国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

2010年03月

vol.34 授業の挨拶にも混入する左翼思想

「始めましょう」
「終わりましょう」

 実は、これは授業の始めと終わりに生徒と教師の間で交わされる挨拶です。挨拶というよりも、まるで掛け声のようですが、地域によっては学校で毎時間交わされています。
 授業の始めや終わりの挨拶としては、大きな違和感を覚えます。
            

suberidai この挨拶の裏には、日教組や左翼勢力が長年推し進めてきた過度な子ども尊重主義のイデオロギーが隠されています。
 この挨拶が定着している地域は、かつて(現在も)日教組支配のもと偏向教育が続いた地域で、現在も教育困難な現状が色濃く残っている地域がほとんどです。

 本来、授業には「教えるもの」と「教わるもの」が存在します。教わる謙虚さが、学びに不可欠なことを考えれば当然の立場の違いです。ですから、
「(よろしく)お願いします」
「ありがとうございました」が正常な授業の挨拶です。
 地域によっては、この挨拶が当然ですし、起立して礼をさせるところもあります。日本人として、目上の人への礼儀正しさが伝統や文化であるように、礼節を重んじてこそ深い学びが成立することは想像に難しくありませんし、そういう姿勢が学力に反映するのではと思います。

 それに引き換え、「始めましょう」「終わりましょう」の挨拶には、教師と生徒の立場の違いを曖昧にするイデオロギーが混入しているのです。「先生と教師は平等である」という思想です。
 この思想のもと、教室から教壇が撤去された地域もあります。一段高いところから教えるのは、平等ではないということでしょう。
 

 もちろん、教師も生徒も人としては平等です。しかし、「教える立場」と「教わる立場」と言う厳然たる立場の違いがあってこそ、教育は成り立ちます。教えていただく、という謙虚さの喪失は子どもの我が儘を助長させることになりますし、学ぶ姿勢が崩壊すれば学力がつくはずはありません。教師と生徒の立場を曖昧にするような教育論は教育の崩壊を招くことになりますが、現在も秘かにこうやってまかり通っているのです。

 
 その教育論の結果が、現在の「学級崩壊」であり、「学力の低下」です。
先般、新学習指導要領に準じた教科書検定があり、その小学校の教科書の内容が3割~4割程度増やされることになりましたが、脱「ゆとり教育」は評価できても、学習内容を増やしただけで学力が向上するかは甚だ疑問です。

 
 なぜなら、学校にはこうした些細なようでも、確実に学びを阻害して、子どもを蝕む日教組思想が混入していますし、それは日本の弱体化を狙っている勢力が意図的に学校へ持ち込んだイデオロギーなのですが、もっと恐ろしいことは、その事実を多くの教員が知らずに受け入れてしまっていることです。

 表面上は見えずづらくて本当に些細なことかも知れませんが、これらの小さな事実を見逃さずにひとつひとつ正していく地道な取り組みがあってこそ、公立学校に本来の「学び」が取り戻されて、子どもの学力が向上していくのです。

 教育正常化がなされてこそ、「学力向上」があるのです。


vol33.歴史のすり合わせに国益はない!

soccer 先日、日韓両国の有識者による「日韓歴史共同研究委員会」が第2期研究の報告書を公表しました。

 そもそも、この「日韓歴史共同研究委員会」は、平成12年の教科書検定で「新しい歴史教科書をつくる会」の中学歴史教科書が合格したことに韓国が反発し、日韓関係が悪化したのを受けて、事態を打開するために同年10月の小泉純一郎首相と金大中(キム・デジュン)大統領(当時)の首脳会談で決まり、始まったものです。

 しかし、このような委員会を開くことが本当に、未来の日韓関係の発展の為に寄与するのでしょうか。疑問が残ります。

 今回の報告書で韓国側は、従軍慰安婦問題について中学校教科書での言及が大幅に減り、強制性を示した記述がなくなるなど「縮小の一途をたどっている」と言います。
 
 そもそも、韓国側は「従軍慰安婦」と「女子挺身隊」とを意図的に混同しているとしか思えません。
「従軍慰安婦」などという、当時無かった造語まで登場させて日本を非難しますが、強制制がなかったことはほぼ事実ですし、まして中学校で『戦場の性』について教えるべきなのか、中学校教師として大いに疑問です。

 韓国側は、その理由については、「政治・社会的状況の保守化」だと言うのですが、一向に保守化しない日本に不安を感じているわたしにすれば、その反応もステレオタイプにしか聞こえません。 
 保守とは、伝統・文化や我が国の誇りを保守することです。韓国では相手の間違いを正すことが保守化というのでしょうか?

 日本の子どもたちを「日本の歴史」で教育するのは、当たり前のことです。
 もちろん、間違った内容や偏った思想でできあがった教科書ではダメですが、それならば左翼的イデオロギーが散りばめられている今の教科書ほうが、よほど問題です。 

 他国の歴史に我が国の歴史をすり合わせる必要はありません。事実の誤認だけは指摘するべきですが、それぞれに、それぞれの言い分があって良いのです。
 ですから、韓国に遠慮して「日本の歴史」を教えられないようではダメです。私たち日本人の歴史を、次世代に正しく伝えるためにも譲る必要はありません。

vol.32 自存自立の精神を子どもたちに。

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 今の教育でどうしても疑問に思うことがあります。

 単純な「戦争反対論」についてです。
 もちろん、戦争は起こさない方がよいですし、避けて通るためにはどんな努力もするべきです。
 しかし、不可避な闘いもあるのではないでしょうか。自存自立のためには、刃を持って立ちあがることも必要なのではないでしょうか。

 なぜ、こういう話をするかというと、単純な「戦争反対」では、自立できない子どもたちを増やしてしまいかねないと思うからです。
「戦争」というと、誤解を招きますので言い方を変えましょう。
 単純に「けんかは絶対悪だ!」
(大きいな意味では戦争も国家どうしのけんかですから)
と教えると自立できない子どもたちが増えてしまうような気がしてならないのです。

 子どもの場合は、「けんか」は時として友情を育む大切な要素になることがあります。殴り合って、友情がより深まるということを経験するとよく分かります。
 もちろん、自ら相手を屈服させるように仕掛けるけんかはダメです。
 
 しかし、「けんか」は全てダメだと教えるとどうでしょう。
相手にどのような仕打ちをされても、黙って耐えるか、相手の機嫌を取るか、もしくは、相手に従属せざるを得なくなります。soccer

 例え、力が及ばなくても相手に立ち向かってみることに意味はあるはずです。暴力がいけないというのなら、言葉や態度で「けんか」することだってできるはずです。相手がそれで許してくれなくとも、心さえ従属しなければ負けたことにはなりません。

 人には、「力」を使って良い時があるはずです。
それは、自分自身の尊厳を侵されたときと、人の尊厳を守るときです。目の前で、自分自身や大切な仲間や友人が理不尽な目にあっているのに、闘う姿勢を持てないようでは、それは「卑怯な」振る舞いです。

 かつての日本人は、子どもに「けんかは何があってもがダメだ」と教えませんでした。「やられたら、やり返してこい」という頑固おやじがいたものです。ですから、子どもたちもそうそう簡単には、負けるわけにはいかなかったのです。そう言う意味でも、いじめが深刻化しづらかったのかも知れません。

 これは、やはり大人の考え方が違ったのだと思います。かつての日本人は、我が国が自存自立するためには、「闘い」も辞さない覚悟を持っていました。そうならないように最大限の努力を払っても、どうしようも無い時は、命をかけて闘う心意気を持っていたのだと思います。だから、子どもにも単純に「けんかは絶対にいけない」などと言いませんでした。

 今、我が国も同じ問いを向けられています。自存自衛の覚悟がわたしたち大人にあるでしょうか。誰かが守ってくれると淡い期待を抱いていないでしょうか。誰も攻撃などしてくるはずはないと、現実から目を背けていないでしょうか。
 そして、誰かに守ってもらいながら、「戦争は何があってもしてはならない」と子どもに教えていないでしょうか。

 子どもたちは、どの子も大人の欺瞞を見抜く素質をもっています。
正しく生きる道を示すべく、まずわたしたち大人が、精神的だけでも自立することから始めるほかありません。





vol.31 桜に見る日本人教育論

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世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
(在原業平:古今和歌集に30首がおさめられる平安初期の歌人。)

 暖かい日が続き、日本各地で桜の開花が相次いでいます。
高知では、今週には満開を迎えようとしています。

 先述した和歌の意味は、「この世の中に桜の花がなかったなら、咲いたり散ったりする桜に心奪われずに、のんびりでるのでしょうに…」といったところでしょう。

 しかし、この歌は、伊勢物語に収蔵されている恋の歌です。遠く大阪にいる恋しい女性に逢いに行く道すがら、桜の花と恋しい女性とを重ね合わせて、「あなたがこの世にいなければ、逢いたくなったり、逢った後の寂しさに心を奪われることもないでしょうに…」という業平の恋心を詠んだと言われているのです。

 今から、約1200年前の和歌ですが、なんと瑞々しい感性でしょう。
恋しい女性を桜の花に例えるとは、現代でもハイセンスなお洒落さです。
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 TVやネットで開花予想を見るにつけ、現代の日本人にとっても桜の花は特別だと感じますが、1200年も前の日本人も同じように、桜の花に心を奪われ、そのすぐに散ってしまうはかなさに恋しい女性を重ねるなど、桜とともに生きてきたのでしょう。

 この一首の和歌が、わたしたちの心につながる古の歴史をつなぐ日本人のDNAを感じさせてくれる思いです。

 ところで、このように古い言語を、現代の一般の人間が読めて意味が分かるのは、唯一日本語だけだそうです。欧州では、長い歴史を誇る英語でさえ、古典英語になると現代英語とはかけ離れてしまい、よほどの専門家でないと理解できないといいます。

 この一点を考えても、わたしたち日本人は実に保守的です。ですから、文化も言語も大きく変えることを嫌って、連綿と受け継ぐ作業をしてきたのでしょう。日本語が乱れることに危機感を募らせる現代も、同様に保守的なのでしょう。

 それが、明治維新から考えても僅か150年の間に、受け継がれてきた日本文化がどんどん破壊されようとしています。特に、戦後教育では、日本の過去(歴史)を否定して教育がなされてきました。グローバルスタンダードなどという如何わしい言葉が重宝され、英語(外国語)が必修科目となって、「修身」が廃止され、日本人らしさを育むことが難しくなりました。

 もう一度、日本の文化がいかに優れているか、子どもたちに自信を持って教えるべきです。その材料は、世の中にふんだんに溢れています。
「桜」やたった一首の和歌が、日本文化の奥深さを子どもたちに教えてくれます。「桜」に思い入れを持つ日本人の歴史的事例だけでも、溢れんばかりにあるはずです。

 大切なことは、日教組の偏った教育感を脱して、大人がそのことを子どもたちに自信を持って教えることですし、自らの中に眠っている日本人のDNAに正直になり、教える内容を精選することです。

vol.30 保守思想が学力をつける②

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 保守思想が学力をつけることについては、以前書きました。
今日の「学力低下問題」は、実は「学習意欲の低下」がもたらしています。

 中学校現場にいると、高校進学をあきらめてしまい「勉強なんてする必要ない」と開き直って、授業に参加せずに校内を徘徊する生徒に出会います。近年では、小学校でも同様の行為を繰り返す子どもたちもいるようです。

 かつては、世界で最も勤勉で勉強熱心だと言われた日本人が、いつのころからこうなってしまったのかは、明白です。
 少なくとも、先の大戦で敗北を喫するまでは、日本の子どもたちは実によく勉強していましたし、大学にはアジア各地から留学生が殺到し、特に日露戦争勝利後は「有色人種の希望の国家」として、多くの有色人種の若者が日本の大学で学ぶことを希望して留学していました。

 しかし、戦後教育は、左翼的イデオロギーが混入してしまい、個性を過大に尊重し、個人の権利意識や自由を増幅させる結果をもたらしました。
その結果、「勉強するのもしないのも個人の自由」というトンデモない雰囲気が学校を包むようになってしまいました。
 ですから、「進学校を目指して、懸命に勉強する」のも、「高校進学をあきらめて、勉強を放棄する」のも、子どもの自由、個性と言う訳です。

 ですから、教師が子どもたちに「こんな成績では進学できないぞ」と指導しても、「高校に行かない」と言われれば、もうお手上げです。それは、「なんで勉強しなければならないのか」と問われた大人が「高校へ行くには必要でしょ」と答えるのと同じです。

 子どもは、勉学をするかどうか自分の意志で決められる訳ですから、親は子どもが機嫌を損ねて進学をあきらめてしまわないように、さも、腫れものに触るように大切にします。そのことが、かえって子どもを増長させてしまい、かえって学習する気持ちを萎えさせるのです。

 そもそも学習とは、自らの成長のためにするものですから、「なんで勉強しなければならないか」と問う子どもには、「立派な大人になるためです。」と答えればよいのです。

 それでも、「立派な大人になりたくない」と屁理屈をこねる子どもには、「それでは、人さまのお役にたてる人にはなれない」と言えば良いのです。

 かつての日本人は、決して自己実現のためだけに勉強していたのではありません。「貧しい家族を養うのため」に、「地域や社会の発展のため」に、「西洋列強に負けない国家づくりのため」にと、人さまのことを思い、有意な人材になるべく志を立てて熱心に勉強したのです。

 それが、いつの頃からか、自己実現だけが勉強の目的になってしまいました。「いい高校や大学に行くため」に、「いい会社に入るため」に、「金儲けのため」に勉強するのです。
 それでは、自己実現の目標が持てなくなった瞬間、または自己実現を達成したと感じた瞬間、学ぶ意味を失ってしまいます。だから、「高校へ行かない」と決めた瞬間、勉強は不必要なものになってしまうのです。

 今の子どもたちに教えなければならないのは、
「人さまのために勉強する」
ということです。
自分の為だけでなく、国家や地域のために有意な人材となることを目標にして、勉学に励む姿勢を持つことです。

 そのためには、この国を愛し、この国の伝統・文化を尊重する日本人としてのアイデンティティーを確立させる必要があります。
ですから、アイデンティティーを確立できる保守思想が「子どもの学力をつける」唯一の思想であり、個性や権利・自由を過大に尊重し、国史を否定して伝統的な国家を蹂躙するような左翼的イデオロギーは、子どもの学力を低下させるだけなのです。これらのイデオロギーは、断固学校から排除するべきです。

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  先人から引き継いだ日本の夜明けのために。




 




 

vol.29 教員免許更新制を堅持せよ!

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 教員免許更新制が廃止されようとしています。

 先般、全教(全日本教職員組合:平成4年に政治的対立から日教組を離脱して組織)が、組合員の意識調査を発表しています。
 それを見ると、「この制度で教育はよくならない」と回答した教員が67.5%を占め、「よくなる」との回答はわずか0.3%だったそうです。

 そもそもこんな意識調査をする前に、彼らはなぜこの教員免許制度が安倍内閣で議論され、制度化するに至ったのかをしっかり考えるべきです。
 
 それは、国民が求める質の高い教育を提供してこなかった教員への強い批判があったからです。国民意識と乖離して、反日イデオロギーを教育現場へ持ち込み、教師を労働者と標榜して違法なストを繰り返し、子どもをないがしろにしたのはいったい誰でしょう。そう、わたしたち教員です。
 
 「この制度で教育はよくならない」と多くの組合教員が答えていますが、そんな彼らが言う「よくなる」とは、学校がどうなる状態を言うのでしょうか。同じ教員であるわたしですら、想像ができません。

 国民はそんな教員に失望し、免許更新制を導入することで、学校で組合活動を専らとし、反日教育を繰り返す教師の退場を望んだのです。
 
 その強い世論を背景に安倍内閣は、教育改革の目玉として教員免許更新制を導入したのです。
 ですから、
「受講にあたっての負担感を97・1%が訴え教員の多忙に拍車をかける」という彼らの主張は的を得ていません。
 なぜなら、多忙化して負担感が増すことは想定内であり、それが分かっていても断行すべきと国民が望んだ制度だからです。

 今、教員免許更新制が日教組の主張通り、廃止されようとしています。
学校現場では、その受講の際の多忙感や金銭的負担の解消から、日教組の組合員のいかんを問わず、この方向を是として受け入れる雰囲気です。

 しかし、志ある善良なる教員は、この制度が始まった経緯を熟慮すべきです。国民世論に耳を傾けてほしいのです。そうすれば、この制度の重要さが分かります。そして、廃止論に安易に迎合することをやめてほしいのです。

 教育への志があるならば、その多忙感や金銭的負担は、国民の期待に応えらなかった過去の教育界への決別料、代償として受け入れるくらいの度量を持つべきです。
 
 そして、大学に講義を丸投げされ、30時間の講習さえ受ければほとんどの教員が免許更新できるような形骸化した制度では無く、
文科省や任命権者の教育委員会が主体的に不適格教員に免許更新を認めないような制度として確立する必要があります。


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 それが国民の期待に応える教育界への芽吹きになるのです。

 
 

 

vol.28 学校で元号(平成)使用を推進しましょう!

 官庁や役所からの公文書は全て元号(昭和や平成など)で表記されています。今年であればもちろん「平成22年(平成21年度)」です。

 これは、1979年に制定された「元号法」が法的根拠です。
しかし、元号法は使用を強制するものではなく、使用しないことに罰則が科されるものでもありません。
 この元号法制定されたころの日本人は、87.5%が元号を使用すると答えたようですし、戦後に皇室典範の改正にともなって失った法的根拠を付随したようなものです。

 しかし、時代が進むにつれて、元号に対する日本人の思い入れは弱くなっています。
 日本で西暦(キリスト歴)を使用する必要はありませんが、その便利さや世界的な通用度合いなどの理由から西暦が多用される傾向が益々強くなっています。(新聞では国内有力紙トップを切って、朝日新聞が昭和51年から日付欄に西暦を使用)
 例えば、歴史を学ぶには、確かに西暦が分かりやすいでしょう。
「貞観○○年」「寛文○○年」と言われても、日本通史の専門家でない限り何時代のことかすら分からりません。
 

 ですが、日本の元号は、わたしたちにとって利便性を越えて、誇りにすべき文化です。
 かつて、中国の冊封体制に組み込まれていた周辺地域は中国王朝の元号を使用していたように、東亜において独自の元号を持つということは中国と対等な関係を示すもので、日本にとっては独立の象徴です。
 
 かつての朝鮮半島は、長い歴史のほとんどで中国の元号を使用しています。そのことを考えれば、我が国が長い歴史の中で、独自の元号を使ってきたことがいかに奇跡的なことであったか分かります。先人が智慧を絞って独立を貫いてきた偉大な遺産の象徴なのです。

 また、現在も漢字の元号を使用しているのは世界の中で我が国だけです。元号制度の前提である君主制を現在まで維持している我が国は、東亜では稀有な存在です。(元号の本家とも言える中国は、中華人民共和国の建国とともに西暦を使用しています)

 
 この我が国にとって、民族の独立を象徴し、官公庁が公文書で使用する「元号」が、学校(日教組支配の強い地域では特に)では使われません。

 このように、学校で敢えて元号を使用しない背景は、利便性の理由だけではありません。
 ほとんどの教師や子どもたちは、西暦と元号の違いなど意識しておらず、便利な方を遣っているという感覚でしょうが、
日本の伝統文化を軽んじ、日本人のアイデンティティーの確立を阻害して、日本解体を願う左翼的イデオロギーを公立学校に意図的に混入して、敢えて元号だけは使用しない輩がいます。
そんな輩が今はいなくても、それが学校の文化として引き継がれていると言ってもいいでしょう。


 学校では元号を使用しましょう。利便性を言うならば、平成22年(2010年)と併記しましょう。
 日本独自で、大化元年(710)年から1300年以上に渡り連綿と続く、生きた歴史教材であり、我が国の独立の象徴である「元号」の意味合いを正しく子どもたちに教えましょう。

 一般的には大したことでは無いかもしれません。しかし、何事においても利便性や経済性が重視される時代だからこそ、子どもたちの心豊かな成長のためにはぜひ教えたいことですし、これからも大切に残しておきたい日本文化の一つです。


 

 

vol.27 日本人のマナー(卒業式を考える)

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 今日は、卒業式でした。国旗を掲げ、国歌を斉唱して粛々と卒業式が挙行され、10数年前の混乱が嘘のように思え、僅かながらも教育正常化が進んでいるかと感慨にふけながらも、卒業する子どもたちの未来に幸を願いました。

 さて、その卒業式についてですが、参加する子どもの様子に年々幼さを感じています。卒業生は主人公でもありますので、まだ落ち着いて参加できますが、在校生については落ち着いて参加できない生徒が増加している感が否めません。ましてや感慨深く参加する雰囲気ではありません。

 卒業式は成人式などと同じ式典として、学校では最も大切な行事です。もちろん、式典の意味や大切さについては、事前に授業で取り上げて指導しています。
 
 しかし、道理を指導しただけで、卒業生と一緒に卒業を祝う慶びに満ちる…という訳にはいきません。日本全国で、式典に参加する生徒の心の幼さが問題になっています。成人式の乱れを見れば、さもありなんといったところでしょう。

 原因はさまざまにあるでしょうが、これも日本人としての心構えを指導していないことが大きな原因でしょう。
 日本人は、心の節目を大切にして、マナーとしてTPOを大切にしてきました。葬儀や結婚式などでのしきたりの豊かさ(複雑で面倒臭く思う人もいるかも知れませんが)を考えれば分かるでしょう。
 そして、式典では華美で無くとも、厳粛な雰囲気の中で、喜怒哀楽を多くの参列者と共有する心の豊かさを持っていたのです。(近年は、式典も西洋化してしまい、華美な装飾などを好むイベントの感が強くなってしまいましたが…)

 しかし、戦後教育では、個性尊重が独り歩きして、我が儘との境目が曖昧になり、式典でも我慢して厳粛な雰囲気を作り出そうという意識が希薄になっています。そして、結局は他者と静かに心で共感しあう感性が鈍くなりました。
 日本人としての豊かな感性が伝承されていないのです。

 これは、甚だ由々しき問題です。
「日本」という地域に住む人間は大勢いても、マナーや喜怒哀楽を共感し合う感性を失えば、共同体としての社会は崩壊してしまいますし、国民としての成り立ちが不安定になるばかりか、結局は国家が不安定になってしまいます。
 それでは、子どもたちの未来に責任を持っていることにはなりません。

 子どもたちに、日本人として文化として伝承してきたマナーや心構えを子どもたちに丁寧に教えましょう。
 
 まず、大人が態度でそれを示す必要があることは無論です。

vol.26 教師論(2) 志を立てよ!

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 教師として愛国心が必要なことは以前書きました。
しかし、それで教師としての資質が足りるわけではありません。

 もちろん、指導力や情熱も必要不可欠ですが、その元になるのは「志」です。
 何の為に教師をして、子どもを育てるのかということです。
その答えが不十分だと、心ない教職員組合に取り込まれ、違法献金や違法なスト行為などに手を染めてしまうことになってしまいます。

 昔は、「でもしか」先生と言って、「教師でも」「教師しか」という時代がありましたが、現在は、教員採用試験も難しくなりましたし、試験そのものも工夫改善されていますので、成績が良いだけでは採用になりません。ですから、それなりの夢を持って教員になっているはずです。

 しかし、夢と志は違います。
 夢とはあくまでも自分自信の目標であって、一人称です。
「日本一の先生になりたい」では、まるで小学生の作文です。

 志とは、世界や日本、地域にいかに貢献するかということです。
教育を通していかに他者に貢献できるかです。
 
 教育を通していかに日本に貢献できるか、ということを問うているのです。日本が大きすぎるというのであれば、県や市町村単位でもよいでしょう。日本や地域に、いかに貢献できる教育を創造できるかが大切なのです。

 もちろん、目の前の一人の生徒に全力を尽くすことは当然です。しかし、バックボーンになり得る志が無いと、今日の荒廃した教育現場ではいずれ潰れてしまい、目の前の生徒からさえも目を背けてしまうのです。

 
 学校現場は、自分の権利を主張して、権利闘争を繰り返し、反日思想を刷り込む教職員組合に侵されて続けています。
 そんな中で、国家や地域を背負って教壇に立ち続けることは、並大抵のことであはりません。志いかんで、ただの労働者に成り下がることになってしまいます。

 今こそ、わたしたち教員が高い志を持つことです。
かつての日本人は、国家とともに夢を見てきました。列強諸国と対等な立場になるために、日本人は同じ方向を向いていました。
 しかし、現在は国家そのものが方向性を見失っています。だからこそ、この国を背負って立てる若い人材を育てなければなりません。

 
 教師よ、志を立てよ!

違法行為を繰り返す教職員組合と決別する勇気を持て!

教職員組合の不正を正す、正義を貫け!

そして、この国を照らす灯となれ!

vol.25 志ある教職員よ。勇気を持て。

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政治資金規正法違反の事件に関する見解   全日本教職員連盟
 
  先日、北海道教職員組合の幹部が、多額の選挙資金を国会議員個人に違法に提供した容疑で逮捕された。これは、団体・企業が政治家個人に献金することを禁じている政治資金規正法違反である。また、教育公務員特例法で、教職員の政治的活動、選挙運動は禁じられているにも関わらず、組合員に対して政治的活動を指示していた実態も報道されている。これが事実だとすれば、教育の中立性を著しく損なう、決して許されない行為である。
教職員団体、そして教職員一人一人は、教育の中立性や政治的活動の制限を真剣に考えなければならない。教職員は、国民全体の奉仕者として、国家の発展を支える子供たちを教育するという職務の特殊性と社会的責任を負っている。
従って、特定政党を支持、又は反対のための政治的活動や、教職員の組合活動が、学校現場に持ち込まれることは、教育の政治的中立を確保する上で決してあってはならないのである。
  以前、山梨県の公立学校の教員が、政治団体の資金カンパや後援会入会カード集めに関与していた事例があった。これは、明らかに教育公務員特例法に違反する行為である。文部科学省が示している「違反行為の具体例」等をもとに、教育における政治的行為の制限について、教職員団体、並びに教職員一人一人が、理解を深め、法令を遵守することにより、国民の信頼を取り戻すことが求められる。
  また、今回の事件のような不当な行為に対して毅然とした態度を取ることも大切である。子供たちに対してルールやマナーを守る大切さを指導しておきながら、教師自らがそれを犯した今回の事件の持つ意味の大きさは計り知れない。
文部科学省や教育委員会も含めて、不当な行為に対して毅然とした態度で接するとともに、何より教職員として不当な行為を強要する組織を正す勇気が必要である。
教育は、偏向したイデオロギーに左右されることなく、公正かつ適正に行わなければならない。一部の地域で学習指導要領を無視して政治的イデオロギーの介入による教育が行われているということを、子供の成長を願う保護者はどのように受け止めるだろうか。
  この度の事件は、教職員団体に対する強い不信感を国民に与えた。今後、教職員団体への批判が強まることだろう。全日教連は、法令遵守を基本姿勢としながら、結成当初から行ってきた教育の正常化運動を推進し、国民の信頼に応える教職員団体として活動に取り組んでいく。

 先日起きた、北海道教職員組合の役員逮捕における全日本教職員連盟の見解を紹介します。

 まさしく、全日本教職員連盟が指摘するように、これらは違法行為であり許される行為ではありません。子どもたちを学校に人質のごとく取られたままの親が不憫でなりませんし、同じ教職員として、許しがたい行為です。
 
 親たちは、もちろん子どもの幸せを願って学校へ通わせています。その公立学校の先生が違法行為をし、反日イデオロギーを子どもたちに注入しているとすれば、これほど親としてつらいことはありません。
 
 何度も書きますが、日本人である子どもたちには、日本人であることに誇りを持てるように育てなければなりません。それが、本当に幸せになることであり、世界へ羽ばたく未来を保証することになります。それを否定して違法行為を繰り返す教職員組合を認めることはできません。それは、この国を破壊し、子どもの心を蝕むからです。

 志ある教職員のみなさん。今こそ、違法行為や偏ったイデオロギーから決別し、国民の期待に応える教育を創造する勇気を持つべきです。 
  

vol.24 保守思想が規範意識を高める

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 保守思想は、本当に教育を救うのでしょうか。

 子どもたちの凶悪な事件や問題が次々と報道されています。その原因はさまざまですが、子どもたちの「規範意識」の低さが指摘されています。

 そこで、わたしたち日本人が悠久の歴史の中で育んできた文化を守り伝えることが、子どものの規範意識を高めることになる一例を紹介します。

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 中学校には、
休み時間に上履きのまま学校中を闊歩する生徒たちが結構います。全国どこでも同じでしょう。以前の私のクラスの生徒も同じでした。

 グランドも、中庭も、体育館も・・・どこでも同じ履物で、集団で自由に歩き回るのです。それも堂々と悪気のない様子です。

  
その都度、「なぜ、履物を履き替えないのか」と何度も厳しく指導しますが、そのうち、私の姿を見ると走って逃げるようになります。しかし、見えていないところでは相変わらずです。  
 その場さえ良ければ…という生徒の心には、通常の指導だけではなかなか踏み込めません。


 そんな子どもたちに、
授業の中で日本の伝統や文化に触れさせながら、彼らの心を耕していきます。もちろん、心を耕すには長い時間が必要ですが、日本人としての誇りを持たせる工夫をこらした道徳の授業です。

 その授業の一場面で、「日本人には、先人から受け継いだ上下の履物を履き替える文化がある」ことを教えます。
 履きものを履き替えるのは、「日本人が合理性や利便性よりも、清潔であることを重んじ、場を清めることを大切にするという文化を継承してきた」結果であり、
そして、「世界から称賛される崇高な精神性から育まれてきた習慣であること」を教えるのです。日本がいかに綺麗な(清潔な)国であるかを、考えさせる挿話などはいくらでもありますから、それも添えて教えます。

 子どもは、そういったことを学ぶうちに、自分も日本の文化の担い手であることを知って行きますし、それを誇りと考えるようになります。履物を履きかえるという行動が、ルール(規則)を越えて、誇りある文化の伝承であると考えるようになれば、履き替えを面倒だと思うことはなくなるでしょう。

 以後、私のクラスでは靴の履き替えを指導する必要はなくなりました。

   
 このように、生徒のだらしない行動の中には、我が国の伝統・文化や習慣を軽んじ、経済性や合理性のみを追求してきた戦後日本人の「現代病」が蔓延しています。それを正すのは、簡単なことではありませんが、それを正せるのは、個性尊重や平等主義などイデオロギーが散りばめられた左翼思想ではありまん。日本の伝統文化を受け継ぐ保守思想なのです。



保守思想こそが、今の教育を根本から正せる思想です。

vol.23 核密約に見る日本の姿

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 世の中では、米国との核密約が暴かれ騒がれています。
核三原則(持たず、つくらず、持ち込ませず)の是非は別として、安全保障に関わる重大事項で国民を騙し続けてきた日本の姿に、現在の日本の凋落がつながって見えてなりません。

 当時の与党がどうとか、政府の姿勢がどうとか言うつもりはありませんし、この問題を、旧政権攻撃の道具にするような人たちには組みできません。

 苦渋の決断にはいたしかたない理由もあったでしょうし、その決断そのものを現在のわたしたちがとやかく言う必要はありません。 
 ただ、日本人として思うのは、最も重要な国家の安全保障においてさえ、米国の機嫌を取って、政府が国民を騙すという姑息な手法でしか我が国を守る術が無かったことに心を痛めるのです。

 しかし、そもそもその姑息さが、今日の日本の混迷の原因でしょうし、教育の混乱にもつながっている気がします。

 わたしたち日本人の歴史は、独立存続の闘いの歴史でもありました。聖徳太子が中華思想からの脱却を志したときから、我が国は世界で独り歩きを始めましたが、二度に渡る元寇や幕末からの列強諸国との軋轢、先の米国との戦争など、先人たちは智慧を絞り、勇気を振り絞って我が国の独立存続のために努力してきました。

 しかし、戦後は米国の保護国となり、サンフランシスコ条約で独立を果たしても、その実態は保護国のままの様ですし、安全保障のみならず精神的に米国に依存している現状では、真の独立国とは言えません。
 
 教育も、米国から真の独立を果たしているとは言えません。未だGHQ主導でつくられた日教組が日本の教育界で力を持っていることを考えても分かりますし、戦後に奪われた修身や教育勅語などは未だ持って再評価すらされず、藩校や寺子屋にまで遡るはずの日本の教育の歴史は断絶したままです。 
 近年、やっとGHQ主導でつくられた教育基本法が改正されて、僅かに好転したとも言えますが、「愛国心」という言葉さえ使えずにつくられた教育基本法は、まだまだ米国の呪縛から解き放たれたとは言えません。

 今、教育で大切なことは、真の日本人を育てることです。真の日本人とは、我が国の歴史を深く理解して、伝統文化を受け継ぐ日本人です。そして、その真髄は、先人から受け継いだ日本の独立(精神的にであれ)を未来永劫守りぬく覚悟と叡智を育てることです。その覚悟と叡智に満ちてこそ、国際人として世界をリードできる人材を育てることになるのです。
 
 

 

vol.22 「皇室」をいかに教えるか(2)

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 今上天皇が田植えや稲刈りをされているご様子をご覧になったことがあるでしょうか。ニュースなどで報道されることもありますからご存じのことでしょう。

 皇居内には水田があり、天皇みずからが米作りを行われます。
この米は11月23日に行われる新嘗祭(勤労感謝の日)で神前に供えられます。
 新嘗祭は古くから我が国の重要行事で、祭祀を司る最高責任者である天皇が、国民を代表して農作物の恵みに感謝する式典です。日本書紀に、天照大神(あまてらすおおみかみ)が自ら神田を営み、新嘗の祭りを行ったとあるように古代から大切にされてきた宮中祭祀です。
 
 このような今上天皇の有りのままのお姿や祭祀王としての歴史的意義を子どもたちに教えることが大切です。以前にも書いたように、子どもたちは、ありのままの今上天皇のお姿から、「米を自らお育てになり、国民のために五穀豊穣を祈ってくださる広く深い祈り」に心から感動して、皇室を敬愛する態度を醸成することでしょう。 

 しかし、今上天皇の田仕事をされるお姿からは、もっと多くのことを学ばせることができます。
 神話の中の神々さえも、仕事(労働)をすると考える日本人は古来から仕事・労働の尊さを理解し、徳とする文化を紡いできたと言えます。
 ご高齢にも関わらず、田に立たれる今上天皇は、そのお姿で勤労の尊さをわたしたちに教えてくださいます。

「日本人の底力の一つは労働を美徳となすところなのです。」

 しかしながら、最近では、勤労は対価(お金)を得るためだけの手段となっている大人が少なからずいますし、子どもたちと言えばほとんどがそう思っています。ですから、中学生くらいになると、将来は「金持ち」になりたいとお金が全ての如く、臆面もなく言うのです。

 ですから、仕事が対価と釣り合わないと思えばすぐに止めてしまったり、不平不満を言うことになります。
 そもそも対価とは自分へのご褒美としていただくものなのに、当然の報酬として考えてしまっているのです。
 子どもたちは、家庭の手伝いや学校での役割などにすら「いくらくれる?」と対価を求めます。自分の成長のためにしている学習でさえも、「成績があがったら、いくらくれる?」と対価を望む姿は珍しくありません。

 このままでは、健全な勤労感など育つはずはありません。ニートやフリーターなども、もともとはこの健全な勤労感が欠落していることから起こる問題ですが、これらの問題を解決には、日本の神話や今上天皇のお姿などから、日本人の勤労感(勤労を尊ぶ伝統)を伝えることが必要です。
 そして、日本人としてのアイデンティティーを育て、日本の伝統文化の核(コア)である皇室を敬愛する心や態度を育てることが、より勤労感を豊かにすることにもつながるはずです。

 こうして考えると、皇室をいかに教えるかというテーマすら成り立たないのかも知れません。皇室をいかに教えるかというよりも、皇室を教えることで、皇室から何を学ばせるのかというテーマの方が、教育では本当のような気さえします。

vol.21 学校に競争は必要ないのか?

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 教育に競争は必要ないのでしょうか。
日教組は、長年に渡って「教育に競争原理はそぐわない」と言い続けています。

 例えば、全国学力テストでも「地域間や学校間の過度の競争を煽る」と反対を主張します。
 今から10年ほど前には、子どもたちの成績でも、集団の中で自分の位置を示す「相対評価」から、個人の目標達成を評価する「絶対評価」への移行を強く推進しました。
 「落ちこぼれをつくらない」ためなどと美辞麗句を並べましたが、結局は「人は他者との比較(競争)で評価されるものではない」という競争原理を否定するものです。
 
 このように、日教組は徹底して教育への競争主義の介入を否定してきました。従来の教育を、「詰め込み教育」「偏差値教育」「学力偏重」などと難癖をつけて、競争原理を徹底してつぶしてきたのです。
 その結果、「運動会でも順位をつけることを否定」して、一緒に手をつないでゴールさせるなどという、トンデモ教育が作り上げられたのです。

 そもそも教育には適度な競争が必要です。
他者と競争することで、学習意欲が高まったり、目標が明確になったりしますし、「自分や他者と勝ち負けを競うこと」そのものに喜びを感じることがあるのが人間の本性です。
 その本性を、上手に教育に活用することが大切なのであって、競争そのものを否定したのでは、人間らしく学ぶことを否定するようなものです。

 かつては、公立学校でも、学習成績優秀者を校内に掲示しました。(現在でも私立進学校や進学塾などでは当然行われています)
 その結果を見て、
「次は俺がトップを取ってやろう。」
「次は、自分の名前が掲示されるように努力しよう。」
「次こそはあいつに負けないように頑張ろう。」
と、秘かに闘志を燃やしたものです。

 また、否が応でも学年内や学級内での順番や偏差値を知らされました。わたしも、「次こそは、一番でも上を目指そう」と心を燃やしました。(優秀ではありませんでしたが・・・)


 大切なのは、「順番や評価だけが人の価値を決めるのではない」ということを、子どもたちにきちんと教えることですし、教師自身がそう思って生徒を見つめ、指導することです。決して競争そのものがいけない訳ではありませんし、人間の成長には必要です。

 教育に競争原理を持ち込まないと主張するのは、自らが競争することを強いられない「公務員」だからでしょう。ですから、存在そのものが競争を強いられる私立学校や進学塾では当然のことが、公立学校では「タブー」になってしまうのです。

 日教組は、教師を労働者と位置付けています。
 そして、教師が評価されることすら
「教師間の競争を生み、教員の同僚性が失われる」と、
「勤務評定反対闘争」と称して、全国的に反対闘争を展開した歴史を抱えています。

 そんな「横並び」思想が生むのは、組織の堕落と落日の成果です。学校の成果とは子どもの成長であることを考えれば、まさに子どもが犠牲となり、教育そのものが歪められるのです。

 適度の競争(生徒間、教師間、学校間、地域間とも)こそ、教育を活性化し、正常化するには必要なことです。








 

vol.20 学習院初等科に見る日本教育の凋落

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 愛子内親王さまが学校をお休みになっていることが話題になっています。そもそも、このようなプライベートなことを、いかに開かれた皇室であるとは言え、突然公表する宮内省に憤慨しているのはわたしだけでは無いでしょう。

 さて、このきっかけとなったのが、数名の男子児童による乱暴な行為であるらしいのですが、くれぐれも犯人(児童だけでなく家庭も含めて)探しにならないことを心から祈っています。

 この問題の犯人は、ここまで堕落してしまった日本の教育界です。
 「学習院大学 初等科」と言えば、江戸幕末期に遡る歴史を持ち、かつては公家子弟の教育に当たり、昨今は大正天皇、昭和天皇、今上天皇、皇太子殿下などが通われた現近代の皇室を支えてきた学び舎です。きっと学校としても、その自負と誇りもあることでしょう。

 そんな中、今回の男子児童たちは、授業中に学習と関係ない縄跳びを回したり、(小さな)物を投げたりしていたそうです。日本の教育の陰りを見るがごとし…とはこのことです。

「学習院よ。お前もか…」
これが、多くの学校関係者の正直な感想ではないでしょうか。

 現実的には、日本中の学校でこのようなことは日常茶飯事です。小学校入学当初の低学年が学級崩壊を起こしている事例はいくらでもあるでしょうし、わたしの勤める中学校では、もっと事態は深刻です。

 日本中の学校(公立を含め私立までも)がそうなってしまった背景は、過剰な「子ども中心主義」です。
 日本中の学校で、「個性尊重」などと美辞麗句を並びたて、
性善説(子どもは生まれながらにして善者であり、社会生活によって悪者に成るという考え方)に立ったような、「子どもは天使論」が闊歩しています。

 実際に子どもを育てた経験のある大人なら、
子どもは、「教育を施さないと人間性を失い、我が儘放題で、動物的に育ってしまう」ことくらい知っています。
 子どもが天使のはずはなく、教育が行き届かないと悪魔にすらなってしまうことは、多くの大人は直感的に分かります。

 なのに、教育界では、
「子どもの言うことを聞いてやり、ある程度自由を尊重することが、個性を伸ばして成長を促す」かのような、デタラメがまかり通るのです。

 以前にも書きましたが、教育とは「強制」であり、「矯正」でもあります。特に、人間としての基礎を培う義務教育では、「ダメなものはダメ」という常識を身につけさせなければなりませんし、その為には厳しい態度で毅然と指導することが不可欠です。
 
 茶道の世界では、弟子教育の真髄を「守破離(しゅはり)」と表現するとそうです。まずは、師匠の教えをしっかりと「守り」、基礎ができれば師匠の教えを「破り」、最後に師匠の教えから「離れる」ことで、茶道家として大成するのだそうです。その基本は、何よりも「守」です。

 このように、かつての日本人は教育の何たるかを、その歴史や文化の中で身につけていました。まずは、人間としての基礎をつくること、「守」が大切であることを十分に知っていたのです。
 しかし翻って現代の教育者は、それらを野蛮な教育であると断罪し、左翼思想に冒された「人権主義」を標榜し、子どもに迎合する道を選び歩んできました。

 それが、今日の教育の崩壊を招いたことは明白でしょう。

 今回の愛子内親王さまの問題は、特別な問題ではなく、その男児たちを十分に指導できなかった教師の問題ですし、その原因を作った教育界全体にあります。
 わたしも、教育者として猛省しなければなりません。

 もう一度、教育の原点に立ち返り、「ダメなものはダメである。」と厳しい姿勢で真っ当な指導をすることが、本当の優しさであり、教育であることを日本人が取り戻す必要があるのです。

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vol.19 外国人を感動させた日本人の道徳心

 今の日本(人)の良いところを書きましょう。(数字は回答した人数)

・和食がおいしい (2)  ・いろんな技術が発展している (3)
・小さいものをつくることができる ・携帯の技術がすごい (2)  
・発光ダイオードの発明 ・子どもはみんな教育を受けられる 
・日本独自の文化がある (2) ・伝統の踊りや方言がある  
・着物などの伝統の服がある  ・平和主義(戦争がない) (3) 
・和があるところ ・周りへの気配り 
・有名な城や建物がたくさんある 
・古い町並み ・緑が豊かなところ (3) 
・省エネ、エコが盛んで世界を引っ張る。 (2)・ まじめなところ。 
・経済の発展  ・四季がある ・優秀な技術者
・高度な医療技術 (2)(ベトちゃん、ドクちゃんの治療を日本がした) 
・自動車(トヨタ) (2) ・ 礼儀に厳しい ・漫画が外国で売れている
・無回答 (4)   

 わたしの中学校3年生道徳授業の導入で書かせた記述式質問の回答です。生徒の肯定的日本像を探ってみるのが目的です。
 
 生徒は広範囲に日本の良いところを探していますが、当初は「分からない~」「見つからん~」との反応が多く、
「世界と比べて何が優れていると思いますか」と
もう一度尋ねると書けた生徒が多くいました。中学生らしく、日常生活やテレビなどの情報から答えることができましたが、普段は考えたことがないようで、かなり苦慮している様子でした。


 その生徒たちに、「外国人を感動させた日本人の心」という授業をしました。郷土や我が国を愛する心を育てるための授業です。
 詳細は割愛しますが、ゴローニン(18世紀ロシアの捕虜として函館に幽閉される。その捕虜を当時の日本人たちは手厚く遇します。彼が、当時の日本民族の聡明さや勤勉さを紹介した「日本幽囚記」の一部を紹介する)のわずか50分の授業で、生徒が最後に書いた感想文の一例を紹介します。

(授業後の生徒の感想例)
・ かつての日本人がそんなにも心優しかったことに驚いた。今の日本は豊かになったけど、何か大切なものを忘れてしまっていると思った。

・ 今の豊かな日本があるのも、かつての日本人から受け継いだ遺産があるからだという先生の話は、おもしろかった。豊かなのが当たり前だと思っていたけど、これからは感謝せないかんと思った。

・ 弱いものを助ける心を日本人が昔から持っていたことに感動した。自分たちは、弱いものを助ける気持ちを持っているのか考えさせられた。みんなが、弱いものを助ける心をもっていれば、いじめなんてないはずなのに、やはり日本人は変わってしまったのだろうかと思った。

 いかがでしょうか。かつての日本人の姿を文書で伝え、わたしが補足する話を5分程度しただけの彼らの感想です。

 彼らの中に、いかに瑞々しい感性と日本人のDNAが宿っているか分かる気がします。このように「日本」を感じる心は、生徒の中に確実に眠っています。  
わたしは、いじめの話など一言も触れませんでしたが、「感動」が、深い「思考」を呼び覚ましているかのようです。 
 

 その心を掘り起こすのはわたしたち、大人です。




vol.18 教師論(愛国心を問う)

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 教師とは、どうあるべきか。
それを考えるには、教師とは何を教えるのかを紐解く必要があります。

 それは、教科ではありません。
少なくとも教科指導(国語や数学など)は、教育の手段であって、目的でありません。義務教育で、日本史のスペシャリストを育てるわけではありませんし、学校だけでオリンピック選手を育てることはできません。ですから、教科を教えることだけが教師の役割ではなく、教科を通して教えるべきことは何かということです。

 学習態度や、思いやり、協調性、公共性や公平性など、教えなければならないことはたくさんありますが、今回はもっと中心的なことを考えてみます。

 そのために、まず問わねばならないのは、誰が誰を教えているかということです。
 それは、言わずもがなでしょう。
もちろん、日本人が日本人を教えているという明確で単純なことです。
最近では、公立学校に外国人子女が在籍することもありますが、ほとんどの子どもは日本人ですし、外国語を指導する外国人以外の教師は日本人です。
 
 しかし、このことが実はあまりにも当たり前すぎて、ほとんどの教師は意識していません。日本人の子どもを教えるのですから、教師は、日本人を育てているのですが、そのことに気がついていないか、意図的に気付かないふりをしているのです。

 結論を言うと、教科を通して教えることは、日本人としての教養であり、日本人としての在り方であり、生き方です。
 日本人として生まれてきた子どもたちは、日本人として生きていきます。それは死ぬまで変わらない事実です。
グローバル化などと言っても、世界が無国籍になるわけではありませんし、日本人だからこそ世界で評価されているのですから、日本人としての生き方を教えることが、子どもたちを幸せにして、真の国際人を育てることになります。

  かつて、国民教育の父と言われた森信三先生が、
「教師たるもの、民族の将来を見据えて教育に当たらなければ、本当の教師とは言えない」
という旨のことをおっしゃっているように、
「日本民族の将来を見据えて、より善い日本人を育てる」ことが教師の務めです。
 ですから、まず教師として絶対に必要なことは、国を愛する心、そう愛国心です。日本を愛していない人間が、真の日本人を育てることなどできません。(何をもって日本や国と規定するかは、後日書きます)

 
                                                       しかdappannomitiし、残念なことに大学で教員免許の単位を取得しても、こんな当たり前のことを教えられません。意図的に教えていないと言った方が正しいかもしれません。
 大切なことは何も教えられず、ただ教科や道徳の教育法や心理学、学級経営など、枝葉のことばかり教えられます。それはそれで大事なのですが、多くの教員が教育の目的を明確にできずに教師になっているのが現状です。
 こういうと、「人格の形成」が教育の目的であると反論する人もいますが、どこの国の人の人格を形成するのかという当たり前のことが抜けています。もちろん、目指す人格として共通するものはあるでしょうが、米国には米国の、中国には中国の目指す人格がありますし、あって当たり前です。ですから、日本人には日本人として目指す人格があるはずです。


 教師の資質がとやかく言われます。しかし、最も大切な資質である、「日本を愛していること」が話題になることはほとんどありません。教師として、日本を愛することが、日本で生まれた子どもたちを本当に愛することになるのですが、そのことを問われることはまずありません。

 日教組は、教員を労働者だと言います。しかし、教師は単純な労働者であってはなりません。教育専門職として、子どもの真の幸せとは何か、問い続けながら、教育に当たる必要があるのです。

 
※かつての日本人は、国を憂いて祖国を後にした(高知県梼原町 脱藩の道) 筆者撮影

vol.17 日本人教育序論

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 子どもに、日本人である肯定感を持たせるにはどうすればよいでしょう。  どのような歴史的事実に焦点を当てることで、子どもに日本という国柄を肯定的に受け止めさせることができるでしょう。  これは大変大きな課題です。  その答えは様々でしょうが、わたしが教室でまず最初に教えるのは、古代から現在まで続く世界最古の歴史です。 初代神武天皇から125代今上天皇まで2670年(今年は皇紀2670年にあたります)続く皇室(王朝)を戴いてきた国家は、世界ひろしと言えども私たち日本国だけです。日本の皇室は、古代は別にしても、武力で民衆を抑圧して存在してきた訳ではありませんから、私たち日本人の意志として皇室を存続させてきたことは疑いありません。  仮に2670年という年数が正確で無いにしても、2000年もの長い年数に渡って続いてきた王朝は他にありません。そして、日本国の場合は、その皇室(王朝)の歴史がそのまま国の成り立ちからの歴史と完全に重なる唯一の国であり、その国が近代国家として今なお続いている世界最古の国家なのです。  子どもたちは、このような事実を知りません。教えられたことすらないので当然です。その子どもたちに、この話をすると彼らの目は見る見るうちに輝き始めます。何度も新しい子どもと出会い、同じ話をしてきましたが、この反応が変わることはありません。今まで「肯定的」に日本を見る目を与えられて来なかった子どもたちですが、「自分自身も2000年の歴史の一部になれること」に、驚きと、やがては喜びを感じるようになります。  このような事実を教えることは、決して憚られることではありません。むしろ、歴史的事実として正しいのですから、積極的に教えるべきです。しかし、戦後教育の中では、日本を肯定的に捉えることを敢えて避けてきました。「日本悪玉史観」が徹底されているからです。 しかし、仮に、日本が本当に世界の悪玉であるならば、世界最古の歴史を有する国家として現在も続いているはずはないでしょう。悪は滅びますが、戦争に勝った米国でさえ、日本を歴史の中から抹殺することはできませんでした。  ちなみに、世界第2位SH3800020001_Rの連続した歴史を持つ国家は英国ですそれでも、900年ほどと言いますから、いかに日本の歴史が雄大で尊いか分かるでしょう。このような事実を子どもに教えるだけでも、子どもたちは歴史の連続性を意識して、日本人としての誇りを持てるようになるはずです。 ※写真と本文は関係ありません。私の写したイメージ写真です。  

vol.16 いじめをなくす教育論

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 「いじめ」が教育現場で問題視されるようになって、随分と長い年月が過ぎました。様々な悲劇を繰り返しながらも、現在も未だ解決にいたりません。最近では、「ネットいじめ」という新しい形態のいじめが問題になっています。

 そもそも、いじめはなぜ起こるのでしょうか。
それは、「優越感」やその逆に「劣等感」、ときには「嫉妬心」といった人間の心にある奥深い部分が関係しています。
「人より優位な立場に立ちたい」
「人に認められたい」
「ダメな人間に見られたくない」
そういった人間の本能に近い感情(心)が、いじめには深く関係しています。ですから、自分より立場の弱い人間や人と少し違った行動や容姿など、些細な違いに心を奪われて相手を攻撃していまう、人間の弱さが原因です。そして、それは大人の社会でもあることです。

 しかし、そう思うことそのものが問題なのではありません。ときには、そういった感情が、「向上心」や「よい競争心」となって成長の糧にすらなります。

 では、いじめになってしまうのはなぜでしょう。
それは、相手を言葉や態度、暴力などで攻撃することで、そういった自己欲求を満たそうとするからです。多くの場合は、攻撃する側が多数となり、少数の人間を攻撃する構図ができあがってしまいます。それに傍観者が加わり、いじめがエスカレートしてしまうのです。

 これらのいじめを防ぐには、まず、人にはそういった「優越感」「劣等感」「嫉妬心」などがあることを理解させる必要があります。そういった感情があるからこそ、人は成長できるのだと肯定的に受け入れさせることが必要です。

 そして、いじめに対して教えることはただ一つ。

「卑怯なことはするな。」

この一言だけです。

 日本人は、卑怯なことを最も軽蔑する道徳心を持ってきました。他人を顧みない卑怯な行為は、忌み嫌われる最低の行為だったのです。

 しかし、戦後教育は、子どもの個性を尊重するあまり、我が儘放題の子どもを育ててきました。
 そして、いつしか自分さえ良けれよければ…という自己中心的な考えが大人の社会でも蔓延るようになり、「卑怯」という言葉さえ耳にすることが少なくなりました。例え「卑怯であろうが、自分が得をすれば(損をしなければ)それでよい」という価値観が蔓延ってきたのです。


 今こそ、大人が「卑怯なことは許さない」と声を大にして子どもに教えるべきです。
 かつては、「家名を汚す」、「ご先祖様に顔向けができない」と、卑怯な行為が自分だけの恥辱では済まされないと、子どもたちに教えた時代がありました。それを取り戻せばよいのです。
 
 さすがに、家長制度の崩れた今の時代に「家名を汚す」と言っても子どもたちには伝わりにくいでしょう。ですが、「父や母の顔に泥を塗る」くらいのことは分かるでしょう。大人がそう言えばいいのです。

 戦後教育に毒された個人主義を脱して、かつての日本の親が教えたように子どもたちに教えることが必要です。それが、道理に適った教育ですし、いじめを無くす唯一の方法です。

vol.15 子どもたちに「皇室」をいかに教えるか(1)

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日本の伝統文化を子どもたちに教えていくときに、「皇室をどう教えるか?」という問題があります。

 我が国は、国民が万系一世の皇室を敬愛し、重んじることで2000年に渡る「国の歴史」を紡いできました。
 そのことを考えただけでも、日本の伝統文化とは皇室そのものであり、日本が日本たるべき唯一の理由であることが分かります。
 
 ですから、我が国の場合は、保守思想が保守すべきものは、皇室であって、皇室を保守しない保守思想などというものはあり得ません。以前はそれを「国体」と呼んでいました。
 それほどに、「皇室」と「国民」が長い年月をかけて築いてきた信頼関係があるのです。そして、この国民の至宝を次世代に確実につないでいくことが、現代を生きるわたしたちの使命です。

 しかしながら、戦後教育は、米国から侵入した「自由・平等・人権」などという、左翼思想に冒された薄っぺらな「人権教育」が幅を利かせてきました。
そして、「皇室」を結果の平等の光で照らして、「不平等」な社会制度であるかのごとき教育を続けてきました。
「天皇制が、差別の元凶である」などの【とんでも説】まで持ちだして、それを左翼学者が肉付けして子どもたちを洗脳し続けています。

 今までに何度も書いてきましたが、こういった教育を受けてきた子どもたちは、自らの日本人としてのアイデンティティーすら確立できずに、国際社会ばかりか、日本社会においても浮遊してしまいます。そしてついには、心を病んで生きる意味すら失ってしまいかねません。

では、どうやって「皇室」を教えていくのか、考えてみましょう。

歴史教育などで、安易に「皇室」の歴史を肯定すると、皇国史観の誹りを招いて、
「戦前回帰の教育である。」
「戦争を美化する教育だ。」
などと、内容もまともに精査しないで右翼のレッテルを張り付けられて、皇室について議論することすら封鎖されかねません。
そういった連中が、学校現場には大勢いることを忘れてはなりません。

 そこで、そういった難癖を受けずに、子どもたちに「皇室」を教えるには、今上天皇、皇后両陛下のありのままのお姿を教えることが大切です。例えば、全国の自然災害の被災者に行幸され、お見舞いされるお姿を子どもたちに伝えるのです。
 
 教える時間は、「道徳」です。
徳目としては、「思いやり」「相手の立場に立って行動する」など、いくらでもあります。ビデオなどで、実際に膝を交えて語られるお姿や、被災民との心温まるエピソードなどを映像から学ばせるのもいいでしょう。
 きっと、子どもたちは、両陛下の万民に分け隔てなく接される姿に感動し、その深い祈りに感謝するはずです。

 このように、皇室の歴史を語らずとも、心で感じることはできます。現代の子どもたちには、むしろ、こういった心の学びこそが必要です。

 「いじめはいけない」と教えることも大切ですが、このような深い愛情や祈りに触れて、日本人としての心を育むことが、本当にいじめを無くす(防ぐ)ことにつながるのです。いじめについては、後日に詳しく述べていきます。

 今から150年前、西洋列強の圧力で我が国が存亡の危機に面したとき、ときの日本人は幕府を倒す道を選び、「尊王」を掲げて国をまとめました。
 教育が混乱し、真の日本人が育たなくなった今、混沌とした時代を生きる我が国は、再び存亡の危機を迎えようとしています。だからこそ、わたしたち大人が、自信を持って「皇室」について、子どもたちに語る必要があるのです。




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