国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

vol.149 学校で骨抜きにされる国旗・国歌 「教師として、その現実をレポートする」

教育現場で骨抜きにされる国旗・国歌

本校でも卒業式が行われました。
生徒とともに国旗が飾られた会場で国歌を歌い、静寂の中にも厳かな式典が挙行できました。
巣立ちゆく、教え子らの未来に幸多からんことを心から願います。


ところで、友人の勤務する中学校で職員に配付された【卒業式(国旗・国歌)についての授業への注意点】という資料があります。

〇 自国の国旗や国歌についてはもちろんのこと、他国の国旗・国歌も含め、敬意を表す姿勢で臨むことが大切であることを理解させる。

以上のような目的が記されたのちに、3項目の「指導するさいに注意点として」という付記があります。

(1)近隣諸国の中には日本に占領支配を受けたことで、日の丸や君が代は日本の侵略の象徴であったととらえ、不快感をもつ人がいること(歴史的事実の認識)
(2)日の丸、君が代は、宗教上の理由や思想、信条、そのほかの様々な理由によって国旗や国歌への敬意が払えないという人たちがいること 
(3)「思想、信条の自由」は憲法上保障されており、国民が生活する上においてすべての基本になっており、何人もこれをおかすことはできないこと
以上を理解させる、という内容です。(句読点、誤字脱字など、読みづらい表現は訂正しました)

これらの「注意点」なる項目がいかに偏った思想に基づいているか、皆さんはお分かりでしょう。
項目ごとにその偏向思想を整理すると、
(1) 特定の近隣諸国にだけ配慮した誤った歴史認識、自虐史観
(2) 国旗・国歌へ敬意を払わないことへの肯定的態度
(3) 学校や公式の場での国旗・国歌強要反対の思想
(共通) 日の丸・君が代と呼び、国旗・国歌として認められていないかのように思わせる
といったところでしょう。

このような偏った思想が、「指導するさいの注意点」として公立中学校の教職員に配付されているのです。

仮に、この注意点に忠実に指導したとすれば、
「自国の国旗や国歌についてはもちろんのこと、他国の国旗・国歌も含め、敬意を表す姿勢で臨むことが大切であることを理解させる。」という、目的が果たせないことは教育のプロでなくとも安易に分ります。

その結果は、「日の丸・君が代は国旗・国歌としてはふさわしくなく、近隣諸国に不快感を与えるばかりか、それを強要することは、憲法で保障された権利を侵すことになる。だから、生徒のみんなも敬意を表す必要はない」という、法律を無視した偏向教育がなされることでしょう。
特に、(2)、(3)と2項目に渡って教えようとしているのは、「(教師であっても)国旗・国歌に敬意を払わない自由があり、それは憲法上保障されている」という誤った認識です。
大阪や東京の同志を救おうとでもいうのでしょうか?
すでに最高裁で判例が出ているにもかかわらず、未だその法の趣旨にのっとらず子どもたちを洗脳しようとする意図が見えています。

そして、この資料が何より悪質なのは、文頭にきれいごとのように目的を掲げておいて、【注意点】として、それを骨抜きにする手段を挙げていることです。
このような悪質な教育を、国民から負託を受ける公教育がしてよいはずはありません。
しかし、これが公教育の現実でもあり、そうやって法を踏みにじった教育を平気で行おうとする勢力が存在するのです。

わたしたちは、断固としてそういった勢力と闘わなければなりません。


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vol.148 早大入試で「教育に国旗・国歌の強制ふさわしくない」との問題文。その主張を検証する

私立の名門、早稲田大学法学部が先月実施した入学試験の問題に、
「学校行事での国歌斉唱時の起立強制はふさわしくない」
「日の丸・君が代が戦前の日本の軍国主義下でのシンボルと考える人々にとっては、君が代に敬意を払えという命令は自己の思想に反すると感じられる」
「教育には強制はふさわしくないのではなかろうか」
「学校の式典で日の丸を掲揚し君が代を斉唱することは、それを通じて国家への敬愛の念を抱かせようとするものであり、教育には似つかわしくない」
などと記述する偏向した出題文があったようです。(MSNニュースより)


すでに最高裁では、国歌斉唱時の起立を求める職務命令は合憲であり、戒告までの処分も妥当であると判断しています。
それにもかかわらず、(いくら私立大学とは言え)このような偏向した出題文には大いなる怒りと疑問が残ります。
入学選考の段階から、思想的に洗脳しようとしていると言われてもいたしかたない行為ですし、国民から非難されて当然です。


ところで、早稲田大学の問題文の主張に正当性はあるのでしょうか?
本当に教育に強制はふさわしくないのでしょうか?


そもそも、家庭や学校で行われる教育とは、ある一定の強制を含む行為です。
例えば、教室で『席に着く』、『姿勢を正す』、『問題を解く』といった行為そのものは、子どもたちの意思に反することばかりだと言っても過言ではありません。

それを生徒に負担に感じさせないように工夫したり、
最終的に(強制ではなく)自分の意思で行動できるように育てることが『教育』ですが、入口においては強制性があってこそ教育が成り立つのです。

ですから、教育から『強制』性をすべて取り除くことなどできませんし、基礎・基本を作り上げる時期においては、『強制』の比率が相対的に高くなります。

愛国心(我が国を愛する心)においても同様のことが言えるでしょう。
まずは、型としてのマナーをしっかりと身に着けさせることが、真の愛国心を育むことになります。
普段の教育では、あらゆる「強制」「押し付け」をしているにもかかわらず、このときだけ「強制はふさわしくない」というのは詭弁以外の何物でもありません。

将来的に、自分自身と国家との距離を決めるのはもちろん生徒自身です。
しかし、まずは、日本人として国旗・国歌を大切にするマナー、祖国を愛する心を型として身に着けさせることが必要です。
そのためには、その指導者たる教員が身をもって手本となる必要があります。


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vol.147 「我が国を愛する態度を育てる」 道徳の目標に込める安倍内閣・教育基本法改正への思い

学校では、年度末に来年度の「教育計画」を作成します。来年度はちょうど「新学習指導要領」が中学校で完全実施される年ですので、本校でも作業を急いでいるところです。

 

そんな中、わたしは、本校の道徳教育をゼロベースで見直し、来年度の道徳教育の計画を作成しています。

その作業の中で、本校の道徳教育の目標を次の4点としました。

 

①人間尊重の精神と生命や自然に対する畏敬の念を育てる

②自己の将来をしっかりと考えて社会形成に意欲的に参加するとともに、公共の精神を尊び、法やきまりを遵守する姿勢を育てる

③他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し、未来を拓く主体性のある日本人を育成する

④伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土 
を愛する態度を育てる

 

これらの目標は、学習指導要領に則って作成します。

みていただければ分かるように、学習指導要領にきちんと則って目標を立てれば、道徳教育とは、
「公共の精神を尊ぶ心」
「我が国や郷土を愛する心」
「主体性ある日本人」
「伝統と文化の尊重」
など、まさに『誇り高き日本人』を育てる教育そのものです。

 

そして、この目標を、より具体的にして「学年の重点目標」を作成します。

例えば、
私の創った中学校3年生の重点目標の一つは、

「地域社会の一員であること,日本人であることの自覚をもって郷土や国を愛し,郷土と国家の発展に努めるとともに,世界の平和と人類の幸福に貢献する態度を育てる」
です。

 

 

来年度から実施される新学習指導要領は、平成18年に「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍内閣によって改正された教育基本法の精神を具現化したものです。

日教組は、戦後長年にわたって道徳教育を徹底して排除し、教育基本法の改正のときも、「改正」を「改悪」と呼び換えて、強硬に反対しました。
その理由は、私の作成した目標を見て頂ければ一目瞭然でしょう。

そこには、彼らが推進する「反日教育」の一かけらもありません。
この道徳教育が本当に進められれば、彼らの進めてきた「反日教育」は、学校現場から駆逐されるのです。
 

 

我が国の公教育を立て直すし、教育基本法の精神を全うするには、教育の実践者である教師が着実な実践を重ねて、「教育の根幹」を正していく他はありません。


しかし、日教組らは、法の精神をあえて歪曲し、実践を捻じ曲げることで抵抗を続けます。

簡単に言えば、学校に目標ができたとしても、道徳の授業をしなければよいのです。

そうすれば、新教育基本法の精神はまったく絵空事になって、骨抜きになってしまいます。

それが、日教組ら反日勢力の手口です。

 

それを阻止して、授業の実践をつみあげることができるのも、実践者である教員一人ひとりです。



どうか、日本全国の学校で、道徳教育がその目的を果たせるように、地道な取り組みがなされんことを願います。




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vol.146 「13歳からの道徳教科書」(育鵬社)で、日本の道徳教育が変わる!

211日の建国記念の日。

この国民の祝日に、育鵬社(扶桑社の教科書事業を継承する)から一冊の本が発売されました。

13歳からの道徳教科書」(道徳教育をすすめる有識者の会・編)がそれです。



形骸化する道徳教育 

戦後教育の中で、もっとも重要であるにも関わらず、日教組に徹底して反対され、骨抜きにされて形骸化してきたのが道徳教育です。

学習指導要領では、年間35時間(週1時間)分の道徳の授業をすることになっていますが、実際の教育現場では完全実施せずに、その一部や全てを席替えや班活動、話し合いなどの学級活動や、人権教育などに費やしているところが多くあります。

長年、道徳教育反対闘争を繰り広げてきた日教組や、全教(全日本教職員組合)など左翼組合が強い地域ではなおさらです。

 

授業時数さえ順守されないのにはいくつかの理由がありますが、一番大きな理由は、道徳が教科でないことにあります。

教科ではないということは、生徒の評価もせず、他の教科(国語や数学)のように専門的に指導する教師がいないということです。

もちろん、国の検定を受けた教科書さえないのです。

ですから、意図的にやらない勢力がいるだけでなく、他にやらなければならないことがあればやらなくてもよい…といった誤った認識に現場が陥りやすいのです。



日本人の矜持を育てる「道徳教育」 

そんな中で、今回発売された「13歳からの道徳教科書」は、あえて「教科書」という語句を使っています。

そこには、道徳教育の重要さを認識しない学校現場や組合への強い警鐘が含まれています。

 

出版元の育鵬社のHPには、この「13歳からの道徳教科書」を学校現場ですぐに活用できるように指導案が掲載http://www.ikuhosha.co.jp/public/065522_shidou.htmlされています。


この指導案は、中学校現場の教師や大学関係者などが立案しており、
私も数編分の指導案を作成して掲載させていただいています。

 

その指導案を作成するときに、わたしが最も重要視したのは、授業を通して「徳目」を学ばせるだけでなく、日本人としての「矜持」を育てることです。


自虐史観が横行する教育現場の中で、日本の子どもたちは「元気」を失っています。

 そして、身近に生き方の手本を示してくれる大人がおらず、どう生きていいのか、将来の展望や夢が持てずに悩み、苦しんでいます。

 

その中学生たちに、我が国の先人たちの素晴らしい生き方から「徳目」を学ばせながら、日本人としての誇りを育み、いかなる困難にも立ち向かう覚悟を持った強い日本人に育てたいと願い、指導案を立案しました。

今後、書店にも並ぶかと思いますので、ぜひご一読ください。

 

教科書の内容については、今後紹介します。



美しい日本人の心を育てる教育を
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vol.145 中学校で『百人斬り』授業を報告する日教組。教育者の良心さえ持たぬのか?

先日、富山県で開かれた日教組の教研全国集会で、驚きの授業実践が報告されました。

(詳しくは、MSN産経ニュース 『中学授業で「百人斬り」 自虐的教育を報告 日教組教研集会』でご確認ください。)

 

紙面にもあるように、「百人斬り」とは、東京日日新聞(現毎日新聞)が昭和12年に掲載した記事で、旧日本軍の元少尉2人のどちらが先に日本刀で(中国人を)百人斬れるか競争をしたというものです。

当時から、その内容には疑念が持たれていたようですが、後に報道に立ち会った元カメラマンが「戦意高揚のための記事で、あり得ない話だ」と証言していますし、毎日新聞そのものが、平成元年に発行した「昭和史全記録」で「事実無根」と否定している偽りの報道記事です。

 

それを授業に使用したというのですから、もはや教育とは呼べません。

 

私たち教師が授業をする際には、使用する題材(教材)が、「真実」であることに細心の注意を払います。

現代の新聞記事でも、真偽の確認が曖昧なものや記者や新聞社の私見が強いもの、政治色が濃厚な記事は極力使わない、という不文律があります。

 

にもかかわらず、教科書にも載らず、すでに虚偽だと判明している新聞記事を教材にして教えることは、教師としての良心ばかりか、教育者としての資格を問われる愚劣な行為です。

そして、嘘の犠牲になるのは真実を知ることを阻害され、心さえも歪められてしまう子どもたちですから、教師失格の烙印を押されても仕方ないほどの悪質極まりない蛮行で、もはやその実践者を教育者とは呼べません。

 

 

そして、私たち国民がもう一つ見落としてはならないのは、この実践が全国から数千名もの日教組組合員(教職員)が集結して開催される教研全国集会で報告されたということです。

この報告がされたのはおそらく分科会でしょうが、その会場にも多くの教育のプロであるはずの教職員が集まっていたのです。

その中で、このような教育とすら呼べない実践が誇らしげに報告されていく…としたら、この異常さには恐怖さえ感じます。

 

わたしは日教組の組合員ではなくこの集会に立ち入ることはできませんから、真実の程は窺い知れませんが、多くの教師がいても誰一人として「百人斬り」は虚偽報道だと指摘する程度の良心さえ、持ち合わせていなかったのでしょうか?

 

いくばくかの『教師としての良心、常識』を持ち合わせていれば、他にも指摘しなければならないことは多々あったはずです。


例えば、この実践は

○「百人斬り」とされた故両少尉への名誉棄損ではないのか?

○ 両少尉のご遺族への人権侵害ではないのか?

○ 虚偽の事実を、故意に教え込まれた子どもたちの学習権を侵害していないか?また、心身ともに健全に成長する権利を侵していないか?

○ 祖国の歴史や、日本人であることに誇りを持てなくなった子どもたちの心の傷に対して、賠償責任は発生しないのか?

など、まともな教師であれば、いくらでもあるはずです。

 

それを安穏として受け入れるだけでなく、共感しているとすればもはや彼らは教師ではありません。

 

同じ教育者としてこのような蛮行と、それを是とする日本教職員組合(日教組)の不見識な集会開催を強く非難します。


 


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vol.144 天使の声(南三陸町)道徳教材化にあがる非難の声に反論する。

拙ブログvol.111 震災から学ぶ道徳授業「責任をまっとうする」でも、道徳教材として紹介した遠藤未希さん(南三陸町で防災庁舎から避難を呼びかけ続け、命を落とした同町職員)の話が、埼玉県によって道徳用教材として作成され、埼玉県内の小中学校1230校で4月から授業で使用されることになりました。

 

東日本大震災で見せた日本人の道徳性の高さは、世界から賞賛されましたが、

その中でも、最後の最後まで自分の責任をまっとうした遠藤未希さんの姿は、日本だけでなく、世界の人々にも大きな感銘を与えました。

この話を一人でも多くの日本の子どもたちに知ってほしいと願っている私としては、とても嬉しいことです。

 

しかし、道徳教材にすることには反対の声も挙がっています。

例えば、あるコミュニティーサイトでも、

「人の死を好き勝手に美談にするな。子どもに歪んだ自己犠牲を教え込むのは戦前教育と同じ。」

「こういうものを子供に押し付けるべきではない。授業をする先生によっては他人を守るためなら死ぬことは正義だと生徒に伝わってしまうかもしれない。」

「ご本人も死にたくはなかったし自分が死ぬとは思ってもなかったはず。犠牲になられた方たちに優劣をつけるようで気に入らない。他にも職務を全うしようと亡くなられた人も大勢おられよう。日本人はすぐこうやって美化して反省することをしないから原発事故なんて起こす。」

といった意見も多くあるのです。

 

これらの意見については、道徳教材化して授業実践をした一人として、きちんと整理して反論しておきます。

 

まず、私が子どもたちに伝えようとしているのは、彼女の強い責任感とその行動です。

そして、勇気ある遠藤さんの声で、多くの命が救われたという事実です。

決して遠藤さんの死そのものを美化しているわけではありませんが、命を懸けてまでも全うした責任が多くの人の命を救ったという、その行動の崇高さは誰もが認める厳然たる事実です。

 

次に、「彼女は死を覚悟して放送していたのではない」という指摘についてです。

そう指摘する人々は、彼女が死に至ったのは、防災対策の不備のせいで逃げ遅れたからであって他者のために命を捧げようとしたのではない、と言いたいのです。

そこには、「そんな崇高な人間などいるはずがない…。」という、自己中心的な偏った人間観が垣間見えます。

故人の思いですから想像するしかありませんが、彼女も自らが命を落とすとは想像していなかったのかも知れませんし、愛する人や家族の為にも生きたかったことでしょう。

しかし、同僚や上司が避難を促しても、津波の到来ギリギリまで放送をし続けた…その尊い行動の奥底には、死をも超越した強い責任感と使命感があったことは間違いありません。

その尊い行動が私たちに感動を与えるのです。

彼女が、死を覚悟していたか否か…そんな議論は、彼女の崇高な行動の前では無意味です。

 

最後に、この震災で、遠藤さんのように強い責任感と使命感から命を落とされた方々がたくさんいらっしゃいます。

もちろん、その方々の犠牲ばかりか、全ての犠牲に優劣はありません。

だからといって、「遠藤さんのことばかりを道徳教材にしてしまっては、犠牲に優劣がつき、不平等だ」ということにはなりません。

むしろ、その逆です。

遠藤さんだけでなく、命に代えて責任を全うされた方々の勇気ある行動がたくさんあったことを、日本の子どもたちに伝えていかなければならないのが、残された私たちの責務ですし、犠牲になられた方々のことを、家庭で、地域で、我が国全体で語り継いでいかなくてはなりません。

 

 

戦後教育は、長い間、道徳教育を否定してきました。

「命は地球よりも重い」のだと呪文のように唱え、それ以外の価値観を否定してきたのです。

 

しかし、命の重さに優劣はありませんが、「生き方」には優劣があります。

そして、ときには命を超える価値観があることもひとつの事実です。

自分が人間としてどう生きるべきか、(そしてどう死ぬべきか)という問いから、私たちは逃れることはできません。

しかし、この問いは一生をかけても導き出せないのも事実です。

だからこそ、その基礎・基本を学ぶ道徳教育が必要ですし、遠藤さんの生きざまは、子どもたちに多くの感動と、世界から賞賛された日本人としての生き方の指針を示してくれるのです。


今こそ、雑音に耳を奪われず、子どもたちに日本人としての生き方をしっかりと教えなければなりません。 

 

遠藤さんを始め、犠牲になられた方々のご冥福を、改めて、心からお祈り申し上げます。



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vol.143 我が国では、「祖国」という概念が自然発生的である、その理由。

以前、twitter上で、

「(略)。子どもたちの心の中には、祖国を愛する気持ちが溢れている。なぜなら、それが本能ですから。」

という、わたしの呟きに対して、

「祖国という概念は、自然発生しないし本能ではない。それを言うなら郷里と家族のことだ」という指摘をもらいました。

 

確かに、「クニ」という概念を狭義の近代国家というとらえ方をすれば、「祖国」という概念は自然発生的ではありません。

世界の近代国家の中には、文化の違う多民族が集った国家が多く存在しますし、建国の歴史が浅い国や、国家としての歴史が断絶している国も数多くあります。

こういった国々では、「クニ」そのものが人工的ですから、無論「祖国」という概念も人工的であり、作為的です。

 

しかし、わたしたちの祖国「日本」は違います。

わたしたち日本人は、生活習慣や文化だけでなく、建国以来2000年以上の歴史を共有し、同じ言語(日本語)で話し、ほぼ同じ価値観を抱いて社会を構築しています。

そして、その社会には、文化と歴史に裏付けられた国民相互の「信頼」関係が存在し、言葉にしなくとも暗黙の了解、「阿吽(あうん)の呼吸」で意思疎通を図りながら、生活が営なまれています。

 

この「阿吽の生活圏」の範囲が、わたしたちの「クニ」そのものです。

ですから、私たちの家庭や郷里は、地続きに「日本」という国家(クニ)につながっており、家庭や郷里と「クニ」をほぼ重ね合わせることができる、世界でも稀有な国家です。

そういった意味で、我が国の「祖国」という概念は、「家族」や「故郷」のように自然発生的で、本能的であると言えるのです。

 

我国を「近代国家」という、人工的な色眼鏡だけでみていたのでは、本当の姿は見えてきません。

その姿の素晴らしさを子どもたちに教え、「祖国」を愛する心を育てたいものです。





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vol.142 日の丸・君が代は、戦争遂行の道具だったのではなく、アジアの希望だったのです。

かつて教育現場を混乱に陥れた、日教組による「日の丸・君が代反対闘争」で、組合員らは「戦争の道具となった日の丸・君が代を国旗・国歌として認めることはできない」と主張しました。

 

はたして、彼らの言うように、

国旗「日の丸」と国歌「君が代」は、戦争遂行の道具となったのでしょうか?

 

この疑問そのものが「戦争=悪」「大東亜戦争=侵略戦争」という、GHQによって作られた戦後教育の構図そのものですから、答えるに値しない愚問ですが、考えてみましょう。

 


先の戦時下において、日の丸は我が国を象徴する旗として、国民ばかりか占領地の人々の手で振られましたし、軍隊の所属を表すために戦場でも使用されました。

また、君が代は、我が国象徴の歌として、国内外の様々な場面、場所で歌われました。

もちろん、多くの戦場や占領地でも歌われたことでしょう。

 

しかし、この事実をもって、戦争遂行の道具となったというのは、反日イデオロギーに染まった狂った見方です。


国旗・国歌は、常に国民の営みとともにあるのですから、戦争に利用されたのではなく、先の大戦をずっと見守り、日本人に勇気と希望をあたえてきたのです。

 

そして、「我が国の独立」と「アジアの開放」という、大義の御旗を振って聖戦を闘った日本人にとって、
戦場や占領地の空にはためき、響き渡った日の丸・君が代は、西洋諸国の覇権主義に挑んだ祖国の象徴として、世界に誇れる国旗、国歌であったことは間違いないでしょう。

 

さらに、日本人だけでなく、西洋諸国によって数世紀に渡って虐げられ、搾取されてきたアジア諸民族にとっても希望の旗・歌であったのです。

 

狂った国旗・国歌観に惑わされず、誇りと真実を子どもたちに正確に教え、さまざまな場面で堂々と国歌(君が代)を歌い、国旗(日の丸)に身を正せる大人に育てなければならないと思います。




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vol.141 国歌不起立教員のコメントにもの申す! 最高裁判決

さて、1月16日に最高裁において、国歌斉唱時の不起立による減給処分を取り消された原告(61)は
「昨年3月の高裁判決をみんなで勝ち取った力が今回の勝利につながった。子どもたちや保護者、私たちの手に教育の自由を取り返すまで頑張りたい。」とコメントしました。

 

また、過去に国旗を引き下ろしたことなどが影響して処分が取り消されなかった元教員は、未だ「式典で日の丸を下したのは妨害行為ではなく子どもたちへの教育行為だと思っている」とコメントしています。

 

子どもたちや保護者が、まるで自分たちの行為を支持しているかのような言葉や、自分の為でなく子どもたちや教育のためにやったと開きなおる姿は、同じく教職につくものとして大いに疑問です。

 

多くの国民は、我が国の国旗・国歌を支持していますし、どの国の国旗にも敬意を払い、どの国の国歌が流れても起立・脱帽するという程度の常識的なマナーは持ち合わせています。

 

当然、卒業式の国歌斉唱の際にはほとんどの参列者が起立しています。

それは、子どもたちも保護者も例外ではありません。

それにもかかわらず、自分の偏ったイデオロギーを振りかざし教育現場を混乱させるだけの愚行を、子どもたちや保護者たちはもちろん、同職にある我々も決して指示などしていません。

 

それに、最高裁は処分の内容を取り消した(実際は軽減)のであって、不起立を認めたわけではありません。それを、まるで自分たちの勝利のように着色してコメントする悪質さを許すことはできません。

 

彼らの言う「教育の自由」などとは全く関係なく、公教育を担うものとしての常識、教育公務員としての職責、そして日本国民としての最低限のマナーが問われているだけなのです。

 

「祖国を踏みにじるものが、若者の教育者であってはならない。」


ただ、それだけのことです。




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vol.140 靖国放火事件に思う。日本人の忘れ物がそこにある

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昨日の1226日午前45分ころ。

東京九段北にある靖国神社の「神門」が放火されました。

幸いにも警備員らによって早期消化されて大事に至りませんでしたが、何とも心が痛む事件でした。

 

twitter上では犯行声明が流れていたとの情報もあるようですが、その真偽はともかくとして、警察の徹底捜査による被疑者の検挙と厳正なる処分を期待します。

 

 

ところで、靖国神社は明治2年に明治維新において命を捧げた人々の霊をなぐさめるために建てられた東京招魂社を前身として現在まで続いている社です。

 

我国の 為をつくせる人々の 名もむさし野に
    とむる 玉かき(明治
7
年 明治天皇御製)

 

明治天皇もお詠みになられているように、靖国の玉かき(神社・神域との境の垣根のこと)の奥には、我国のために命を捧げられた2466千余柱の英霊が護国の神として祀られています。

今回の行為は、これら250万余柱の英霊の想いばかりか、幕末以降の「日本人の歴史」を侮辱する蛮行であると断罪しなければなりません。

 

 

この年の この日にもまた 靖国の 
      みやしろのことに うれひはふかし
(昭和61815日 昭和天皇御製)

 

この御製が作られた前年に靖国神社を公式参拝した中曽根首相(当時)は、その後に起こった中国からの「靖国神社参拝阻止」の外圧と、それに同調したマスコミによる内圧に敗れ、この年の公式参拝断念を余儀なくされました。

その状況をお憂いになられた昭和天皇が詠まれた歌です。

 

あれから20有余年、未だ我が国民(政府)は、靖国神社に対する外圧による内政干渉やマスコミが作り出す内圧に屈したままです。

昨年は終戦記念日に閣僚が誰一人参拝しない体たらくですし、先日は与党政調会長がA級戦犯分祠に言及するなど、国民・政治家の無知・無関心は進む一方です。


そんなことですから、今回のような不届きな犯罪行為が起きてしまうのです。

 

今こそ、わたしたちは靖国に祀られる英霊の御心に触れ、私たち日本人が命を懸けて守ろうとしてきたものを再確認して、まずは私たち日本人が靖国神社を大切に想う必要があるのです。
そう、それこそが日本人の忘れ物です。


 

そして、学校でも、子どもたちに靖国神社とそこに祀られる英霊の神聖さや崇高さを教えなければなりません。

 

それが、真の日本人を育てるためにはどうしても必要な教育です。




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