こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

「抵抗」のはなし―なぜこころの悩みは治りにくいのか

「抵抗」のはなし―なぜこころの悩みは治りにくいのか

1.「よくなりたいか」の質問に
 一般の人はあまり興味がないかもしれませんが、聖書のなかにこんな話が出てきます。
 イスラエルの首都であるエルサレムのなかに、むかし、ベテスダという名前の池がありました。そこは病気が治る奇跡が起こる場所だと言い伝えられていて、実際に、聖書が書かれた当時はそこに大勢の病人が奇跡を目当てに来ていたということです。
 聖書はそこへイエス・キリストが行かれた時の話を伝えています。その時そこに38年ものあいだ病気にかかっている一人の人がいて、キリストは彼がもう長い間そこにいることを知り、こう聞かれたといいます。「よくなりたいか」と。

 この質問を聞いて、どうでしょう、「当たり前だ」とは思いませんか?だって、よくなりたいからそこに来ていたはずなのです。なのにどうしてそのような、わかりきったことをキリストは聞かれたのでしょう?
 ところが驚くべきことですが、この病人は「よくなりたいか」と聞かれて、「はい」とも「当然です」とも答えなかったのです。病人はこの質問に答えられなかったのです。

 この話は人間の悩みや苦しみについての深い本音をあらわしています。その人がベテスダの池に来ていたのは、「よくなりたい」という気持ちからで、それは本音の1つかもしれませんが、でも彼のこころのなかにはそれとは別の本音があったのです。だからフイをつかれる形でキリストに「よくなりたいか」と聞かれた時、彼は「はい」とは答えられなかったのです。

 実際にこういうことはよくあります。この話のように、人間には意識的な本音のほかに、こころの中の深い部分にひそんでいる、それとは別の本音があり、その本音にも人は動かされているのです。そしてその奥底の本音のほうがおもての本音よりも案外強く、結局、「悩んだけれども何も変われない」という結果をもたらしてしまうこともあるのです。

2.説得がムダになるとき
 話は変わって、今度は現代の話をします。先日、発達検査と心理療法の、ある専門家の講演会に行きました。その講演では、おそらく実際のデータの一部を変えて作ったのでしょう、架空のデータが資料として使われました。そのデータはある問題行動をもった子どものデータで、データは架空のものでしたが具体的な相談内容は現実のもののようでした。そしてその相談内容のなかに、その子どもがときおり見せる暴力的な行為がみられました。

 この情報に、その場に居合わせた人たちの何人かは、私もふくめて、「この子どもはいつかの時点で、何か暴力的な場面にあったかもしれない」と考えました。そういうことはよくあるからです。ところがそれにかんしてその専門家は、『この子どもの家庭内に暴力はなかった』と説明しただけでした。

 講演の最後に質問と意見交換の時間がありましたから、私はその点について、その専門家にこう言いました。「人間が外の世界から、暴力のような何らかの影響を受けるのには、それほど長い期間が必要ない場合もあります。特に子どもはある瞬間のような短いタイミングに当たれば、まるで長いあいだ悪い影響を受けつづけてきたのと同じような変化が起こることがあります。だからこの子どもの場合も『家庭内に暴力はなかった』と片づけるのではなく、過去の体験を掘り下げていってあげれば、この子どもの問題を形作っている何らかの原因にたどりつけるのではないですか」と。

 この意見にたいし、その専門家の答えは「そのようなことを子どもに聞いてもしかたがない」という答えでした。それよりも検査の結果にもとづいた対応をすべきだと。私はそのときこの人の頭の中に、現代の子どもへの支援では欠かすことができない「トラウマ理論」がないことに気づきましたし、「そのような話を聞いてもしかたがない」という言葉は相談に来た人たちにとても聞かせられないようなひどい言葉だと思いました。しかしそれでも、私はその人の答えに驚きませんでしたし、そのことにかんして議論をしようとも思いませんでした。
 というのはその専門家は実は前から私の知り合いで、その人は以前もそういうことができない人でしたし、その時もそれが変わっていないことがわかったからです。それ以上の議論はムダでした。

3.抵抗のはなし
 この専門家だけでなく、子どもの保護者や学校の先生や教会の人たちのなかにも、そのように子どもなどが語る話に耳をかたむけて問題を掘り下げてゆくというのが苦手な人がいます。しかし、そのこと自体が悪いわけではありません。人にはそれぞれで個性があり、得意なこともあれば得意でないこともありますから。

 ただその時に、「自分はそのようなことが苦手なんだ」ということに正直であればよいのです。そうではなく、それなのに何か言わなければならないということに気があせると、「そんな話をしてもしょうがない」という態度に出ます。しかも、それを言うがわの人間は、保護者や学校の先生や教会の関係者や臨床心理の専門家など、相談を持ちかけるがわの人よりも立場が強いのです。だから弱い立場の人間は、それを受け入れるしかなくなります。こうして家庭でも学校でも教会でも心理士がいるような現場でも弱い立場の人の必要なことは拒否されて、置き去りにされ、非常に残念な結果になりかねないのです。これはとても悪いことです。なぜならそれは強い立場の人間が、自分がふれたくない事柄を避けようとするあまり、弱い立場の人を犠牲にするからです。

 同じようなことはしかし、相談を持ちかける側にもあり得ます。つまり最初にお話したベテスダの話と同じで、人間のこころの奥底に「よくなりたい」というおもての本音とは別の本音があり、そのために損をしてしまうケースです。そんなばかなことがと思われるかもしれませんが、実際にそういうことはふつうに起こります。そしてその時人は、苦しい状態がつづいてしまう犠牲をはらってまでも、自分が変わることから「身を守る」のです。その結果、人は良いほうへかわるのが、たいへんむずかしくなってしまいます。

 しかしなぜそんなことをするのでしょうか?それには2つの理由があります。
 そのうちの1つは、人間にとって変化するのは苦痛だからです。たとえば、今ここに、これまでの人生でほとんど誰からもほめられたことのない人がいたとしましょう。このような人にとって「ほめられる」という状況は、たちまち不安定にさせられてしまったり、強い緊張感を感じてしまうような、一種の脅威となり得ます。その場合、この人にとって心理的に安定できるのは、けなされたり無視される状態です。たとえそのせいで傷ついたり悲しんだりしたとしてもです。このことは虐待やいじめのようにひどいものの場合でも起こることがあります。このようなことも人間が本心では変われないことの理由です。

 もう1つの理由は、たとえ良い変化のためであっても、その変化をするために自分にとって都合が悪いことを認めたり、克服しなければならない場合です。
 わかりやすい例で言いますと、たとえばカウンセリングを受けていて、どうしても言いたくないようなことがあったとします。カウンセラーがそれに気づかなければ、その問題はその人が話さない限り取り上げられない結果になりますし、もしもその問題がカウンセリングのカギであったなら、そのカウンセリングは成功しないか、とどこおってしまうことになります。

 すると、結果的にその人は、自分が言いたくないことを黙っていることで、悩みや病気のなかにとどまることを選んだ、という結果になりかねません。このことはたいてい意識されては行なわれませんから、何か別の反応のかたちに姿を変えます。たとえば、もっと他のことのほうが重要に思えたり、カウンセリングを受けることが急にムダなように思えたり、あくまでも真実を知りたがるカウンセラーの態度に腹が立ったり、という具合です。このようなときに起こっていることを心理学では「抵抗」と言います。

4.恵みの話
 このようにお話すると、何かこの「抵抗」が悪いもののように思えるかもしれません。たしかに、この抵抗が相談を受ける側に働けば、その人の腕と感覚をにぶらせて、職業人として、あるいは善意の奉仕者として、機能不全に陥らせてしまいかねませんし、相談をする側に働けばせっかくの話し合いの機会を台無しにしてしまうかもしれません。
 しかし、「抵抗」があること自体は神の恵みのようなものです。これは大事なものなのです。

 今度は少しまた、ちがった感じのお話をしましょう。
 キリスト教会では、聖書を勉強したり「お祈りの会」のような小さな会合をもつ機会がいろいろあります。するとそのような会合に熱心に来ていた人が、とつぜん「少し休みたい」というようなことを言い出すことがあります。このような人はたいてい「やめてしまいたい」とは言いません。あくまでもしばらく休むだけで、あとでまた復帰するみたいな感じです。

 しかし、私はキリスト教会で長年聖書の学び会を主宰していますが、私の経験から言うとそのような人に「はい。そうですか」と答えてしまうと、その人は二度とそこへは現れません。それはその人が「しばらく休みたい」とか、「これからはあまり出席できないかもしれない」と言うことによって、何かもっと別のことを訴えているからです。

 そしてこのようなことはカウンセリングでも起こります。たとえばそれまでしていた面接のペースを、何らかの理由で―なかには仕事や家族や健康上の理由のようなやむにやまれぬ理由で、もっとゆっくりしたペースに変えてほしいというようなことを言い出すのです。

 実はカウンセリングはこのような時、重要な別れ道に立っています。その人は、深い本音ではあいかわらず「変わりたくない」と願っているのです。そしてカウンセリングでも聖書の学びでも、何らかの言葉やアドバイスや話題がその「変わりたくない」という、本来は深いところにひそませていた部分に、幸いにもぶつかってしまったのです。それは「抵抗」とじかにぶつかったということなのです。
 このときをのがすと、今も言いましたようにその人のことを失ってしまうことになりますが、その時にちゃんと話すことができるなら、大きなヒントを得ることができるのです。

 このようなときに必要なことは、「なぜ?」という言葉を使うことです。
 なぜカウンセリングのペースを落としたいのでしょう。なぜ、聖書の学びをお休みしたいのでしょう。体の調子が悪いのも、仕事がいそがしくなったのも、家庭のことも、これらはすべて事情です。事情があっても必死になってそれを乗り越えて、カウンセリングでも学びでもつづけようとする人もいます。それでも休もう、回数を減らそうというのはその人がそれを選んでいるのです。だから「なぜ?」という質問は重要なのです。それは何かが働いているからであり、これに「なぜ?」と問うことは「よくなること」に必要なのです。

 これを問わなければ、良くなることはむずかしいかもしれません。

やさしい聖書入門(マルコ14:42-45)

やさしい聖書入門(マルコ14:42-45)

 「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。
 イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決
めておいた。
 「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」
 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。

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 今回の場面は、イエスさまがいよいよ反対者にとらえられえる場面です。

 この場面には、イエスさまをはさんで、たくさんの人々がいたことがわかります。
 まずイエスさまをつかまえに来た人たちがいて、その先頭にはユダがいました。ユダは非常に残念なことに、イエスさまの「十二弟子」と呼ばれる特別な弟子でした。
 私たちはそんな人がこのとき反対者たちの先頭にいたことに、注意をとめねばなりません。というのは、この事実からイエスさまと私たちとの関係が、教会の中でどういう立ち位置にいるのか、あるいは他のクリスチャンたちからどのように見なされているのかということとはまったく関係のない、別の問題だということがわかるからです。

 ユダは弟子たちのなかでも特別な存在でした。いつでも中心的な役割を果たし、他の弟子たちがやらない特別なつとめをし、特別な教えや訓練を受けていました。それでも、イエスさまとは無関係だったのです。
 なぜ、十二弟子の1人であったユダが裏切ったのか。この問題についてはいろんな解釈があります。しかし、物事を複雑に考える必要はないのです。彼は一時的には私たちの仲間のように見えましたが、仲間ではなかったということです。そして、そういうことが現実にあるということをこの件から知ることができます。

 次に、ユダにつれられて、イエスさまをとらえにきた人々がいます。この人たちは、当時の祭司長と律法学者と長老たちから差し向けられてきた人たちでした。
 祭司長と律法学者と長老たちというのは、この時代の社会を導いていた人たちで、民衆に対して強い影響力を持っていたのですから、そういう人たちに命令されてやって来たというのは何となくわかりそうな気もします。
 しかしそれでも彼らがやったことは、あまりにも愚かだったと言わねばなりません。

 いったいどうして彼らは自分の頭で考えてみなかったのでしょうか。数々の奇跡をおこない、神さまの愛や約束を教えておられたイエスさまを、まるで強盗でも捕まえるようにして捕まえねばならないのか、と。
 そしてこのことからも、私たちは自分の身につまされるようにして学ばなければなりません。というのも、私たちもよく考えもせず、知りもせず、ただ世間の波や人間の口車にのり、イエスさまに敵対するというのはあり得るからです。

 しかしそもそも、イエスさまをどのような方だと思うのか、そしてこのかたに対して自分がどのような態度をとるのかは、自分の永遠の未来がかかっている大事なことです。大勢の人々の意見や考え方、あるいは生き方をそのままならい、自分で考えようとしないのはどうしてでしょうか?
 先ほどのと同じ質問を、今度は少しだけ変えてくり返しましょう。
 『あなたはどうして自分の頭で考えないのですか?』

 それからこの場面には、イエスさまの本当の弟子たちがいます。そして彼らは押しかけて来た人々に対し、あまりに無力でした。
 しかし、私がこう言えば、あなたはたぶん驚くかもしれませんが、弟子たちが無力であったことは何の問題もないのです。というのは、イエスさまがこの場面でとらえられ、そして翌日に十字架にかけられたのは、弟子たちや私たちのための恵みだったからです。

 「恵み」を得るためには、私たちのがわで何もすることはできません。私たちはただ座してそれを受け取るだけです。「恵み」とは本来、お金を払わず、ただで飲み食いするようなものです。私たちはそれを受け取ればよろしいのです。
 イエス・キリストによる救いにおいても同じで、私たちは、反対者のがわにたたず、ただ恵みを受けるがわにたつといいのです。

 さて、あなたはこの場面にいる人々のなかの、どの人々と同じでしょうか。あなたのような人はここに出ていますか?さいわいな人とは誰でしょう。あなたは十分にお分かりになるはずだと信じています。

 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。(第一ヨハネ 2:19)

 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――(エペソ 2:5)

 

やさしい話とあまりやさしくはない話

やさしい話とあまりやさしくはない話―おとなと子どもと、おさなごころをもったおとなのために

1

だんごむし、という虫がいます。
植木鉢や地面の石をどけたときにいる、
小さな小さな虫のことです。
子どもたちはこのだんごむしが大好きです。
おとなからみればそんな虫の
どこがいいのだろうと思いますが

でも子どもはあるときは喜々として、
あるときはとても真剣に、
だんごむしをつかまえては
いとおしそうにしています。

でもよく考えてたらだんごむしはいい虫です。
子どもにつかまえられても噛みつきもせず、
飛んで逃げてゆくこともしません。
小さな子でもつかまえられる速さでうごき、
何かあればまぁーるくなってくれるのですから。

おとなは気持ち悪いというかもしれません。
そんなものをつかまえて、何になるのとも。
でも、子どもにとってだんごむしはいい虫です。
子どもはそれを知っています。

おとなにはしばしばそれがわかりません、
こういう存在が必要なのだということを。
噛みつきもせず、逃げてゆくこともなく、
いっしょにいてくれる存在が。
子どもにとっても、そして、
おさなごころをもったおとなにとっても。

2
川というのはサラサラ流れるだけではありません。
大雨が降ったようなときなどは、
ゴウゴウと音をたてて流れます。

そんなときの川はまるで魔物です。
私たちの体やたましいまで引き込んで、
ならくの底で殺してしまいそうです。

そんな川を見て、私たちはこう思います。
“あのときに見た小さな生き物たちは
 いったいどうなってしまっただろう“と。
つまり、小さな小さな小魚や、
石の裏をすべるように這っていた虫です。

すると実に意外なことですが、
あの小さな小さな彼らが、
おそろしい濁流で命をつないでいるのです。
「他のところよりはまし」というていどの隠れ家のなか
彼らはあれを耐え忍んでいるのです。

彼らがそのように生きながらえるのは神の恵みです。
まちがってはいけません。
目が覚めるような奇跡だけが神の恵みではないのです。
流されまいと必死でつかまる木の葉っぱ、
ぎゅうぎゅうづめで身を寄せる岩陰が、
神の恵みであることもある。

忘れないことです。

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