生きること、悩むこと、希望をもつこと

 
カウンセリングという仕事をしていると、カウンセリングに来る人が大人であれ子どもであれ、1つの共通点があることに気づきます。子どもの場合であれば友だちなどとの関係で悩み、大人の場合であれば自分の精神疾患や対人関係で悩み、保護者や学校の先生であれば、しつけや指導のしかたのことで悩んでいるなど、悩みはいろいろですが、たった1つ、そこには共通点があるということです。

 
それは彼らの悩みが彼らなりに「試行錯誤をくり返した結果である」ということです。子どもは自分なりに考えて良かれと思うやり方で友だちや家族と接しています。大人もその点で同じです。あるいは精神疾患の場合でもやはり自分なりにいろいろ考えたり、いろんなことをやってみたりしています。育児や教育の場合も同じでいろいろやってみた結果―つまり、「試行錯誤」の結果うまくいかなかったからカウンセリングにこられるわけです。

 
そのように「試行錯誤の結果、うまくいかなかった」という事情はカウンセリングに来る大きな動機の1つにはなりますが、しかしそのことだけでは悩みの原因にはなりません。かんたんにいうと、人は試行錯誤の結果、身近な誰かとの関係がうまくいかなかったり、疾患や養育などが思うようにいかなかったからといって、必ずしも悩むとは限らないのです。
 
イタリア人の男性は女性を見ると、「口説かないと女性に対して失礼にあたる」と思うのだそうです。本当かどうかはわかりません。しかし彼らは実に自然に女性に声をかけるようです。すると当然、女性にふられる回数も多くなります。しかし彼らは悩みませんし、「自分のナンパはどうも成功しない」といってカウンセリングを受けたりもしません。それは「口説く」というのも一種の試行錯誤ですが、それが失敗したからといって、その失敗に重い意味づけをしないからです。

 
もちろん子どもの養育や私たちの人間関係や精神疾患といったものは、ナンパなどとはちがいます。とても重要で、時として深刻なものですから。
 しかし、「自分の試行錯誤の結果がうまくいかなかった」ということに、重い意味づけをしているということは言えます。
 そして、それらの物事が大事なことであるということと、自分の試行錯誤の結果に重い意味づけをしてしまうということとは本来別のものです。

 
たとえばその重い意味づけとして、自分で自分を悪く思うことや、世の中に対する信用がすっかり悪くなることがあります。それは「いろいろやってみたけれどもうまくいかなかった」ということを、「だからもうダメだ」という結論に結びつけてしまっているのです。
 大事なのは「だからもうダメだ」の部分ではありません。大事なのは「自分はいろいろやってみた」という部分です。事実、その人たちはちゃんとがんばれました。でも結果がよくなかったのです。「だからその前の『がんばり』も悪かった、まちがっていた」というのは「結果論」です。このような結果論には何の値打ちもありません。

 
生きることはそもそも試行錯誤の連続です。人間は初めから正しい道を知りません。「良かれと思ってやってみたがダメだった」というのは、「方向転換をしなさい」という合図であって、誰かが悪いわけではありませんし、「もう何をやってもムダ」ということの証明でもありません。
 このことは厳しい人生に宿命づけられたような人たちにも当てはまります。これまでの人生がさんざんだったという人たちです。その人たちはきつい環境のなかで自分なりにがんばってきました。そして今、その経験から来る何らかの結果を手にしているでしょう。しかしその結果をみて、「自分の人生はダメだ」というのは誤りです。それは数学の方程式を印象だけで解こうとするのに似ています。

 
生きることがそのように試行錯誤の連続であるということは、「人に相談する」ということのウェートをどこに置くかにもかかわってきます。「自分がどうすればいいかをあらかじめ教えてもらう」ということでなく、「試行錯誤の結果を正しく理解する」ということです。「アレもコレも試してみたけどダメだった」―「じゃあ、どうしよう?」悩みの解決というのはある意味でそういうお話です。

 もちろん、いろいろやってもダメだったことで受けたこころの傷が回復する必要もあります。でも、そもそも人はこころの傷の回復のためにも試行錯誤をしているのです。「忘れられない」、「ゆるせない」というのも試行錯誤とその結果なのです。

 
「試行錯誤の結果に注目して自分や世の中を『悪い』とは結論づけない。それよりも自分がしてきた試行錯誤のがんばりに注目する」ということには1つの面があります。それは、試行錯誤の連続がまだつづいているのだという現実を直視できるというメリットです。
 なるほど、過去に受けたこころの傷はかんたんには消えないだろうし、別れた恋人とはヨリを戻せないだろうし、希望していたような生活を―経済面でも対人関係の面でも―手に入れるのは不可能かもしれません。世の中には私たちがいくら望んでも絶対にできないこともあります。

 
しかし、「試行錯誤」というものの広がりは広いのです。自分が「こうしたい」とか「こうなりたい」と希望すること自体も試行錯誤なのです。そしてもちろんこの場合も、それが実現しなかったからといって「もうダメだ」と考えるのは結果論でしかありません。そうではなく「試行錯誤の結果、うまくいかなかった」という現実から得られるのは自分という人間が持っている想定外の可能性です。

 昔から人間はその「想定外の自分の可能性」というものの存在に気づいていました。それが「希望」というものです。人間がもつ想定外の可能性、それが希望です。