こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

やさしい聖書入門(マルコ14:60-64)

やさしい聖書入門(マルコ14:60-64)

 
そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたはほむべき方の子、キリストですか。」
 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が(※)、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」
 すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。
 (※「人の子」はイエス・キリストのこと)


 
今回もイエスさまが反対者たちによって不正な裁判をお受けになっている場面です。

 
今回の場面のところまで、イエスさまはさかんに身に覚えのない訴えを受けておられましたが、それに対してまったく抗弁(こうべん)なさらずに、それらをだまって聞いておられました。今回の場面も同じです。大祭司という、当時の社会ではもっとも権限のあった人の一人から最終通告のような質問をされても、それでも何もお答えにならなかったのです。

 
あなたはイエスさまがこのようにおかしてもいない罪で訴えられて、どうしてだまっておられたと思いますか?これは実はイエスさまが救い主であられることと関係しています。つまり罪をおかしたことのないイエスさまが、まるで罪をおかしかたのようにさばかれること―これが神さまのみこころだったのです。

 このようにさばかれなければならないのは本当は私たちです。私たちは「あの人があんなわるいことをした」、「あんなこころないことを言った」といって訴えられてもしかたない罪びとです。
 
ところで、この場面のイエスさまに対する裁判が、人間に対する罪というだけでなく、神さまに対しても罪をおかした者としてさばかれたということも重要です。私たちも、私たちがおかした罪というのは結局は神さまに対しておかしたものだからです。だから本来私たちは神さまによって罪をさばかれなければなりません。

 しかし、神さまはこんな私たちをあわれまれました。
 
だからこそ、このようにさばかれるいわれのないイエスさまが、このときに罪がある人間としてさばきをお受けになられたのです。これは私たちの身代わりです。この裁判でイエスさまは自己弁護のために一度も口を開かれなかったのはこの裁判をつらぬき、私たちの罪のためにみがわりとしてさばかれて、そして、刑罰をお受けになるためでした。

 
イエスさまはじつに、そのためにこの世にこられました。ご自分には身に覚えのない罪を引き受け、その罪のためにさばかれて死刑にされる。はじめからそれは決まっており、イエスさまはご自分の意志でそれをお受けになられたのでした。それはみな私たちのためだったのです。

 
罪とは律法(※)に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。(第一ヨハネ 3:4-5)(※「律法」=神さまの基準)

 
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ 2:6-8)

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強い人、弱い人、弱さを装った暴君のような人

強い人、弱い人、弱さを装った暴君のような人

人間というものは分けようと思えば
だいたい3つに分けられる
強い人と弱い人と
弱さを装った暴君のような人

強い人とは自律して生きられる人
他人の力を借りることをふくめ
自分で考えてうごき、選び
その結果を引き受けられる人

他人に干渉されても
おびやかされたりしないから
他人を動かそうとも思わない
自分は自分―それが自律だ

弱さを装った暴君はちがう
他人に動かされやすいから
自分も他人を動すことで
動じないようにする

彼らの手段はおどしと涙
人をおびやかしておきながら
自分は弱いと言って泣く
やくざな男と愚かな女はみなそうだ

弱い人は彼らよりも単純
一人では生きられないから
何かを信じるこころをもつ
裏切られてもあえてそうする

愛されること
しあわせになること
楽しみを楽しめること
それらをあえて信じつづける

しかしあなたの願いは
一つしか叶わない
それはいつかあなたが
本当の意味で自律すること

あとの願いはみなそのときに
あなたがその手がかなえてゆくのだ
あなたにどうか神の導きが
どんなときも豊かにあるように

強くあり
雄々しくあってほしい

やさしい聖書入門(マルコ14:57-59)

やさしい聖書入門(マルコ14:57-59)

 
すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。
 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」
 しかし、この点でも証言は一致しなかった。


 
今回のかしょは、イエスさまが反対者たちにとらえられて、イエスさまを死刑にするためだけの不当な裁判をお受けになったときの場面です。

 
今回の場面に出てくるこの数人の人々が言っているのは、ようするにイエスさまが“自分ならば神さまの神殿をこわして、これを3日でつくれる”と、そのような大それたことを言ったのだという告発です。神殿は神さまを礼拝する神聖な場所ですし、当時の社会の人々にすればこれはたいへんな言葉です。それにこの神殿は王様の威信をかけて建設されたものでしたから、このような発言は社会の秩序に挑戦するものであるとさえ思われてもしかたがないものでした。

 
ところが、なぜかこの証言が人々のあいだで一致しなかったと書かれているのは重要な情報です。これはとても奇妙なことなのです。
 イエスさまは実際、彼らが訴えた言葉に近いことをおっしゃったことがあります。彼らはそれを聞いていたのです。でも、それがどんな言葉であったかが一致しなかったということから考えると、彼らはそれを正確に記憶していなかったのです。それはつまり彼らがイエスさまの言葉に関心をはらっていなかったせいです。

 
では、イエスさまは実際にはなんとおっしゃったのでしょうか。聖書の『ヨハネの福音書』というところに、その言葉が書かれています。それは「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう(2:19)」という言葉でした。
 これは、イエスさまが反対者たちから、神の子(キリスト)である証拠となる奇跡を見せてくれと言われた時におっしゃった言葉で、「この神殿」とおっしゃっているのはイエスさまご自身のことです。神殿は人間を神さまと会せることをできるものです。だからイエスさまはご自分を「神殿」とたとえられたのです。

 
ということはつまり、どういうことになるでしょうか。
 イエスさまがご自分を神殿のようなものだとおっしゃって、その「神殿」がうちこわされるけれども三日でまた建てられるというのはつまり、イエスさまが死んでも三日後によみがえられるということをおっしゃっていたことになります。

 ただこのときはこの教えは、人々には思いもよらないものでした。だからわからなかったのです。さらに人々はこの言葉が何を意味するのかと、質問しようともしなかったし、調べもせず、ただ聞いてそれから忘れてしまいました。彼らはこの証言に立ったときには、すでにそのみことばがどのようなものであったかさえ、覚えていなかったのです。

 
聖書の教えは、いわば神さまからの「勧告」のようなものです。たとえば災害の警報が出て避難勧告が出されたとしましょう。だからといって、避難所に強制的に連れていかれるわけではありません。それは「勧告(かんこく)」を聞いた人が自分でどうするかを決めることになるからです。聖書の教えもそれと同じです。

 
イエスさまはご自分のことを、父なる神さまと私たち人間の会合を実現するための「神殿」のようなものだとおっしゃいました。そしてその言葉が真実であることを証明するための奇跡として、この「神殿」つまりイエス・キリストご自身が死んで三日後によみがえられるとあらかじめおっしゃったのです。
 そしてこんにち、キリストのお墓はどこにもありません。今回の場面ではイエスさまを見捨てて逃げ出していた弟子たちは、その後、危険をおかして都にもどり、反対者たちに何度おびやかされてもこう証言しました。イエスさまはたしかによみがえられたと。つまり、イエスさまがおっしゃっていたことがほんとうであるとの証拠を得たというのです。

 それが本当なら、私たちは聖書の勧告にしたがわねばなりません。

 
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。(第一コリント 15:3-5)

 
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。(ヨハネ 2:19-22)

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