2008年06月19日

日本経済政策の展望

戦後驚くべき経済成長を遂げ、世界第二位の経済大国となったことを鑑みると、日本経済がこの半世紀のスパンのなかで成功を収めていることに、ほとんど疑いの余地はない。「失われた10年」の間でも日本は高いGDPを維持してきたし、現在、多くの日本国民が世界的に見ても高水準の生活を享受していることは紛れもない事実である。
しかし、国際競争力の低下、社会の高齢化、ワーキングプアの出現など、日本経済は多くの問題に直面している。所得増大において最も輝かしい成功を収めた日本は、数値的経済成長で解決できなかった問題にいかに立ち向かうか。私たちは直接その過程を目撃し、あるいはそれに携わることが出来る。この時代に生まれたことに一体、これ以上の大きな意義が見出せようか。
私は今後の日本経済が何を目指すべきかについて自己の所見を述べたいと思う。
まず、数値的増大にばかり気をとられてきた経済成長だが、その裏で個人の自由が拡大し、そして今でもそれが続いていることを認識すべきである。50年前の人間より、わたしたちのほうが情報を自由に入手し、自由に経済活動に参加することができる。とはいえ、ネットカフェ難民の増加、生活保護受給における門前払いなど、昨今のニュースからは自由と安全が脅かされている状況も垣間見える。個人が自己の能力を生かして、社会で活躍するとき、長期的な経済成長の可能性はさらに大きくなる。したがって、経済政策の一環として、セーフティネットの整備など、個人の自由と安全を保証するシステム作りが求められている。
また、少子高齢化が進展するなかで、働く個人の数を確保することも重要である。その際、どの分野で人材が求められているか、あるいはそうなりそうかを吟味することが肝心である。ダムや道路の建設にみられるような公共事業による雇用創出は、高度経済成長の基盤となるインフラ整備に多大な寄与をもたらした。国土が未発達な段階では、利権政治家は住民のニーズにある程度応えて大規模公共事業を誘致する役割を担っていた。だが、ある程度の開発が終わった段階になると、次第に公共事業誘致の利益誘導的な性格が露骨にあらわれ、財政赤字の温床と化す。成熟期に入った日本社会は高度経済成長期とはことなった雇用創出の方策を再検討しなければならない。私は、とりわけ、福祉や環境の分野で、多くの人材が必要とされていることに注目したい。その際、雇用のターゲットになるのは外国人、求職者、高齢者である。
2007年12月22日の日本経済新聞によると、厚生労働省が今年度にもインドネシアから看護師を1000人受け入れることを決めたという。今まで外国人の国内就業に消極的だった日本政府だが、こうした決断を下した背景には、いよいよ看護師が少なくなってきたことにたいする危機感が伺える。最近では、退職したばかりの世代が介護に携わる例も見受けられ、福祉の分野で、いかに多くの人材が求められているかがわかる。
日本はこうした本当に人材が必要とされている分野で、思い切った人材育成や雇用拡大に踏み切るべきである。その際、海外からの雇用をも促進することが望ましい。戦後だけに注目すると、日本は海外からの移民受け入れに消極的であり続けてきたが、平城京の10人に1人が渡来人だったとの推測がなされているように、日本は海外から多くの人々を受け入れてきた歴史を持つ。仏教も、墨も、製紙法も、もとは渡来人がもたらしたことはよく知られている。こうした外来文化は長い時間をかけて、日本の地で融合してきた。日本はこれからも文化の坩堝としての機能を発揮できるのではないだろうか。日本国民の世界への理解や関心を深め、かつ日本をもっとエキサイティングな国にするためにも積極的な外国人の受け入れが望ましい。雇用の拡大は、国家の富を増大させ、日本の国際的なプレゼンスも向上させると考えられる。
環境問題の対策を行う際にも、新たに多くの人材が必要になる。先日、NHKがワーキングプアの特集を行った際、イギリスの社会企業が不遇な家庭に育った若者に職業訓練を行い家電リサイクルの仕事を与えている事例が紹介された。「もったいない」文化が見直される風潮のなかで、こうしたリサイクルビジネスは少しずつ注目を集めている。日本では社会企業が存在せず、こうした職業訓練の制度も未発達である。だからこそ、ここに新たなビジネスチャンスが存在し、同時にリサイクル文化を綿々と受け継いできた日本のアドバンテージを発揮することができる。
数値的な経済成長に傾倒して追いつけ追い越せの競争を繰り広げたのはあくまでも戦後という短いスパンでの状況にすぎない。わたしたちは今一度、個人の自由拡大を実現し、現状に応じて柔軟に変化してきた存在としての「経済」を再認識しなければならない。


2008年02月16日

アダム・スミス『国富論』

国民の労働こそが生活の必需品と便利品を生み出す源泉である。繁栄している文明国は、分業の結果、労働が効率化されたため、きわめて多くの労働生産物を供給することができる。スミスはこうした所見を実証するため、産業自体は小規模であるものの、分業によって生産量増大に成功したピン工場の例をとりあげ、分業の効用として次の三点を指摘する。一人ひとりが特定の作業に専念すること、別の作業の移るための時間が節減されること、そして作業用の機器が改良されることである。
しかし、分業は、こうした利点を誰かが予測して始まったのではなく、ものを交換するという人間特有の本能から自然に生じたのだという。各人が自分で消費する以上のものを生産し、余ったものを交換して確実に必要を満たしあえることから、各人は特定の仕事に専念するようになる。したがって、各人がそれぞれ異なった能力を生かしつつ、人間全体の生活や利便性を向上させることができる。
スミスは経済史をそうした交換の力が拡大してきたプロセスとして捉える。労働生産物を交換できる可能性の高い都市により多くの人が集まる。輸送技術の発達が市場を統合するかより大きな市場を開拓する。さらには交換の共通媒体として機能する通貨が生まれる。このように、交換がより自由に行われることが経済活動の発展をもたらしてきた。
一方で、交換への抑圧は様々な弊害を生んできたという。例えば、不作の年に、政府が適正と考える価格で穀物を売るようすべての商人に命じた場合、商人は穀物の出荷を渋り、収穫の直後から飢饉がはじまることになりうる。実際、歴史上では、こうした穀物不足を政府が不適切な方法で解消を試みたことで飢饉が発生する例が多々見られてきた。国内各地での取引と輸送が自由に行われてさえいれば、著しい天候不順の際でも、問題は緩和されるのである。
スミスの経済政策は、このような経済史のプロセスを未来に投射し、人間がものを交換する本能を存分に発揮させるためのコンディション整備に主眼を置く。
豊かなイギリスにおいて、全ての国民は自分の労働の成果を自分で得る権利を保障されている。そうすれば、各人は自分の生活をよりよくするために自然に努力する。この努力を自由に安全に行えるようになっていれば、きわめて強力な力になるので、他に助力がなくてもそれだけで、社会に富と繁栄をもたらすことが出来る。
一方、スペインやポルトガルは金銀の輸出に重税をかけるか禁止し、これらの法律を守らせるために警察が厳しく取り締まっている。そのため、きわめて貧しいなかで多量の金銀を輸入する両国で、金銀の価値が低下する。また、政府と教会による支配と産業活動の抑制が著しいため、国民は貧困状態から抜け出せない。
ここでは経済活動の自由が個人を国家や大商人から保護するための権利として描写されている。個人の潜在能力の拡大を貧困の克服、あるいは開発のキーワードとして掲げるアマルティア・センは、『自由と経済開発』のなかで、自説におけるスミスの影響を強調しているが、二人の経済観が共通するのはまさにこうした要素だとみてよいだろう。現在、市場原理から弱肉強食のイメージを連想する人は少なくないと思うが、スミスが弱者保護の為に市場原理の活用を主張していることは注目に値すべきではないだろうか。経済学はその歴史のはじめから「経世済民」の学としてスタートしているのだ。
スミスが「個人が自己の生活向上を自由に安全に行えること」を市場原理活用の条件としているのは先ほど述べた通りである。ということは、個人の自由と安全が十分に保障されていれば、市場原理は弱肉強食の汚名を着る必要性を低下させるのではないだろうか。市場原理が普及した現在に生きる私たちが本書から考えさせられることは多い。
本書はミクロ経済学、マクロ経済学、経済史、財政学など、現在経済学として学ばれる領域の原点を網羅している。スミスが残した業績がいかに偉大であったか、本書の刊行から200年以上たった今日でも経済学がスミスの強い影響下にあるかを実感させられる。ただ、インターネットの普及やサービス事業の多様化といった制度的な変化や、グローバリゼーションの進展や経済指標に現れない貧困層の出現などの状況的な変化は、スミスの時代では予測されえなかった事態である。そんな中、経済学がスミスの想定した経済観だけで完結することはありえないだろう。スミスを再び読み返す作業には、センが行ったように、現在の状況にスミスの所見がどのように活用されうるかという視点を持って臨まなければならないように思われる。


2007年12月01日

フーコー 『監獄の誕生』

『監獄の誕生』と題されたこの書物で、フーコーが扱う対象は具体的な監獄という施設にとどまらない。本書における「監獄」とは18世紀から19世紀にかけての大きな社会的変化のなかで出現した権力システムの総体を指している。その証拠に最終章において、フーコーは「監禁的なるもの」として、学校、孤児院、工場、病院などを挙げている。本書の興味深い点は、「監獄」が出現した現象について詳説したうえで、そのなかに近代社会に共通してみられる権力システムを明らかにしていることだといえよう。
本書は国王殺害犯に対する死刑の描写で始まる。そこでは、われわれの想像を絶する恐ろしい身体刑が繰り広げられるが、死刑のあり方はその後一世紀も経たないうちに大きく転換する。すなわち、身体を痛めつける死刑から生命を奪い取る死刑にシフトし、見世物だった死刑の現場は次第に隠蔽されるようになる。フーコーはここに刑罰の目的の変質を考察する。身体刑の時代には刑罰で犯罪者の身体を抑圧し、それを見世物にすることが刑罰の目的だったが、近代の司法における刑罰は犯罪者の矯正・感化・治療を行い、最終的には犯罪者を規律正しく動く社会の歯車として組み込むことを目指す。このとき、罰する対象は身体ではなく、犯罪者を犯罪の衝動に突き動かす精神である。
さて、フーコーがこうした刑罰の変遷の裏に読み取った権力システムの変化はこうである。見世物は国王と万人との権力関係の縮図だった。法は国王の意志であり、それに対する違反は君主を傷つけることになる。したがって、犯罪者に対する身体刑は君主権を再興し、国王の権威を万人に見せしめる儀式であった。「権力を持つ」という言葉の存在が示すように、かつての「権力」は王が占有するものとして捉えられていた。それに対して近代の一望監視装置は人々を組織のなかに所属させ、「見られているかもしれない」という恐れを植えつけることで、彼らが自ら率先して、組織にとって好都合に行動するよう仕向ける。このとき、「権力」とはもはや誰かが「占有」するものではなく、フーコーの言葉に従うと、「戦略」なのである。
見世物が存在する世の中では、残虐な刑罰が行われていたものの、人々が常に権力の存在について常に自覚できた。市民革命の目標はその権力を打倒し、分配することにあった。確かにその成果として、国王の占有する顕在的な権力が打倒されたのは事実である。だが、それ以降は、フーコーが述べたとおり、「権力」は「戦略」として目に見えにくい形へと変質していった。今日、権力はあらゆるところに存在し、人々を自発的に従わせているにもかかわらず、それらについて自覚的であることは非常に困難である。
フーコーがこうした問題意識を持てたのは、一つに、エリートでありながらもセクシャルマイノリティーであるという本人の状況、あるいは経験に由来するのかもしれない。「権力」という言葉を聞いたとき、われわれはいったい何を想像するだろうか。それがおそらく「苦痛を与えるもの」あるいは「自由を妨げるもの」であることには今も昔も変わらないように思われる。「一望監視装置」にあふれる近代は、「矯正・感化・治療」の名のもとで、多数派あるいは強者が一方的に規定する「標準」を少数派に押し付けてきた経緯を持つ。また、ともすれば、少数派は「標準」に適応できないという理由で、社会から排除されかねない。それならば少数派のフーコーにとって標準化こそが彼にとって、非常に大きな苦痛だったと想像できる。「権力」を語る際にそれを監獄に結びつけていることからも、フーコーは「権力」に対して批判的であると言ってよいだろう。
だが、本書は近代の「権力」が生み出した自己規律が生産の増大を促し、社会の発展の上で不可欠であったことにも言及している。フーコーは決して近代の「権力」を全否定しているわけではない。厳密にいえば、「権力」の排他性を批判しつつも、その生産性については肯定的に評価している。「刑法上の労働は、凶暴で荒々しく軽率な被拘禁者を、完璧な規律正しさで自分の役割をはたす一部品へ変える」―「権力」の巨大なマシンの有効性を彼はこう表現する。「権力」の特徴に加え、近代におけるその効用、欠陥をともに指摘する一種の冷静さを持ち合わせることも、フーコーの著書が社会科学的に古典の名に値するゆえんだろう。
本著は非常に難解であったが、潜在的な問題に敏感なフーコーの感性には目を見張るものがあり、また、近代をダイナミックに鳥瞰する視野の広さにも大変驚いた。「権力」というと、政治的な特殊性のある事柄ように思われがちだが、本書の扱う問題はわれわれが近代以来、無意識に採用してきた行動様式、あるいはいつのまにか望ましいと思い込んでいた規範と密接に結びついていた。


米本昌平 『地球環境問題とは何か』

1988年、科学者J・ハンセンは二酸化炭素濃度増大により地球が温暖化しているとアメリカ上院公聴会で証言し、社会に大きな衝撃を与えた。この年の夏、アメリカは穀倉地帯の大干ばつに悩まされており、人々はそうした異常気象と地球環境の連関を疑い始めていた。ハンセンの学説はちょうど、そうした疑念を抱く人々の心を見事に捉え、以降、地球環境問題が一挙に政治問題化する端緒を開くことになる。
科学者間で限定的に論じられてきた問題を政治化したハンセンの研究成果は、それ自体、アカデミズムにおける規範をいくつかの点で逸脱している。ハンセンは本来最優先されるべき専門誌への投稿を後回しにして、議会公聴会で研究成果を全面的に活用している。また、証言のなかで、明確な根拠もなしに、異常気象と温室効果との連関を「99%」と証言している。本研究成果を気象モデルとしてみた場合でも、太陽エネルギーの伝播に関わる雲の影響を無視していることや北米の気象変動予測に好都合な格子点プロットがなされていることなど、この学説への批判は枚挙にいとまがない。
実際には、最初に挙げた1988年の大干ばつは、年変動による偶然の現象によるとみるのが一般的である。だがその後、ハンセンの地球温暖化説というラフスケッチは、世界中の科学者や政治家を動員しながら、精密化の一途を辿っていく。
さて、地球温暖化、そしてそれを包括する地球環境問題は、なぜかくも世界的に受容されたのだろうか。その背景として、本書は、国際政治の枠組み転換を挙げている。それは「米ソ冷戦の終焉→地球環境問題の主題化」という変化である。冷戦下の核軍縮と現在の地球環境問題の双方は、世界的な脅威や不安となること、その実態把握が極めて困難なこと、そして一国の経済活動に深く関与することで特徴を同じくしており、そこに両者の連続性が存在する。しかし、相違点もいくつかある。米本は癌になぞらえて、核軍縮が「悪性の脅威」であるのに対して、地球環境問題が「良性の脅威」であると指摘する。核戦争の脅威に対応するために科学技術を総動員した結果として残るのは、膨大な核兵器の山という「負の財産」である。一方、地球環境問題の対策として非合理なほどに技術開発と設備投資を行った場合、たとえ地球温暖化の予測が誤りであっても、省エネルギーや公害予防のためのノウハウといった「正の財産」が残る。ハンセンの学説の曖昧さにも関わらず、米本が熱心に地球環境問題の重要性を語り、そこに国際政治における新たな視座を見出しているのは、そのためである。
地球環境問題とは、国家主権を超越した次元に存在するテーマである。酸性雨や黄砂の例に見られるように、被害地と汚染源が国境をまたがっているだけでなく、地球温暖化にいたっては全地球レベルでの対策を必要とする。このとき、われわれの目の前には、境界を持たない、新たな公共空間が現出している。それは、主権国家のように明確な境界を持つ公共空間とは異なる性質を持つ、いわば、地球上の大気や水や海といった「国際公共財」を媒介としたエコ・システムなのである。そのなかでわれわれは所属する国家を問わず、利害関係をともにしている。当然、自ら公共空間に与えた損害は必ず自分、そして他の構成員のもとに返ってくるのである。だが、問題に向かって真摯に取り組めば、誰もが本質的には利益を享受できる。地球環境問題が「良性の脅威」たるゆえんはまさにそこにあるのではないだろうか。もちろん、自然科学にはより正確な分析を要請しなければならないが、地球環境問題が「良性の脅威」である限り、政治の方面からは脅威の除去を目指す努力を続けるべきだということは一貫していえる。
こうした地球環境問題の「新しさ」を活用する上で最も重要な課題は、本書の指摘にあるとおり、われわれを包み込む公共空間のなかで、相互に不利な情報でも交換し、欠点も率直に言いうるような成熟した外交関係のネットワークを張り巡らしていくことであろう。逆に情報の隠蔽が最終的には自己の不利益につながることを肝に銘じなければならない。これは「囚人のジレンマ」にみられるように、各メンバーが全体の推移に無知であることにより、結果的に各自の利得が減殺される現象と同質である。いささか単純化していえば、個々の利益追求が全体の利益を増幅するというような還元主義的な見方に習熟してきたわれわれにとって、このように世界、あるいは地球全体を一つのシステムとして思考することにはいささか困難を伴うと思われる。しかし、このような思考で地球環境、あるいは国際関係を捉えることこそが国家、NGO、あるいは個人としてどう行動すればいいのかを知る最良の手引きとなり得るだろう。


マルクス 『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』

1848年、フランスでは二月革命により七月王制が打倒され、第二共和制が成立した。第二共和制は労働者の権利、十時間労働日、普通選挙を認めており、きわめて民主的な政体であった。しかし、そのわずか三年九ヵ月後、ルイ・ボナパルトという一個人のクーデターが一夜のうちに共和制を一掃し、独裁制を樹立する。フランス社会はまるで歴史的に後戻りしたかのようである。一般的には「ただ不可解な奇跡」とされるこれら一連の出来事だが、マルクスはそれを「48年(二月革命)以来の階級闘争の必然的な、ごく自然な帰結にすぎない」と位置づけている。
まず、そのような位置づけのもととなったマルクス独特の歴史観をみていくこととする。マルクスは階級闘争こそが歴史の運動を生み出すとの見解を示している。各階級を特徴付けるのは物質的生存条件であり、それは例えば財産、土地、知識、あるいは「何も持たないこと」である。各階級独特の感覚、幻想、考え方および人生観などはこのような生存条件の上部構造としてそびえたつ。個々の物質的生存条件同士は互いに対立する運命にあり、階級闘争を通じて歴史は発展していくのである。
ブルジョア革命は専制支配を打破するために生じる。だが、この革命は短命であり、成果が実感、共有されないうちに社会は「ながい興ざめ」に陥る。なぜなら、その成果は革命を主導したブルジョアジーによって独占されるからである。そのときブルジョア革命はその歴史的意義を終える。彼らはかつての専制支配同様、自らの物質的生存条件を保障することに終始し、それを脅かす他の階級に弾圧を加えることすらある。このような歴史は繰り返すという見方も、マルクスの歴史観の重要な特徴といえるだろう。
さて、本書では以上のような歴史観に基づいて、第二共和制の興亡の解釈が展開される。
七月王制期、ブルジョアジーの限られた一部である金融貴族は王の名の下での支配を行っていた。二月革命はその専制支配を打破するブルジョア革命であり、これを境に、人民の名においてブルジョアジー全体が支配を行う第二共和制が始まる。一旦政権が成立するや否や、彼らは他の諸階級に対し無制限の専制支配を敷いた。プロレタリアートを六月事件で弾圧したのみならず、自由主義・共和主義にも「社会主義」のレッテルを付し、罰していった。革命はまもなく反革命的動きへと転じたのである。
それと同時期、確実に権力の階段を上っていったのがルイ・ボナパルトであった。ボナパルトははじめ大ブルジョアを中心とする秩序党と結び、大統領に就任した。秩序党とは、大地主を基盤にブルボン朝のもとで支配を行った正統王朝派と金融貴族を基盤に七月王制のもとで支配を行ったオルレアン派の両派が結合したものである。しかし、両派の間には物質的生存条件の相違が存在するため、利害衝突を起こすようになる。
大統領となったボナパルトはナポレオン的な帝政の復活を目指し、内部混乱が続く秩序党と袂を分かった。彼は、各地を遊説しながら、社会の落伍者たるルンペン・プロレタリアートや数が多いが非常に貧しい分割地農民の支持を得ていくこととなった。彼らはボナパルトに英雄ナポレオンを重ね合わせて歓迎し、とりわけ分割地農民は自分の生活条件たる分割地を強力な国家権力によって保護されることを求めたのである。さらに、帝国主義を求めるブルジョアジーのなかにも支持を広げた。七月王制期のイギリスに対する金融的従属に憤り、ナポレオン的帝政の再来を夢見たブルジョアジーは少なくなかったのである。このように、ボナパルトは様々な階級からの支持を集め、クーデターを成功させた。
しかし、あらゆる階級から期待されたボナパルトの使命は矛盾に満ちている。ルンペン・プロレタリアート、分割地農民、そしてブルジョア秩序のどれもが彼にとって守るべき存在であるが、彼はどの階級にも他の階級からとることなしにはあたえることができない。したがって、ボナパルトはその政策を全体として決して満足に遂行できないばかりか、常に政権の存亡を危機に瀕せしめているのである。
職業的階級区分が曖昧となり、各階級の性質が大きく変容した今日、マルクス的な階級闘争論を現実解釈に適用することは必ずしも正当とはいえない。だが、民主主義が独裁体制に一転するこの歴史的事件自体は現代にも通じる重要な教訓を示しているように思われる。つまり、民主主義から反民主主義的な独裁が生まれることは決して珍しいことではなく、我々は常に独裁者による「帝国主義の踊り文句」に乗せられないよう注意を払わねばならないのである。同じく「過去の再来」としての帝国主義的ヴィジョンや実現不可能な公約を掲げ、ついには国家を荒廃させたヒトラーにも、ボナパルトと共通する要素を少なからず見出すことができるのではないだろうか。


2007年07月25日

3.洞窟の比ゆにおける「太陽」の欺瞞

僕は実はここまで光という言葉を反射光という意味に重きを置いて使ってきた。太陽から発せられた光は、たとえばルーアンの大聖堂に反射し、その光が僕の目に入ってくる。反射光というのはもちろんここでいう後者の光であるが、ここでは直接光源としての光をプラトンのイデア論と比較しながら考察する。
イデア論は理想像としてのイデアを想定し、それに対する距離で美の優劣を決定している。イデアに似ているものほど美しいのである。だが、イデアそのものを現実世界に見出すことはできない。究極の美はイデア界で太陽のごとく燦々と輝いているというが、実はイデアそのものはつまらなく、魅力のない存在なのではないだろうか。
ここで先ほどの光の話に戻ってみる。僕たちは光が当たった事物に美を感じることがあるが、直接光源、たとえば太陽の光自体は究極の美だといえるのだろうか。
否、太陽光には美しさを見出すことなどできない。直接光源は色もなく、ただ輝くことしかできない。太陽を見ると、僕たちは目をつぶしてしまうことだってあるのだ。
直接光源は太陽だけではない。人類は原爆という恐ろしい直接光源を作り出した。広島、長崎の地に落とされた原爆は強烈な閃光を放ちながら、いのち、希望を一瞬のうちに死滅させたのだ。広島に落ちる原爆を遠くから目撃した人は「太陽が広島に落ちたかと思った」と表現している。原爆は太陽のコピーといえる。太陽のコピーとしての直接光源、そんなものを再び作ろうというばかげた空論など放棄すべきである。
光は他とのかかわりを通じて初めて美を醸成しうるのであり、光そのもの、すなわち直接光源は決して美ではない。直接光源をコピーすることしかできなかったら、世界はどんなにつまらないだろう。いや、それが原爆というかたちで実現されたら、もはや美もなにもないのは前述の通りである。
以上のことを考えると、イデア論における洞窟の比ゆに太陽が登場することは大変意味深である。太陽はほんとうに善のイデアたるものを類推しうるのだろうか。どうも作成者であるプラトン自身、その欺瞞を承知の上でこの言説を唱えたようにすら思えてくる。イデアとの類似性を持つ「美しい」ものはイデアと同化されると、実は「美しさ」を失ってしまう。プラトンはそんなことに気づきつつ、隠し続けていたのかもしれない。


2.偽装(シミュレ)する光

「ルーアン大聖堂」の連作を前にしたとき、僕は光の偉大さに気づく。一瞬一瞬、大聖堂は違った顔を見せては、ほんとうの大聖堂の姿を知りたがる僕たちを欺いていく。光がほんとうの大聖堂を見ることを邪魔しているのだろうか。だが、そもそも光なしにものの存在を見ることなどできないのであり、僕たちがほんとうの大聖堂の姿を知ることなど不可能である。
美しさの認識は極度に視覚に依存している。変わりゆく光が大聖堂に美しさの価値を付与している。大聖堂そのものが美しいのではなく、光があたって僕たちの目に映る大聖堂が美しいのだ。
モネはそれをわかっていましたといわんばかりに、もの自体ではなく、ものに当たる光を描く。光の粒一つ一つは生命の潤いのようである。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と言った鴨長明は一瞬で変わり行く光を惜しむことに力点をおいたであろうが、モネの絵を見るときはむしろ新たに生まれる光の粒を祝福したいと思う。一瞬一瞬で生まれつつある光の粒を描いたモネは、絵のなかで美を再構築しているのだ。
モネの絵の美しさは、無常観的な失いつつある美ともイデアへの距離としての美でもない。光は生まれ、変わっていくことで美しさを醸成し、その美しさは特定のものさしによって計測可能なものではない。
一瞬一瞬で変わる光の粒のなかには連続性が存在しているが、前現れた色と次現れる色は少しずつ違っている。光がシミュラークル的性質を持っているから美しさを現出するとの見方についてかんがえてみよう。
シミュラークルとは「偽装(シミュレ)」するもののことである。ボードリヤールによると、現代社会において、精密なコピーが溢れ、オリジナルとの落差が消滅したとき、シミュラークルが出現するという。彼のいうシミュラークルは現代社会特有の産物として認識される。だが、原章二らによると、そもそもあるものが新しく生まれる時点でそれはシミュラークルとして出現するといえる。先住者はオリジナルとして権威をかざし、シミュラークルを排除しようとする。類似しているが差異があるというシミュラークルはオリジナルの権威にとって脅威だからである。このようにシミュラークルについて二点の異なった見方が存在するが、いずれもシミュラークルが従来のオリジナル/コピーの二項対立を崩すものであるという特徴を共有している。
シミュラークルの性質から美を考えるとき、やはり後者のシミュラークル概念が有効であろう。「ヒナギクに見とれる人はヒナギクと自分との類似性に見とれている」 とのベイトソンの言葉は、類似性が美意識を呼び起こすことを示している。ヒナギクを自分にひきつけて、自分の琴線と響きあう。その歓びは美意識となってあらわれる。類似性を持つシミュラークルこそ美意識の発動原因とみてよいのではないだろうか。
光なしで美意識は発動しえない。そして光そのものも連続性を紡ぎ、だが、新しく生まれつつある。光こそシミュラークルの特徴を具現しているように思われる。


1.現代思想としてのモネ

「久しぶり」というより「また会えたね」と言って邂逅の歓びを祝福したい。新国立美術館のモネ展には、幼い頃オルセー美術館やマルモッタン美術館で出会った数々の名画が展示されていた。
小学生時代、パリに住んでいた頃、僕はモネの絵画を心から愛した。従来の絵画技法を打ち破り、光と色彩の総合(synthesize)を実現した―そんな歴史的意義を超えて、モネの作品は幼い僕のこころに光そのものの美しさ、そして感じたものを描くということを教えてくれた。
今となっては全くそんな機会はなくなったが(むしろ機会をつくらなくなったというべきかもしれない)、当時はよくデッサンをすることがあった。ノートルダム、エッフェル塔をはじめ様々な事象をモチーフとしたが、たとえ構造的な建造物であろうと、僕は常に自分が見て感じたことを描いていたと思う。美術教育の専門家であった祖父は、頭足人を描く幼児に対して“描かれていない部品”を要求するような教師を戒めたという。幼児の感受性を大切にした彼らしいが、いまや「科学的分析論」に拘束されながらも、豊かな感性に憧れる現在の僕もそんな彼の主張の正当性を実感するのである。
しかしながらモネの絵は、現在の僕が若干「科学」的に見ても、魅力を感じさせてくれる。モネの絵を見ていると、いつの間にか自分が普段と異なる解釈項で事象を見ていることに気づく。人間は無限に続く記号解釈のプロセスを通じて宇宙全体と結びついている―そんな無限のセミオーシスの概念を提示したのはプラグマティズムのパースであるが、まさに僕はモネの行うセミオーシス(記号過程)の中に投入された感覚を味わうのである。“私”の感覚は光によって“全て”と繋がる。
ふと、モネは一種の「現代思想家」と捉えることもできるのではないだろうかと思う。モネの絵の前に立ったとき、芸術が自分と世界との連続性を語りかける不思議に僕は気づく。現代思想はテクストだけではないのではないだろうか。むしろ、言葉を超えた世界をも包括することで、僕たちの周りの現代思想の存在をより正確に感じ取ることができるのではないだろうか。だから、「近代」的な“世界存在への懐疑”を克服した次元にある純粋な喜びを与えてくれるもの全てを僕は現代思想の射程内に捉え、その一例として、光の美しさを取り上げたいと思う。


2007年05月02日

「地図」を描く旅(6)

金沢での最終日、僕は昔住んでいた家に行くことにしました。小学生時代、僕は築40年近くのボロアパートに住んでいました。途中、パリで一年半、ロンドンで一年過ごしたけど、基本的にはここでかなりの時間を過ごしました。アパートには結構たくさん子供がいて、学校が終わってから、アパートの周りを友達と自転車で競争したりなんかした思い出があります。
昔の友達がまだ住んでいたりするのかなと思いつつ郵便受けをみてみましたが、もう知らない人ばかり。しかも、かなり空き部屋が多いことに気づきました。きっともうそろそろ取り壊すのだろうと思います。

昔よく買い物に行ったスーパーがあったところにはマンションが建てられようとしていました。遠足のお菓子を買いに行った駄菓子屋はもうなくなって、新しい民家になっていました。

中学校の頃ふらりと金沢を訪れてから、ずっと更新されていなかった「地図」がどんどん書き換えられていきます。

それでも、変わっていない場所もあります。僕がどうしても行って確認しておきたかったのが、近くにあった図書館。ここができたのは僕が小学3年生のころだっけ。完成してから引っ越すまで、ずっとお気に入りの場所の一つでした。
昔読んだアルセーヌ・ルパンや少年探偵団のシリーズを改めて手にとっては、これらの本を読んだ当時の興奮を思い出す。ここの本たちのお陰で、未だに本が好きな自分がいる。8年ぶりにここに来て、そんなことに気づかされるのです。

夕方金沢駅を出て、再び青春18きっぷを手に、普通電車で名古屋へ向かいました。


―「地図」を描く旅・完―

2007年04月30日

「地図」を描く旅(5)

大宰府から福岡に戻った後、ふらっと福岡市美術館に行きました。本当にふらっと、何も期待せずに行ったんだけど、そんなとき、案外おもしろい作品に出会えるものです。一番印象的だったのはダリの「ポルト・リガトの聖母」という作品です。宗教画の図像なんだけど、マリアのかわりに自分の奥さんを配置するという絵。ある意味ドンデモナイ絵だけど、科学が発達しすぎて宗教的権威を信じられなくなった人間の苦悩みたいな哲学的要素が感じられます。興味がある方は以下のURLからどうぞ。
http://www.fukuoka-art-museum.jp/jc/html/jc04/02/salvadol_dari.htm

たった一日のみの滞在だったけど、この時期に人生で初めて九州を旅行できてよかったです。学生の身分だから、予算も少ないし、「快適」な旅行ではない。だけど、自分の足で歩くことで、自分のなかの「地図」に新しい街が描き加えられたんだから。

夜、再び博多駅からムーンライトに乗って新大阪へ向かいました。


3月23日、新大阪から普通電車の乗り継いで金沢に着いたのはお昼過ぎでした。遅めの昼食をとろうと、駅の食堂に入って、ネギトロ丼を注文しました。500円くらいしかしないんだけど、食材の一つ一つが新鮮で、本当においしかった!

そのあとはホテルへ行って早めのチェックイン。名古屋を出てからずっとお風呂に入ってなかったので、すぐにお風呂の準備をしました。全身を洗い流してすっきり!こんなにお風呂のありがたみが感じられる機会はなかなかないです(笑)。

そのあとは新しくできた21世紀美術館に行ったり、金沢城跡公園を歩いたりしました。この二つは僕が名古屋に引っ越してから整備されたところです。時間とともにどんどん移り変わっていく街―僕の中の「地図」もそれにしたがって更新されていきました。

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