こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

やさしい聖書入門(マルコ14:3-9)

やさしい聖書入門(マルコ14:3-9)

 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 今回のお話は、話のすじとしてはわかりやすいかもしれませんが、それでもこの結末はあまりよくわからないかもしれません。
 つまりイエスさまはこのとき、ベタニヤという村で一人の女性から香油をささげられました。(この人は別の福音書によればマルタの妹のマリヤという人です)。人の頭に香油を注ぐなんてと、私たちからしてみると思えますが、イスラエルでは昔から預言者や王様には香油が注がれるならわしがありましたからそれはよかったのです。
 それでもそのようなならわしを考えに入れても、マリヤのこの行為はあまりにもとつぜんで、ひいき目に見たとしても、あまりにつたないやり方だったと言わざるを得ないようです。

 だからこそとうぜんのように、その場にいあわせた人々の何人かから、この行為ははげしい批判を引き寄せました。彼らはマリヤに腹を立て、その「香油」という資産はじょうずに使えば、貧困で困っている人たちを援助するために使えたはずだ、それをあなたは一瞬でムダにしてしまった、と非難したのです。
 彼らがどうしてそのように言ったのかという思いはともかくとして、彼らの言い分じたいはもっともなことのように思われますね。
 でも、イエスさまはこの女性の行為をとても高く評価しておられます。

 イエスさまはさいしょにこうおっしゃいました。「そのままにしておきなさい」と。このみことばは、マリヤの行為が意味のある行為だったことを物語っています。ことわっておきますが、イエスさまがこうおっしゃったのは、みんながマリヤのことを責めてかわいそうなので、マリヤのことをかばいたい気持ちからではありません。イエスさまの目はマリヤのこの行為の背後にあるマリヤの想いを見ておられたのです。むしろ、このマリヤの行為を非難している人たちの行為のほうが、イエスさまにしてみれば理解できないようなものでした。だからこそつづけて「なぜこの人を困らせるのですか」とおっしゃったのです。

 そしてイエスさまはこうもおっしゃいました。「世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」と。そして実際、このお話は聖書の4つの福音書にみなのっています。こういうことはめずらしいのですが。

 では、マリヤのしたこの行為の、何がそれほど良かったというのでしょうか。
 イエスさまはこうおっしゃっています。マリヤが香油を塗ったのは「自分にできることをしたのです。埋葬の用意に」と。つまり、マリヤがイエスさまに香油をささげたのは、彼女がすでに知らされていた『イエスさまが死なれる』というイエスさまの予告を自分なりに受け入れて、「自分ができること」をもって応答した行為だったのです。

 ここで私たちは次のことを思い出す必要があります。この時点では、まだイエスさまの直系の弟子たちもふくめて、『イエスさまが十字架にかかって死なれるのだ』という事実を、他には誰も受け入れていなかったのです。
 これは実は重大なことでした。なぜなら、イエスさまが十字架にかかって死なれるのは、神さまのみこころによるものであり、なぜ死なれるかといえば、私たち人間の罪の身代わりとなって、私たちの罪がゆるされて、神さまとの関係が回復し、永遠のいのちをもつためだったからです。

 だからイエスさまがこのあと十字架で死なれるということは、とても重大なことなのですし、マリヤが実際のところこの時点でそれをどれぐらい理解できていたかはわかりませんが、彼女はまちがいなくイエスさまが死なれることを受け入れていたことをイエスさまはごらんになったのです。

 このことは私たちにとっても、とても大事なことです。私たちはともすればイエスさまの教えや生き方などのエピソードにのみ関心を向けます。それらも大事なのですが、私たちにとってもっとも大事なのは、イエスさまが私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださったことです。イエスさまの十字架上での死は、キリスト教にまつわるいくつかのエピソードの1つというわけではなく、その一番大事な部分で、これは信じるか・信じないかということにかかっている問題なのです。

 そして今回の場面でイエスさまがおっしゃっている、「この人の記念となる」というのも私たちに当てはまります。私たちがもしもイエスさまの死を、私たちの救いのためだと受け入れるなら、その信仰は神さまの目に永遠の記念として残るのです。あなたのイエス・キリストによる十字架の死を罪のゆるしを信じませんか。

 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒 16:31)

 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと(第一コリント 15:3-4)

こころ病む人へ―あなたが知らない二つのこと

こころ病む人へ―あなたが知らない二つのこと

こころ病む人へ
こころ病む人へ
あなたに知ってほしいことがある
あなたが知らないことが2つあって
それをあなたに知ってほしい

一つは人間には自分で自分のことを
本当にはわからないということだ
あなたは自分のことをいつも「そう」言う
しかしそれは正しいのか
あなたは信じて疑わないが
神にちかって私は言うが
そのすべてが正しいのではない

特にあなたが病むときに
あなたは正しいことを言い当てていない
それはまるで混乱した裁判官のようだ
まちがってもいないことを「まちがってる」
正しくないことを「正しい」と自分に言う

あなた自身がその判決におびやかされ
ついには無いものをあると言い出し
あるものさえ無いと言い出す
こころはいたずらに力を使い果たし
「今度こそ」という思いもむなしくなる
増えるのは心理的な負債だけだ

それでもあなたはその不毛をくり返す
あなたは自分がわかっていないし
まわりの不当なものも見えていない
あなたに必要なのは正しい目を持つ
他人の存在ではないのか

そのことでもう一つ知ってほしいことがある
およそ人間の苦難はどれ一つ
だれも知らなかったものはないということ
あなたは自分をかえりみて言うだろう
「こんな思いを理解されることはない
だからこんな私を
人はただ奇異に思うだろう」と

さらにとりすました人たちが
あなたの思いを強めてしまう
「お前がそんなに悩むのは
みんなお前が悪いからだ」と
素人はおおむねそのように言い
玄人はだいたい次のように言う
「少しだけ話を聞いてやるから
それ以上は持って帰れ」と

こうしてあなたはひとりになって
自分に向かわざるをえなくなる
世間に背を向けるのと引き換えの
つらく不毛な自己吟味だ
誰にも理解もされないと思い
誰にも見せられないと思いながら
脱出の道も見いだせぬままに
時だけが無慈悲にめぐってくる

これでは苦しむために
あなたは生まれたようではないか
しかし私はあらためて言うが
かつて人の苦しみのなかで
人に知られなかったものはなく
告白されなかったものもない
そしてあなたの真実を知る目は
知らぬうちにふさがれているのだ

一つあなたに進めるが
今までが「そう」だったからといって
これからも同じだと思わないでほしい
新しいことはいつでもとつぜん始まるものだ
あなたさえそのつもりになれば
そのすべてが新しいことが
もう起ころうとしてるのかもしれない

やさしい聖書入門(マルコ14:1-2)

やさしい聖書入門(マルコ14:1-2)

 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。
 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。


 今回のかしょは、イエスさまがエルサレムの都でおられたときのお話です。イエスさまはふだんはこの都ではなく、ガリラヤ地方というところをおもな活動場所にしておられましたが、あえて十字架の苦難を受けられるために、この時期に都に来ておられたのでした。

 この『十字架の苦難』については、イエスさまご自身が弟子たちに伝えていらっしゃったので、けっして誰も知らない話でもなかったのですが、この当時には誰も理解できていない衝撃的な話でもありました。それに、ある面でみれば、この受難はイエスさまの反対者たちによってなされたおそろしい悪だくみの結果でもあったわけです。だからこれはふつうに考えただけではとてもいまわしいことだったと考えてしまいそうになります。
 でも、そんないろんな人たちの思惑とは無関係に、神さまはこのことを着実な計画として進めていらっしゃったのです。

 ちょうどそのころ過越(すぎこし)の祭りという、イスラエルの人々にとって重要な大祭の日が迫っていました。
 イエスさまが都にいらっしゃったこの時期と、過越の祭りの時期と重がなっていたのには重要な意味があります。

 「過越の祭り」は、むかし神さまのみつかい(天使)が人々の間をめぐったときに、みつかいがもたらす災厄から人々が信仰によって守られたことを記念する祭りです。神さまの命令にさからう頑固なエジプト人にはその時にさばきが下りましたが、神さまの民であるイスラエル人は神さまのみことばのとおりに小羊をほふり、その血でさばきをまぬがれたのでした。

 このできごとはイスラエル人にとって大きな歴史上のできごとです。でもそれと同時に、この事件自体が、やがて全世界にもたらされるはずの、最大の祝福と最大のわざわいとの予兆(よちょう)でもあるのです。
 つまり、この過越のときにエジプト人がさばかれたように、やがて不信仰な人々を神さまがおさばきになるときがきます。そして、過越の日のさばきがエジプトのすべての人々におよんだように、この不信仰へのさばきは全世界のすべての人におよびます。

 そして、それと同時に、過越の日に小羊の血がわざわいを過ぎ越させるために使われたように、全世界のわざわいの場合にも、神さまはそれをのがれるすべを私たちに与えておられます。それがイエス・キリストです。
 イエス・キリストは、過越の日の小羊と同じように殺されて、その流された血を神さまが私たちの罪に目をとめずに、さばきを過ぎ越させる(通り過ぎさせる)目印となられました。そしてそのことを信じる人たちは、一人残らずさばきから免除されるように神さまはしてくださいました。

 このように考えますと、イエスさまを殺害する計画を過越の祭りに前後するかたちで祭司長や律法学者たちが考えていたというのは、非常に皮肉な話です。いわばイエスさまにとっての最大の反対者の、非常におそろしい悪だくみをもって、私たちの罪をすべてゆるすという、神さまのご計画がかえって実現したのですから。

 神さまが私たちに祝福と喜びと幸せを与えられる計画は、いつもこんなふうに、わざわいと悲しみと不幸とに先がけて準備されています。たとえいかなるたくらみでも、こころない悪いしうちでも、まったくひどいと思われるめぐり合わせでも、世界のさいしょから愛されている私たちに対する神さまのご計画にまさるものではありません。
 どうかそのことを信じて、そして、神さまの愛を信じつづけていただきたいものです。

 しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ 1:12)

 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(ヘブル 10:36)

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