでは
なかろう。

それは、犯行者が少年という
特殊性に鑑みて、
社会全体が彼の人格を
尊重する必要を
認めるからこそ
実名報道を
控えるのではないのか?

言うならば、
例え犯罪を行ったとしても、
社会全体から見れば、
未成熟な構成員に対しては
一定限度で保護すべき
対象だと考えるからこそ、
実名報道を控えるのであろう。

そうだとするなら、
死刑が確定して、
もはや更生の可能性は
ないから実名報道する、
という理屈は、
犯行時少年であった
ことに対する、
人格的尊重の理念が
まるで感じられないのである。

そればかりか、
死刑が確定し、
どうせ死んでしまう人間、
将来のない人間については、
犯行時少年であっても
配慮の必要などはない・・・
そんな、極めて冷淡な
印象を受けるのである。

むしろ、
死刑が確定すれば、
もはや被告人がシャバに
出てくることもないのだから、
社会に与える脅威もなく、
理屈で言えば、
実名報道の理由は
何も見当たらない。

国民の知る権利というが、
彼の実名を知ることが、
どのような利益に
結びつくというのか。
実名を知らなくても、
この問題が与えた社会的
インパクトについては
十分議論、考察することは
できるではないか。



何の落ち度もなく
恐怖と絶望の中で
命を奪われた母子が
いるなかで、
鬼畜のような所業を
犯した者の更生可能性を
未だに力説する人たち。

他方で、
「どうせ死んでしまうから」
ということで、
世間の覗き見趣味に
応えるだけの実名報道を
正義と称して報道する
人たち。

歪んでいる。














kokoronojidai at 12:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0)この記事をクリップ!事件 

February 20, 2012

日経ビジネス『オオクボの磁力』

20表紙
日経ビジネス2.20号
『オオクボの磁力~韓流の
聖地から問う日本の未来』
を読んでみた。

本当は、東洋経済を
買うつもりで駅の売店に
寄ったのだが、
日経のこのタイトルを
見てしまっては、
大久保在住者としては
購入しないわけには
いくまい。

もっとも読んでみて、
副題の「韓流の聖地から
問う日本の未来」というのは
やや大げさな気もしたが、
まあ、住民にとっては、
親近感もあり、
それなりに興味深く
読むことはできた。

一番印象に残ったのは、
やはり、今のこのブームも、
偶然が重なって起こった
現象ではなくて、
ブームの下地を作った
人々の努力・功績が
あるのだということ。

私は、ずっと東京の
西地区で生活していたので、
子供のころから、
大久保のいかがわしさに
ついては知っていた。

歌舞伎町の裏手に位置し、
路地裏には多国籍の
街娼が客引きのために
立っていた。
大久保といえば、
ラブホテルの街、という
イメージだった。

それがいつの間にか、
韓流の聖地とされ、
街娼の姿はなくなり、
ラブホテルも、
観光地化したことで、
事実上、営業できない
状態になっている。

ちなみに、
今、大久保の
建物の賃料は、
銀座の並木通りや
みゆき通りレベルまで
高騰しているという。
そんななかで、
事実上営業できない
状態に追い込まれた
ラブホテルが、店舗を
貸し出しているという。

キム・クンヒ氏
それはともかく。

記事によれば、
韓国化の源流は、
職安通りの韓国食材店、
「韓国広場」のオーナー、
キム・クンヒ氏だという。

1986年に研修生として
来日し、一橋大学院での
研究生活を経て、韓国の
生活文化をつくるため、
大久保に韓国食材店を
93年に開いた。

大久保を立地に
選んだのは、
当時から約500世帯の
韓国人・朝鮮人が
住んでおり、
歌舞伎町には韓国系の
食堂やスナックが
多かったので、
韓国食材の需要が
あると見込んだから。

また、職安通りは
バブル崩壊の影響で
空き店舗が目立ち、
新宿に近いにも関わらず
賃料は抑えられていた。

しかし、問題はやはり
治安だった。
地回りの暴力団関係者
からの脅しも
当然あったというが、
地域の人々と協力して
パトロールするなど、
街づくりに積極的に
関わった。

こうした人たちの
努力があって、
徐々に韓国人経営者が
大久保に集まった。
ただ、当時は、
韓国人相手の
ビジネスが中心で、
日本人相手の
韓流ビジネスが
花咲くのは、
日韓ワールドカップの
2002年、それに続く、
『冬のソナタ』2003年の
ヨン様ブームである。

もっとも現在の
大久保の賑わいは、
ウォン安で
韓国旅行が急増した
2008年頃から始まる
第2次韓流ブームである。

今のところ、
その勢いが衰える
様子はまったくない。
古くからの地元商店の
人々は困惑を
隠せないという。

もっとも
一日何万人も訪れる
観光客を前にしたら、
これをビジネスチャンスと
とらえない方が
どうかしていると
思うのだが、
ただ、現実には、
高齢の夫婦が
二人きりで営んでいる
果物屋とか、
お菓子屋なんかが
結構残っている。

まさに昭和も昭和、
店先に並んでいる
商品の量もスッカスカで、
失礼ながら、本当に
商売をしているのか、
していないのか
わからないような雰囲気。

そんな状態の店主に、
「ビジネスチャンスだから
商売換えしてでも
儲けないとそんですよ」
なんて言ったところで、
もうそんな流れには
なりそうもない。

静かに地元で
最後まで商売をして
終わりたかったのかも
しれないけれど、
世の中は変わる。
変わる波に
飲み込まれてしまった
ということか。


韓国には
「パリパリ」という言葉が
あるそうだ。
これは、韓国語で
「早く早く」という意味で、
元来は、「拙速で
失敗も多い」という
ネガティブな意味も
含むらしい。

しかし、大久保の
韓国人経営者たちは、
1件成功すると、
間髪入れずに、
2店舗目、3店舗目に
打って出る。

「失敗しても、すぐ撤退して
巻き返せば済むこと」
という考えが根付いている。

変化の激しい時代、
大久保に限らず、
「パリパリ気質」がなければ
生き残ることは
できないということか。







kokoronojidai at 21:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!いとしの大久保タウン 

February 18, 2012

平成天皇の悲しみは


天皇陛下の
心臓バイパス手術が
成功に終わったということ。
まずは喜ばしいことだ。

もうあちらこちらで
言われている話だが、
天皇陛下のご高齢を
考えると、伝え聞く
今のご公務のお忙しさは
いかがなものか。

今後の皇室のことを
考えてみても、
皇太子殿下にご公務の
一部を代わっていただく
べきではないかと
素朴に思う。

こんな話はずっと出ていて
今に始まった話ではない。
にもかかわらず、
どうしてそういう
流れにならないのか。

周囲の働きかけの
怠慢だとすれば、
その無責任さには
不快になるが、
一方で、
陛下ご自身が
責任意識の高さゆえ、
自ら退こうとされないのか。

そうだとしても、
今回の一件もあり、
明らかに限度を超える
お忙しさなのだから、
そこは周囲は強く進言
すべきだろうと思う。

ただ皇室の世界の感覚は
常人には計り知れないから、
陛下に対して、
公務をお控えになるよう
進言するなんてことは
できた話ではないのだろうか。


現在の天皇陛下を
TV画面で拝見するたびに
思い起こす話がある。

それは、私が
まだ中学生のころの
ことだったと記憶しているが、
もちろんそのころは
昭和天皇もご存命であって、
平成天皇が
皇太子のときである。

ある雑誌記事で知った
その話では、平成天皇
(その当時は皇太子)が
ご自身の学生時代に、
左翼革命の現実化を
大変心配されていたという
ことであった。
若かりしころの天皇・皇后両陛下
平成天皇の学生時代
といえば、まだリアルに
左翼革命の現実化が
懸念されていた。

「仮に
左翼革命が起これば、
今の皇室の人々は、
間違いなく皆殺しにされる
であろう」

「今後はもっと皇室を
国民に理解してもらい、
親しみをもってもらう
ためにも、開かれた皇室に
していく必要がある」

そんなことをいつも
真剣に考えて
おられたそうである。

これは伝聞の伝聞だし、
どこまで本当の話か
信憑性も定かではない。

そもそも、左翼革命を
案じられていたという話と、
開かれた皇室の話は、
つながりが論理的でなく、
もしかすると、
私自身子どのころの
話なので、記憶違いも
混じっているかもしれない。

ただ中学生だった私は、
この話に衝撃を受けた。
初めて、皇室の人々、
しかも将来、天皇の地位が
約束されている人の、
「人間的苦悩」を知った。

戦争に負けて、
「人間天皇」になったとは言え、
それでもまだまだ
当時は、皇室の人々の
リアルな心情については、
子供の私などには、
想像のしようもなかった。

「革命が起これば、
真っ先に自分たちが殺される」

憲法に記されている
日本国民統合の象徴たる人が
(将来そうなる人が)
そんな恐怖を抱きながら
日々生きているなんて。


今、「左翼革命の恐怖」は
なくなったが、
「開かれた皇室」については
何を思われるのか?

軽薄な国民と
無節操なマスコミが
「開かれた皇室」を
覗き見る。

政治家や官僚、権力者は、
自己利益の実現のために
常に皇室を利用しようと
企んでいる。

そうしたすべてを
承知の上で、
天皇陛下は天皇として
あり続ける。
病をおして、
粛々とご公務を
果たされようとする。

天皇陛下 手術のためにご入院
ひとつ言えるのは、
天皇陛下の人間的悲しみは、
私たちが想像する
はるか先にあるということ、
そのことだけは間違いない。















kokoronojidai at 22:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!事件 

February 17, 2012

寒い日に

冬空
今日は午後、
八王子に近いところにある
企業に、新入社員研修の
打ち合わせに出かけた。

打ち合わせが終わると
あたりはすっかり暗くなり、
雪が舞いだしていた。
寒かった。

JRの駅までは、
無料のシャトルバスを
利用させてもらった。
ちょうど終業時刻と重なり、
バスはコートを着た社員の
人たちで満員。
皆、無言だった。

中央特快とかいう
やたらに停車駅の少ない
特急電車に乗って、
JR大久保駅に帰ってきた。

朝からまともなものを
口にしておらず、
妻とも夕食の時間が
合わなかったので、一人で
駅近くの蕎麦屋に入る。

周りの人たちは
湯気のたつ蕎麦を
体をかぶせて食していた。
中東系の男性が、
上手に箸を使って
とろろ蕎麦を
幸せそうにすすっていた。

相当腹は減っていた
はずなのに、
暖かい蕎麦は
何故か受け付けず、
冷えたもり蕎麦を
口にすれば十分だった。

冷めたい蕎麦を
短くたいらげ、
再び表に出る。

大久保でも
ちらほら雪が舞っている。
冷える。とにかく寒い。
早足で家路を急ぐ。


駅前にあるドラッグストアの
入り口脇に、ホームレスが
湿った路面にへたり込んでいる。
店の一番目立つ入り口の
すぐ脇にいる。

ホームレスの周りには、
コンビニ袋の塊が、
いくつも転がっている。
いつも持ち歩いている
所持品なのであろう。
しかし遠くからみると
まるでゴミに埋もれて
いるように見える。

ホームレスは
フードを深くかぶっていた。
私は横目でフードの中の
表情を覗くようにして
彼の前を通り過ぎた。

年齢は60くらいだろうか。
深いしわと白髪の混じった
ひげに覆われた
その表情は憔悴していた。

寒いだろうな・・・。

体が冷えて冷えて
しょうがない。
どうにかこの冷えから
逃れたいけど、
どうにもならず、
ただ震えている。
凍える寒さから
逃れられない辛さは
表現のしようがない。


何か明るい話題はないか。

私の会社は、
今年度の売り上げ目標は
達成しそうである。
研修業界全体の
景気が決してよくないなか、
震災の影響もあって、
逆風吹く中の
目標達成なのだが、
心は晴れない。

家族の問題もあり、
仕事が上手く運んでも
それだけで
気持ちの充実は
はかれない。

でも、原因はどうも
それだけではなさそうだ。


明るいニュースが少ない。


高級ゴルフクラブが
シニア世代に
バカ売れの一方で、
相変わらず
就職できない大学生が
巷にあふれている。

消費税増税、
社会保障との「一体改革」。
西部邁氏曰く、
政治家が
4文字熟語を使い出すと
ろくなことがない。

「財政再建」
「構造改革」
「一体改革」

NHKに生出演の
総理の声は
相変わらず響かない。

そういえば、松井秀喜の
ヤンキース復帰は
絶望的になったらしい。


誰かが言っていた。
高度経済成長のころは、
牛肉なんて年に数回しか
食べられなかったのに、
それでも毎日が楽しくて、
充実していた。

うーん・・・。
「牛肉が年に数回」という
基準がぴんとこないし、
高度経済成長期でも、
私の幼少のころは、
いつも両親が
憎悪むきだしで
夫婦喧嘩をしていたので、
明るく楽しいなんて
気持ちでは過ごして
いなかった。

ただ、それでも
世の中的には
もう少し活気があって、
前向きだったような
気はする、確かに。
子どもながらに
そんな空気は
体が覚えている。

あの頃は、
世の中全体が
無条件にノー天気で
希望をもっていた。
昨日より今日、
今日よりは明日が
確実に良くなっていく。
そんな根拠のない
明るい未来が信じられて
いたのだろう。

でも、
安岡正篤先生の
本などを拝読すると、
もうすでに当時から、
日本人の軽薄化、
大衆の無節操ぶりを
厳しく指摘されており、
日本の危機的将来を
深く憂いておられた。


予言通りの世の中に。

逆説的にいえば、
「高度経済成長期は、
将来に希望をもてた、
明るい世の中だった」
の成れの果てが
今だとすれば、
今が未来の見えない
希望のない社会というのも、
実は違って
いるのかもしれない。

まさに今、
ここで踏ん張って
頑張れば、
明るい新しい
日本社会が見えてくる
のではないか。
今が底の底なら、
後は昇るだけだから。



だが、恐ろしいのは、
今がまだ底の底では
ないということだ。

その可能性は十分ある。

日本人はまだまだ
気づいていないだろう。
自分たちの軽薄さ、
自分たちの無節操に。
気がついていても、
すでに拍車のかかった
この状態を
止められないのなら
結局は同じことだ。

海外の高名な識者が
指摘していたが、
日本人は不況から
抜け出せない、
それは非常に
深刻な問題だと
言っているけれども、
そう言うわりには、
行動に必死さが
現れていないように
見える、と。

わかる。
非常によくわかる。

人びと
今日のブログは
希望をもてる
終わり方にしたかったが、
まだこの先にある
底の底まで
日本人は味あわないと
駄目なのだろう。

そしてもしかすると、
あと何十年先まで、
目覚めることなく、
気がついた人たちと
気づかぬままの人たちに
日本人全体が
二分化されて
しまうのかもしれない。









kokoronojidai at 23:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!生き方 

February 16, 2012

その場かぎりでお役に立てば


どうせ人助けをするなら、
できるだけ根本から
役に立つようにやりたい。

「でも、せっかくここで
手助けしても、この人、
きっとまた同じような
失敗をするだろうなあ」

「こんなアドバイスを
したところで、根本的な
解決にはならないよな」

こんなことを考えると、
自分の手助けには
大して意味がないのでは
ないかと思えることが
よくある。

「根本的解決」とか
「本質的解決」とかに
拘りすぎると、
ある種の無力感に
おそわれる。

とは言え、
そうそう根本的に
問題なんて解決できないし、
いわんやそれが他人の
人生に関わることだと
すれば、そこに
自分が影響を
及ぼせる範囲なんて、
たかがしれている。

で、思うのは、
「根本解決」に拘るのは、
相手のためと言うよりは、
実は自分自身のため
なのではないかと。

人間、
真面目に考えれば
考えるほど、
自分の行為の意味、
行為の価値を
求めたいものだ。

だとすれば、
結局は無意味に
なってしまうようなことに
時間も労力も費やしたくない
というのが本音である。

ああ、まだまだ未熟だ。

別に根本的な解決に
ならなくたって
いいじゃないか。

その場、その場で、
必要とされる人に、
必要な支援をすることが
できれば、
それで十分じゃないか。

目の前で転んだ人がいれば、
当然手助けをする。
でも、またその人は転ぶかも
しれない。

転ぶかもしれないけど、
「どうせ転ぶのだから」
と言って手助けしないで
放置することもできない。

淡々と求められることに
応じて手助けをする。
その場限りになるかも
しれないけど、
求められる支援をする。

それを、
来る日も来る日も、
淡々と続けていく。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ・・・・

一期一会の精神?
杖 転ばぬ先に
とにかく、
その場限りの支援を、
淡々とやり続けられる、
それはある種の達観であり、
そんなことにも耐えられる
精神力を身につけられれば
自分も進歩したと
少しは思える。













kokoronojidai at 23:45|PermalinkComments(2)TrackBack(0)この記事をクリップ!生き方 

February 15, 2012

使ってない金ならいいじゃん


銀行政府が銀行の休眠口座に
そのままになっている預貯金を
活用することを検討している。

ここで対象となる
休眠口座とは、
10年間取り引きのないもの。

そのうち1万円以上の預金
については、銀行が本人に
連絡をとるも連絡がつかない
もの、また、1万円以下に
ついては、連絡をとらずに、
経理上は銀行の利益として
処理される。

もちろんこれは、
経理上の処理であって、
実際には、10年以上経過
していても、本人からの
引き出しの要請があれば、
それに応じているとのこと。

商法上は、
5年間預金者が権利行使
しなければ権利が消滅する
としているが、実務では、
上記のように対応している。

まあ、当たり前と言えば、
当たり前だ。もともと
本人の金なのだから。

で、こうした休眠口座の
金が毎年800億円ある
とのことで、そのうち、
300億円強については、
引き出されているという。

この金、使われないまま
眠っている金を、
成長分野に利用できるように
検討しようというのが、
政府のねらいである。

街頭インタビューでは、
どうせ使ってないのだから、
お役にたててください、という
心の広い方もおられたが、
ここでの問題は、
預金者の気持ちだけ
ではない。

むしろそれよりも
重要なことは、
政府がこうした民間・個人の
金を利用するという
考え方の是非である。

この問題は、
政府と個人の関わり方の
本質を問うものであって、
単純に、損得や、
便利だの都合がよいだの
という次元で片付けては
ならない。

この問題を、
損得や場当たり的な都合で
対応することになれば、
今後も、場当たり的な
対応が許されることになり、
そうなれば、結果、
結局は権力を行使する
政府の都合が常に
優先されることになるだろう。

世の中には、
その場の都合だけで
安易に対処してはならない
問題があるのだ。

で、結論。

駄目。
10年間休眠だろうが
それは個人の金である。
現に10年経ても、
後で引き出しの要請があるし、
銀行はそれに応じている。

いや、銀行が応じているとか、
実際に引き出し要請があるとか、
そういう実務上の都合が
問題なのではない。
政府がこうした純粋個人の金を
「使っていないからいいだろう」
ということで巻き上げようとする、
この考え方自体が問題だ。

なぜ、「休眠口座」などという
ニッチなところまで狙って
個人の金に手を付けようと
するのか。個人は、あらゆる
場面で、税という形で
金を提供しているではないか。

政府には税というかたちで
金を納める約束で
近代国家は動いている。
法律の根拠に基づいて
税を納めているのである。

にもかかわらず、
形態はともあれ、
その一線を踏み越えるような
形で個人の金に
手をつけようとする
その狙いは何だ?

「財政難だから」

それだけが理由なら、
あまりに節操を欠くものだ。
アメリカだのイギリスだのが
やっているから日本もやる、
そんなことは何の理由にも
なりはしない。

こういう卑しい考えを
日本の政府がもつことに
腹が立つ。

個人のレベルで考えれば、
収入が減った、金がない、
ならば、昔のような贅沢は
あきらめて、少ないなりの
収入で成り立つ生活を
していかねばならない。
無駄を省いて
本当に大事なことに
お金を使うよう知恵を働かす。

ところがなかには、
相変わらずの浪費を続け、
なんか小銭を稼げぬかと、
まっとうでないやり方で
金を引っ張ろうとする輩もいる。

今回の政府のやり方は、
まだまだやるべきことがあるのに、
それをやらないまま、
楽してふところに金をいれようと
個人の財布に手を突っ込む、
そんなやり方に見えて仕方ない。











kokoronojidai at 20:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!政治・経済 

February 14, 2012

親子断絶、悩める子


家族の問題は厄介である。
子どもの目船
さっきも、Yahoo!知恵袋を
ツラツラ眺めていたら、
両親と10年以上絶縁状態で
悩んでいる人の相談が
掲載されていた。

両親、親戚縁者が新興宗教に
入っており、巻き込まれるのが
イヤで関係を断ってしまったと
言う。

そして、親とこういう状態の
自分は親不孝なのか?と、
悩まれている。

この相談内容だけでは、
詳細が判らないが、
普通に考えれば、
親子の縁を断じなければ
ならいほどのことだとすると、
その新興宗教の影響、
関わりは、よほど
深刻なレベルなのだろう。


人と人が結びつき、そこに
協力的関係が起こるには、
経済交換と同じように、
その人間関係の中に、
健全な「社会交換」の関係が
なければならない。
それは親子の関係であっても
究極的には同じことだ。

子が幼ければ、
親は子に対して、
衣食住を与え、心身の成長に
必要なものを与えようとする。
それは愛情であったり、
躾であったり、教育で
あったりする。

これに対して子は、
親を尊敬し、親を敬う。
ある程度年齢がいけば、
親孝行として何か
具体的な行動を
起こそうとする。

もちろん現実には、
そう理想的にことは
運ばないが、
とくに子が幼いうちは
必ずしもそうならないものの、
しかし、基本、こうした
社会交換関係がなければ、
体面的には親子でも、
実体としては、
親と子のあるべき
協力関係は機能しない。

特に社会交換において
ポイントになるのは、
こうして提供される価値が、
親から子、子から親へ、
「実際に交換提供されるだろう」
という当事者双方の「信頼」。
これが重要。

このように、
人間が協力的関係を
形成するためには、
物質的価値のみならず、
否、親子関係や夫婦関係では
なおさら、精神的な価値の
交換と信頼関係が必要である。


論語、儒教、孔子の教えは、
古臭いモラルを教えようと
していると誤解される方も
多いのだが、決してそうではない。

むしろ、親子関係であろうとも、
その本質は、信頼の上にある
価値交換関係で成立している
ことを知っている。

だからこそ、孔子の教えは、
子は親を敬い、尊敬せよ、
親は子を慈しみ、正しく教育せよ、
となるのだ。

それは、この交換関係が
壊れれば、親子といえども、
その関係維持が
不可能になるのを誰よりも深く
認知しているからなのだ。


で、話を戻そう。

子である相談者は、
何十年も前から、
子が親に期待する価値を
提供してもらえなかった。
そればかりか、
親の信じる宗教的価値を
子にのむように強制した。

これでは子の側には、
親の期待に応えようという
動機が働きようがない。

親から一方的に、
場合によっては自己の
人生さえも犠牲にしかねない
協力を求められたが、
それに見合う代償は
親から提供されない。

悲しいけれど、
こうした親子関係は
双方が成人である今、
もはや継続はできない。
一方的な自己犠牲を
果たし続ける根拠はないし、
継続するには、
あまりに過酷である。

結論。

親子なら親子、
夫婦なら夫婦としての実体
(交換関係と信頼)が
なければ、その関係を
維持しなかったからといって
責められる必要は
まったくない。





kokoronojidai at 23:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!家族・夫婦・親子 

おはようございます


おはようございます。
東京・新宿は、
どんよりした曇り空。

部屋の窓から見える
高層ビルたちも、
心なしか元気なく
立ちすくんでいるように
見えます。

今にも雨が
降り出しそうな
お天気です。

天気になど
影響されることなく、
いつも溌剌!・・・・と
いきたいところですが、
天候が人の気持ちに
与える影響は
事実として大きく。

天候が消費行動に
影響を及ぼして、
いろいろなところで、
売上が左右されたり
するわけで。

でも、
よくよく考えてみると、
人間も、
人間のこころも、
自然の一部だとするなら、
こうした
天気とこころの連動は、
むしろ当然のこと
なのかもしれませんねえ。


徒然の文章になりました。


ま、いつも
徒然なのですが。

今日は、夜に
もう一度、
ちゃんと更新する
予定です。

哀悼 ホイットニー・ヒューストン




















kokoronojidai at 07:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!プライベート