こころスィート空間

クリスチャン心理カウンセラー(臨床心理士)・レミントンのブログです。 心に悩みや課題をかかえておられる方、特に同じ信仰をもつ兄弟姉妹がたのお役に立てれば、と願いつつ運営しています。 無料のメール相談もしています。悩んでおられることや困っておられることがありましたら、つぎのメアドを☆マークを@に変えてお送りください。 cocoro☆peace.nifty.jp (自動巡回の迷惑メールを避けるため、あえて@を☆に変えていますが、送るときは☆マークを@に変えてお送りください。)

~自己紹介~
私はイエス・キリストを自分の救い主として証するクリスチャンで、とあるプロテスタント教会に教会員として所属しています。教会では教会学校の成人科で奉仕しています。平日は、公立小学校でスクールカウンセラーをしています。
カウンセリングのスタイルは、心の課題や直面しておられる問題について、来談者様のお話をじっくりとうかがいつつ、いっしょに考えていく、というスタイルです。
大阪府臨床心理士会、日本心理臨床学会、日本宗教民俗学会に所属しています。
心理学のほかに、宗教民俗学を研究しています。

賛美歌に見る聖書の信仰17.『主よ、終わりまで』

賛美歌に見る聖書の信仰17.『主よ、終わりまで』

 この賛美歌も、とてもよく歌われている賛美歌です。「よく歌われている」というよりも「愛されている」と言ってよいかもしれません。実に人はこの歌の歌詞に共感をよせるようです。

 この歌はまず、こういって歌われ始めます。「主よ、終わりまで仕(つか)えまつらん」と。
 「終わりまで」というのは『生涯ずっと』という意味です。クリスチャンがそのように生涯を通して神さまに仕えることは、信仰しているのだから当たり前のことのように思われるかもしれません。
 でも、当たり前のことが当たり前でないのが私たち人間です。この賛美歌もつづいてこう歌います。「みそばはなれず、おらせたまえ」と。このような祈りは、そのように祈らなければ神さまの前を去ってしまう可能性があることを物語っています。その理由はこの次の歌詞、「世の戦いは激しくとも、御旗(みはた)のもとにおらせたまえ」の言葉のとおり、私たちには『戦い』があるからです。

 ここでいう『戦い』とは、私たちを、『神さまを信仰しつづけようか』という気持ちにさせなくするもの、そして、神さまを信じつづけようとする気持ちを挫折(ざせつ)させようとするものすべてとの出会いです。そして実際、そのようなものはいくつもあります。
 たとえば、イエスさまは「あなたがたは、世にあっては患難(かんなん)があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ 16:33)」とおっしゃいました。

 「患難」というのは私たちが経験するいろいろな苦しみのことですが、ここでは
特に『イエスさまがそれに勝った』というところから、「私たちがそれのせいで信仰を手放してしまうかもしれない苦しみ」のことだとわかります。
 そもそも
私たちはそのような「患難」を、何か意外なことのように考えるべきではないというのが、聖書が私たちに与えてくれる知恵です。信仰は揺(ゆ)さぶられるものです。イエスさまはここではっきりとそのような揺さぶりが「ある」とおっしゃっています。

 患難はどんなに良い人間にでもやってきますし、どんなにキモのすわった人間のキモでも冷すような形でおこりえます。またどんなに善意で物事を受け止めたり、どんなに冷静に物事を判断する人間からも、そのようなせっかくの持ち味が台無しになるように働きかけます。「イエスさまがその患難に勝利なさった」という事実が、もしなかったら、私たちにはとうてい勝ち目がなかったところです。

 
そのイエスさまの聖霊は、聖書によって私たちにその時の助けの道を教えます。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう(詩篇50:15)」と。イエスさまの勝利によって私たちが勝利するのでなければ、私たちの勝利はあやういのです。ここまでがこの歌の1番です。

 
次の2番の歌詞は、こんなふうに言って始まります。「浮世(うきよ)の栄え、目を惑わし、誘(いざな)いの声、耳に満ちて」と。
 先ほど、私たちの信仰をゆるがせるものの1つの例として「患難」のことを申しました。患難は苦しくてつらいものですね。でも私たちの信仰をゆるがせるものは、そのように苦しくてつらいものばかりではありません。それどころかそのうちのいくつかは、私たちの目には好ましく映ります。それが「誘惑」です。

 この「誘惑」について
歌詞はさらに「こころむる者、内外(うちと)にあり。主よ、わが盾(たて)とならせたまえ」とつづきます。私たちの信仰を甘い誘いでもってゆるがせるもののいくつかは、私たちのこころの外からやってきます。そしてほかのいくつかは、私たちのこころの中から出てきます。心理学者の立場から言えば、この2つはげんみつには区別できないかもしれないと思います。ほとんどの場合、私たちのこころに作用するのは、内側からと外側からの2つのものの相互作用なのですから。

 
それからさらに驚くべきことに、誘惑は必ずしもそのように甘いもの、つまり典型的な『罪の誘惑』のかたちをとってやって来るとは限りません。実際に、何か特別な事情もなく教会から遠ざかってしまったり、信仰生活がおろそかになってしまう最初の理由のほとんどは、なまけているのでもなければ、ほかに選択肢(せんたくし)があるとは思えない、一見(いっけん)筋が通っていると思えるようなものです。

 「私は来週教会を休みます」、あるいは「これからは毎週のようには祈祷会(きとうかい)へは来られません」と言う時、その理由はたいてい、たとえば家族の問題や健康の理由や仕事上のことからであって、その話を聞いたほうも自然と「それならばしかたがありませんね」と返事してしまいます。しかし、経験が教えるところによれば、これらは信仰生活がすっかりすたれてしまう最初の前ぶれの場合もあります。

 有能なセールスマンは「買ってください」とか「○○の販売」という言葉は言いません。さらに、巧妙(こうみょう)な詐欺師(さぎし)は詐欺師には見えないし、刑事ドラマの中では真犯人は犯人らしく見えないのです。それと同じで、もっとも恐るべき誘惑は、ちっとも『罪の誘惑』には見えないかもしれません。このことを機械的に考えて「教会はどんな理由があっても、1日でも休んではいけない」と考えるのはおかしいですが、まったく『ワナである可能性』を考えていないのも不用心(ぶようじん)です。このことは非常に大切なことです。

 
さて、多くの人たちは、信仰をもつようになり教会のメンバーになることが、何か安定した身の上になるように考えているようです。しかしそれはまちがいです。信仰は戦いです。聖書はしばしば信仰生活のことを、今で言うアスリートたちの戦いになぞらえています。
 「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。(第一コリント 9:24)
 信仰生活は『信仰さえ持たなければそれなりに安定していたであろう安定』を捨てて、完成の日を目指して格闘することであるとも言えます。ここまでが2番です。

 それから信仰には
別の危機もあります。賛美歌の3番の歌詞はこうです。「静かにきよき御声(みこえ)もて、名利(めいり)の嵐、しずめたまえ」と。
 私たちの国には、「勝って兜(かぶと)の緒(お)をしめよ」ということわざがあります。戦(いくさ)に勝利し、魂がほっと油断するようなときこそ危ないのです。
 それは『幼児的な万能感(ばんのうかん)』という、私たちすべての人間のこころを一時期かならず支配していたこころの状態を、もう一度引き起こすからです。そしてその状態は「自分が思う通りのこと」を「すぐに」実現するように要求し、それをはばむものは悪いもの・都合のまずいものとして排除しようとします。
  旧約聖書に出てくるダビデ王は、自分の政権が安定し、外国との戦いも家来たちにまかせられるほどになった時に重大なあやまちをおかしました(Ⅱサムエル11章)が、それはこの典型です。そして同じ危険は常に私たちにもあります。

 
だからこの賛美歌はそれを静めてくださいと、主に願っていうのです。そして賛美歌はこうつづきます。「こころに騒ぐ波は凪(なぎ)て、わが主の御旨(みむね)さやにうつさん」と。聖書によれば、私たちはみな、「役に立たないしもべ(ルカ17:10)」です。そしてそれは本当です。その私たちが何かのお役に立てるとしたら、それは神さまの栄光が、そして恵みが、私たちを通してあらわれているということにほかなりません。

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キレやすく、私たちを敵のようにみなす人たちについての話

キレやすく、私たちを敵のようにみなす人たちについての話―家庭で、学校をふくめた社会で、そして教会で

 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。―聖書より

 1.年をとっただけでは・・?
 さいきん、「キレやすい高齢者」ということが、さかんに話題になっているようですね。少し前までは「キレやすい」のは若者ということになっていたのですが、どうやら今キレるのは若者だけというわけではないようです。
 そして私のような仕事をしていますと、もちろん子どもの中にも「キレやすい」子がいて、そのことで相談を受けることがあります。
 また大人の場合は、たとえば教会に来ているような人たちのなかにも見られることですが、言い方は穏やかで、一見、物事を合理的に考えているようではあっても、実のところ「キレている」、そんな人たちも見かけます。
 いったい世の中にキレる人たちが増えてしまったのでしょうか。しかし、心理学的には、格別に「増えた」とは言えないかもしれません。(そのことは後でふれます。)

 ところで、「キレやすい若者」という言い方には、どこかまだ希望があるような感じがしませんか。というのは、「今どきの若者」がキレやすいのは、教育とかしつけが行き届いていないとか、栄養のかたよりとか生活習慣が悪いせいで、そこのところを何とかしてやれば若者はキレたりしなくなるだろうと考えるからです。
 それに対して、私たちが「キレる高齢者」というときには、ある種の“しまつの悪さ”の感じがあります。ようするに、「そんな年齢になっているクセに」という意味合いです。そしてこの問題への手がかりも、そのあたりにあるのです。

 ある映画にこんなセリフを言うシーンがあります。「俺には学(がく)はないが、これだけは知っている。『年をとっただけでは男にはなれない』」。おもしろいセリフです。そしてまさにその通りなのです。生物学的に「オトコ」に生まれると、自動的に、社会の中での「男」として生きられるのとはちがうし、それと年齢は関係がないというのは正しいのです。そしてこのことは「男」とか「女」というだけではなく、人間としてどうなのかということについても言えます。
 キレる高齢者を私たちが“しまつの悪いもの”と思うのは、年齢のわりに人間が出来ていないからです。「人間が出来ていない」というのは一般的な言葉ですが、専門的なお話に入る前にもう少しの間、一般的な言葉でお話をしましょう。

2.「敵認定」の話
 世の中に「若者ことば」というものがあります。若者ことばはおもしろいですね。
 たとえば「敵認定」という言葉がその中にあります。これは、何かのきっかけで、誰かのことを「私の敵だ」と見なすことです。

 若者のみならず、人間は赤ちゃんの頃からはじまって、こころのどこかにこの「敵認定」という性質を持っています。そして、それを生涯、持ちつづけます。みんな同じです。程度の差があるだけです。
 たとえば時に非常にワガママな子どもがいて、私はそんな子どものことで相談される時、こんな話をします。

 あるところに、赤ちゃんがいたとしましょう。この赤ちゃんはおなかがすいてきました。でも赤ちゃんは私たち大人のように、「そろそろ12時を過ぎたから昼飯の時間だな。そういえば腹が減ったな」などとは考えませんよね。そうではなく赤ちゃんは、自分の体に何が表現しようのない苦痛な変化が起きた、と感じると思います。そしてそれに対して赤ちゃんは泣くことしかできません。

 そして赤ちゃんが泣くとお母さんがとんできて、ミルクを差し出してくれるはずですが、これは必ずしもすぐにうまくいくとは限りません。たとえばお母さんはいま天ぷらをあげている最中で手が離せないとか、赤ちゃんが泣いている理由をとりちがえて、おむつを替えようとするかもしれません。
 でも赤ちゃんにしてみれば、空腹をいやされたいのですから、そのようなミスやちょっとした時間放置されることはとてもイヤなはずです。赤ちゃんにとっては、空腹をいやしてくれるお母さんこそが『良いお母さん』であり、そうしてくれないお母さんは『悪いお母さん』です。そして「悪いお母さん」は当然のように「敵認定」され、空腹が満たされるまで泣きわめきます。

 しかも赤ちゃんは、空腹のときにお母さんがミルクをもって来てくれる理由を「自分が泣いたからだ」というふうに考えているようなのです。「自分が泣くからお母さんがそれを聞いて、お母さんなりに考えて、それまでやっていたことの手をとめて…」などと、赤ちゃんは考えません。「自分が泣いた。だからミルクがやってきた」―これが赤ちゃんの主観です。このような感覚を幼児的万能感と言ったりします。

 ところが赤ちゃんもだんだんいろんなことがわかってきます。自分が泣いたところでミルクが飲めるかどうかはお母さんの都合や考えや、はたまた運次第、ということがわかってくるわけです。
 そしてここで赤ちゃんは重要なことに気がつきます。自分が空腹で泣いている時にミルクを持ってきてくれないお母さんは、「悪いお母さん」というわけではない。たまたま、すぐにミルクを持ってきてくれなかっただけで、お母さんはお母さんなのだと。
 以上のことは赤ちゃんの話なのですが、悲しいかな、私たち人間はこのような感覚をいくぶんかが持ったままで大人になるわけです。

3.敵認定と要求
 「良いお母さんか、悪いお母さんか」という「敵認定」の段階をクリアする時期に、子どもは「がまん」ができるこころも育てていきます。でも、今も言ったように赤ちゃんのこころはいくぶんかは私たちのこころに残ります。そしてそれがトラブルのもとになることもあります。

 私はこの説明をするときに、
よくアメリカのトランプさんを例にあげます。あの人が大統領に就任直後にイスラム教のいくつかの国の出身者をアメリカに入国させないという法令を出しましたね。それは、「それらの国の出身者は悪いやつらかもしれない」という理由ででしたが、ふつうに考えてみれば、その考えはおかしいのは明らかです。どこの国であろうと悪いヤツもいれば良い人間もいる。当たり前の話ですが、私に言わせれば、この大統領は仕事ぶりがあまりにも雑なのです。そしてあまりにも雑な選択をしています。
 
そしてこの「あまりにも雑な選択」が実は、幼児的万能感と敵認定の特徴であり、トラブルの元なのです。

 そもそも「気に入らないことがある」ということ自体、世の中、あるいは他人は「私が思う通りにしてくれるだろう」というファンタジーの結果に過ぎません。いわゆる「不寛容」な態度をとって、わぁわぁわめいているのは、赤ちゃんがミルクを求めて泣いているのと同じです。だから大人げなく見えるのです。
 そして要求が通らなければただちに「敵認定」というのが子どもじみた考え方の特徴です。「日本人があまりアメリカ製の自動車を買わない?そうか、彼らがアメリカの車を買わないのはおかしい」、「だから目にものを見せてやろう」となるわけです。

 
これと同じことをやっているのが、駅やスーパーマーケットなどの公の場で騒いでいる年寄りや、さいきん報道されていましたけれども、自分の会社の都合に従ってくれない飛行機の乗客を無理やりに引きずり下ろさせるという航空会社の暴挙や、家庭や学校でひどいワガママを言ってまるっきり譲歩しない子どもや、いわゆる「不寛容」といって、自分にとって気に入らないことは社会の要請を無視してでも反対したりクレームをつける近隣住人や教会などのコミュニティのメンバーなわけです。彼らはいまだに赤ん坊のような心性を引きずっており、場面によってはそれが強く出てしまい、いろいろと騒動を引き起こすわけです。

 
それではどうしたらよいのか、ということになりますが、結局は「ガマンを覚えさせる」ということしかありません。もちろん、それはかんたんなことではありませんが。というのは、赤ん坊の頃の心性のような、人生の最初の頃のことは、人格と結び付いておりますから、そのようなものは昔から「三つ子の魂百まで」と言うように、簡単に解除できないし、そのように古いものは強迫的なところがあるので道理はとても通りません。さらに、そのような心性はあらい感情とも結びついているので、ガマンさせられればおそらく彼らは感情的になるでしょう。合理的な説得はむずかしい。

しかし、がまんをさせるというのは悪い手ではありません。かつては「敵認定」していたけれども、「実は敵ではなかった」と気づくように願うということが、おそらく唯一の『手当て』なのですが、そのこととがまんをさせるかさせないかは直接関係がないからです。

賛美歌に見る聖書の信仰16.『うるわしの白百合』

賛美歌に見る聖書の信仰16.『うるわしの白百合』

 先週の日曜日はキリスト教のお祭りであるイースター(復活祭)でした。今回ご紹介する賛美歌は、そのイースターによく歌われる賛美歌です。
 この歌はこんなふうに始まります。「うるわしの白百合、ささやきぬ昔を」と。

 聖書の物語はもちろん昔の物語です。「そんな昔の話を聞いたって」とあなたは思うでしょうか?
 でも、考えてみれば、私たちにとって過去は大切なものだということを、私たちはよく知っているはずです。現在はかならず過去の延長線上にあり、未来はその現在の延長線上にあります。

 それでは聖書はどんな過去を伝えているでしょうか。今回の賛美歌はこんなふうにつづきます。「イエス君(きみ)の墓よりいでましし昔を」と。この墓はイエスさまのお墓です。そしてイエスさまはそこに葬られ、そこから出ていらっしゃいました。これが聖書が伝える過去です。
 その時の様子はこんなふうでした。少し長いですが聖書を次に引用しましょう。

 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。
 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。(マルコ16:1-5)


驚いているこの女性たちに、青年はこう言ったといいます。
「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。…ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」(マルコ16:6-7)
 
そして事実イエスさまは弟子たちの前にあらわれて、教えを説かれ、彼らを励まされてから天にのぼられました。

 あなたはこのお話をどうお考えになるでしょうか。あなたがどうお考えになろうと1つ言えるのは、この世にキリスト教があるのは、この復活の出来事があったからです。というのは、イエスさまがとらえられ十字架にかけられた時、弟子たちはクモの子を散らすように逃げ出して隠れていましたが、それが大勢の前に現れて人々に伝えたのは、この復活の話だったのです。その時、弟子たちはこんなふうに話したと聖書は伝えています。

 「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」(使徒 2:22-24)

 この賛美歌はこのようにしめくくられます。「うるわしの白百合、ささやきぬ昔を。百合の花、百合の花、ささやきぬ昔を」と。あなたはささやくように伝えられるこの過去からの物語を、耳をすませて聞かれるでしょうか。それともひと蹴りにして退けられるでしょうか。ここまでが1番です。

 2番の歌詞はこんなふうに歌います。「春に会う花百合、夢路よりめさめて」と。
 イースターはクリスマスとちがい、毎年
○月○日と決まってはいませんが、必ず春の季節のいずれかの日です。
 春といえば、何を思い浮かべるでしょうか。おそらく日本人なら桜の花を思い浮かべるでしょう。あるいは、人によってはタンポポやレンゲソウ、サクラソウやジンチョウゲを思い浮かべるかもしれません。そしてもちろんこの賛美歌のタイトルにもある白百合も、イースターに飾られる春の花です。

 
さて、あなたはお気づきでしょうか。私はいま「春といえば何を思い浮かべるでしょうか」と申し上げただけで、「花」とは言わなかったのです。でも私が花の話をしたのはあまりに自然だったのではないでしょうか。春に花は自然です。というのは、じっと耐えなければならない冬が終わってから来る春の季節は、花の開花に代表される生命の季節だからです。
 この賛美歌もつづいてこんなふうに歌います。「かぎりなきいのちに、咲きいずる姿よ」と。

 イースターが春なのは、イースターの意味を考えるとふさわしいと言わねばなりません。イースターは生命の日だからです。
 そして「生命の日」
というのは私たちにとってイエスさまの復活が意味するものです。復活はイエスさまおひとりだけに起こった“他人事”ではなく、それどころか私たち一人ひとりにきわめて関係が深いからです。聖書にはこのように書かれています。

 
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父(みちち)の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ 6:3-5)

 
つまり、キリストを信じる私たちも、キリストが復活されたように死に打ち勝って、やはり同じように天にあげられる、それが聖書の約束なのです。そして私たちが「キリスト教」とか「福音」と呼んで、信じ、みなさんにもお伝えしているのは、まさにそのことなのです。

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