「言語と記号」を授業で行うのは楽しみだ。評論ではあるが、評論的でない面白さというか、他の教材にない面白さというか、そんな不思議な魅力があると思う。それでは「言語と記号」のどんなところが面白いのか。

国語の授業はほとんどが読解の授業である。小説でも評論でもそれはそうだ。読解とは(いろいろな説があって一概には言えないが)単純に言ってしまうと、読んで理解をすることである。作者の言いたいことやら登場人物の気持ちやらを読み取る。国語の問題といえば、このような読解問題を指すというのが常識である。センター試験でもそういう問題が出るし、多くの国公立大学でも私立大学でもそういう問題が出る。だから、われわれ進学校の国語教師は大学受験が価値の全てではないと分かっていながら、大学受験で必要な「読解」を授業で行う。それが生徒のニーズでもある。

話はそれるが、前任校はかなり指導が困難な学校で、大学進学者も3分の1ぐらいはいたが、センター試験を受験して大学に進む生徒はほとんどいなかった。ほとんどは推薦入学で大学に進学していた。だから、授業も大学受験用の授業ではなく、生徒に読む力を身につけさせ、感性に働きかける授業をしていた。読む力というのは日常生活で困らないような力である。簡単に言ってしまうと、新聞を読めるぐらいの力である。このような学校では授業もある意味純粋に行うことができる。目の前の生徒を見て、この子たちにどんな力をつけたいのかを真剣に考え、工夫して授業を行うことができた。ところが、今の進学校では、入試問題というスタンダードがあって、それに合わせた授業をせざるを得ない。目の前の生徒の力を見るのではなく、入試問題を見て、それに生徒の力を合わせるように持っていくのである。不純とはいえないが、純粋な教育ではないような気がする。

話を元に戻そう。読解の授業は評論の場合、筆者のいいたいことを捉えるのであるが、高校3年生のこの時期になると、難解な文章をたくさん読む。その中には内容が難解なのではなく、「文章」が難解なものが少なくない。要するに文章が下手くそなために読解しづらいのである。

内容が本当に難解な評論は教科書に載せたり、試験問題にはしたりできないという事情もある。あまりに専門性が高い文章は高校生には読ませるのに適当でないからだ。かといって、誰でもすらすら読めて理解できる文章は、(本当はそのような文章がすばらしい文章といえるのだが)高校3年生の教材にはならない。

この「言語と記号」という文章はそれほど難解とはいえない。ときどき、文に飛躍があったりもするが、文章としては読みやすい。しかし、内容がなかなか難解なのである。いや、難解というのは適当ではないかもしれない。難解なのではなく、生徒にとっては今まで触れたことのない、新しい思想に触れるということ、意外性のある内容ということなのである。その内容とは「言語が事物や概念を存在せしめる」ということであり、逆にいえば、「名前のないものは存在しない」ということになる。これは生徒にとっては意表を突いていて面白い。これをどのように授業していくか。教師の腕の見せ所でもある。

細かくは明日以降のブログで。