「終わりましょう」
実は、これは授業の始めと終わりに生徒と教師の間で交わされる挨拶です。挨拶というよりも、まるで掛け声のようですが、地域によっては学校で毎時間交わされています。
授業の始めや終わりの挨拶としては、大きな違和感を覚えます。
この挨拶の裏には、日教組や左翼勢力が長年推し進めてきた過度な子ども尊重主義のイデオロギーが隠されています。この挨拶が定着している地域は、かつて(現在も)日教組支配のもと偏向教育が続いた地域で、現在も教育困難な現状が色濃く残っている地域がほとんどです。
本来、授業には「教えるもの」と「教わるもの」が存在します。教わる謙虚さが、学びに不可欠なことを考えれば当然の立場の違いです。ですから、
「(よろしく)お願いします」
「ありがとうございました」が正常な授業の挨拶です。
地域によっては、この挨拶が当然ですし、起立して礼をさせるところもあります。日本人として、目上の人への礼儀正しさが伝統や文化であるように、礼節を重んじてこそ深い学びが成立することは想像に難しくありませんし、そういう姿勢が学力に反映するのではと思います。
それに引き換え、「始めましょう」「終わりましょう」の挨拶には、教師と生徒の立場の違いを曖昧にするイデオロギーが混入しているのです。「先生と教師は平等である」という思想です。
この思想のもと、教室から教壇が撤去された地域もあります。一段高いところから教えるのは、平等ではないということでしょう。
もちろん、教師も生徒も人としては平等です。しかし、「教える立場」と「教わる立場」と言う厳然たる立場の違いがあってこそ、教育は成り立ちます。教えていただく、という謙虚さの喪失は子どもの我が儘を助長させることになりますし、学ぶ姿勢が崩壊すれば学力がつくはずはありません。教師と生徒の立場を曖昧にするような教育論は教育の崩壊を招くことになりますが、現在も秘かにこうやってまかり通っているのです。
その教育論の結果が、現在の「学級崩壊」であり、「学力の低下」です。
先般、新学習指導要領に準じた教科書検定があり、その小学校の教科書の内容が3割~4割程度増やされることになりましたが、脱「ゆとり教育」は評価できても、学習内容を増やしただけで学力が向上するかは甚だ疑問です。
なぜなら、学校にはこうした些細なようでも、確実に学びを阻害して、子どもを蝕む日教組思想が混入していますし、それは日本の弱体化を狙っている勢力が意図的に学校へ持ち込んだイデオロギーなのですが、もっと恐ろしいことは、その事実を多くの教員が知らずに受け入れてしまっていることです。
表面上は見えずづらくて本当に些細なことかも知れませんが、これらの小さな事実を見逃さずにひとつひとつ正していく地道な取り組みがあってこそ、公立学校に本来の「学び」が取り戻されて、子どもの学力が向上していくのです。
教育正常化がなされてこそ、「学力向上」があるのです。








