こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

やさしい聖書入門(マルコ16:12-14)

やさしい聖書入門(マルコ16:12-14)

 
その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。
 しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。


 
今回のかしょは、前回のお話同様、イエスさまが復活をなさり、まず、とても少数の人たちの前へお姿を現されたお話です。今回のお話では、2人の人がこのイエスさまとお会いしています。この2人の弟子は、聖書のほかのかしょ(ルカの福音書24:13)によれば、イエスさまが十字架につけられた町(エルサレム)から11㎞ほど離れたエマオという村に行く途中でした。

 
この名前も書かれていない2人はたぶん、同じ弟子でもペテロやヨハネなどとはちがい、わざわざ名前が書かれたところでどこの誰だかわからない、本当に名もない人たちだったのでしょう。その点では、名前だけはのっているものの前回のかしょのマリヤと同じです。なぜイエスさまが他の人たちより先にその人たちと会われたのかまったくわからないような、実に何でもない人たちが、イエスさまの復活の証人なのでした。

 
神さまからの一番の恵みは、こういった何でもない人たちを通して与えられるものだ、というのは大事な情報です。
 たとえば、クリスマスを迎えるちょうど今の時期によく読まれる聖書かしょの1つ、ルカの福音書2章には、この世で最初に救い主キリストの降誕(こうたん)を知らされた人たちのことが書かれていますが、その人たちはたまたまその近くで夜番(よばん)をしていた名もない羊飼いたちでした。この人たちが最初に福音(=救いのニュース)を受け、お生まれになったこの赤ん坊が救い主であるとのニュースを人々に伝えたのでした。

 
これは、言ってみれば私たちクリスチャンの原型です。
 あなたはクリスチャンをどのような人たちだとお思いでしょうか。世の中の人たちは、たいていこんなふうに考えるようです。外国から伝わったキリスト教という宗教を、教会というところへ集まって、こじんまりと自分たちの信仰を守っていると。そして、私の印象がまちがっていなければ、だいたいクリスチャンのことを敬虔で、上品で、少しばかり近寄りにくい、そういう人たちなのだと人々は考えるようです。

 
「敬虔で上品だ」というイメージにかんしては、謙遜(けんそん)からでなく真剣に返上いたしましょう。というのは、私たちは何も特別な人間だというわけではないのですから。そして誤解をおそれずに言いますと、私たちがなぜクリスチャンになったのかというと、“私たちの側ではまったく思い当るところがない”という意味で、たまたまとしか言いようがないのです。

 
そして、それとともにもう1つ言うなら、私たちは決してこじんまりと教会に引きこもって、自分たちだけでこの信仰を守っているのではない、ということです。
 それどころか、私たちは全世界に出て行って、声を大にしてこう言っています。
 イエス・キリストは神の子キリストであり、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死なれましたが、預言通り、三日後によみがえられました。そしてそのようにキリストが死んでよみがえられたのは、私たち罪びとがキリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わるためです。

 
そして、この恵みは、“バーゲンセールのように”どころか、「ご自由にお持ち帰りください」と言って、世界の人たちに対し、おおばんぶるまいされているのです。あなたもまた復活の命に招かれているのです。
 あなたはこのニュースをどう思いますか。今回のかしょでも前回のかしょでも、人々はこのすばらしいニュースを信じませんでした。それは少しむりもない気もしますが、どうか信じない人にならないで信じる人になってください。

 
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)

 
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒 2:32)

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愛されること、認められること、なしとげること

愛されること、認められること、なしとげること―よりよいこころの成長のために

1.愛情は不足するものですか
 子どもが何か学校で問題をよく起こしたり、心配をかけるとき、家庭の状況は重要な情報です。それは子どもの心理的な状態と、子どもにとって何が必要であり、それでありながら学校ではそのうちの何を与えられて何を制限しなければならないかがわかる、そのヒントになるからです。しかし、気をつけなければならないのは、これは悪者探しではありません。

 
学校でときどき耳にすることばに、親の「愛情不足」という言葉があります。言いたいことは分かりますし、正確に状態を見ているからそう言えるという面もあります。しかし、この言葉が適切かどうかはわかりません。というのは、「愛情不足」という言葉はただの「愛情の供給不足」なのか、それともその親が本当に子どもをあまり愛していないかはわからないからです。ともすればこの言葉は悪者探しに利用されたり、相談を受けた側が「手軽に解決策を見出したい」という欲求のみに役立つだけの言葉です。

 
このことについてもし正確に考えようとするならば、「需要(じゅよう)と供給(きょうきゅう)」という経済用語が参考にできます。需要とはその子どもに愛情がどれぐらい必要なのかの度合いです。供給は、その子どもが愛情をどのぐらい与えられるかです。「愛情不足」と言われるものは、あくまでもそのバランスの結果に過ぎないことが多いようです。(一方では本当に親のこころに子どもに対する愛情が少しもないことはありますが。)
 ですから親がどんなに愛情をそそぎ、どんなに努力しても、もっともっと愛情を感じていたい子どももいるでしょうし、それほど手厚く愛情をかたむけなくても平気な子どももいるでしょう。

 
それに、これはとても大事なことですが、愛情を具体的にあらわした親のかかわりが子どもに必要なタイミングというものがあり、それはしばしばわかりにくくて見逃してしまうことが多いのです。そしてその結果、まるで長い間愛情を受けなかったかのように子どもがみえる場合がありますし、さらに子どもの個性によってはそもそも「愛情」という気持ち的なものが伝わりにくい場合もあります。その結果起こることは、やはり「愛情不足」というレッテルになりますので、むしろ愛情を受けてすくすく育つというのはよっぽどの幸運なのではないかと思えるほどです。

2.愛されることと認められること
 さて、子どもがとても小さいときは、特にお母さんのような人との一対一の関係の中に子どもは生きています。そこには「ママ、ママ」と甘える子どもと、「よしよし」と言ってあやす親とがいて、この2人の間での愛情の交流が子どものおもな関心事になります。しかしもちろん、いつまでもそうではありません。

 
たとえば、子どものおじいちゃんやおばあちゃんは、お母さんやお父さんとはちがうかたちで子どもとせっするかもしれません。久しぶりにあった自分の孫に、おじいちゃんやおばあちゃんは「○○ちゃんは大きくなったね」と言っておどろき、それまでできなかったことを孫がするのを見て「えらい、えらい」と言うかもしれません。お父さんやお母さんもまた、子どもが大きくなるとそれまでとはちがうかかわりかたをするでしょう。そろそろしつけのことを考え、“しかる・ほめる”をするようになるからです。

 
すると子どものなかで、それまでの、ただ無条件に愛情受けるだけだった関係が、自分の行動や変化や能力を認められること(承認欲求)に変化してゆきます。
 ただ、最初の純粋な愛情欲求がこの承認欲求と入れ替わってしまうわけではありません。むしろ、最初の純粋な愛情欲求が満たされていることは、承認欲求が良いものになるための土台です。「愛されている」というほのかな確信があるから、さらに認められたり、ほめられたりすることに前向きな価値が出てくるわけで、そうでなければ認められることやほめられることは愛されることと混同されて、強迫的になってしまいます。というのは、「認められること」で「愛されていること」を確認しようとするからですが、これが病的になると「悪いことをしてでも注目をひく」という、まことにまちがったやり方をしてしまうことになります。他の子にちょっかいがけをしたり、授業中に場違いな発言をしたり、虚栄心が強い一部の人にはそのような面がみられます。

 
ここは、私たち大人が子どもたちとかかわるときに注意が必要なところです。
 キリスト教の神さまは、私たちがまだ罪びとであった時からその人を愛していると聖書で教えています。そしてその神さまがおっしゃるから「良い行いをしよう」と考えるわけです。ここでは、良い行いは愛情を得るための手段とはなっておらず、「愛されている」という前提があっての次のステップとしての「良い行い」になっています。これと同じことが子どもにも言えます。

 だから私たちはことあるごとに子どもをほめ、評価してあげる必要はありますが、それによって愛情が左右されるものではないということが、何らかのかたちで子どもに伝わる必要があります。私たちは「愛する子ががんばったからほめる」のであって、「がんばった子どもだから愛する」のではありません。これが子どもに伝わる必要があるわけです。

3.認められることと、なしとげること
 小さな子どもは、ときに要求がましく、しつこいときがあります。身近な大人に自分のことを「見ていてよ」と何度も求めたり、「どうして?なんで?」を何度もくり返したりします。そして大人はたいていこれをめんどうくさがります。

 しかし、子どものこのような時期は大事で、長い子育ての年月から見れば一瞬のように短い期間です。それにもしこの時期の子どもにじゃけんな態度をとることで、もしかしたら近い将来問題が起こるかもしれず、そうなるともっと大変な手間をとることになってしまいます。ですから、どうかめんどうくさがらずに、注目を求めるなら注目をしてあげ、質問をするなら答えてあげてほしいものです。ただ、制限を与えることはかまいませんし必要です。「もうご飯の準備があるから」と言って切り上げてもいいし、質問が多い子にはそれを逆手にとって、“お勉強の時間”を作ってあげて、「その中だけで」と言ってもいいかもしれません。

 
そのように親御さんの貴重な時間を使っての“見守られる”、あるいは“受けとめられる”経験をつみますと、それは一種の自信のようなかたちで子どものこころに根付きます。この場合の自信とは、「自分はちゃんと見てもらえるのだ」という自信です。
 多くの大人はこの点で誤解をしてしまうようです。子どもは「大人は自分をちゃんと見てくれないのだ」ということを学習すると、「見てもらわなくてもよくなる」のではなく、「自分は見てもらえるに価(あたい)する(=価値がある)のだ」という自信をなくして、自分のこともおとなのことも信じられないようになるのです。

 
この自信があるのとないのとでは大きなちがいがあります。それは、誰も評価をしてくれないようなことでもがんばれるかどうか、ということにかんするちがいです。
 たとえば小学校の教室で、先生が「机の上に出ているものをみんな片付けてください」と言ったとしましょう。その通りにできたからといって、特別にほめられはしないでしょう。それでもそうできるのは、規範意識(きはんいしき)が育っているからなのですが、それは自分が何かをなしとげているということに、その子どもが意義を認めているからです。

 子どもはある程度大きくなると、「ちゃんとできて当たり前」とみなされるようになりますが、「当たり前」である以上は、ちゃんとできたからといって評価はされませんし、注目もされません。でも、それでもそれができるのは、その前の段階で、子どもなりに考えた「自分はちゃんとできている」ということを見てもらえて、それをほめられたり喜ばれたりした体験の積み重ねがあり、そのような「ほめるおとな」、「ちゃんと見てくれているおとな」を自分のこころのなかに取り入れているからです。

 
それができていないと、子どもは打算的になりますが、そもそも「大人から見守ってもらえる、認めてもらえる」とは信じることができないために、「打算的」と言ってもおとなによろこばれるためではなくて、自分の本能(「おもしろければそれでいい」、「楽だったらそのほうがいい」という原則=快原則)がおもむくままになってしまいます。彼らは気が乗らなければおとなの指示には従わないし、自分がやりたいことが他にあれば指示にないことをしてしまいます。しかも、こういう場合、「おとなはボクを・私を見てはくれない」という強烈な信念がありますから、おとなが何とか指示に従わせようとして励ましたりほめそやしたりしてもなかなかうまくいきませんし、ある時はうまくいってもそれが習慣としては身につかず、きわめて不安定なものになってしまいがちです。

 
こういうときに必要なことは、いわゆる「育ちなおし」の考え方です。この場合の「育てる」というのは、無垢(むく)なこころで生まれた赤ん坊を一から育てるのではありませんから簡単ではありません。むしろ、「愛されないのではないか」という不安や「どうせおとなは認めてくれない」という不信感が形作られてしまった子どもですからなおさらです。

 
しかし、このように“愛される段階→認められる段階→なしとげる段階”のどの位置で子どもが足踏みをしているのかを見分けることと、「いけないことはいけない」としながらも、それとは本来矛盾する「可能な限りその子のニーズにあわせてあげる」という取り組みをがまんづよく積み上げてゆくことでその子どもは変わってゆきます。それは手ごわい課題ではありますが、子ども自身の中にも―それがどんな子どもであっても―“よりよく育っていこう”とする成長の力があります。この力こそが、私たちおとなの強力な援軍であるだけでなく、子どもの変化をもたらせる主体なのです。

やさしい聖書入門(マルコ16:7-11)

やさしい聖書入門(マルコ16:7-11)

 
「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」
 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。
 マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。

 
前回の場面のつづきで、今回はカラになったイエスさまのお墓にいた御使い(天使)が言った言葉のつづきからはじめます。
 この御使いはイエスさまがイエスさま自身のおことば通りによみがえられて―よみがえられた以上はお墓にいる必要はありませんから、早々とお墓からいなくなられたことを、この日の早朝お墓へきた女性たちに伝えました。それから彼はこう言ったのです。「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい」と。

 
ここでわざわざ御使いが「お弟子たちとペテロに」と、ペテロの名前だけあげているのは、ペテロには他の弟子たちとちがうケアが必要だったからです。というのは、彼はイエスさまに聞こえるところで自分はイエスなど知らない、自分はイエスとは関係がないと言ってイエスさまを裏切ったからです。だからこそ、そのあとで十字架にかけられて死んでしまわれたイエスさまが、もうだいじょうぶ、よみがえられたからとペテロに伝えてあげる必要を神さまは知っておられたのです。

 
しかし、御使いのこの伝言は、このときは結局のところムダになったようでした。というのは、この女性たちがこのできごとそのものにふるえあがってしまい、「だれにも何も言わなかった」からです。彼女たちは何もかも自分のこころにかかえこんでしまったのでした。

 
ところで、この女性たちはこのとき御使いは見ましたが、イエスさまとは会っていませんでした。しかし、今回のかしょを読みますと、イエスさまはこの女性たちのうちの一人である「マグダラのマリヤ」と呼ばれる女性に、あとで御姿をあらわされたことがわかります。それで今度こそこの人は、イエスさまが亡くなられたといって嘆き悲しんでいた弟子たちのところへ行き、イエスさまがよみがえられたことを伝えたのでした。

 
しかし、結果はどうだったでしょうか。今回のかしょには、「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった」と書かれています。彼らはまったく信じようとしなかったのです。
 あなたはこの記事をどう見ますか?信じなかった人たちのほうが非常識な印象を受けますか?でも、当時のこの状況のなかにもし私たちがいたならば、私たちも同じ反応をしたのではないでしょうか。というのは、考えてみればマグダラのマリヤの方こそよっぽど非常識に思えるからです。イエスさまは公開処刑されましたから、みんなが見ている前で息を引き取られ、ローマ軍によって死亡が確認されたのです。そしてとっくにお墓へ葬られていました。それが今さら「イエスさまが生きている」と言い出すなんて、うそをついているとすればあまりにも非常識ですし、本気でそう言っているのだとしたら気が変になったとしか思えなかったでしょう。

 
しかし、良いニュースというものは、しばしば悪いニュースよりもずっと信ぴょう性がとぼしく感じられるものです。そして、それが良いニュースであればあるほどその信ぴょう性は下がるものです。
 しかし、そのニュースがもしも本当のことを伝えているとするならば、私たちは信ぴょう性が低いからといって、その知らせをかんたんに退けてしまっていいのでしょうか?

 
私がそう申しあげるのは、もしこの「イエスさまがよみがえった」という知らせが本当であれば、この「よみがえり」つまり永遠の命は、キリストおひとりのものではなくて、キリストを信じるすべての人のものだからです。私たちはこのキリストを信じることによって永遠に生きるからです。

 
さあ、私たちクリスチャンはこんにちも、このマグダラのマリヤと同じようにイエスさまが復活されたことの証人として、このニュースをみなさんにお届けします。イエスさまは、聖書の福音を信じる人の初穂(さいしょに実った実り)としてよみがえられました。あなたはこのニュースを信じますか?

 
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(第一コリント 15:20)

 
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ 11:25)

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