こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

つまずきと般化(はんか)―「一方的でわかってもらえない」という悲劇はなぜ起こるか

つまずきと般化(はんか)―「一方的でわかってもらえない」という悲劇はなぜ起こるか

1.信仰と否認
 先日、すばらしい体験談を聞く機会がありました。くわしい話は省略しますが、ある人が重い病をわずらっていたのですが、家人の熱心な祈りによってそれが回復したという話でした。

 この話は実に感動的なお話でした。
 しかしその反面、私はこの話はあまり人に紹介しづらいと思いました。
 家人が祈り、そして病気から回復した、というのはよろしいのです。
 そのあとこういった言葉がつづいたのが残念でした。
 「だからみなさん、神さまは私たちが祈れば何でもかなえてくださるのですよ。」
 このことばはどう考えてもまちがいです。

 私がそう言うのを聞かれて、みなさんのなかには、「聖書のなかには『少しも疑わずに信じれば、神は山をさえ動かしてくださる』と書いてあるではないか」とおっしゃるかたもいらっしゃるかもしれません。これにたいしては同じく聖書の「荒野でのこころみ」のお話のように、「いや。聖書にはこうも書いてあるではないか」と反論することもできますが、そのような聖書解釈の問題をひっぱりださなくても、私たちが祈ったからといって、必ずしも神さまが私たちの願いどおりにしてくださるとはかぎらないということは、私たちも経験的に十分知っているはずなのです。

 いわばそのように私たちにしてみてもうすうす気づいていることなのに、「そんなことはないだろう」と言えなかったり、そのような反論に拒否感を感じるのは、こころに「否認(ひにん)」という機制(きせい)が働くからです。そして「否認」が働くのは、クリスチャンにかぎらず宗教に熱心な人は『自分が実は不信仰者なのだ』という現実に、自分が思っている以上に抵抗感をもっているものだからです。
 だから私たちはできればはじめから「自分が少しも疑わずに祈れるかどうか」などを試したくはないですし、誰かが「祈れば聞き届けられる」と主張するのを聞くとおおっぴらに反論するのに強い抵抗を感じます。

2.否認と般化
 「否認」というものはあくまでも心理学的なものです。いわば、その人のこころのなかだけの話です。
 しかし、私たちは人とかかわりながら生きていますから、その「こころのなかだけのもの」がおうおうにして人とのかかわりで出てきます。

 ところでクリスチャンは自分がこころの弱い存在であることを、クリスチャンでない人たちよりも、ずっと言いやすい傾向にあります。これは1つの文化といってよいでしょう。そもそもキリスト教は私たち人間がみんな罪びとだという前提にたっていますから、こころの弱さということを打ち明けやすいし、自分が「こころの弱い人間だ」と告白することが美徳のようですらあったりします。

 しかしながら、それでも私たちが自分自身の弱さやおろかさを認めるのには非常な抵抗があることは、クリスチャンでもけっして例外ではありません。だからこそむしろ本当に自分のこころの弱さに気づけたとしたら、そのことは例外なく大きな価値があるとクリスチャンは感じるのです。それは「否認」という強力なこころの機制を信仰によって乗り越えるすばらしい体験だからです。
 でもそれは貴重な恵まれた体験なのであって、多くの場合は私たちの本当のこころの弱さは周到に意識の底に沈められていて、気づきそうになるとブロックされてしまうのです。

 さて、ここで私たちは「般化」というもう1つのやっかいな問題に立ち戻りましょう。
 私たちはどちらかというと、成功例をことさらに、ほとんどどのような状況にも当てはまる画期的な例だというふうに「般化」したがるのですが、それには否認が一役かっているのです。
 最近ではさいわいにしてずい分下火になってまいりましたが、一時、伝道を「神の国の福音をのべ伝える」のではなく、教会員の数を増やすということと取り違え、各地の教会で短期間に教会員が増えた教会の牧師を講師に招いて学ぶというようなばかばかしいセミナーを大真面目にやっていたことがあります。これなどは「あの人がそうだから私たちも」というたぐいの般化の痛ましい一例ですが、私たち人間がなかなか自分たちの個々の現実を見つめたがらないという否認への傾向がこの般化を強めてしまうのです。

3.般化と適用
 誤解しないでいただきたいのですが、般化自体が悪いものというわけではありません。
 しかし、般化が私たちにとっては非常に魅力的なものなので、そのせいで魅せられてしまいやすいことは疑いようがありません。たとえばどこかの子どもが家でも学校でも反抗的で手に負えなかったとしましょう。しかし、ふしぎなことに学童保育ではおとなしくしているとします。そうなると親や先生や学童保育の担当者が考えることはわかっています。「学童保育と同じようにやれば、子どもは適応できるのではないか」と。この考え方、つまり般化は非常に誘惑的な力をもっているし、たとえばもし学童保育の関係者から「子どもが反抗するのは、自分たちと同じようにやらないからだ」と言われたら返す言葉もないはずです。それぐらい般化は魅惑的であり、かつ、強制力をもっています。

 先ほど、教会関係で起こった般化の一例をあげてみましたが、それほど大規模な例ではなくて、もっと小さい例は、私たちの身近に数え切れないぐらいあるでしょう。たとえばあなたが何かの理由で、しょっちゅう日曜日の礼拝を休まざるを得なかったとします。すると般化の声はこう言うのです。「私もあなたと同じように日曜礼拝に出にくい事情を持っていますよ。だけど祈っているおかげで毎回出席を欠かすことがありません。だからあなたもそうしてごらんなさい。神はかならずあなたにこたえてくださいますよ」と。
 あるいはもっとかんたんに、誰かに本をプレゼントしようと考えているときに、般化の声はこう言うかもしれません。「ぜったいにこの本が良いに決まっています!なぜかと言えば私が読んで、とても励まされたからです」と。


 このような般化の言葉の問題が、単にわずらわしさを人に与えるだけでなく、さらに大きな大きな問題を生むのは、このような般化がクリスチャンになったばかりの人とか、何か特別な事情で苦しんでいる人に向けられるようなときです。「もっとこうしなさい」とその人たちは誰かから言われます。「そうなっているのはコレが悪いのだ」とその人たちは誰かから言われます。
 そうしてその根拠として、般化の声はこう言います。「だって聖書に出てくるサムソンさんがそうでしょう?ペテロさんがそうだったでしょう?」あるいは「○○先生のお証のなかに同じような話がありますよ」、あるいは「私自身がそうだったからですよ」と。
 このような問題は、実は般化と適用(てきよう)を混同しているせいなのです。

 「般化と適用」の混同というのは、わかりやすくいうと、病院で1人の患者さんにある注射をうったところ症状がやわらいだからと言って、同じ症状をもつ他の患者さんにもその注射をうってよいのかと考えればよろしいのです。普通に考えて病院では、前の患者さんにその注射がきいたからといって、そのまま別の患者さんにもそれをうつということはしないでしょう。その患者さんと前の患者さんとでは症状が同じであっても病因はちがうかもしれませんし、アレルギーとか体質などの問題があるかもしれません。それを調べてからでないと、前の患者さんの例を別の患者さんに当てはめられないのです。

 そのさい、第2の患者さんにその注射がうてるかを考えることが「適用」です。その一方、適用をしないで同じ効果をいたずらに期待してしまうのが般化の悪いケースです。そうなるとその行為は、もはや暴力にしかすぎません。
 しかも、このような“いたずらな般化”は、やる方は善意のつもりですからなおさらにやっかいなのです。先ほどももうしましたように、般化にはある種のふしぎな強制力がありますし、ましてや般化を向けてくる人よりも立場が弱い人の場合はなおさら断れません。

 こういうことは案外日常的に起こってしまうでしょうし、これが起こる場所というのは教会にかぎらないでしょう。
 そうして、対人関係でのつまづきというものの何割かはこれが原因で起こっていると思います。
 たとえ正しいと思えることを良かれと思って伝えているつもりでも、その言葉が「適用」でなくて、いたずらな「般化」であるならば、それは負わせなくてもよいような重荷を背負わせるだけの、こころない行いにすぎないということを、私たちはよくよく考える必要があります。

やさしい聖書入門(マルコ13:17-20)

やさしい聖書入門(マルコ13:17-20)

 「だが、その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
 ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。」

 今回のお話もイエスさまがお話しなさったこの世の終わりについてのお話です。
 これまでのお話によって、私たちはこの世の終わりのときにはたいへんな患難(かんなん)の時代が押し寄せるということを学びました。実際、この世の終わりにさいしては、人間はたいへんな災害に苦しむことになります。それはまったくもって神さまのみこころだときびしく言えるわけですけれども、今回のみことばを学ぶかぎり、それではそのことにかんして神さまのあわれみが何にもないのかと言うと、けっしてそうではないことがわかってきます。


 今回のみことばは、読みようによっては、父なる神さまとイエスさまとの間で、考え方の不一致があるような印象を受けるかもしれません。滅びを遂行しようとなさる神さまがいらっしゃるその一方で、人々の苦しみをおもんばかるイエスさまとがいらっしゃるからです。
 しかしそのような疑いは、次の2つのことが理解できれば、ちょうどきりが晴れるように解消すると思います。
そのうちの1つは、父なる神さまが、けっして一方的にご自分の考えばかりを押し付けてはおられないという事実です。

 私たちは聖書のあちこちで、父なる神さまが「とりなし」―つまり『他の人のための弁護』が行われることを受け入れていらっしゃることに気づきます。神さまは私たちが、たとえばいかに悪い者であっても、そしてそのような私たちに対する神さまのみこころが、いかに決然としたものであったとしても、そこには私たちを弁護してくれる誰かの「とりなしのことば」が介入するのにじゅうぶんな余地があります。だから神さまがその「とりなし(弁護)の声」を聞いてくださらないともかぎらないのだと、私たちは期待ができるわけです。

 そしてなによりも、その弁護のぬしが重要です。これが、私たちの疑いをはらすもう1つの真理です。
 私たちのとりなしをしてくださる最大のおかたは、実はイエス・キリストです。
 このお方のとりなしが「最大だ」という理由は、このお方が私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかり私たちの罪のさばきを受けてくださったからです。

 そうしてさらに、実はその十字架の死によって私たちにはゆるしが与えられるということが、そもそもの神さまのみこころだったという重大な事実があります。
つまり、私たちがもしも、このイエス・キリストの十字架の上での死が、私たちの罪の身代わりであると信じるなら、私たちは神さまを知らなかった最初の段階にまでさかのぼって、神さまのさばきではなくて、あわれみを受けます。この「あわれみ」は私たちに罪深さをおおってしまい、私たちが神さまにおそろしいさばきにあわなければいけないのだという現実を無効にします。そしてそれこそが神さまの「みこころ」だというのです。

 さて、もう1つ私たちが知っていなければいけないことがあります。それは、イエスさまはたしかにそのようにご自分の自由意思によって父なる神さまに私たちのことを弁護され、その弁護のことばが通じることを私たちは期待できるのですけれども、けっしてそれだけで終わったと思ってはならないということです。

 というのは、私たちのための「弁護」の最終的な仕上げは、ほかならぬ私たちのほうにゆだねられているからです。神さまのさばきにかんして、私たち人間ができることというのは、実はあります。それが、神さまのことばである聖書を信じるということです。
 そうして、そのような信仰をもつということこそが、この世の終わりへの備えなのです。

 キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル 7:24-25)

 しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。(詩篇 86:15)

あなたの子どもと、あなたのおさなごころのために

あなたの子どもと、あなたのおさなごころのために

あなたがかかわる子どもと
あなたのなかに住んでいる“おさなごころ”には
たいせつに
たいせつに
かかわってあげてください

たいせつにかかわると言ったって
ただそのひとが感じる
よろこびを「よろこび」とみとめ
かなしみを「かなしみ」とみとめて
こう言ってあげるだけでいいのです

うれしかったね
かなしかったね

そう?
おいしいね
たのしいね

あるいは
こわかったね
残念だったね、と

そうしてさらに
こう言いそえてあげればよいのです
うれしい気持ちには“よかった”と
かなしい気持ちには“かわいそう”だと
自分がかかわる子どもとか
自分のなかのおさなごころに
そう言ってあげればいいのです

意外に思われるかもしれないけれど
気持ちというのは人とはなかなか
分かち合うことがむずかしいのです
こどもの気持ちや
おとなのなかのおさなごころは
かんたんには分かち合えないものだから

だからこそ言ってあげたり
言われたりすることが大切なのです
うれしかったね
よかったね
かなしかったね
かわいそう、と

それだけでどれぐらいおおぜいの人の
こころが救われるかははかりしれません
そうではありませんか

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