こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

やさしい聖書入門(マルコ14:22-25)

やさしい聖書入門(マルコ14:22-25)

 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」


 今回の場面は、「最後の晩餐(ばんさん)」として知られている場面です。

 「最後の晩餐」という言葉自体はクリスチャン以外にもよく知られています。でもとても残念なことに、世の中ではこのことの正確な意味が知られないまま、ひとり歩きをしています。この言葉が有名なのは、絵画の影響もあるでしょうし、この言葉自体にインパクトがあるせいかもしれません。

 あなたは「最後の晩餐」と聞いてどんなことを想像しますか?少なくともそれが何か特別な食事であるとは感じられるかと思います。
 ところで1つの知識として、こういうことをお伝えしましょう。私たちがよく知っているこの「最後の晩餐」という言葉自体は、聖書にはどこにも出てきません。場面はこうして聖書に書かれてはおりますけれども。
 なぜならこの食事は決して最後の食事ではないからです。たしかにイエスさまはこのあと「ゲツセマネの園」というところへ出かけられ、そこで反対者たちにとらえられてそのあとで殺されてしまいます。しかし、それでも「最後」ではありません。

 なぜならイエスさまはこう言われました。
 「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
 この言葉はとても重要です。この言葉は逆に言えばイエスさまは新しくぶどうの実で造った物を神の国で飲む日が来ると言われたのです。イエスさまは父なる神さまがそういう日を来させなさることをよくご存じだったのです。

 神の国でする食事は栄光に満ちた食事です。そこでは、「最後の晩餐」などというものは存在しません。なぜならそのとき私たちは永遠のいのちを持っているからです。
 そして今私は、「私たちは永遠のいのちを持っている」と言いました。天の御国での食卓には、イエスさまと聖書に登場するような特別な信仰者たちがつくのではありません。その当時から現代に、そして未来にいたる名もなき私たちもそこにつらなります。

 旧約聖書のところどころに、その当時に行われた国をあげての祝祭のことが書かれているのをごぞんじでしょうか。そこでは大勢の人がお招きにあずかり、そこでよろこび祝うのです。神の国での食事は規模の上でそれよりももっと大きく、さらに喜びと安心に満ちたものです。

 そしてその食事には私たちも招かれています。なぜならイエスさまはこの晩餐のとき、こう言われたからです。「取りなさい。これはわたしのからだです。」「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」
 この2つのみことばは、このあとご自分が十字架にかかられることとその理由とがこめられています。イエスさまのお身体はこのあと十字架の上で裂かれ、血を流されます。それは多くの人々、つまりこの方が救い主キリストであられることを信じる人々のために流されるものです。それはその人々が信じて永遠のいのちを持つためです。そしてその人々が天の御国でイエスさまと食事にあずかるのです。

 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ 3:14-17)
(「人の子」、「御子」はともにイエス・キリストのこと)

 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。(ルカ13:29)

まなぶこと、はぐくまれること、こころをとりあつかわれること

まなぶこと、はぐくまれること、こころをとりあつかわれること

1.切り離して押しやる―辞任した都知事みたいに(?)
 最近テレビでさわがれている話題の1つに、東京都の都知事選挙の話題があります。
 この選挙は前の都知事が不適切なお金の使い方で問題となり、急にやめたためです。一時期はこの前都知事のことがさかんにテレビで報道されていましたね。
 その報道のなかで、こんなことが言われていました。この人は自分がしてしまった不適切なお金の使い方を、以前は学者として強く批判していたのだと。だから「この人は変わってしまったのか?」と、そうふしぎそうに言われていました。

 そのような変化というのが、いったい人間に起こるものなのでしょうか。人間のこころというものを考えた場合、こういう極端な変化は「変わった」というだけでは説明がつきません。もう少し複雑なことが起こります。むしろ、次のように考えるほうが自然です。

 ひとりの人間のこころのなかにも、いろんな思いがあります。そして、時としてある1つの思いが、同じその人の別の思いと矛盾することさえも。
 たとえば「他人のお金を自由に使いたい」という欲求があったとします。そのような願望は珍しくありません。ただそれを実行にうつさないか、宝くじのように社会的に認められている「あぶく銭」を得る夢を見るだけです。
 でも、そのような欲求が人よりも強かったらどうでしょう。そしてそのような人でも、同じこころのなかに、そのような行為や欲求を憎む気持ちが強くあったとしたら?

 そのような場合、もし「お金を使いたい」という気持ちのほうが優勢になれば、それを憎む気持ちのほうはおさえこまれるでしょう。反対に、「そんなことをしてはだめだ」という気持ちが強ければ、「お金を使いたい」という気持ちは当然おさえこまれるでしょう。
 こうしてたいていの人はみな、自分のこころにある対立する2つの欲求のどちらかにフタをします。そしてフタをされたほうがおとなしくしておればよいのです。

 ところがもしもその不適切な欲求がおとなしくしていなかったら?人は何かいごこちわるさのようなものをかすかに感じ、その薄いいごこちの悪さに動かされます。そして次の手をうちます。
 その「次の手」とは、自分でもおさえきれないその欲求を自分から切り離して、他人の上に転嫁(てんか)するという方法です。それが「お金を不適切に使いたい」という欲求であれば、実際にそんなことをしている悪者を見つけるか、見つからなければ作るかすればよろしいのです。そうすれば、自分からはその都合の悪い欲求を切り離し、自分はその欲求を攻撃するがわに立つという、二重の効果が得られます。

2. 人間のこころはかんたんに変わるか
 さて、一般の人はなじみのない話ですが、キリスト教会ではよく「あかし(証し)」ということをやります。これは本来、神さまが自分に与えて下さった恵みを証言するものです。ある種の体験談ですね。そして特に自分がクリスチャンになったいきさつがよくテーマになります。

 そのようなあかしを聞くと、ときどきですがふしぎに思うことがあります。「クリスチャンになる前の自分はこんなふうな悪い人間だったけれど、今ではそうではなくなった」という話を聞くことがあるのです。それも、「そんな悪い人間の私を神さまがあわれんでくださったのだ」というお話ではなく、よくある単純なワル自慢というわけでもありません。「昔は自分は悪かったが、キリスト教入信にともなって変わった」というのです。

 人間ははたしてそんなにかんたんに変われるものなのでしょうか。答えは「ノー」です。そこでは何か大事なことが見落されているのです。
 たしかに、キリスト教にかぎらず1つの宗教を信じるようになるということは、その人に価値観の大きな変化をもたらせます。価値観が変化するとき、元の価値観がどうなるかというと、パソコンのデータのように上書きされて消えるわけではありません。新しい価値観は元の価値観がいるこころへ侵入し、元の価値観を解体してしまいます。だからそこで価値観の大きな変化は起こります。その意味では大きな心境の変化が起こるでしょう。
 でも、ここで気をつけなければならないのは、価値観だけがこころの中味ではないということです。特定の宗教に入信したからといって、個性までがなくなるわけではありません。

3. 学ぶことと育まれること、
 この場合、個性とはその人がもつたくさんの傾向のことです。そして、先にも言いましたようにいくつかの傾向は互いに矛盾しあいますが、その場合、どちらかが選ばれてどちらかがおさえこまれたり、場合によっては他人の上に転嫁(てんか)されるなどして、そんなものはないかのように意識されます。
 そして、キリスト教入信のような価値観の変化を体験して「自分は変わった」という単純な自覚は、そのようなおさえこみや転嫁に利用されるおそれが、じつはあります。これは見落としやすい落とし穴です。

 この話に対しては、こういう反論があるかもしれません。「私はたしかに変わりました。でも自分の弱さがそれだけではないこともわかっています。それはこれからの課題なんです。」
 しかし、このような場合の「これからの課題」というのはどういうものでしょうか。それはまるで夏休みに入ったばかりの小学生の宿題のみたいなものです。自分でも「ある」ということはわかっているのです。でも取り組むわけではありません。未解決なままでほうっておかれます。こうして、「自分は変わった」という意識のもとで、本質的には変わらない部分が、ある場合は意図的に、ある場合は無意識的に残されてしまいます。

 クリスチャンの人ならよく知っていることだと思いますが、聖書というあの分厚い本のほとんどは、クリスチャンの成長のために書かれたものです。またイエス・キリストが布教と並行して重んじたのは弟子たちの訓練でした。しかし、クリスチャンにとっては、しばしば「自分がキリスト教に入信した」という事実だけが大きくて、成長にはそれほど大きな比重が置かれません。だから、「入信して自分は変わった」と言い切ってしまえるのです。

 クリスチャンとは何者かという話のなかで、しばしばそれは「ゆるされた罪びと」だと言われます。聖書の教えとして、その人の罪がゆるされているということは約束されています。しかし、罪びととしてのその人の本質は変わっていません。「変わった」と言うとすればそれはいつわりか、そうでなければ自分の本質を見ていないのです。そして人間の本質はそう簡単には変わりません。そして変わるためには、学ぶこと、育まれること、いやされることが必要です。

4.育まれること、いやされること
 教育関係でもキリスト教会でも、人が育まれたり教えられたりすることと、心理学的な意味でこころがいやされることとが、何か対立するものであるかのようにとらえられがちです。「教えられる」ということ―学校では教育があれば、教会では聖書の教えがあれば、心理学的なケアは必要ないというのです。

 しかし、それらは対立するものではありません。
 それらは、単にどこかの学校の生徒であるとかクリスチャンであるとかいった枠を超えて、ひとりの人間が健全で円満で自律して幸福な人になってゆく同じプロセスの3つの面です。

 私はよくこういう話をします。この教室に、こころに障害をもつために、身の回りの片付けをやれない子どもがいたとしましょう。その子に対してどうしてあげればよいかというと、散らかっているその子の私物を教員(あるいは保護者)であるあなたが片づけてあげたらよいのです。さらに、可能であればその子に手をそえ、片づけるのを手伝ってあげればよいのです。それを、これでもかこれでもかというほどにつづけるのです。あるべきところに持ち物が、いつもちゃんとあるように。

 あるいは別の機会では、その子どもは何も教えられません。お片付けのしかたを教えられるでもなく、年齢相応の子どもになれるようにうながされるわけでもありません。ただいろんなことに取り組みます。そしてその取り組みのほとんどは、たあいもないお遊びです。

 すると、どちらの場合でも、実にふしぎなことに、子どもに変化がしょうじます。時間がかかることではありますが。それも、片付けができるとかできないとかを越えた変化です。そのとき、その子どもは学んでもおり、育まれてもおり、いやされてもいるのです。

 特に、まだ成熟しきっていない人間のこころは、形の悪い、しかも未完成な粘土細工のようなものです。この場合、正しい形を作るのと、こわれた形を直すことの両方がいります。
 教育も養育も宗教も心理学も、人間のこころには有益な変化をもたらせてくれるでしょう。しかし、教育も養育も宗教も心理学も、人間のこころには「これさえあれば何もいらない」と言えるものはありません。

やさしい聖書入門(マルコ14:17-21)

やさしい聖書入門(マルコ14:17-21)

 夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。
 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。
 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。
 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。確かに、人の子(※)は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(※=「人の子」はイエス・キリストのこと)


 イエスさまは弟子、それも「十二弟子」と呼ばれるご自分の特別な弟子の一人に裏切られ、反対者たちの手に渡されて、やがて殺されます。今回はそのことが起こる日の夜の場面です。

 そのとき、「過越(すぎこし)」というイスラエル人の記念行事の特別な食事―そして後に『最後の晩餐(ばんさん)』と呼ばれるようになる食事を、イエスさまと十二弟子たちがとっていました。
 その席上で、イエスさまはこうおっしゃったのです。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」イエスさまは自分がそうされることを知っておられたのです。

 このひとことに対して、弟子たちはどう反応したでしょう。「弟子たちは悲しくなって、『まさか私ではないでしょう』とかわるがわるイエスに言いだした」と書かれています。
 この弟子たちの反応は、残念なことにとてもちぐはぐなものです。確かに、この場面だけをみると、弟子たちの気持ちはよく理解できますが。

 すなわち、弟子たちはイエスさまから『あなたがたのうちの一人が私を裏切ります』と言われ、とても心外に感じたのです。彼らはすでに何もかも―家族も仕事もなくして、イエスさまに従って行動をともにしていましたし、特別な力をいただいて布教のための働きに従事してもいました。さらにまた彼らは『イエスさまにくみしている』という理由で、当時の社会からはつまはじきにされていて、市民の権利さえ失っていたのです。イエスさまに対する彼らの献身はたいへんなものでした。

 そんなにしてまでイエスさまについてきた自分たちなのに、たった一人とはいえ裏切る人がいるとイエスさまが言い出されたことは、弟子たちにとってはかなりつらいことでした。だから、彼らは悲しくなりましたし、まさか自分のことを言われているのではないかと言いたくもなったのでした。
 でもこのとき、彼らは考えていたのは自分のことです。イエスさまに言われた言葉については考えましたが、その言葉をおっしゃるイエスさまのみこころには関心がはらわれてはいませんでした。

 イエスさまがなさった、この『弟子の一人が裏切る』というお話は、とても重いものです。
 そもそも、イエスさまが弟子に裏切られ反対者の手にわたされて殺されてしまうのは、始めからイエスさまにはわかっていたことでした。それは神さまが人類をお救いになるご計画の大事な部分だったからです。
 でも、たとえそれが全人類の、過去から未来にわたる人々のたましいの救いのためであろうとも、一人の人がイエスさまを裏切り、そのためにわざわいを身にまねいてしまうということは、イエスさまにとって惜しんでも惜しんでもたりない非常に残念なことだったのです。

 だからイエスさまはこう言われました。確かに自分は、自分について書いてあるとおり―つまり、旧約聖書の預言どおりに殺される。でも、キリストを裏切るような人間は生まれなかったほうがよかったというくらい、ひどいわざわいを受けるのだ、と。
 イエスさまはこのことを気になさっていたのです。ご自分のことではなく、裏切ろうとしている弟子のことを。

 聖書を読めば、イエスさまがご自分を裏切る弟子のことを、最後まで「友」だと考えていらっしゃったことがわかります。弟子たちが『自分のことを言われているのではないか』と思い、心外に感じている間に、イエスさまはご自分を裏切る人のことを考えていらっしゃったのです。
 イエスさまはそういうお方です。さいごまで、ご自分を裏切るような人をさえ、愛し、思いやってくださるのです。

 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。(マタイ26:49-50)

 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の御前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。(第一ヨハネ2:1)

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