指導案には、どの教員がこの授業を教えるのか書く項目があります。それはそれで必要なのですが、その項目に「指導者」ではなく、「支援者」と書かれていたのです。
これは、何を意味するのかお分かりでしょうか?
一般的に見ると「指導」と「支援」に大差は無いように見えますが、この思想が日本の教育を蝕み、教育の混乱を生んできた元凶のひとつです。
この表現には、「教師は、生徒を指導するのではなく、支援するものである」という過度の子どもへの人権思想が隠されています。支援とは、通常、相手を分別のつく立場として認めて、最小限の手助けをすることを意味します。企業支援、子育て支援などの言葉をイメージすれば分かると思います。
この思想の恐ろしいところは、子どもを無条件に分別ある大人のごとく扱っているところです。教育の原点は、読んで字のごとく「相手の未熟な部分」を「教え育む」ことですから、子どもを無条件に一人前の大人扱いしてしまっては教育という概念すら崩壊してしまいます。
にもかかわらず、敢えて「支援」という言葉を意図的に選んで使用している人たちは、「子どもはありのままでいい。それが個性だ」という幻想に憑依されているとしか言いようがありません。教育者であり、教師と呼ばれる自らの存在の自己矛盾に気づかないのでしょうか?
子どもは、教え育む対象です。支援しているだけでは正しく育っていくはずはありません。「教師が教えすぎる」という批判をよく耳にしますが、それは教え方が不適切なだけで、適切な教えに教えすぎると言うことはありません。
また、「子ども自身が考えることが大切だ」と主張する人たちもいますが、子ども自身が考えることも、教師の教えの中で正確にできるのであって、勝手な考えを膨らませても正しい答えは見つかりません。
戦後教育、特に近年の教育は、教えることに憶病になっています。教えることが、あたかも子どもの個性や学ぶ意欲を削ぐかのような論調が闊歩しています。
しかし、そもそも教育とは強制であり、矯正ですらあります。大人が守ってきた価値観や蓄積してきた知識を、(無理にでも)子どもに身につけさせることが教育であることを忘れてはなりません。
教師が教えることに憶病になっていては、学校は成り立ちません。そればかりか、そんな学校は必要ないと言わなければなりません。教師は、「支援者」ではなく、「指導者」です。
「支援」などと子どもに迎合した耳触りのよい言葉で、この混乱した教育界を是正することなどあり得ませんし、子どもの将来に渡る真の幸せを保証することなどできないのです。





