こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。) また、地域はかぎられますが(大阪府、兵庫県と和歌山県の一部など)出張の心理相談もしています。同じメールアドレスにまでお問い合わせください。

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

賛美歌に見る聖書の信仰25.『正しく清くあらまし』

賛美歌に見る聖書の信仰25.『正しく清くあらまし』

 教会ではときどき、私たちがこの地上での一生を終えて天の御国(みくに)へ旅立ってゆくときに、告別(こくべつ)のために歌ってほしい賛美歌があるかと問われることがあります。別になくてもかわまないのですが、そのときにもし誰かが「私はこの賛美歌です」というなら、それはただ『好きな賛美歌』というよりも、自分の生涯をあらわす歌なのだと思います。

 さて、今回の歌はこんなふうに歌いだされます。「正しく清(きよ)くあらまし。なすべき勤(つと)めあれば」と。
 今回の記事はいつもとちがって少しだけ私の証(あかし)として話させていただきたいと思います。でもそれはいたってシンプルなものです。それは、『私がもし自分の生涯のさいごに歌われたい賛美歌を選ぶとすれば、この賛美歌だ』という証(あかし)です。

 でもそれは、私が自分のつとめにふさわしいような正しくきよい人間だという意味ではありません。またこの賛美歌は先の歌詞につづいて「雄々(おお)しく強くあらまし、負(お)うべき重荷あれば」と歌いますが、やはりこれについても、自分が強いとか雄々しいとも言うつもりはありません。なぜかといえば、私もまた自分を正すことができないほどに弱く、試練にあえばひとたまりもなく折れるほどにもろいからです。

 かといって、私は自分の弱さをことさらに言うつもりもありません。というのは、強さ・雄々しさや弱さというのは比較の問題で、つまり『あるものに対しては強いけれども、別のものに対しては弱い』という相対的(そうたいてき)なものだからです。
 ふだんはどんなに勇気があって力強い人間でも、自分の試練には無力なものです。それは人間がもつ限界をあらわしています。本当の試練にあうとき人は、どうにかこころが折れずにすめば御(おん)の字といったほどのものです。反対に私たちがほとんど平気でいられるなら、それは「試練」とは呼べません。

 聖書はこう言っています。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント 10:13)」この言葉は聖書のなかで試練について書かれた言葉のなかではもっともなぐさめとはげましに満ちた言葉でしょう。しかしそれと同時に、この言葉は皮肉にも「試練」というものの強さを物語ってもいるのです。神さまが私たちに脱出の道を備えてくれなければ私たちは試練に耐えられないし、せいぜい「こういう目にあったのは自分だけではないのだ」ということだけがなぐさめとなるというようなものが「試練」なのです。

 だから私たちはそもそものはじめから、どのような状況のなかでも正しくきよく、雄々しく強くあるなどはありえないし、そのようにもし言い切るとすればそれは事実ではありません。しかし、この賛美歌にははるかに高い目標を目指そうとする、切実な願いがあります。ですから人生をトータルで見た時、「この人はそれでも正しく、きよく、雄々しく生きようとした」と言われる証(あかし)の人生でありたいと私は思います。

 でもそう言ったからといって、私は自分の
死後の評判を気にしているわけではありません。なぜなら私たちの人生には人の評価などよりもずっと確かでよろこびに満ちた目的があるからです。
 
この賛美歌はこの次に、こんなふうに歌います。「まことの友とならまし。友なき人の友と。与えて心にとめぬ、まことの愛の人と」。これは、この世の考えからいえば、ばかげた価値観です。だって、友だちのいない人の友だちになって、なんの得があるでしょう?さんざん自分のいろんなものを人に与え、自己犠牲をはらって、その損失について何も考えないというのは、この世の価値観で考えると何が良いと言えるのでしょう?

 実際に、私たちが何の見返りもなく他人や教会のために尽(つ)くしていると、それを「フシギだ」と言われることがあります。同じ信仰をもつクリスチャンの人たちからでさえもそう言われます。それも、「そんなに力も時間も使って、自分のことをかえりみず、なぜそのようにがんばるのですか?」と問われればまだよいほうです。たとえば、私たちが実際に受ける評価は次のようです。「そんなにがんばっているのは、あなたに何か打算的(ださんてき)な思いがあるからなのだろう」とか、「あなたは自己実現のためにそんなふうにがんばっている」、あるいは「お前はごうまんになっている」など。これらは実際に言われたことがある、聞きなじみのある評価です。

 だからそういうことを言われてまで、なおも良い働きをやめようとしなければ、いっけん「フシギだ」と言われてもそれこそふしぎじゃないような気がします。
 
しかし、私はむしろその逆で、その人がもしクリスチャンなのにそのようなことをふしぎがっているのなら、その人のことこそ「フシギ」に思います。

 なぜならイエスさまはこう言われたではありませんか。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴(しゅくえん)を催(もよお)すばあいには、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。(ルカ14:12-14)

 大阪には
有名なテーマパークがあります。そこのアトラクションのための待ち時間は1時間以上が当たり前です。それに並ぶ人たちはそのあいだ、行列を作って待っています。でも彼らは、並ぶことが苦しいことであっても「損だ」とは思っていません。それは報われるからです。それほどそれらのアトラクションは良いものなのでしょう。しかし、それよりもはるかにすぐれた報いが天にあります。

 この賛美歌はつづけてこう歌います。「全(また)きに向かいて進まん。みちにて気をゆるめず、上なき目当てをのぞみ、笑(え)みつつたえず進まん」と。
 
私は、人生には良いものとそうでないものの2種類があると思います。その2つのちがいは「恵まれた人生」かどうかなどというよりも、はるかに大きなちがいです。

 聖書にはこう書かれています。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭(めいりょう)になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価(しんか)をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。(第一コリント 3:12-14)

 
この「土台」というのはキリスト信仰のことです。クリスチャンはみな、この土台の部分では同じです。
 ちがいはこの土台の上に、どういうものによって人生を建てるか、です。そして「その日」とはこの世の終わりの日のことで、この日が来ると私たちがどういうもので自分の人生を建てあげてきたかの、本当の価値が明らかになります。木や草やわらでできた建材は、火事で焼きつきてしまいますが、金属や宝玉(ほうぎょく)は焼け残ります。この言葉はそのように、終わりの日に私たちの生きざまが問われるという意味です。
この賛美歌の歌詞にある「上なき目当て」をのぞむこと―つまり天の御国を想ってとった行動はやがて報われ、私たちはその報いを天で受けます。クリスチャンで聖書をよく読んでいればそれを知っているはずですが、知らずに生きているとしたら、そのほうがよほど「フシギ」です。

 
イエスさまはあるとき、こう言われました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(マタイ6:19-20)
 あなたの宝はどこにあるでしょうか。

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生きる戦いによりそうために

生きる戦いによりそうために

 先日、ある教会をたずねたとき、その教会で子どもたちのためのすばらしいプログラムをしている話をうかがいました。そのプログラムはすばらしいもので、しかも、かなりの成果をあげているようでした。
 私は、私の住まいからそのように遠く離れた場所で、神の御名によって子どもたちのためのプログラムが行われていることに感激し、スタッフの人とすっかり話しこんでしまいました。

 そして、そのお話が終わりかけたとき、私はつね日ごろ思っていることを口にしてみました。「子どもの支援というものは、美しく尊いイメージとはうらはらに、意外なぐらい泥臭いものですね。そして支援の必要な子どもというのは、しばしば非常に腹のたつものですね」と。するとその人は「そうだ」と言って笑っていました。

 やっぱりどこでもそうなのです。しかもそれは子どもだけではありません。人への支援のかかわりは泥臭く、さらにこちらが、聖職者であろうと心理療法家であろうと、福祉の専門家や学校の教職員であろうと、「これが自分だ」と信じてきた私たちの専門家としての自意識を、まるで薄っぺらい仮面をはぐように引きはがしてしまいます。またさらに神学でも臨床心理学でも社会福祉学でも教育学でも、よって立つ基盤(きばん)をすっかりむだなものに感じさせてしまいます。

 そうすると最後に『人』としての自分がいつもあらわれます。その自分はその時にどういうことを言うでしょう?
 そんなときの私が、口にするのを自分にゆるしたくない言葉が2つあります。1つは自分を「勉強不足」という言葉です。そのような言葉を口にするぐらいなら私は死にもの狂いで勉強します。頼ってくださる人に申しわけがないからです。

 そしてもう1つの言葉は、相談の最後の最後に思わず口にしたくなる言葉です。
 それは、「やっぱり○○ってむずかしいですね」という言葉です。○○のところには、いろんな言葉が入りますが、相談相手が背負っている重荷についてであるという点では同じです。「やっぱり子育てって」、「人間関係って」、「働くって」、そして「人生って」むずかしいですね。
 なんとばかばかしい言葉でしょうか。そのようなことを向こうは十分わかっているのに。でもこのような言葉が話のしめくくりに、まるで手紙の最後に「かしこ」と書くのと同じようにつけ加えられるのはあまり珍しくないように思えます。

 そんなことを言いたくなるのは、私たちの援助技術が悲鳴をあげて機能停止になったので、専門家の仮面にかえて、あわてて傍観者の仮面をかぶりなおすからです。そうすれば臭い泥をかぶらなくても済みます。「○○ってむずかしいですね。でも、あなたはあなたでがんばってください。ひょっとしたらこうすれば助かるんじゃないですか?やってみてください。あとのことは知りませんけれど」と。

 そういう言葉はときに「むずかしいですね」という言い方ではなくて、子どもの支援をするところでは「発達検査を受けませんか?」になったり、大人の支援では「お薬を処方しましょうか」になったり、教会では「神に祈っていますね」という言葉で偽装されます。発達検査や薬の処方や神に祈ることが悪いわけでも意味がないわけでもありませんが、泥をかぶるのをさけるための傍観者(ぼうかんしゃ)のセリフとして言うなら私は反対です。
 それよりは「うーん」って言った方がいい―そう思います。つまり、いっしょになって頭を抱えこんだほうがいいと。

 人の一生なんて本当に泥臭いものです。その一生を歩いている人の歩みに瞬間的にでも寄り添うなら、泥をかぶったって当然です。「むずかしいですね」なんて言わなくても相手はすでにそう思っているし、「勉強不足」って自分で言わなくても、相手は何にもできない私を見てそう思っているかもしれません。

 私ならさしずめ、「うーん」って言ってから、こう言うと思います。「ごめんなさい。私にもどうしていいかわかりません。ただ一緒にその問題を考えさせてください。今のところはお役にたてないことをどうかゆるして、このまま継続して相談してください」と。
 それが
生きる戦いによりそうためにできる私の、人にあげられるものです。

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賛美歌に見る聖書の信仰24.『語りませ主よ』

賛美歌に見る聖書の信仰24.『語りませ主よ』

 この歌は古い小さな歌集に入っていたもので、もともと素朴でおとなしいメロディのスウェーデンの民謡とされています。そしてたしかにおとなしいメロディなのですが、歌詞としては切実な思いを祈った歌です。
 あなたは神さまに切実な求めをダイナミックな祈りとしてささげたことがあるでしょうか。祈りもまた学ばねばなりません。そしてその学びのお手本は聖書と今回のような賛美歌です。

 この歌はこう歌い出されます。「語りませ主よ、しもべは聞く。みことば給(たま)え。よろこびゆかん」と。
 私たちがもし豊かで実り多い人生を送りたいと思うなら、このように「語りませ」つまり『お語りください』といって、神さまのみもとに来る時間が必要です。それこそが豊かな人生の基本だからです。
 
 しかしその時、じゃまになるものがあります。聖書には「心を尽(つ)くし…て、あなたの神である主を愛せよ(マタイ22:37)」と書かれていますが、こころを尽くすためにはこころの内容物(ないようぶつ)が問題になります。多くの祈りはふつう、こころが神さまのものより自分のものでいっぱいになったままで祈りだされます。それはある程度しかたないのかもしれません。私たちはそもそも『神さまは神さま。私は私である』として、独立した存在だからです。

 でも祝福を受ける祈りは、はじめのほうはどうであっても、途中からはだんだんと自分のこだわりが薄れ、神さまの想いのほうへと同化してゆきます。すると私たちの祈りが変わってゆきます。それが「導き」と呼ばれるものです。

 あなたがもしも聖書にしたしみ、人生のなぐさめをたびたび聖書から得ているのなら、イザヤ書30:21の「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」という神さまの言葉をすでにごぞんじかもしれません。でも神さまのこの約束のことばは同じ章の15節と16節からもわかるように、人間のがんこなコダワリが打ち砕かれてから与えられているものだということに注意しましょう。私たちのこころが『自分のこだわり』という内容物(ないようぶつ)でふさがれている間は、神さまの導きの声はあまりにも小さな少数派の声で、ほかの声にかき消されてあなたの耳には届きません。

 また聖書には「熱心だけで知識のないのはよくない(箴言 19:2)」と書かれています。熱意やこころがけのようなものもまた、コダワリと同じように私たちのこころの内容物になりますが、このような内容物そのものに意味があるわけではありません。そのことは安っぽい自己啓発本の内容が人生になんの変化ももたらさないことからわかります。
 信仰のあらゆる教えはしかししばしば、それと同じ安っぽいメッセージになり得ます。クリスチャンにとって「信仰があれば」とか「祈ってさえいれば」とか「聖書に書かれているとおりにしさえすれば」という言葉は魅力的ですが、それがただ勢いだけのかけ声だけで中身がなければ自己啓発本と同じです。

 船が希望の港につくためにはたえず状況とその時の位置とが確かめられる必要がありますし、どのような種類のものであれ戦いにかつためには『補給と見込み』というものをしっかりと持っていなければなりません(ルカ14:31-32)。しかもそれは正確である必要があるのですが、ときとして無知な勢いだけの気持ちがやはりこころのよけいな『内容物』となり、神さまの声をわからなくしてしまいます。

 さて歌詞はこの次にこんなふうに歌います。「嵐の日にも連れもどりて、汝(な)がなぐさめに、われ憩(いこ)えリ」と。
 前にも話したことがありますが、聖書にいちばんたくさん書かれている約束は、神さまが私たちといっしょにいらっしゃるという約束です。たとえばイザヤ書 41:10には、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」と書かれていますし、イエスさまは「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:20)」とおっしゃいました。

 でも、うれしいはずの
この現実は、ふだんの私たちの意識のなかではずっと背後にしりぞいていて、ふだんはほとんどわからなくなっています。そのこと自体もまた、私たちの能力の限界を考えると無理のないものです。
 むしろ大事なのは『神さまが私たちとともにいる』というこの現実に、2つの機会で気づくことです。1つは苦しい試練のとき、そしてもう1つは礼拝やデボーションなどで自分のこころをからにして神さまのみことばと思いとに向かうときです。

 さてこの賛美歌はこの次に、一見奇妙に思えることを歌います。「語りませ主よ、愛のことば。くだけし心、生かし抱(いだ)き」と。どこが奇妙かというと、ここでいう「くだけし心」ということばが、私たちが自分の罪深さやあやまちに気づいて打ちのめされている状態を言っているからです。それは私たちが自分について自信をもってたり、満足を感じているのとはまったく逆の状態で、むしろ神さまの前に出るのがためらわれる、そのような状態なのです。

 古代イスラエルの王であったダビデは、自分が取り返しのつかないほどの大きな罪を犯してしまったときに、このように祈ったことことが聖書におさめられています。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません(詩篇 51:17)」。このダビデのあかしは本当です。私たちのいけにえ、つまり神さまへささげられるものが唯一、自分のバカさかげんに嫌気(いやけ)がさして、もはや自分一人の力ではどうにもならないと感じることでしかない状態のとき、神さまの愛と恵みとはあなたの玄関先にまで、もう届けられてきているのです。神さまは私たちをさげすまず、その祈りは受け入れられます。なぜならそこにゆるしがあるからです。神さまはこの賛美歌の歌詞のとおりに、私たちのこころを抱きしめ、たくみな職人がそうするように、私たちを生き生きといかすことがおできになるのです。

 さて、この賛美歌は最後にこういって終わります。「み足のもとにひれ伏し、聞く。語りませ主よ、さらばやすし」と。
 自分の罪深さや弱さに気づき、神さまとのかかわりを求める人はくい改めます。そしてそのような人こそ受けいれられます。そして、こういう人が平安を与えられるのです。

 聖書にはこう書かれています。
主は、人の思い計(はか)ることがいかにむなしいかを、知っておられる。
 主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。
 わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。(詩篇 94:11-13)

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ギャラリー
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