国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

vol.158 教育正常化への取組

教育正常化とは何か

 先日、ある地域で講演をしてきました。演題は、「教育正常化とは何か?」です。
この地域は、左翼教職員組合が強く、未だに学校に組合員が多くいます。もちろん、管理職の多くも元組合員の出身で、組合とは馴れ合いの学校運営がなされている地域です。
そんな地域の教職員を集めて、組合に振り回されず教育に当たれるよう教職員を応援するために講演をしてき
たのです。
 教育を正常化するには、学校が左翼組合と決別する必要がありますが、そのためには
① 教育行政と組合の癒着を許さないこと
② 左翼組合から、善良な教職員を守ること
が必要です。
そのための活動の一環として、講演を引き受けました。

教育正常化とは何か。

「正常」の対義語は「異常」です。
まず、現在自分が勤務している状態が、異常な状態にないかを知ってもらうことが大切です。
歴史的な背景を踏まえながら、左翼組合の活動によって、
「教育よりも、教師の労働権利」が優先され、
「聖職(教育専門職)ではなく、労働者」
に貶められてきた現在の教師の立場を把握して、疑問を持つことから個人の教育正常化は始まるからです。
その過程で、日教組らが推進してきた「道徳教育反対闘争」「勤評闘争」「日の丸・君が代反対闘争」などが、いかに学校現場を混乱させ、子供たちを犠牲にしてきたのかを理解していくのです。

そうすれば、個人として左翼組合と決別する決意を固めることは容易です。
相手は違法行為を繰り返してきた組織なのですから、高い遵法精神が求められる教育公務員である教職員たちは、すぐにその異常さに気づき、決別の意思を固めます。

ただし、これは個人としての「決別の決意」です。
多くの組合員がいる学校では、決意を固めても、学校の正常化にはなかなか踏み切れません。
また、組合員は少なくても、かつての組合活動が文化として学校に根付いていることもあります。
自分個人としては決別しても、学校が組合と決別するには高いハードルがあるのが現実です。

そこで、彼らと本当の意味で決別するには、個人だけでは対応できません。
ですから、教育正常化団体(なかま)が必要なのです。
わたしたちは、そのなかまになるためにあります。


このように、我が国の教育を正常化のための地道な努力は続いています。
それが、我が国と子供たちの本当の幸福につながると確信しているからです。
わたしたちの力の源は、善良な国民の皆様の応援です。

どうぞ、これからもお力添えをお願いします。


 

新年のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。

本年も、教育正常化に向けて努力してまいります。

 

vol.157 今こそ、皇室教育を公教育に!~山本議員の私書手渡し問題から考える~

山本太郎参議員の行動は「政治利用」「不敬行為」?

 

 秋の園遊会で山本太郎参議院議員が、参加者と懇談中の陛下に対して、私書を手渡した件が大きく報道され、「政治利用にあたる」「不敬行為だ」などの指摘がなされています。その行動は、軽率極まりなく、全く肯定できるものではありません。

ましてや、国会議員という公の立場にあるものが取った行動ですから、「政治利用」との指摘も的を得ていますが、私たちは慎重にこの問題の本質を見極めて、二度と同じことを起こさないだけでなく、我が国の根幹ともいえるご皇室をお護りすることを考えねばなりません。

 

陛下のご存在

 ここで最も大切なことは、陛下のご存在を、私たちが正しく理解しているかということです。現行憲法では第1条で、天皇の存在を「国民統合の象徴」として規定していますが、これは現行憲法以前の悠久の歴史の中で形作られてきた我が国の在りようです。

陛下は、いかなるときも国民と我が国の安寧を祈られる存在ですし、そのことは皇室の歴史そのものです。

ですから、福島原発事故の被災者に対しても、山本議員以上に御心をくだかれ、我がことのように御心を痛められていらっしゃることでしょう。被災当初から、被災地へ何度も足を運ばれ、被災者を元気づけられてきた陛下の行動が、そのことを物語っています。

 

 陛下にとっては、反原発も、脱原発も、原発推進もありません。それは、あくまで為政者や国民が決めることです。その国民の議論がいかような結論になろうとも、陛下は、ただただ日本国の発展と、国民の幸せを祈られる存在なのです。

 然るに、今回の山本議員の行動は、まだ国民的議論が熟さず、方向性さえ見定められない問題を、惨状を伝えるためとは言え、そのような立場にある陛下に直接訴えようとしたのですから、非難されて然るべきです。

 その背景には、山本議員の、陛下や皇室理解の未熟さ、あるいは意図的な皇室軽視の姿勢があると指摘せざるを得ません。

 

皇室への理解

 しかし、今回の件を山本議員個人の左翼思想による不敬問題とだけとらえると、この問題の本質は見えません。(そもそも左翼思想では、「天皇制打倒」(天皇制という表現そのものが左翼思想です)なのですから、彼の直訴行為はその趣旨にも反します。)

山本議員の公人としての責任は、もちろん問わねばなりませんが、彼も、そして彼を国会へ送った人々も、彼の行動を容認する人々も、戦後教育の産物であることを考えると、皇室への不理解を拡散してきた戦後教育界の責任も問われて然るべきでしょう。

 

 戦後教育の中では、皇室や陛下のご存在に触れることはタブー視されてきたのは、以前から指摘しているとおりです。戦前の教育全てを否定し、個人の自由や権利を過重に重視してきた戦後教育では、当たり前の結果とも言えるでしょう。

 それは、皇室や陛下のご存在が、公のものであるからです。公のもの(存在)をできる限り否定することで、個人の自由や権利を浮き立たせてきたのが戦後教育です。そこに、日教組らによって左翼的なイデオロギーが注入されてきたのです。これでは、皇室について教育することなどできるはずはありません。

 

 しかし、個人の自由や権利を保障するのは国家そのものですし、その象徴が天皇陛下のご存在であることを深くとらえれば、個人の自由や権利と皇室とは相反するものではありません。ましてや、先述したように国民の幸せを祈られる陛下のご存在を正しく理解することは、子どもたちのアイデンティティーの確立や、日本人としての誇りを育む上で、とても大切な教育です。

 先日お会いした八木秀次高崎経済大教授(日本教育再生機構理事長)も、「教育再生を期するにあたって、これからは天皇教育が大切である。」旨を指摘されていました。

 

このまま皇室を無視して公教育を進めていては、日本人のアイデンティティーが育たないばかりか、皇室への理解が更に薄まることで、国家の背骨が腐り、国の在りようさえも変わってしまいます。それは我が国の歴史が断絶するだけではなく、国家そのものの断絶となり、世界最古の歴史を誇る日本国が消えてなくなることを意味します。

 

今回の山本議員の行動は、我が国の皇室継続の危うさ(国民の皇室への不理解)が身近にあることを私たちに教えてくれました。

今後、民間の方々とも連携をして、公教育に皇室教育を根付かせることが急務です。




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vol.156 「はだしのゲン」問題の本質とは…

松江市教育委員会の「はだしのゲン」閉架問題が、世間を騒がせています。

その判断には賛否両論あるようですが、主にマスコミは「表現の自由」を盾に否定的に報道しています。
中には、戦前の検閲制度を引き合いに出し、民主主義の根幹を揺るがす野蛮行為だと強い口調で非難している向きもあるようです。

しかし、このような「表現の自由」を盾に民主主義の根幹であると危機感を煽る報道には、教育現場にあるものとして釈然としません。
この「はだしのゲン」の閉架問題は、本当に「表現の自由」の問題でしょうか?


学校は、子どもたちの人格形成の場です。
そして、子どもたちは様々な価値観や情報に触れて成長していきます。

しかし、世の中のすべてのものが、子どもの健全育成に有益であるわけではありません。
表現の自由が保障された世間には、子どもの心身の発達に害を及ぼしかねない情報や価値観が散在しています。

その害を及ぼしかねない情報や価値観を子どもたちから遮断したり、(触れさせるにしても)発達段階に応じた適切な時期に、適切な方法で触れさせるように導くのは大人の責任です。

ですから、今回の閉架問題を議論するとすれば
「子どもの成長にとって有益なのか、それとも有害なのか」という一点です。
決して「表現の自由」などという無責任な議論であってはなりません。


その一点で「はだしのゲン」を見るときに大切な観点は以下の通りです。

〇 間違った事実や誇張された描写がないか
〇 極度に凄惨な状況描写がないか

これらの問題が多くあるのであれば、子どもの成長を害しかねません。
子どもたちは真実を見極める判断が不十分です。与えられた図書から読み取る内容は、すべて事実として受け止めてしまう傾向があります。
それでは、真実を見極めることができないばかりか、間違った事実を刷り込まれてしまう可能性があります。


そして、もう一点大切な視点は
〇 偏ったイデオロギーが全編を通して描写されていないか
という点です。

学校が公教育の場であり、中立的な教育で子どもを育てる義務があることを考えれば、これも大切な視点です。


再度言いますが、決して「はだしのゲン」という作品を否定しているわけではありません。
どの描写も、どの表現も、作者にとっては必要なものです。
そのことは、(我が国では)表現の自由で保障されています。

ただ、それが子どもの成長にどのような影響を及ぼすのかということを熟議しない限り、今回の問題はその本質が見えてきません。


子どもの健やかな成長のために
大人が責任ある選択と、決定をなすことを
政治的対立から躊躇する社会であってはなりません。



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vol.155  国防なくして教育なし  ~自衛隊と学校の絆~

自衛隊と学校の交流はできる

 

本校では、昨年度から防災教育に自衛隊の協力を得ています。

 

地元の陸上自衛隊普通科連隊に協力を願い、避難所体験の一環として(生徒の)テント張り体験で指導していただいたり、東日本大震災の災害派遣活動について、実際の写真を交えながら講話をしていただいたりしています。

 

学校に自衛隊を招くことに対しては、賛否両論が激しくなることを予想しましたが、結局は、校内はもちろん地域からもまったく否定的意見が聞こえてくることはありませんでした。

 

少し以前なら、偏ったイデオロギーを振りかざして

「人殺し(軍隊)を学校へ入れるとは何事か!」

と保護者だけでなく、日教組ら教職員組合や地域・市民団体などからも反対意見が続出したことでしょう。

 

しかし、現実には全くなかった。

その理由を考えたとき、東日本大震災での自衛隊員の献身的活動に触れないわけにはいきません。

彼らは被災地において数多くの命を救い、そして多くの遺体を回収しました。その中には、自らが被災し、家族を失った隊員もいたと言います。

 

来る日も来る日も遺体回収や生活道路復興など、過酷でつらい任務に就きながらも、温かい食事は被災者に回して、隊員たちは冷めた缶詰を食し、風呂も被災者優先で入らないなど、自らを犠牲にしても被災者のために活動するその姿は、被災地の多くの人々を助けただけではなく、その心まで癒して、勇気づけたのです。

 

 《自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる》

《国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ》

 

そういう彼らの思いは確実に国民の心深くに届き、自衛隊が学校に立ち入ることへの違和感や反感も一気に溶けてなくなってしまったのでしょう。

 

国防なくして 教育なし

 

学校では東日本大震災以降、自衛隊との距離が近くなったことを実感していますが、彼らの災害派遣活動だけがクローズアップされている感は否めません。

災害派遣は立派な任務なれど、彼らの主務は専守防衛…そう国防です。

 

しかし、学校で国防について教えることはまずありません。

国民の生命・財産などを守るという崇高な任務であるにもかかわらず、授業では国防という概念さえも(ほとんど)触れられることはありません。

戦後教育では、国防について教えることはタブー視されてきました。

 

しかし、家族を守り、愛する人を守ることと、国を守ることは同義であること、国防なくしては、人間らしく生きることさえできなくなることを教えないで、どうして子どもたちを「幸せ」にできると言えるのでしょうか。

 

拉致被害者救出に無関心なままで、「平和教育」にばかり熱心な戦後教育は既に破綻しようとしています。その欺瞞に子どもたちも気づいています。

国防とは、我が国の領土を守るだけでなく、国民の生命と財産はもちろんのこと、人間らしく生きる権利を守ることであるという本義と、国防には国民による多大な努力が必要なことを子どもたちにしっかりと教え、その崇高な任務に携わる自衛隊に尊敬の念を与えられる公教育であらねばなりません。

vol.154 「坂本竜馬に学ぶ本当の勇気」(中学生用道徳資料)

大津で起きた中学2年生の自殺事件。
地域は違えど同じ教育者としてなぜ防げなかったのかと、心から悔やまれます。

生徒たちは、現実に攻撃的な言葉をつかいます。
そして、表面的な指導だけでは改善していかない現実があります。

その内面に届く言葉を…との思いから、
以前に紹介した「坂本竜馬から学ぶ道徳心」を中学生用資料に書き直して、生徒たちに読み聞かせました。


道徳資料(中学生用)

「うっとうしい!」

「黙れ!」
「死ね!」

教室で、相手を攻撃するそんな罵声が飛び交っています。

些細なことで始まったいさかいの中で使われるこれらの言葉には、相手への尊敬や感謝などまったくありませんし、相手を気づかう優しさの微塵も含まれていません。

 

中学校にもなれば、これらの攻撃的な言葉をなぜ発してしまうのか…少し冷静になって考えてみなくてはなりません。

自分に自信がないので少しでも他人に自分をよく(強く)見せようとすることを「虚勢を張る」と言いますが、先ほどの攻撃的な言葉の裏側には、それを吐く人の人間的な弱さ、未熟さ、幼さが隠れています。


「ゆく春も 心やすげに見ゆるかな 

花なき里の 夕暮れの空」


この和歌は、みなさんもよく知っている我が国の英雄・坂本竜馬が、同志の桂小五郎(長州藩士)に揮毫を求められたときに書き贈ったものです

坂本竜馬は、新しい日本をつくるために薩長同盟を成しとげ、海援隊を組織して討幕運動に参加するなど旺盛な行動力と強い志を持った傑物ですが、
この歌からは竜馬の「国を憂える気概」や「人並外れた行動力」ばかりか、武士としての「勇ましさ」(竜馬は、剣術も免許皆伝の達人でした)さえ見えてきません。

竜馬の「自然を肌で感じとる優しさ」や「春の終わりへの悲哀さ」が詠み込まれているだけです。


では、なぜ竜馬は自分を誇示するような「勇ましい」和歌を小五郎に贈らなかったのでしょう?

 

新渡戸稲造は、著書「武士道」の中で、

「武士に和歌を詠むことが奨励されたのは、より優しい感情を表面にあらわし、その半面に勇ましさや情けとしての仁を内面に蓄えるためのものであった」と記しています。
そして、和歌に何気ない日常の様(季節の移り変わりや、自然の美しさなど)を詠み込む心は、武士にとって「平常心を保つ」訓練であり、
「平静さに裏打ちされた勇気」を練磨する道であったと書いています。

 

竜馬も、国事に奔走する激しさや不安に打ち勝つ勇気を内面に蓄えるために、平素から優しさや悲哀を歌に詠んでいたのでしょう。
だからこそ、命を賭けて国事に奔走できたのです。

 

このことは、

「本物の勇ましさ(勇気)とは、内面に優しさを持ってこそ形作られ」、「優しさを表面に表すことが真の勇気(強さ)をつくる鍛錬になる」

ということを私たちに教えてくれます。

やみくもに人や物を攻撃するのではなく、人や自然に優しく接することが、本当に勇気ある(強い)人間になることなのです。




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vol.153 学校と自衛隊の距離感 ~学校に自衛隊を受け入れよう!~

学校と自衛隊の距離感

 

戦後教育では、自衛隊は忌み嫌われてきました。

その理由は、「自衛隊は軍隊であり、その存在は憲法違反である」という日本国憲法92項を盾にした『自衛隊違憲論』がまかり通ってきたからです。

そして、それを日教組(日本教職員組合)や全教(全日本教職員組合)など政治的な偏向イデオロギーに染まった組合員が、授業をとおして忠実に子どもたちに教え込んできたのです。

 

以前にも書きましたが、最高裁は自衛隊そのものの合憲性の判断を下していませんが、50年以上前の安全保障に関る上告審で、

「憲法9条によって、わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と、米軍の駐留を含めて実質的な「自衛隊合憲論」を示しているように、『自衛隊違憲論』がいかに偏った思想であるかは明白です。

しかし、彼らは最高裁の判断や、多くの国民が自衛隊を支持している背景を完全に無視して、学校という密室で極少数論でしかない違憲論を教え込んでいたのです。

 

ですから、学校と自衛隊の距離感は一向に縮まらずに戦後60年以上が経過してきました。

しかし、昨年起きた東日本大震災以降その雰囲気が大きく変わりました。

災害派遣に赴いた全国の自衛隊の部隊の雄姿は、国民の誇りとなり、自衛隊への信頼となってわたしたちの心に刻み込まれたのです。

今後も起こるであろう大災害に際して、自衛隊抜きでの救難、復旧・復興はないことを全国民が認識したように、学校でも自衛隊抜きでの「防災教育」はあり得ないことを認識しました。

 

 

自衛隊から学ぶ「国防」意識


昨日、わたしの勤務する学校では防災教育の一環として「防災フェア」を開催し、生徒たちや保護者だけでなく、地域の人々とともに防災について学ぶ機会を持ちました。

海沿いにあって太平洋に面している本校では、防災教育はまさに「命を守る」教育です。

 

その協力団体のひとつとして、地元の陸上自衛隊普通科連隊を受け入れました。


被災地でも活躍した軽装甲機動車や人命救助システムなどの説明を受け、生徒たちは避難所としても活用された天幕(テント)設営を自衛官と一緒に体験したのです。


生徒たちにとって、制服姿や迷彩服姿で機敏に行動する隊員たちの姿はどう映ったのでしょうか?


偏向したイデオロギー抜きで自衛隊と出会い、隊員たちの爽やかな笑顔に触れただけでも、国民の安全と財産を守る自衛隊を肌で感じるよい機会となったことでしょう。

「国防」という概念を知らずとも、災害時のヒーローとして彼らを受け入れ、敬意をもって制服姿の自衛官と写真を撮りたい、握手をしたいと願う生徒たちの姿を、わたしたち国民はもっと知らなければならないでしょう。

 

 

このように、学校と自衛隊との距離感は確実に縮まろうとしています。

その証拠に、その準備段階から防災フェア当日にいたるまで、教職員はもちろんですが、地域の人々や保護者から自衛隊参加への反対意見はただのひとつもありませんでした。

 

これからは、国民として育ちゆく中学生たちに、自衛隊の災害派遣だけをクローズアップするのではなく、浅はかな『自衛隊違憲論』などに振り回されないで「国防」や「国際貢献」についてしっかりと考える力を育てていかなければなりません。


もちろんそのためには、生徒の心の内に「我が国や郷土を愛する心」を育むことを忘れてはならないと思います。





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vol.152 寛仁殿下とともに闘った男子バレーボール 日本人の心がそこにあった

バレーボールのオリンピック最終予選が終わりました。
残念ながら男子はオリンピックへの参加資格を手にできませんでした。

しかし、その闘いの中で多く日本人が心を揺さぶられました。
それは、選手・監督が身に着けていた小さな喪章です。
(写真 時事通信 6月10日付)
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皇位継承順位第6位で、今上陛下の従弟にあたられる寛仁親王殿下が薨去された後のことです。
日本を代表して闘う彼らの身には、小さいながらも喪章がありました。
選手たちのユニフォームの国旗(日の丸)の横に着けられていたのです。

彼らの身にある喪章は、まさに皇室とともにある私たち日本人の心を示していました。

大手マスメディアは、殿下の薨去を大きく報道することもなく、ご生前のご活躍さえ十分に国民に伝えることはありません。
有名芸能人が死去すると特番を組んでまで報道をくり返すのに、今回は私の住む地域では特番が放送されることはありませんでした。

あえて皇室に列する皇族方の薨去を無視するかのような報道姿勢には、日本人として甚だ疑問を感じます。


そんな中で喪章を身に着けて、弔意を胸に世界と闘う男子バレーボールの選手・監督の姿は、私たち日本人の心を、皇室との絆を世界中に示したのです。

わたしたち日本人は、心の奥深く皇室を慕い、皇室とともに生きています。
そして、世界最古の皇室を心から誇りに思っています。
その姿を世界に示した彼らの姿に多くの日本人が感動したのです。

戦後教育は、戦前の教育を否定することで国民と皇室との距離を意図的に拡げてきました。
日教組を中心として「皇室を敬うことが、戦禍を繰り返すことになる」と教えてきたのです。
そして、未だ学校では歴史上の天皇や上皇のことを教えても、今上陛下や現在の皇室の方々のことについて教え、敬愛の念を育むことはタブー視されています。
タブー視する法的根拠は全くないのにです。

しかし、わたしたち日本人の内には、神話から続く皇室との2000年を超える深い絆の歴史があります。
それは、DNAとして日本人の内に確実に息づいています。
わずか70年足らずの戦後教育で、消え去ることはできません。

子どもたちには、彼らNipponチームの日本人としての雄姿と心意気を、きっと目に焼き付けておいてほしいと願います。



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vol.151 和歌に宿る日本人の公平性を、子どもたちに教えよう!

和歌は我が国固有の文化であり、1000年をゆうに超える歴史を宿しています。


その中でもっとも古い文献はご存じのとおり「万葉集」であり、短歌・長歌合わせて
4,500首が収められた世界最古の詩集です。


しかし、万葉集の稀有さは、その古さばかりにあるのではありません。


万葉集に収められた歌い手を見てみると、上皇や皇族、貴族はもちろんですが、防人(軍人)や農民、歌い手が分からないものまで大変多様で身分の別はありません。

また、男女ともに素晴らしい歌が収められており、その別もありません。

そして、歌は畿内(大和地方)に限らず、東国、九州など日本各地から集められており、地域の別もないのです。


これこそが、信じがたい奇跡です。

なぜなら、撰者は大伴家持など朝廷において重要な位置を占める貴族です。


国家的事業として宮廷文化を誇るためならば、宮廷にかかわる高貴な人物の歌だけを集めればよいのです。
むしろ、そうすることが、世界の宮廷文化では自然でしょう。

なにも庶民の歌などに耳を貸す必要はないのです。



このことについて、上智大学名誉教授の渡部昇一先生は

「一つの国民が国家的なことに参加できるという制度は、近代の選挙の拡大で現れたと考えるのが普通である。選挙に一般庶民が参加できるようになったのは新しいことであるし、女性が参加できるようになったのはさらに新しい。しかしわが国においては、千数百年前から、和歌の前には万人平等という思想があった」とその著書『日本史から見た日本人 古代編』で述べられています。


わたしたちは、このような古代日本人の公平性をもっと誇るべきです。

そして、その血が現代の私たちに流れていることを知るべきです。


しかし、現代の公教育では万葉集の存在を教えても、こういった視点を生徒たちに与えることはありません。

中学校の歴史の教科書には、

「から衣 すそに取り付き 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして (防人の歌)」という、遠方(九州)の任務に出向く防人の歌が載せられています。


この歌は親心の深さを歌った素晴らしいものですが、勅撰とも言われる国家的事業の和歌集に、名もなき防人の歌を撰んだ和歌文化の公平さが生徒たちに語られることはありません。

遠方に任務として防人を送るのは、皇室を中心とした貴族社会です。

取りようによっては、この歌は社会の不条理さを非難する意味さえも込められています。


このように、宮廷社会への非難さえ公平に後の世に残そうとした日本人の清らかさを、子どもたちにしっかりと教えなければなりません。

この文化の公平性こそが、世界に誇れる我が国の伝統なのです。



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vol.150 国旗・国歌の授業に使われる偏向した生徒用資料「学校現場からレポートする」

偏向した「生徒用資料」

 第二次世界大戦中の1942年ウエストバージニア州の教育委員会は、公立学校で国旗敬礼を義務付け、これに従わないものを罰するという規則を作りました。しかし、バーネット家の人々は、宗教上の理由で国旗への敬礼が聖書の禁じる偶像崇拝にあたると考え、国旗敬礼を拒みました。この結果、子どもたちは退学処分を受けました。

 1943年連邦最高裁は、バーネット家の主張を認め「国旗に対する敬礼や忠誠を強要しようとする地方教育当局の行為は、自らの権限の限界を超えるものである。しかも、あらゆる公の統制から留保されるべき憲法修正第一条の目的である知性と精神の領域を侵している」として教育委員会の規制を憲法違反としました。

 判決では、いかなる公務員も政治やナショナリズム、宗教、その他の意見において、何が正当であるかを決めたり、もしくはそれに関して市民が自らの信念を著作や行為によって表現するのを抑制することはできない、と述べています。

さらに判決は、「強制的に反対を除去しはじめる人々は、やがて反対者を絶滅させようとしていることに気づく。意見の強制的な統一は墓場への統一をもたらすにすぎない。」と述べています。(誤字脱字、意味のつながらない箇所は私が訂正しました)

 

これは、前volで報告した「国旗・国歌の授業にさいしての注意事項」と一緒に、教員に配付された生徒用資料です。

その目的はもちろん、この資料を使用して授業をするためです。

 

米国「国旗規則」

米国では、ウエストバージニア州が国旗敬礼を義務づけた同年、「国旗にかんする規則」を下院で採択(合衆国法典第4編第1章「旗」第1条「星条旗」)し、「忠誠の誓い」を公式な国家への宣誓と認めることを同年622日公式決定、公式行事の際には国旗敬礼とともに宣誓文を暗唱することとしました。

 

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

 (私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います)

 

そして、国旗敬礼の礼儀として「忠誠の誓いは合衆国国旗に顔を向け、右手を左胸の上に置き、起立して暗誦しなければならない。私服の場合は、宗教的な物を除くいかなる帽子も取り去り、左胸の上に置かれた右手で左肩の上に掲げなければならない。軍服を着ている場合は無言のまま国旗に顔を向け、軍隊式の敬礼を行う」ことが定められました。

米国では、この礼儀(厳密には法律ではないので、罰則規定はない)は現代でも大切にされ、公式行事や学校などでは今でも国旗敬礼とともに「忠誠の誓い」を暗唱しています。

 

このような連邦議会による「国旗敬礼」制度化の経緯があって、ウエストバージニア州の教育委員会は公立学校で義務付けました。

後に、連邦最高裁がこの規則を違憲としたのは、「宗教的理由から拒否をした子どもに(退学という)罰則を与えるという行為」が州の権限を超越したと判断されたからです。

そして、違憲の根拠のひとつとされた修正憲法第一条は、政府による国民の宗教上の行為、報道、集会などの自由を奪うような法律制定を禁止しているもので、決して国旗敬礼そのものを否定しているものではありません。

 

もし、この当時の最高裁が国旗敬礼そのものを違憲と判断したのならば、現代米国において国旗敬礼とともに「忠誠の誓い」をしたりはしないでしょう。

また、「宗教的な物を除くいかなる帽子も取り去り」、「起立して暗唱しなければならない」と国旗規則にあるように、宗教的理由に寛容な現代米国でも、許す範囲で国旗敬礼を国民に求めていることをこの生徒用資料は書いていません。

 

不都合を隠蔽した資料

今日紹介した資料は、自分たちに都合のよい部分だけを取り出し、「国旗敬礼の強制は違憲判決が出ている」という事実を強調して、「米国では国旗敬礼そのものが否定されているか」のようなイメージ操作をしているものです。

そして、国旗・国歌斉唱不起立は、日本国憲法が保障する「個人の思想・信条の自由」によって許される行為であり、生徒だけでなく何人(教員)にも不起立の自由があるというイメージを作り上げようとする資料です。

 

明らかに、反国旗・国歌の思想を持った教員らが作り上げた資料であることは間違いありません。(今回、教員に配付された資料の出所は判然としませんが、日本共産党のHPには同様の記事が掲載されています。)

おそらく日教組や全教(全日本教職員組合)など反日組合が教育を支配する地域では、同様の資料が出回り、授業が行われているはずです。

彼らは、全国で反日運動(闘争)を展開しますから、一地域の問題ではすみません。

 

もしこの資料だけで国旗・国歌について指導し、国旗敬礼に対して間違った印象を植え付けているとすれば、それは許すことのできない偏向教育以外の何物でもありません。




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