今日の授業(『「物語」の世界』その1)

 『「物語」の世界』はひとことでいって、難解である。「物語」という卑近な素材を扱っているにもかかわらず、である。

 ここでいう「物語」はわれわれが普段使っている「ストーリー」という意味の「物語」だけではない。「もののけ」などの「もの」という意味や、『源氏物語』に頻用される「乳児の言葉以前の声」などという、「語源」というよりも、さらに根源的な意味の「物語」概念が語られる。

 さらに記号論の概念も紹介される。記号論はもともと分かりにくい。分かりにくい概念を分かりにくい文章で書いている。まさに最悪の文章といえる。しかし、私はこの『「物語」の世界』は好きか嫌いかでいえば、「好き」である。それはなぜか。

 評論ではよくあることなのだが、いわゆる「煙に巻く」というところがこの文章にはないのである。「煙に巻く」というのがどういうことかというと、難しい文章で、いかにも新しい知見や世界の原理を語っているかのように見えて、実は「なんだ、そんなことか、そんなこと知ってるよ」と思える評論が、巷にはたくさん存在する。そんな評論は読んでも時間の無駄であるし、読んでいて腹が立ってくる。腹が立つといえば、書いてある内容は「なるほど」と思えるのだが、文章が下手すぎて何をいいたいのかよく分からないという評論にも閉口する。

 『「物語」の世界』はそういう評論ではなく、難解ではあるが、新しい知見が述べられているし、よく読んでいくと「なるほど」と思える。「なぜか」と問題提起だけしておいて、なぜに答えないまま終わってしまう評論もある中で、この評論はしっかりと納得できる答えが書かれている。

 しかし、それにしても難解である。もう少し、分かりやすく書いてほしいと思うが、この私の思いは、この評論を読んでテストを受けなければならない全国の高校生の気持ちと同じであろう。

今日の授業(「言語と記号」その4)

 「言語と記号」の第3段は話が壮大になる。「言語の果たす役割は分節、差異化による認識・存在を生み出す機能だけではなく、言語が世界を作るのだ」ということである。

 「言語→思考→道具一般→生産活動→世界を作る」このような図式である。確かにそうだ。言語がなければ思考することはできないし、思考なくしては現代の文明は生み出されなかった。丸山の言うことはもっともである。そういう面もあるだろう。しかし、あくまで、「そういう面もある」である。というのは、それだけではないだろうという気持ちもぬぐい去ることはできないからである。

丸山の言うことはおそらく真実である。言語は人類にとって極めて重要な役割を果たしている。それは確かなことだ。言語を操るのはヒトだけであり、言語をもとに作り出した文明は極めて多様に発展している。

しかし、人類のこのような進化は、果たして言語を操るからということだけで説明できるのか。それだけで説明できるほど単純ではない。そんなに単純だったなら今のような世界を作り出すことはできなかっただろうとも思う。

 もちろん、丸山の研究ではそのような単純なものではないだろう。私は丸山の研究のなんたるかを語る資格はない。丸山の著書を全て読んだわけでもないし、学術論文を読んだこともない。だから、こんなことを言う資格がないのは充分承知しているが、やはり、このような単純なことではなく、もっと、他の要素も多々あるのだろうと思う。

 この短い文章だけでは丸山の意図することを理解するのは難しいし、丸山の研究もそれほど単純なものではない。それは確かなことではあるが、さて、この丸山の思想を高校生に授業をする時にはどのようにしたらいいか。

高校生は言語について専門的に勉強するわけではないのだ。(もちろんそういう生徒が出てきて欲しいが。)だから、この文章を読んで理解するしかない。しかし、その背後には膨大な思考が潜んでいる。それを授業で教えることの大変さは筆舌に尽くしがたいものがある。この文章の背後に潜む丸山圭三郎という研究者の膨大な思考を読み取らせる術は今の私にはない。

しかし、そのような難しい仕事は面白い仕事でもある。やりがいがあるともいえる。いや、それほど難しい仕事でもない。少なくとも、人を扱う仕事よりも単純で易しい仕事のような気もするが、果たしてどうなのか。この問いは、教師の仕事の何が難しくて何が易しいか、その根源的なテーマであるのかもしれない。

今日の授業(「言語と記号」その3)

生徒に言語の根源的な「事物や概念を存在せしめる」という作用を解説するのはなかなか難しい。いや、難しくはない。丸山圭三郎が平易に解説しているから、それをなぞっていけばいい。しかし、それでは教師の腕を見せることにはならない。教師の腕の見せ所は生徒に対して発問を繰り返して、文章を読解していき、主題に迫ることである。また、生徒に発問して、それを真剣に考えさせて、最後にまるでパズルを解くように疑問を氷解させていくことである。これらはいつもできるとは限らないが、時々できることがある。その時は教師冥利に尽きるというものだ。

 授業前の教材研究では授業の手順を考える。私は比較的細かいところまで考えるタイプの教員であると思う。教材研究をする中で、核になる発問をいくつか考える。この「言語と記号」の第2段の場合、核になった発問は、<①一般の記号と言語記号との本質的な違いは何か②『「存在が名称に先立つ」という結論を軽々に下すわけにはいかない』とあるが、なぜか。③「分節」「差異化」とはどのようなことか、ここでの「分節」「差異化」とはどういうことを言っているか。>というようになる。この間に小さな発問を行っていき、これらの発問に近づいていく。そして、発問を効果的に生徒が認識できるようにしていく。

 と書くと、非常に立派な授業をいつも行っているように見えるかもしれないが、実際には段取りを間違えたり、余分な話で盛り上がったり、〈今日も遠足の時の話題で3HRは盛り上がった〉となかなか人様にお見せできるような授業ではないというのが本当のところである。

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