こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。) また、地域はかぎられますが(大阪府、兵庫県と和歌山県の一部など)出張の心理相談もしています。同じメールアドレスにまでお問い合わせください。

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

やさしい聖書入門『ローマ8:1-9』

やさしい聖書入門『ローマ8:1-9』

47.「死の原理」の話
 今回のかしょには「原理」というむずかしい言葉が出てきますね。むずかしいとは言っても、意味そのものはそれほどむずかしくないと思います。「原理」というのは“絶対に変わらない規則”のことです。
 そして聖書は、私たち人間に2つの「原理」があると言っています。1つは「死の原理」で、もう1つは「いのちの原理」です。そしてこれらはもちろん正反対の原理です。

 まず「死の原理」から先に見てゆきましょう。これは先に見る方がよいのです。というのは「死の原理」は私たちのもともとの原理であり、その意味で身近で、そしてこのままでは将来も私たちを支配してしまうものだからです。

 今回のかしょの2節には、この「死の原理」が「罪と死の原理」だと言っています。罪というのはこれまで学んできたとおり、私たちが生まれながらにもっている“罪びととしての性質”のことです。そして、聖書に「罪から来る報酬は死です(ローマ6:23a)」と書かれているように、この「罪」は私たちを罪の結果としての死と滅びに追いやります。
 これが「死の原理」です。

 ところで原理というのは『根本的な決まり』ですので、あとからの工夫や努力はなんの効果もありません。何をもってしても、くつがえせないのです。これまでこのコーナーで学んできたように、「律法(りっぽう)」さえだめでした。かえって罪の意識が生じただけだったのです(ローマ3:20)。まさに今回のかしょの3節前半に書かれているように、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなって」しまったというわけです。

48.いのちの原理
 ところで今も言いましたように、原理というのは根本的な物事の決まりであり、あとからはくつがえせないものです。これはちょうど古代ペルシアの法律みたいなものです。

 聖書のエステル記に、こんな話がでてきます。
 悪者の悪だくみによって、ペルシアの王様が、ユダヤ人虐殺の法律を作ってしまいます。とちゅうでその悪だくみに気づき、王様たちはユダヤ人たちを救おうとしますが、当時のペルシアの法律は一度出された以上くつがえすことができません。
 それでどうしたかというと、かわりにユダヤ人たちが生き残られる法律を作り出しました。

 今回お話しする「いのちの原理」もそれと似ています。つまり、聖書がいうように、私たち人間は「さばきを受けること」が決まっていて(ヘブル9:27)、私たちの「罪」の問題が解決していなければ、「罪と死の原理」が働いて私たちはみな滅んでしまいます。そのこと自体はくつがえらないのです。

 でも、変えられないこの決まりのほかにもう1つの決まり―つまり原理が作られました。それが「いのちの御霊(みたま)の原理」です。この原理のおかげで私たちは「罪と死の原理」が有効であるにもかかわらず、罪とそのさばきの結果である死から救われるのです(使徒16:31)。

 ところで「いのちの原理」というのは正しくは2節にあるように「いのちの御霊の原理」です。「御霊」という言葉は古くから日本語のなかにもありますが、聖書で「御霊」といえば神さまの聖霊のことです。聖書は、「あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印(しょういん)を押されました(エペソ1:13)」と言っています。この御霊は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないことの「保証(1節)」として私たちに与えられたのです(第二コリント1:22)。

 このことは、私たちがクリスチャンになれば、それまでの「罪と死の原理」とは別の新しい原理によって生きるということをもあらわしています。つまり、「いのちの御霊の原理」によって私たちが『死ぬ者』ではなく『生かされる者』という自覚をもつとき、私たちはこの「御霊に従って歩む(4)」新しい生活のなかに入るわけで、「御霊に属すること」をひたすら考える生活へと入ってゆくべきなのです(5)。

 クリスチャンになるということは決してゴールへたどり着いたというわけではありません。 新しい道をひたむきに走ってゆくのがクリスチャンなのです。聖書にも次のように書かれています。
 「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕(とら)えたなどと考えてはいません。ただ、この一事(いちじ)に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召(め)してくださる神の栄冠(えいかん)を得るために、目標を目ざして一心(いっしん)に走っているのです。(ピリピ 3:13-14)

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「変える」と「変わる」―人って変われる?

「変える」と「変わる」―人って変われる?

 どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。―聖書より

 先日、スクールカウンセラーのための研修会があり、それに参加してきました。集まってきたのは各地で仕事をしているスクールカウンセラーばかりでした。その研修会で、「自分の子どもに勉強するようにプレッシャーをかけすぎる保護者がいる」という話題になり、そのような時にどのような対応をすればよいだろうかという話になりました。

 いろいろな意見が出ましたが、一通りの意見が出た後で、この道もう何十年だと自称していた年配のカウンセラーが立ちあがって、怒ったように言いました。「このような保護者はぜひ学校へ来てもらって、カウンセリングで変わってもらわなければならない」と。
 私はいまでもこういう化石みたいな人がいるんだと思いました。(もっとも化石は―私のすまいの近くにも昔から小さな貝の化石が出る場所がありますが、実害がなくてかわいいものです。「化石」と言ったら化石に悪いかもしれません。)私はこのような考えで呼びつけられることがあるとすれば、保護者がかわいそうでなりません。

 ところで「キリスト教はおかしい」という人たちのなかに、「キリスト教の神さまが全知全能だというのなら、どうして人間を不完全に創ったのか?」ということを言う人があります。でもこれこそが人間と神さまの関係を物語っているのです。神さまは人間をロボットのように創ったのではありませんし、仮にその人間が神さまに背いても、神さまのほうで人間を「変えてやろう」とはなさらないのです。神さまですらそうなのです。

 それなのにカウンセラーがカウンセリングによって、誰であれ人間を「変えてやろう」と考えるとすると、それはおこがましい考えだと私は思います。それは牧師や教師など、他の職業の人でも同じです。「人を変えてやろう」とか「変えられる」とは思わないことです。
 でもそうだからといって、このことは「カウンセリングが人を変えることができない」という意味ではありません。

 カウンセリングをやれば人は変わることがあります。しかも大きく変わることもあります。
 でもそれは「カウンセラーが人を変える」ということではありません。「カウンセリングをやった結果、その人が変わった」ということです。でもこのお話は少しわかりにくいかもしれません。でも、カウンセラーが何をするのかということをお伝えすると、わかっていただけるかもしれません。

 そもそも人間というのは『方程式』のようなものです。方程式というのはyという数字を出すためにax+b+c-d…という計算をやりますね。
 このyという数字を出すためのaとかbというのは『変数』と呼ばれています。
 そして実は人間のあり方を決める内容はこの変数みたいなものであり、変数の組み合わせが人間のあり方をあらわします。

 その人が育った家庭環境のなかみ、たとえば今の話で言うと、子どもの保護者が勉強のことで子どもにプレッシャーを与えるというのも『変数』の1つです。もちろん子どもはその変数のほかにもいくつかの変数をもっています。
 そしてそのような変数のなかには、複雑なものもあります。上にあげた例でいうとax、つまりaとxのかけ合わせのようなものですね。たとえばこの保護者がどうして勉強のことで子どもにプレッシャーを与えるのかというと、何か複雑な事情があるのかもしれません。なにかの事情がかけあわされて―たとえばその保護者自身の生い立ちであったり、不安であったり、トラウマであったりといった、かんたんには取り除くことのできない変数どうしの組み合わせかもしれないのです。

 スクールカウンセリングの名のもとに保護者を学校へ呼びつけたり、何かの専門家としての言い分で、子どもの保護者であることを理由に変わることを要求するのは、この変数の組み合わせを無視することですし、高圧的に変わることをもとめたところでそんなものは「付け焼刃(やきば)」にすぎません。子どものこころの健康がかかっていることをじゅうじゅう承知したとしても、少なくともそのようなやり方はおせじにも「カウンセリング」とは言えません。

 ところで、人間のあり方というものが方程式のように『変数』の組み合わせでできているものだとすれば、1つの変数にこだわらなくてもよいということが、おわかりいただけるのではないかと思います。スクールカウンセリングをしていると、子どもの保護者の理解が得られたらよいのにとか、担任がもう少し態度を変えてくれたらいいのにとか、そんなふうに1つの変数を変えることを願うけれどもなかなか願い通りには変えられないということがたくさんあります。でもそれはいくつかの変数の1つなのです。

 そして変数は他にもあり、その別の変数を変えるという方法があります。これは決して『苦肉の策』ではありません。きわめて前向きで建設的な取り組みです。そしてこれは「自分自身を変えたい」ということにかんしても同じなのです。私たちは自分であれ他の人であれ、人を変えるなどということはできませんが、小さな変数から変えてゆくことはできます。時にはそれがささやかに環境をととのえることであったり、話を聞いてあげること(聞いてもらうこと)であったり、目下の問題以外のところに何か前向きな目標をもたせることであったりもします。そしてそのような小さな変化が、「自分を変える」のではなく「自分が変わる」ことにつながるのです。

 そして大事なことですのでもう一度言いますが、人間を変えることはできなくても、人間は変わることはできますし、そのお手伝いぐらいはできるのです。カウンセリングはその「お手伝い」なのです。

やさしい聖書入門『ローマ7:14-25』

やさしい聖書入門『ローマ7:14-25』

45.三人の話
 これまでこのコーナーで「律法(りっぽう)」というものについて見てきました。律法というのは神さまによってイスラエル人に与えられたものであり、これを守らないかぎりは神さまのきよさに私たち人間は合わないのだという基準です。
 そしてこの律法は文字によって言葉として書かれており、これを読む人はその内容によってある種の印象を感じることになります。そしてその印象はもしかしたら「こんな基準を守れるわけがない」というものかもしれません。

 そして意外に思われるかもしれませんが、「こんな基準を守れるわけがない」というこの印象こそがとても大事なのです。今回のかしょに「私たちは、律法が霊的(れいてき)なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です(14)」と書かれていますが、「霊的なもの」である「律法」が私たちに、私たちは罪びとで「売られて罪の下にある者」―つまり罪の奴隷(どれい)のようなものなんだということをわからせてくれるわけです。

 ところでこの状態はたとえていうと、私たちのこころのなかに3人の人がいるみたいなものです。そのうちの1人は「自分」自身で、もう1人は「律法」です。この律法は神さまの基準に従うように「自分」に要求します。しかしこころのなかにはもう1人、「罪」というものが住んでいます。これは身勝手な欲求を満たすように「自分」に要求します。つまり「律法」と「罪」はそれぞれ別の、正反対のものを「自分」に要求するわけです。

 今回のかしょではそのことを、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです(18)」と言っています。「自分」はどちらかといえば律法の要求のとおりにしたいのですが、なかなかそうもいかないのです。今回のかしょに「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異(こと)なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです(22-23)」とある通りです。

46.四人の話
 これが生まれながらの人間の現実です。しかし人間はある1つの大きな変化をとげることができます。
 その変化とは最初に言った3人に、もう1人のおかたが加わることです。そしてその「もう1人のおかた」というのはイエス・キリストです。イエス・キリストを信じることによって、こころのなかにおむかえする、ということです。

 今回の聖書のかしょの最後の方に、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか(24)」というなげきの言葉がかかれていますが、これはそのすぐ後で「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します(25a)」としめくくられています。これはそのような私たちを丸ごと、イエス・キリストが救ってくださったことへの感謝です。

 ところで、聖書をよく勉強しているクリスチャンの人たちからは、「それでは4人ではなく3人ではないですか?」という疑問の声が聞こえて来そうです。というのは、イエスさまは律法を『お役ごめん』にするからです。イエスさまが来られれば、もう律法に用はありません(ローマ10:4)。だから私たちがイエスさまを信じれば、「律法」のようなものに二度とわずらわされることはないだろうと考えたくなります。

 しかし、この『ローマ人への手紙』を書いたパウロは25節の後半にこのようなことを書いています。「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」と。実は、先に話した「自分」がちがう種類の2つのものの板ばさみになっているという状況は、まだ終わってはいないのです。

 なるほど、旧約聖書に書かれているような文字通りの『律法』は、キリスト信仰によって完全にお役ごめんになります。でも、「自分はクリスチャンとしてこうありたい」とか「こうであるべきだ」という理想形への欲求は残りつづけるし、なければかえっておかしいでしょう。

 実際、私たちは私たち自身の罪の意識によって苦しむこともあります。しかし、その苦しみは、
行き過ぎた強迫や罪悪感によるものでないかぎり、現実がもたらせるものです。そしてその現実とは、イエスさまがご自分のいのちを投げ出して救ってくださった「私」という人間は、実際、どのぐらい罪深いものであったのかという現実です。

 そのうえで、
私たちは、自分が手にしているのは、『完全にゆるされている』という認定証(にんていしょう)なのだという現実に立ちもどればいいのです。それをもって、私たちは私たちのいかなる現実にも向き合ってゆくというわけです。

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