こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

賛美歌に見る聖書の信仰⑧『丘に立てる荒削りの』

賛美歌に見る聖書の信仰⑧『丘に立てる荒削りの』

 今回お話しする賛美歌も、教会での大きな礼拝や、家庭などでのささやかな集会のさいによく歌われてきた、とても愛されている賛美歌です。
 この歌はこんなふうに始まります。「丘に立てる荒削りの十字架にかかりて」。

 クリスチャンでなくてもほとんどの人は、『丘に立てられた荒削りの十字架』に誰がかけられていたかはごぞんじでしょう。それはもちろんイエス・キリストです。みんな何げなくこう考えます。「クリスチャンが大事にしているのは、十字架にかけられた、あのキリストだ」と。

 だけどそれは考えてみればとてもおかしなことです。イエスさまが十字架にかけられた時、それを見ていた人たちは、軽蔑と怒りの感情をもってこう罵(ののし)りました。「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。(マタイ27:40)」と。そしてその場にいた大勢の人たちの目の前でイエスさまはご自分が助けられるようなことは何も起こらず、そのままみじめに死に絶えたのです。これはどう考えても恥ずかしく、そして取り返しのつかない大失敗に見えます。クリスチャンはどうしてよりによってそんなことをとても大事なこととして信じているのでしょうか?

 でもこのようなイエスさまの死は、イエスさまが悪者のたくらみに負けたのでもなければ、イエス・キリストがおっしゃっていたお話の内容に無理があったことが明らかになったわけでもありません。このような死について、イエスさまは「わたしが自分からいのちを捨てる」とおっしゃっていましたし、それが神さまのみこころによるものだともおっしゃっていたのですから(ヨハネ 10:18)。だからこの賛美歌はつづいてこう歌うのです。「救い主(キリスト)は人のために捨てませり、命を」と。

 イエスさまはさらに、こうもおっしゃっていました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ 15:13)」と。ここで言われている「友」とはイエスさまを信じている人たちのことですから、イエスさまはご自分を信じている人たちのためにご自分から命を捨てて、十字架にかかることをお選びになったということになります。
 さらに聖書にはこうも書かれています。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(ローマ 5:7-8)」と。

 イエスさまがそのように十字架におかかりになったのは、私たちのため―罪の問題をもっていて、そのままでは救われない私たちのためだったのです。だから、この賛美歌は最後にこう歌うのです。「十字架にイエスきみ、われをあがないたまう。十字架の悩みは、わが罪のためなり」と。

 ところで、そうなれば私たちは世間の人たちがとても信じないようなことを信じていることになります。“十字架につけられて死んだ”というイエスという人が、どう考えても敗北と失敗に思える死に方をしたことを、まったく別の意味でとらえるからです。だからこの賛美歌も2番の歌詞でこう歌っています。「世人(よびと)笑い、あざけるとも十字架は慕(した)わし」、そしてその理由をこうつづけます。「小羊イエス・神の御子(みこ)がつけられし木なれば」と。

 ここには、私たち、キリストを信じる人なら
特にわきまえなければならない大事なことが歌われています。
 1つのできごとは、2通りや3通りの見方ができます。キリストの十字架の死が、ぶざまな死にも見えるが、愛と権威のあらわれとして信じているのであれば、私たちの物事に対する見方はもっと変わってもよいからです。

 ところがキリストの十字架にくらべればもっと小さなことを、私たちはその見え方によって翻弄(ほんろう)されて、本質を見失うことがしばしばです。私たちは物事がうまくいかないと自分が感じれば、この天地をお造りになった神さまの能力を疑います。自分が他人とちがっていれば、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された(ローマ 8:32)」ほどの神さまの大きな愛を疑います。
 しかし聖書は言います。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです(第二コリント 4:18)」と。

 そしてさらに私たちがそのように神さまの力や愛を疑うだけでなく、私たちのそもそもの関心が、もしこの世にだけあるのなら、その人は非常にかわいそうな人です。
 この賛美歌の最後の歌詞に、「責めも恥もつらくあらじ」と歌っているのはなぜでしょう。その理由は、つづいて「十字架に代わりて、たまの冠、受くるときを日々待てるわが身は」と歌っているとおりです。私たちには後の世の希望があり、それは現世とは比べものにならないからです。

 多くの人は「神なんていない」とか、「人間はたまたまこの惑星に発生した生命体で、死ねば終わりだ」と主張します。そのように考えるのは自由ですが、それはあとで取り返しがつかなくなる賭けに、なんの根拠もなく自分のいのちを賭けているおろかなふるまいです。

 さらに、この“後の世”についての希望は、クリスチャンにも関係があります。クリスチャンがもし度重なる不幸にこころが負けて、いま自分にできるささやかな善を行わないのなら、その人は別の意味で考え直さないといけません。
 聖書には「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります(ガラテヤ6:9)」と書いてあるのですから。私たちがこの世の基準と価値観で考える以上のものが、後の世では与えられる希望をもっていなければなりません。

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過去からつづく「いま」を生きる

過去からつづく「いま」を生きる

 
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。―聖書より

 
「苦労人」という言葉がありますね。「あの人は苦労人だから…○○だ」などと言います。
 この場合、○○のところには、たいてい良い意味の言葉が入ります。もちろん時には「(あの人は苦労人だから)お金の支出にはうるさい」というような、非難ともとれる言葉がつづく場合もありますが、それでも「苦労人」ならではの『お金を使うことへの慎重さ』を言っているのだから、やはり一種のほめことばと言えるでしょう。

 
そして「苦労人」という言葉は、過去にたいへんな苦労をして生きてこざるを得なかった人だから「苦労+人」で「苦労人」というわけですが、ただ「苦労をしてきた人」という意味ではないということがお分かりでしょう。ただ苦労をしてきただけでは「苦労人」とは言いません。では、どういうところが、苦労人と『ただ苦労をしてきた人』とは違うのでしょう。

 その答えとして、
「過去の苦労をなかったかのように生きる人が苦労人なのだ」とは言えません。たとえば先ほど申しました「あの人は苦労人だからお金の支出にうるさい」という場合、苦労をしてきた過去が現在のあり方に影響しています。
 ほかにも対人関係での苦労、たとえば子どもの頃につらい思いをした結果、「あの人は苦労人なのだ」と言われるようになった人にもそれなりの影響を、過去の体験からこうむっているのは明白です。

 しかしこれを「影響」と表現するのは正しくないかもしれません。「影響」というと本人があまり意識していないような何らかの効果が過去からもたらされていて、その人はその効果に対してほとんど受身的にならざるを得ないという状況だからです。だからむしろこれに変わる言葉を見つけるべきでしょう。

 そしてその言葉には、「その過去があったにもかかわらず」という意味と、「その過去があったおかげで」という意味とが同時に含まれていなければなりません。なぜならその人はその過去があったおかげで苦労人なのですが、その過去があるにもかかわらず苦労人でもあるからです。

 
私ならばさしずめそれを、少し長いですが、「人生の完成へ向けて、悪いものですら自分のなかに取り入れて、せいいっぱい良いものへと昇華させた人」、あるいは「そうしようとしている人だ」と言うでしょう。
 私たちは過去から良くない「影響」を受けることはあります。これはしかたありません。しかもそれは悲惨なことです。「しかたがない」などとは言えないまでに。時にそれは、長くて、いつ終わるともしれない不毛な苦しみです。


 でも問題なのは最終的にどうなるかです。あなたがずっと先の未来に「苦労人」になるか、それとも「過去からの影響をこうむっている人」で終わるかの違いは、人生の途中ではわかりません。でも、人生のどこかでそれは起こります。「過去に苦しみにあったにもかかわらず」、そして、「過去にその苦しみがあったおかげで」と言える変化が。

賛美歌に見る聖書の信仰⑦『のぞみも消えゆくまでに』

賛美歌に見る聖書の信仰⑦『のぞみも消えゆくまでに』

 
今回紹介する賛美歌のタイトルと、その歌い出しの「のぞみも消えゆくまでに、世の嵐に悩むとき」という部分をごらんになって、あなたはどのような印象をお持ちになったでしょうか?何かメランコリックな印象をお持ちになったのではないかと思います。
 でもYoutubeなどの動画サイトで聞いていただければ分かりますが、この曲は軽快なメロディの明るい歌です。どうして希望さえなくなってしまうような経験をしていながら、こんなに軽やかにしていられるのだろうかというぐらいに。その秘密は、この歌の展開にかくされています。

 
この歌は「起承転結(きしょうてんけつ)」という言葉の通りに進んでゆきます。
 ①最初に嵐のような出来事が起こり(起)、②それをうけて希望が消えていきます(承)。しかし③転機がおとずれると(転)、④良い結末がおとずれます(結)。
 これが起承転結でなく、「起承結」みたいなものならば、結末は①や②がそのまま結果につながったひどいものになるでしょう。
でも神さまが私たちに与えてくださるものはそのようなものではありません。神さまが与えてくださるものは意外性にとんでいます。それが①の起や②の承の段階ではわからないのです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである(第一コリント 2:9)」と聖書に書いてあるとおりです。

 
この歌はつづいて「数えてみよ、主の恵み」と歌っています。神さまの恵みを数えることは現状を転回させます。それは③の「転」の部分です。神さまの恵みを数えることがこの「転」であると、この歌は歌っているわけです。
 そして④の結がこの歌のつづきの部分、「なが(=あなたの)こころは安きを得ん」、つまりこころにやすらぎがおとずれるという結末です。「転」がはさまることで結末は、最初のころの状態とは似ても似つかぬものになりました。

 ところでこの結末の安らぎというのは、「自分に与えられていないものにではなく、与えられているものに目を向けなさい」などという、ありがちな教訓とはちがいます。聖書の約束がもしもそんなものならば、私たちは聖書に頼るまでもなく、自己啓発本にでも頼っておればよろしいのです。
 この歌がこの次に「数えよ主の恵み」とくり返し何度も強調しているのは、私たちが意識を向けるのは「主」つまり神さまが恵みを与えているという、はっきりとした1つの現実だということです。ともすれば私たちは自分のこころに内向きに向かいますが、神さまという他者が「私」という人間に恵みを与えてきたというほかでもない現実に目を向けるわけです。

 
私たちは、たしかに多くの恵みを受けています。新約聖書の時代の伝道者であったパウロは自分のことを「貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています(第二コリント 6:10)」とあかししました。それはパウロだけでなく、実は神さまを信じる人たちはみな同じなのです。
 でも『私たちがすべてのものを持っている』というこの現実は、ふつうあまり意識されることがありません。
 でも意識からまるで遠いというわけでもありません。意識しようと思えば手が届くぐらい近くにあります。そしてその意識の手がかりこそは、私たちがげんに神さまから与えられた恵みの1つ1つを数えあげて認めることで得られます。私たちは自分が何も持たない迷子になったような気分だったかもしれませんが、実際は迷子などにはなっておらず、神さまがともにいてくださったのです。

 
さて、この歌の2番目の歌詞は、「主のたまいし十字架を担(にな)いきれず沈むとき」と、1番の歌詞の時とはちがう状況について歌っています。聖書は私たちに安易な安息を約束してはおりません。イエスさまは私たちに「わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」とおっしゃいましたが、「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(マタイ16:24)」ともおっしゃいました。十字架は木でできた大きなものです。重くて、表面は粗けずりです。そしてそれを背負うことは、当時は恥とみなされていました。

 
みなさん。イエスさまを信じる人は、そんな「なにか」を、自分用に引き受けることでもあります。クリスチャンになるということは、安息であるのと同時に安息ではありません。イエスさまは、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」とおっしゃいました(マタイ10:22)。この世の基準で考えればクリスチャンになるのは全体的には損な取引きかもしれません。時にはそれをつぶやきたくもなる時もあるでしょう。しかしこの歌はこう歌います。「数えてみよ、主の恵み。つぶやきなど、いかであらん」と。これは本当なのです。

 さて、この歌の3番目は「世の楽しみ、富、知識、なが(=あなたの)こころを誘うとき」と歌っています。
私たちはふつう、「世の楽しみ、富、知識」に重きをおいて生きています。でもそれらがこころを誘うとき、「数えてみよ、主の恵み」とこの歌は歌っています。聖書は私たちがこの世で楽しむなとか、富を否定した生き方をしろとは言っていません。ただ、もっとすぐれた良いものがあるということを、私たちに教えてくれます。先に名前の出たパウロは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています(ピリピ 3:8)」と言っています。それだからこの歌もこのつづきで「あまつ国の幸に酔(よ)わん」と歌っています。
 この世の楽しみや富や知識をぜんぶひっくるめても、神さまが与えてくださる最終的な恵み1つにはかなわないのです。

 私たちはしかし、しばしばそうは考えません。神さまの恵みよりも、この世の楽しみや富や知識が良いに決まっていると思い、クリスチャンになったためにしょうじる苦しみはどんなものよりも重いと感じます。それは私たちが、神さまの「恵み」について知らなさ過ぎるのです。

 
神さまの恵みを知るには聖書学の権威になる必要はありません。もちろん天へのぼって神さまとじかにお会いする必要もありません。会社や学校や子育てをやめて隠者(いんじゃ)のように引きこもり、生活のすべてを祈りにささげる必要もありません。
 もうお分かりでしょう。あなたに与えられた神さまの恵みを意識してください。それを数え上げられるほどになるまでに。

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