こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

心理カウンセリングが目指すもの―心理カウンセリングは“魔法の杖”になれるか

心理カウンセリングが目指すもの―心理カウンセリングは“魔法の杖”になれるか

 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(聖書より)

 「カウンセリング」ともし聞いて、あなたはまずはじめに、何を連想なさるでしょう?
 たとえば求人サイトで「カウンセリング」という言葉で検索をかけると、実にいろんな職業がヒットして、いろんな職業でこの「カウンセリング」という言葉が使われていることがわかります。しかし、私の印象では、美容関係の仕事にこの「カウンセリング」という言葉が使われていることが多いように思えます。

 その美容関係のカウンセリングがどういうことをしているのか、私は知りません。でもたぶん肌とか髪の毛を検査して、「あなたはこうしたほうがいいよ」というようなアドバイスをしているのでしょう。そして言われたとおりにやれば、きれいになったりするのでしょう。そうだとすれば、そのようなイメージは、私が知っている「心理カウンセリング」のほうのカウンセリングとは大きくちがいます。しかし私たちはそのちがいを、どれぐらい分かっているでしょうか。

 心理カウンセリングでもアドバイスをすることはよくあります。さらに、「環境調整」といって、たとえば学校でのカウンセリングを例にとると、子どもを支援学級に入れることを勧めたり、公けの機関と協力して家庭環境を支援するために何らかの提案をすることもあり得ます。またそうでなくても、保護者や担任の先生たちを中心にいろんなことが話し合われて支援というものが行われます。
 しかし、こう言ってはなんですが、それでも「心理カウンセリング」というものはある意味で、美容関係のカウンセリングの足元にもおよばないでしょう。というのは、心理カウンセリングはそもそも、肌のトラブルに悩む女性にきれいな素肌を約束するようにはいかないからです。

 たとえば、「教室に入るのが不安だ」と言って、学校へ来られない子どもがいたとしましょう。そしてその子どもをとても心配している親がいて、その親子にどう対応していいのか行き詰っている担任の先生がいたとしましょう。
 そのようなとき、美容カウンセラーが肌の検査をやるように“発達検査”というものをやり、肌に悪い刺激を与える紫外線や夜更かしを避けるように、その子どもにヘタな刺激を与えないようにとうながし、「この美容液をつければ肌がきれいになる」とでも言うように何らかの「心理療法」というものを当てがいたくなります。

 それが悩んでいるその人自身や、その人のことを助けたいと思っている人に共通している願いなのはしょうがないにしても、心理カウンセラーがそのような誘惑に負けるとするとまちがいです。美容カウンセラーなら特定の検査法や美容法の伝道師になることがゆるされるでしょうが、心理カウンセラーが特定の検査法や心理療法の伝道師のようになるのはゆるされません。

 この記事の一番上にあげた聖書の場面は、おもしろい場面だと思います。荒野で長いあいだ断食をしていたキリストのところへ悪魔が来て、「おなかがすいているのだから、そこに転がっている石を神の子の力でパンに変えて食べればいいじゃないか」と言うのですが、キリストは「そんなことは人間がすることじゃない」と言って断るのです。

 たとえ神の子の力を使うにしろ、あるいは
“魔法の杖”のようなものををふるうにしろ、問題をそんなふうに解決してしまうのは、たしかに人間のすることではありません。神の子のキリストも、人間として生まれた以上はその生き方を守るまでです。だからキリストもこの後、空腹を抱えながら家に帰られたでしょう。この「抱える」ということが、実は、人間がやれること、そして心理カウンセリングの目標です。

 
私たち心理カウンセラーはよく、「何か悩んでいることや、困っていることがあったら相談に来てください」ともうします。この言い方は、心理カウンセリングのことをよく表現しています。実際に、相談に来る人はそれを話します。そして相談が終わったら、キリストが空腹を抱えて家に帰られたように、その人たちも悩みをかかえて帰ってゆきます。さっきの例で言うと、子どもは学校へ行くということの不安を、親はそんな子どもへの心配を、担任の先生は戸惑いを抱えたまま相談室をあとにします。

 
それでは相談なんかしたってムダではないかというと、そうではありません。たしかに、ぜんぜん相談をしなかった頃と、何度か相談を重ねたあととではちがいがあります。
 そのちがいは、美容カウンセリングにたとえて言うと、肌の状態が前と同じでちっともきれいにならなくても、そんな自分をすてきだと思えるようになるとか、そんな自分でも大丈夫だと思えるようになることです。「自分の肌はきれいじゃない」という現実を、現実として受け入れるような変化と言っていいでしょうか。

 
あなたはそのような変化など、あり得ないと思うでしょうか?もしそれをそんなふうに不思議なことだと思われるなら、心理カウンセリングも少しぐらいは“魔法の杖”であることを自負してもいいのかもしれません。

賛美歌に見る聖書の信仰②「しずけき祈りの」

賛美歌に見る聖書の信仰②「しずけき祈りの」

 前回からこのコーナーでは、キリスト信仰に生きる人たちが聖書の言葉を実生活のなかでどのように体験しているのかを、
賛美歌を紹介しながらお話しています。
 今回紹介する賛美歌は、「しずけき祈りの」という歌です。この賛美歌も非常に親しまれていますので、Youtubeなどの動画サイトで聞くこともできますし、どのようないきさつで生まれた歌なのかもネットならかんたんに知ることができるでしょう。やはりこのコーナーでは、この賛美歌の歌詞を味わいながら、聖書のどのような教えがここで実践されているのかを見てゆくことにいたしましょう。

 
この賛美歌はこのように歌いだされます。「静けき祈りの時はいとたのし」と。
 この歌詞を聞いて、あなたはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
 「静かな祈り」だからといって、おだやかであると考える必要はありません。この場合の「静けさ」とは、神さまと自分だけの奥まった部屋にいるような状況です。(この歌のもともとのタイトルは英語で、Sweet Hour of Prayer(祈りの甘い時間)というものです。いわば恋人同士のような、甘いひと時という意味です。)

 それに、仮に私たちの祈りが静かであるとしても、それはしばしば私たちが落ち着き払っているためでなく、むしろ逆のことも多いのです。なぜなら歌詞はこうつづきます。「悩みある世より、われを呼びいだし」と。私たちはこの世に生きるのにともなう悩みのために、すっかり意気消沈していて、祈りだからといっても改めて気力などわかない状態かもしれません。

 前にも見ましたが、聖書は決して私たちにこの世界での安楽を約束してはいません。それどころか私たちが住むこの世は苦しみの世界であることをあかしします。第1に、この世はあわれみ深い神さまのみこころにあまりにも背くものだという意味で(第一ヨハネ2:15-16)、さらに、そもそも信仰をもつ者にとっては「住みやすさ」を期待できる世界などではないという意味で(ヘブル 11:38)。

 しかし
、だからといって神さまが私たちの住むこの世界のことに関与しておられないというわけではありません。イエスさまはこう言っておられます。「二羽の雀は1アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の1羽でも、あなたがたの父(=神さまのこと)のお許しなしには地に落ちることはありません(マタイ10:29)」と。神さまはこの世界の王であられ、正義とあわれみによってこの世をさばかれるお方です。
 しかし、その正義とあわれみは、秩序もなく誰にでも与えられるわけではありません。
その王に対してすばらしい特権というものがあることを、この賛美歌は歌います。「父のおおまえに全ての求めを たずさえ至りて、つぶさに告げしむ」と。

 「おおまえ」というのは王様の前のことです。古代の社会でも現在でも、王様の前に行けるのは特権をもった人間だけです。そしてこの賛美歌は、私たちがこの王である神さまの前に行き、そのうえ、大胆にも「すべての求め」を話せるのだと主張します。なぜそのようなことができるのでしょうか?その根拠はもちろん聖書にあります。聖書はこう伝えています。

 
しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ 1:12)

 私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル 4:15-16)

 
賛美歌の2番目の歌詞はこう歌います。「静けき祈りの時はいとたのし。さまよい、いで(出)たるわがたまを救い」。
 なぜ「救い」などと言うのでしょう?多くの人は、キリスト教が言う「救い」など、いらないと考えます。
 しかし聖書は、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった(ローマ 3:12)」と教えています。みんな真理から迷い出て、全員がむなしい存在になり果てたというのです。もしもそれが本当なら―そして実際にそれは本当なのですが、
そのような迷い出た人間を、神さまはどうしたいというのでしょう?

 賛美歌はつづけてこう歌います。「あやうき道より、ともない帰りて、こころむる者の罠をのがれしむ」と。われ知らずに迷い出た人間を、神さまはご自分のもとへと連れ戻したいと願っていらっしゃるのです。しかし人間には
神さまへの方向とは逆への動きがあります。「こころむる者(試みる者)」、つまり悪魔サタンの誘惑です。

 一般には、聖書の教えは人間の自由を制限するものだという誤解が、広く世の中にはあるようです。そんなことはありませんが、仮に私たちがそうしてやろうと願ったところで、もはや手遅れです。悪魔がすでに人間をみんな買い取って、罪の奴隷にしてしまっているからです(ローマ 7:14)。

 考えてもみてください。たとえ誰かがこころのなかに、どんなに高潔な望みを持っていようと、私たちのこころのなかにはもう1つ別のいやしい根性があり、それが私たちを迷わせて、そもそも望んでいたはずのない悪いふるまいへと追いやるのです。私たちは誰かに教えられたりしなくても、悪いことを行います。これは、私たちが罪の奴隷の証拠であり、そもそも聖書が言うようにみんな迷い出てしまっているからです。

 聖書の中でパウロという人は、自分自身のこととして、このようなことを言っています。

 
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法(りっぽう=決まりのこと)を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ 7:22-25)

 
このパウロの告白の最後が、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」という言葉でしめくくられていることに注目してください。この言葉はもちろん直前の「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」という問いへの答えです。イエス・キリストがそのようなカセを打ち破り、私たちを救い出して神の子どもとしてくださったとパウロはあかししているのです。

 
するとその後はどうなるのでしょうか?新しい地平が目の前に開かれてゆきます。賛美歌は3番目の歌詞でこう歌います。「静けき祈りの時はいとたのし。そびゆるピスガの山の高嶺(たかね)より、ふるさと眺めてのぼり行く日まで、なぐさめを与え、よろこびをみたす」。

 「ピスガの山」は神さまが約束してくださった地が見えるところです。キリストを信じる人は天の御国に行くことが約束されており、こころのなかでその御国をあおぎ見ます。そして、そこへ行く時までの間、すなわち地上で生きるこの生涯の間、「祈る」という特権とともに、その祈りが「こたえられる」という特権を手にしています。これが、この歌のあかしです。

 
祈りというのは、ひとりごとでも呪文でもありません。もちろん私たちは弱い人間ですから、時には祈りといえども、ひとりごとや悲嘆の叫びのようになることもあります。しかし、たとえそのようなときであっても、祈りはひとりごとではありません。なぜなら、神さまがその祈りにこたえられるからです。ある時にはなぐさめというこたえを、また、ある時には約束というこたえを。

 大事なことですので、最後にもう一度申しますが、人がクリスチャンになって祈りをささげることができるというのは特権です。誰もかんたんに王様の前に出て自分の願い事が言えないという原則があるなかで、例外的に大胆に神さまにこころを近づけて、つぶさに要求できるのは誰でしょう?キリストによって神さまと親子のちぎりで結ばれた人間です。
 信仰は安楽をもたらしません。信仰はこの特権をもたらせるのです。

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答えのあるところ

答えのあるところ

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」―聖書より

 最初に、聖書に書かれている短い話を1ついたしましょう。
 むかしニコデモという名の人が、キリストのところへ夜にやってきました。この人は「パリサイ派」というユダヤ教の一派の人で、その道の指導者でした。

 この人がキリストに会うのに、このように遅い時間を選んだのには、それなりの理由がありました。パリサイ派の人たちの考えではこのイエスという男自体が取るに足りない人物と見なされており、しかもこの男の教えはいちいちしゃくにさわる教えでした。
 しかし、ニコデモにはキリストの教えがなおざりにはできない本物のように思えました。それで彼は個人的にキリストから話を聞いてみたくなりましたが、さすがに人目がはばかられたため、人目につかない夜間にキリストのもとへきたのでした。

 そのニコデモにキリストが投げかけた言葉が上に引用した「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」という言葉です。この言葉は実のところ、それほど難しい言葉ではありません。人間を神の国から遠ざける原因がその人の罪・けがれであるのなら、その罪・けがれの影響のない生(せい)をその人が生きられればよろしいのです。

 ところがパリサイ派は、人間的な努力の延長線上にある宗教でした。だからニコデモはキリストのこの言葉を理解できませんでした。自分の人生の延長線上に物事をみんなとらえていたのでは、それ以外の
生」というものはわかりません。
 それで彼はおどろいてキリストにこうたずねます。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎(たい)に入って生まれることができましょうか」と。

 この質問に対して驚いたのは今度はキリストです。キリストはこう言います。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と。
 そうです、たしかにそのようなことは驚きです。ニコデモにはかんたんに分かってもよさそうなことがまったく見えていないのです。

 そのように人間には意外にわからないでいることがあります。そしてそれは宗教のうえのことだけではありません。私たちが、自分自身がよくなじんでいる物事のためにかえってそれ以外のことがわからなくなる、そういうことならよくあるでしょう。たとえばこのニコデモはパリサイ派という宗派の専門家ですから、その宗派の教えには深く通じていたでしょう。するとそのことがじゃまをして、かえって物事を見えなくしていたのです。

 私たちもまた、自分自身が信じて堅く守ってきた“何か”の専門家です。その“何か”ははじめから自分で選んだものではなかったかもしれません。他の誰かから人生の早い段階で押しつけられて取り入れて、自分のものとして生きてきた“何か”があって、その“何か”が私たちにとってはあまりに明るいために、それとは別の道が見えなくなっています。

 キリストは先の言葉につづいてこうも言いました。「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません」と。これは個人の生活のなかに起こる心理学的な問題についても同じです。みんながわかっていたり、やれたりしていることがあるとわからず、伝えても実感をもって受けとめることが難しいのです。(たとえば多くのクリスチャンは神の愛を伝えたがりますが、「愛」という言葉は誰にとっても理解できる『共通言語』ではありません。「愛」と聞かされてもその正確な意味がわからない人もいれば、「愛と聞いてもわからない人がいる」ということがわからない人もいます。この場合、互いが互いにとって死角であり、盲点になっているのです。)

 しかしおそらく自分のそのような盲点に気づくことができなくても、誰か身近な他人がそのような盲点を持っているということになら、もっとかんたんに気づけるでしょう。たとえば、人を圧迫するような話し方をする人がいますが、その人がそれに無頓着なのはどうしてでしょう?あるいは、自分の能力の限界を超えたことを引き受けて、結果的にそれができずに、いたずらに信用を失う人たちがいるのはどうしてでしょう。私たちはそれをおかしいとかあやういと思いますが、ふしぎなことに、これらの人たちはそれが見えていないのです。

 そのような死角はしばしば私たちをしあわせから遠ざけています。あなたがもしも何か、それまでに使ったことのないクーポン券で思いがけないメリットに恵まれたり、ウィンドウズやスマートフォンを最新バージョンに変えたところ、思いがけない機能にめぐり合えた経験があれば、私の言うことがわかりやすいかもしれません。すべての人が知っているのではないことのなかに、案外、すぐれたものがひそんでいます。あなたはしかし、それを知らずに損をしているかもしれません。

 自分が知らないだけのことがこの世の中にはあります。そしてそれを知ることが、何らかのメリットをあなたにもたらすのです。
 先の話に戻りますと、このニコデモの話の流れのなかで、実は、聖書のなかでもっとも重要な言葉が出てくるのが印象的です。それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」という言葉ですが、これはニコデモが自分の宗派や時間の常識まで差し置いてキリストにたずねたところからもたらされたのです。

 あなたがもしも人生に行き詰っているのであれば、答えはあなたの知っている範囲にはないのでしょう。答えはあなたがこれまで生きてきた生の延長線上ではなく、イレギュラーなところにあるのかもしれないのです。私たちの国には「押してもダメなら引いてみな」という言葉がありますが、答えは案外何でもない、しかし、今の自分には盲点になっているところにあるのかもしれません。

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