こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。) また、地域はかぎられますが(大阪府、兵庫県と和歌山県の一部など)出張の心理相談もしています。同じメールアドレスにまでお問い合わせください。

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

やさしい聖書入門『ローマ 1:28-32』

やさしい聖書入門『ローマ 1:28-32』

13.あなたは聖書が言うようには『罪びと』なんかじゃない?
 初心の人に聖書の教えをお伝えしていると、どうしても『それ以上先へ進めない』という境界線のようなものがしばしばあらわれます。キリスト教そのものに対してはそれほど抵抗のない人がわりあい多いにもかかわらずにです。その境界線のようなものとは『人間はみんな罪びとだ』という教えの部分です。

 事実、わりあい大勢の人たちが聖書の教えに興味をもって教会に来て、牧師や他の教会の人々といっしょに聖書を学び始めますが、どうしても聖書が教える「罪」という部分でつまづいて、それ以上先へ進めないということが起きてしまうのです。
 聖書に登場する人物の中にも、それと同じような人がいます。たとえばヘロデという王様は、神さまの教えに関心をもつ人でしたが、自分がおかした罪のことを預言者ヨハネから指摘されるとヨハネを牢に入れてしまいました(マタイ14:3)。

 私たちはこのようなことから、次のことを言わねばなりません。『私たちが罪びとである』という私たちの実態(じったい)はふつう、私たちの意識にのぼらないように念入りにブロックされているということです。だからこそ私たち人間は罪びととしての自分の真実になかなか気づけないのです。
 そしてそんなにもこの「罪びとなのだ」という事実が念入りにブロックされているのは、この「罪びとなのだ」という事実がもしひとたび意識されてしまうと、こころのなかにわき起こる罪悪感(ざいあくかん)のせいでころの安定や自信がまったく台無しにされてしまいかねないからです。

 今回のかしょで聖書は、いくつかのなまなましい罪のリストをあげています。そして、そのあとでこう言ってます。「彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです(32)」と。

 この言葉は非常にきつい、一方的とも思える言葉ですが、言いかえればこういうことです。私たちは自分が罪深い存在なのだという罪悪感がブロックされていますから、どうしても罪深い状態のままでとどまりつづけてしまっており、さらにそればかりかむしろ開き直ってしまっている、ということです。私たち人間は自分たちの社会の風俗の乱れやちょっとした不正などにおどろくほど無頓着なのはそのためです。

 でも、そもそも私たちは罪びとなのです。今回の聖書のかしょにはこう書かれています。「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました(28)」と。
 この言葉は、自分が罪びとであることを認めない結果が、ただ単に『罪について気づけない』とか社会の乱れに対して無頓着になってしまう以上のことが私たちに起きると教えています。

 私たちには、『自分は神さまに造られた存在なのに、その神さまのことがわからない』という前提が
そもそもあります。そしてそのことによって神さまとの間にさらに大きなミゾができ、そのミゾが結果的にさらに迷いと罪のなかへと私たちをつれこんだのです。それが私たちの実態であり、私たちが知るべき現実なのです。私たちはつまり悪いから神さまがわからないし、神さまがわからないからもっと悪くなるわけです。

14.一度も“罪”をおかしたことのない人を思い浮かべることができますか?
 さて、今回の聖書のかしょにはさっきもいったようになまなましい“罪のリスト”が書かれています。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です(28-31)」と。

 いま、このなまなましい“罪のリスト”のなかのどれ1つにも当てはまらない人を思い浮かべてみてください。たとえば今までに一度も陰口なんか言ったこともない人で、約束をやぶったこともなければ、うぬぼれにこころを動かしたこともない人間を、です。どうですか?思い浮かびましたか?

 するとあなたはこう言うかもしれません。「たしかに私は自分がそうだとは言えませんし、具体的な人物を思いつきませんが、でも世の中にはひとりぐらいはそのような人がいるのではないでしょうか」と。
 そのように私たちがもし言うとしたら、その時に私たちが思い浮かべているのはきっと、とても徳の高い架空の人物か、あるいは現実の人物でも極端なまでに美化された人物でしょう。しかし、現実には、『徳が高い』と言われる人物ほど、ふしぎと自分の弱さやみにくさをよく知っています。そういう人は自分自身をまっすぐに見る目が開かれているからです。

 そもそも罪のリストにあてはまらない人を思い浮かべようとすると、まったく架空(かくう)の人物か、それとも美化された人物を思い浮かべるしかないというのであれば、実はそのこと自体、罪びとでない人間なんかいないということの証拠なのです。そうでなければ誰か一人ぐらいは現実の人間の名前をあげられるでしょう。

 聖書にはこう書かれています。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(第一ヨハネ 1:8-9)」と。 私たちは「自分は聖書が言うような『罪びと』ではありません」という限り、ほんとうのことを言っていません。
 しかし、キリストの御名において自分で自分の罪を言い表すなら、神さまはそれをゆるしてくださり、そればかりか私たちはあらゆる罪からきよめられるのです。このギャップは非常に大きなものです。

 ところでここには大事なメッセージがもう1つふくまれています。この第一ヨハネに書かれた御言葉はもともとクリスチャンに対してあてられたものです。“自分の罪を認めてそれを言い表わすことで神さまにゆるしていただかなくてはいけない”というのはクリスチャンも同じなのです。

 たしかにクリスチャンは歴史上でたった一度だけ十字架のうえで私たちの罪の身代わりとして血を流されたキリストによって罪をゆるされています。でも、だからこそ、私たちは常に自分の罪深さにたいして目が開かれており、その罪意識に対して正直であらねばなりません。聖書にもこのように書かれていますから。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。(ローマ6:1-2)

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あり得ないようなことをやってしまう人の心理

あり得ないようなことをやってしまう人の心理―スイッチが入ったように人が変わってしまう子どもや大人について

 1.人間の行動の中のありえない“ふしぎ”
 「エサウは、『見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう』と言った。」―聖書より

 キリスト教徒から見てもキリスト教の聖書には、“ふしぎ”に思えることが書かれています。私が言いたいのは奇跡などの話のことではなく、そこに描き出されている人間の行動の中の“ふしぎ”のことです。
 たとえば『創世記』というところに書かれているエサウという人の物語もふしぎな話です。

 エサウはイサクという族長の長男で、ふつうに考えればその家の跡取り(あととり)息子なのですが、ある日、このエサウは一杯の煮物とひきかえに跡取りの権利を弟にゆずりわたしてしまいます。これは当時の常識からいうとありえないようなとんでもない行動です。

 それでもエサウは、父親であるイサクがいよいよ亡くなる直前になると跡取り息子としての権利をほしくなり、父親からそれを得ようとします。
 そして父親のイサクはエサウのことを気に入っていましたからイサクのほうもすっかりその気だったのですが、一方で、兄のエサウよりも弟のほうをかわいがっていた彼の母親は、父親の目が不自由なことを利用してだまして、弟にエサウのふりをさせて父親に会わせ、跡取りの地位を奪い取ってしまいます。
 このときに父親のイサクは目が見えないながら、自分のところにやってきた人がエサウではないことに気づきそうになるのですが、“ふしぎ”なことにそのうそを見抜けず、とうとう弟のほうを兄のエサウとまちがえて自分の跡取りにしてしまいます。

 おそらくエサウが一杯の煮物と引きかえに跡取りの権利をゆずりわたしてしまったのも、イサクが自分の前に来た人をニセモノだと気づけなかったのにも、心理学的には同じです。キリスト教会では伝統的にこのエサウの行為はとても悪いことだと考えられてきた一方で、ニセモノを見抜けなかった父親のイサクのほうにかんしては何の評価もなされていませんでしたが、しかし「良いか悪いか」は別にして、確かに特殊な心理状態にあったであろうことは確かで、ここには共通する心理がひそんでいます。

 そしてこの特殊な心理状態は、時代がもっとくだって現代の私たちにも起こりえます。いや、むしろ私たちが時々目にしたり、私たち自身がやってしまう“ふしぎ”な行動―つまり、合理的な説明や、あらかじめの予測ができないような行動の背景には共通して働いているものです。

2.人間のこころの発達と行動
 この特殊な心理について聖書を参考にするのなら、このような“ふしぎ”な行動は同じ聖書の『ヘブル人への手紙』にあるエサウの記述を参考にできるでしょう。ここではエサウのことを「俗悪な者」と表現しています。

 この「俗悪な者」という表現は、もちろんキリスト教的な倫理観でいろどられた表現ですから、一般的な表現で言うと「あまりにも卑しい」とか「ふつうだったら避けるような行為を避けない」というような言葉に置きかえられるでしょう。つまり、聖書に書かれたこの時代のこの文化では、ふつうであればやらないような問題行動を起こした、ということになります。つまり、合理的な説明を超えた心理が働いていた状態の人だったということです。

 私が前の節で、このようなことをしてしまう特殊な心理は現代人にも共通していると言ったのはまさにこの点です。私たちのなかには、何か不適切な行動をしてしまったことについて、「なぜそんなことをしてしまったのか」というかたちの合理的な説明がまったくできないことをしてしまう人たちがいます。あるいは、私たち自身のなかにもそのような経験があるかもしれません。たとえばそれは、過去のトラウマに似た状況に出会ったせいで思わずパニックを起こしたせいだとか、誰かから言われた言葉によってコンプレックスが刺激されたせいでというような説明ができない行動です。

 たとえば自分自身を含めて誰にも「なぜそんなことをやってしまったのか」を説明できない行動とか、特に子どもや精神疾患をもった大人などの場合には、「なぜ今日は朝から調子が悪いのかわからない」とか「なぜ突然キレたのかわからない」というかたちで“ふしぎ”な行動があらわれる場合があります。そしてそのような現象は、発達障害と呼ばれている人たちや虐待を受けた人たちや、精神疾患をわずらっている人たちとかかわっている人々にはよく知られている現象です。なぜだかわからないし、あらかじめ予測をすることもできません。

 問題は、私たちがごくふつうの日常生活のなかで、ついうっかり、なぜだか理由が説明できないようなバカなことをしでかしてしまったという場合ばかりではなく、特に私たちが家庭や学校や職場や、教会のなかなどで接する人たちの、理由もなく、そして一方的な不機嫌さや暴言や、あるいはささいなことによる態度のひどい変わりっぷりです。このことは当人も悩ませますし、その人とかかわる人たちを当惑させたり困らせたり、あるいはまわりの人同士の間でたいへんな混乱がしょうじる場合があります。

3.意味もなくキレたり、調子が悪かったりする人たち
 このような理由のよくわからない突然で極端な態度は、しばしばまわりの人を奈落(ならく)の底へ突き落とすような結果を生みます。かと言って理由がわからないから、ほとんどの場合、しぶしぶそのような相手を受け入れるか、それともどこかの時点で手を切ったり距離をおいたりして“じょうずに”対応するほかありません。

 先ほどの聖書の物語にいったん話を戻しますが、さっきもいったように聖書自身のエサウへの評価は「俗悪な者」というきわめて悪い見本として書かれていますし、聖書にははっきりとは書かれていませんが、エサウの父親もまた母親と同じく一方の子どもだけを特に重んじてかわいがっていたという点では問題のある父親です。だから、“良いか・悪いか”という倫理観だけでこのような問題を見たいのであれば、「俗悪な者」、「悪い父親」というモノサシで判断するだけですんでしまいます。これは非常にかんたんな“解決方法"で、多くの集団はこの解決方法をもちいるでしょう。そしてもちろん、どうするかは私たちの自由と言えば自由なのです。

 問題なのは、そのような人に対して、そうやって距離をとれない立場の人たちです。家族、学校の先生、職場の同僚、それに教会の奉仕者たちは、そうは言っていられないでしょう。
 事実、私の相談者のなかには、このような“やっかいな人”たちの対応に困り果てて相談に来ている人たちがかなりいます。このような相談者たちが一番困っているのは、「なぜ今日は朝からその人の調子が悪いのかが“読めない”」とか、「どうしてあんなひと言で突然キレたのか“読めない”」といった“読めなさ”なのです。それさえ読めれば、たとえ相手のキレっぷりが多少、度を超えたものではあったとしても、それほどまでに苦しむということにはならないかもしれません。

 私がこのような相談にお答えするときにはいつも、私の頭のなかには、ある1つの考え―概念(がいねん)があります。それはその“読めない”行動をした人の心理のうちに働いているものは、その人がこの世に生まれてきた時に一番最初に持っていた原理で行動しているのだということです。(専門的には“プリミティヴ”な原理で機能しているということです。)

 私たち人間は、赤ちゃんのときの割合早いうちから、世の中の現実に合わせて、新しい行動原理を手に入れています。つまり、「自分が泣いたからお母さんがミルクをくれた」とか、「自分が困らせたからお母さんがいなくなってしまった」といった、合理的な説明ができるような原理です。これを心理学では『二次過程』と読んでいます。しかしこれを「二次」という以上は、この『二次過程』ができる前の『一次過程』の段階があるわけで、これこそが「人がこの世に生まれてきた時に一番最初に持っていた行動原理」というわけです。

4.二次過程と希望
 アメリカの精神分析学者であるピアソンは、人間は場合によってはこの『二次過程』の段階からその前の『一次過程』への逆戻り(退行)が起こると言いました。つまりそれは、「あんなことを言われたからこうなった」とか「さっきの状況が以前のあの時の状況と似ているので」といった理屈(因果論)が成立する前の段階への一時的な逆戻りですが、私はこのピアソンの学説(がくせつ)は正しいと思います。またおそらくピアソンが考えていたよりもこのような逆戻りはもっと瞬間的な形でたびたび起こりえるものだと思います。そしてこれこそが、“ありえないようなことをやってしまう人の心理”だと考えられます。

 私は従来(じゅうらい)は、このような“ありえないような行動”を「心理学的な変化が起こったというよりも生理学的な変化が起こったもの」として説明してきました。つまり、過去に受けたトラウマとの類似点だとか心理的な負担で起きるというよりも、脳内物質とか神経経路(けいろ)のような生物学的理由によるのだろうと。
 この説明はおそらく正しいだろうと今でも思いますが、しかし、この説明にはそれでも問題があります。というのは、このような説明だけでは救いもなければ、解決のためのなんの手がかりもないのです。

 このような行動をとってしまいやすい人たち、というのがいます。そのような人たちに対して必死にかかわっている人たちもいます。そのような人たちは、その当人への常識的な指導や説得や愛情に意味があるのかどうかという深刻な疑問を持ちやすいのです。「生理学的な変化…うんぬん」という説明ではこの深刻な疑問には答えられません。するとそれらの人たちの努力は、まるで“賽(さい)の河原”に石を積みあげるような、やる意味もなければ、やった成果も得られない不毛なことだということにもなりかねません。

 しかし、これが『一次過程』という、発達過程の一番始めの段階への逆戻りが起きてしまっているのだ考えるとしたら、現在はその『一次過程』と『二次過程』とのあいだがわりあいに行き来しやすいとか、こころの全体のなかに『一次過程』がしめる割合が多いなどの理由によるのだということがその不安定さの原因だと考えられて、そこから『二次過程』のほうをしっかりと根付かせてゆくことでその人の自我の強さを増しくわえていってあげられる可能性が考えられるようになります。
 そうしてその結果、その人に対するかかわりがけが―たとえ、すぐにはまったく成果が見られず、それどころか砂をかむような取り組みではあったとしても、けっして賽の河原の石積みのように意味もなければ終わりもないようなものではないのだということが、ちゃんと説明できるのです。

やさしい聖書入門『ローマ人への手紙1:24-27』

やさしい聖書入門『ローマ人への手紙1:24-27』

11.神さまを信じないと、人はどのように変化するか
 これまでにこのコーナーでは、神さまの存在は、実ははじめからはっきりしているのですが、人のほうがそれをわかれないというお話をしてきました。
 今回のお話は、すると人間はどんなふうになるのか、というお話です。たとえば、神さまのことを知らないなら「知らない」ということだけでそのまま―グラフでいうと“横ばい”のような状態で流れるのでしょうか?

 今回の聖書のかしょをみれば、そうではないことがわかります。今回のかしょにはこのように書かれています。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(24)

 つまり、私たちが神さまを知らないままだとか認めないままだと、私たちはただ
神さまのことがわからない」というだけでなく、悪い状態になってゆきます。これは神さまに対する意識全体に言えることで、たとえばクリスチャンであっても、もしも自分の生活とか行いのなかで神さまのみこころを求めてゆかないと確実に悪くなってゆきます(第一コリント5:4-5)。

 そしてその究極のかたちと言えるのが、“神さまについての誤解がしょうじる”ということです。前にこのコーナーで人間は「不滅の神の御栄(みさか)えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えて」しまった(ローマ1:23)と学びましたね。それはこの実例なのです。神さまのイメージは私たち人間のこころのなかでどんどん崩れていってしまうわけで、いつしか私たち人間と同じようにこころが弱々しい対象というイメージになってしまいます。

 そして神さまについてそのようなイメージができると、私たちは“神さまを信じる”ということをなにか愚かなことのように思うようになります。今回のかしょにこう書かれているとおりです。「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです」と。しかし、ほんとうは神さまはそういうものとはちがいます。先の言葉につづけて、「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン(25)」と聖書に書かれているとおりです。

12.性的倒錯とクリスチャン
 ところで、最近は以前よりも変わってはきましたが、それでもキリスト教会では臨床心理学、特に精神分析学のように人間の深層心理をあつかう心理学には抵抗が強いようです。その理由は、むかしフロイトが世間からたたかれていたときの理由とほぼ同じです。このタイプの心理学は人間の姿を赤裸々(せきらら)にあばき出すから嫌われるのです。

 でも、たとえば今回のかしょの26節から27節の言葉も、人間の姿を赤裸々にあばき出しているはずです。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」、そしてついに「女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」とここには書かれています。

 これはあきらかに同性愛のことです。しかしこれはいわゆる「性的マイノリティー」と呼ばれている人たちのことだけをさして言っているのではありません。もっと普遍的(ふへんてき)な意味合いをもっています。つまり、神さまから離れ去ってしまったことによって、その結果として性的な倒錯(とうさく)を私たち人間はもつようになってしまった、ということです。この見かたは精神分析のような深層心理学があばき出した人間の赤裸々な真実と一致します。人間は何らかの形でこのような倒錯的な傾向をこころのなかに持ち合わせています。

 しかしもちろんほとんどの人は、自分と同性の人を自分の性愛(せいあい)のパートナーにはしないでしょうし、そのほかの性倒錯にかんしてもほとんど無縁の生涯を送ります。でも、私たち人間はしばしば近しい同性の知り合いや、あるいは家族という禁断の相手との間に倒錯的な感情を混じらせる可能性をもっています。もちろんクリスチャンも例外ではありません。むしろ、私たち人間が『生まれながらの罪びと』であるというかぎり、あらゆるかたちの罪の実をむすんでしまう可能性をもっていると考えるのが妥当(だとう)です。

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