第57回よさこい祭り
地元高知で行われた「第57回よさこい祭り」に、学校として参加してきました。
今年で連続9回目の参加ですが、県内中学校で参加しているのは、本校だけ、唯一です。
夏の祭りへの参加に向けて、1学期から放課後や総合の時間を活用して、踊りの練習から、地方車(音響を鳴らすトラック)の装飾パネルの作成、衣装作成、鳴子(踊りで手に持って鳴らす道具)の作成…と
3年生を中心にして学校を挙げて準備をしてきました。
そして、夏休み返上で、前日まで踊りを練習して、完成度を高めてきたのです。
踊っている生徒たち、地方車に乗って「あおり」(歌を歌ったり、口上を述べたりすること)を担当する生徒たち、カメラやビデオに記録を残す生徒たち…本当に素晴らしい笑顔でした。
地元企業や地域の寄付から
参加するにあたっては、実は莫大な資金が必要になります。
せっかく、全国へ発信できる地元のお祭りなのに、学校単位でなかなか参加できない一つの遠因です。
踊り子の生徒を運搬するバス、地方車(トラック)、音響機器の借り上げだけでも、相当な金額がかかります。
それに、踊りのプロによる振付指導や曲の作成、地方車の装飾、衣装など…とても、公立学校の経費で賄える訳はありません。
ですから、地元企業や地域の皆さんから寄付を募って資金調達をします。
生徒たちが、実際に地元企業へ出かけ、寄付(広告料)をお願いして回ります。
(地方車に広告を掲載します)
それでも、もちろん潤沢な費用が得られる訳ではありません。
ですから、踊りに使用する曲も、衣装も、昨年度までのものを少しアレンジして使い廻します。
そうやって、工夫しながら資金を捻出したり、支出を減らしたりして、何とか9回連続参加を続けてきました。
このように、地元企業や地域の皆さんから実際に寄付をいただき、学校の対外活動などに使わせていただくのです。
そして、中学校が地域活性化の一翼を担っていくのです。
寄付金による企業の減税控除を
地元貢献を社是とする企業は多くあります。
ですが、これらの地域の学校への寄付行為は、現行法では減税控除の対象になりません。
企業の地元貢献への機会が、現行法によって阻害されているとすら言えます。
地域企業が、地域の学校へ金銭的援助をして、地域の子どもの育ちに貢献することは、地域活性化においても、地元に根差す企業運営にとっても、とても意味のあることです。
そして、企業を含む地域の活性化は、我が国全体の活性化にもつながります。
もちろん、地元企業には、多くの保護者も勤めている訳ですから、地域全体で、地域の子どもたちの教育・成長に関わるという観点からも、地元企業と地域の学校とのかかわりはとても大切です。
そのためにも、法整備が進むことを期待しています。
2010年08月
尊い犠牲の果てに

大阪市西区のマンションで2人の幼児が母親に置き去りにされて死亡した虐待事件は発覚から1週間が過ぎた。悲劇を防げなかったことへの後悔や反省から、現場のマンション住人に、事件の遠因となった希薄な人間関係を問い直す動きが出始めた。「失われた小さな命を無駄にしたくない」。若者たちは互いに交流を呼びかけ、定期的に会合を開くことも考えている。(産経新聞)
7月30日に幼児二人の遺体がマンションで発見され母親が逮捕された事件で、マンションの住人たちが互いの人間関係の希薄さがこの事件の遠因になったと、新たに人間関係を作る活動を始めまたようです。
住人らは、ほとんどが20~30歳代の一人暮らしの若者だそうですが、子どもたちの尊い犠牲を無駄にしてはならないと立ち上がったのです。
もう二度と起きてはならない事件ですが、その事件から地域や住人の「人間関係の希薄さ」に気付き、住人の交流を深めようと立ち上がった若者たちの行動に頭が下がる思いがします。
彼らは、若いゆえに、事件の本質を見抜く目とあきらめない行動力があったのです。
「児童相談所の落ち度のせい」だけではない
以前にも、幼児虐待については記事を書きました。
幼児虐待事件が起きるたびに、繰り返し報道されることは、児童相談所の不手際や対応の遅さです。
児童虐待防止法が施行されて、児童相談所の役割が高まっていることは事実ですが、あまりにも多くの相談をひとりのケースワーカーが担当しなければならず悲鳴を挙げている現場を、私も教育行政に関わる身として現実に知っています。
児童相談所では、職員の専門性を高める研修や、実働的な動きができるような組織改編をするなど、努力を繰り返してますが、まだまだ社会で起きる喫緊の事態に対応しきれていません。
もちろん、国や地方自治体は、法律の不備改正や児童相談所の機能充実に努力を惜しんではなりませんが、幼児虐待事件が起きるたびに、国民が児童相談所や行政のせいだけにしていたのでは、解決しません。
それは、前vol.で書いたように、高齢者不明問題を行政の怠慢だけのせいにしても解決しないことと同じです。
「おせっかい」で丁度いい
今回のマンションの住人の若者たちは、他者や行政だけのせいにすることなく、自分たちが虐待事件を防ぐために行動を起こしているのです。
今の日本の社会に必要なのは、「おせっかい」です。
ちょっと「おせっかい」な位で、人間関係はちょうどなのです。
「ほっといてほしい」「プライバシーの侵害だ」と毛嫌いする人もいるでしょうが、かつての日本の社会は、『向こう三軒両隣』といって、近所とは家族同様のつきあいをしてきました。
戦後教育の中で、個性尊重や自己の権利やプライバシーなどが大声で叫ばれ、「他者の尊重」との美名のもと、人間関係を希薄化する思想ばかりが闊歩してきました。
家庭でも子供部屋が当たり前になり、子どもが携帯電話を所持して、親が子供の行動を把握できない時代になってしまいました。
「子どもの権利条約」なる偏向思想まで教育現場に取り入れられ、教育現場は混乱するばかりです。
もうそろそろ、そんな流れに別れを告げて、互いに関り合い認め合いながらも、「おせっかい」なくらいが丁度いいことを子どもに教えていかなければなりません。
それが、将来的に家族の絆や地域の絆へとつながり、豊かな日本社会を形作っていくのです。

大阪市西区のマンションで2人の幼児が母親に置き去りにされて死亡した虐待事件は発覚から1週間が過ぎた。悲劇を防げなかったことへの後悔や反省から、現場のマンション住人に、事件の遠因となった希薄な人間関係を問い直す動きが出始めた。「失われた小さな命を無駄にしたくない」。若者たちは互いに交流を呼びかけ、定期的に会合を開くことも考えている。(産経新聞)
7月30日に幼児二人の遺体がマンションで発見され母親が逮捕された事件で、マンションの住人たちが互いの人間関係の希薄さがこの事件の遠因になったと、新たに人間関係を作る活動を始めまたようです。
住人らは、ほとんどが20~30歳代の一人暮らしの若者だそうですが、子どもたちの尊い犠牲を無駄にしてはならないと立ち上がったのです。
もう二度と起きてはならない事件ですが、その事件から地域や住人の「人間関係の希薄さ」に気付き、住人の交流を深めようと立ち上がった若者たちの行動に頭が下がる思いがします。
彼らは、若いゆえに、事件の本質を見抜く目とあきらめない行動力があったのです。
「児童相談所の落ち度のせい」だけではない
以前にも、幼児虐待については記事を書きました。
幼児虐待事件が起きるたびに、繰り返し報道されることは、児童相談所の不手際や対応の遅さです。
児童虐待防止法が施行されて、児童相談所の役割が高まっていることは事実ですが、あまりにも多くの相談をひとりのケースワーカーが担当しなければならず悲鳴を挙げている現場を、私も教育行政に関わる身として現実に知っています。
児童相談所では、職員の専門性を高める研修や、実働的な動きができるような組織改編をするなど、努力を繰り返してますが、まだまだ社会で起きる喫緊の事態に対応しきれていません。
もちろん、国や地方自治体は、法律の不備改正や児童相談所の機能充実に努力を惜しんではなりませんが、幼児虐待事件が起きるたびに、国民が児童相談所や行政のせいだけにしていたのでは、解決しません。
それは、前vol.で書いたように、高齢者不明問題を行政の怠慢だけのせいにしても解決しないことと同じです。
「おせっかい」で丁度いい
今回のマンションの住人の若者たちは、他者や行政だけのせいにすることなく、自分たちが虐待事件を防ぐために行動を起こしているのです。
今の日本の社会に必要なのは、「おせっかい」です。
ちょっと「おせっかい」な位で、人間関係はちょうどなのです。
「ほっといてほしい」「プライバシーの侵害だ」と毛嫌いする人もいるでしょうが、かつての日本の社会は、『向こう三軒両隣』といって、近所とは家族同様のつきあいをしてきました。
戦後教育の中で、個性尊重や自己の権利やプライバシーなどが大声で叫ばれ、「他者の尊重」との美名のもと、人間関係を希薄化する思想ばかりが闊歩してきました。
家庭でも子供部屋が当たり前になり、子どもが携帯電話を所持して、親が子供の行動を把握できない時代になってしまいました。
「子どもの権利条約」なる偏向思想まで教育現場に取り入れられ、教育現場は混乱するばかりです。
もうそろそろ、そんな流れに別れを告げて、互いに関り合い認め合いながらも、「おせっかい」なくらいが丁度いいことを子どもに教えていかなければなりません。
それが、将来的に家族の絆や地域の絆へとつながり、豊かな日本社会を形作っていくのです。
親の生死に興味がない家族
全国で高齢者の所在不明が相次いでいる問題で、新たに札幌市、堺市などで100歳以上の高齢者10人の所在が確認できていないことが5日午後、分かった。当初、18人の行方が分からないとしていた大阪府東大阪市で、同日の調査の結果不明者が13人となったことから、時事通信のまとめでは、全国の所在不明は18都道府県で66人となった。(時事通信)
他社の集計では、もっと多いとの結果も出ているようです。
都内最高齢とされる113歳の女性の所在が不明になったことを受け、各地で高齢者の所在不明が相次ぎ明らかになりました。
行政の落ち度として指摘されていますが、個人情報保護法などの制約もあり、今まで実態把握がなおざりになっていたのでしょう。
書類が最も重要視される行政には、おのずと限界があり、致し方ないように思います。
しかし、家族はそうではないでしょう。
家族が、不明のまま放置しているとすれば、家族の情の希薄さも「事ここに至れり」という感がします。
愛知の106歳が不明の件では、登録された住所は更地になっている上、親族も所在を把握していなかった(産経新聞)東京の105歳が不明になった件では、 家族は、『数年前に出て行ったきりどこにいるか分からない』」(朝日新聞)と言い、神奈川の104歳が不明 の件では、家族は『もともと家を出てはふらっと帰って来る人で、生死も分からない』」(毎日新聞)など、親の命すら軽々しく考える家族の情の希薄さを感じるのです。
行政の責任というよりは、家族の責任が第一義です。
親の所在や存命かどうかにすら、責任を持たない日本人が増えているのでは…と日本社会の情の希薄さに恐ろしい思いすらします。
親ニ孝シ
今までに何度も書いてきましたが、明治天皇が示された「教育勅語」には、人の徳として、第一に「親ニ孝シ」と、親孝行が挙げられています。
かつての日本人には、「親孝行」が最も大切な徳目として教えられていたのです。
やがて自分が親になることを考えると、次世代につないでいく上でも、大変大切な徳目でした。
しかし、先の大戦後、「教育勅語」は国会決議で否定され、日本人は悠久の時を経て形作られてきた日本人としての徳目を失うことになりました。
そして、この国から「親孝行」という言葉さえも消え去ろうとしているのです。
100歳以上の高齢者の子どもたちを、70~80歳程とすると、ちょうど初期の戦後教育を受けてきた世代です。戦前の教科書は、黒く塗りつぶされ、全然の価値観を全否定してスタートした戦後教育の洗礼を受けているのです。
だからそうなのかどうかは、証明できませんが、その世代から美しき日本の姿は断絶しているとしか、思えないのです。
もちろん、私たちも戦後教育を受けて育ってきました。
しかし、戦後60年を有して、やっと私を含む日本人がその欺瞞に気付き始めたのです。
そして、どうやら日本人の道徳心や公共心の衰退には、「教育勅語の否定」が関与しているようであると気付きだしたのです。
この事件をそのまま行政のせいにして終わらせてはなりません。
まして、「特別の事例だ」「普通の家族に起こることではない」と、他人事にしてしまってはいけないのです。
この事件は、戦後の日本人の有り様を私たちに突きつけているのです。
日本人は、もう一度「教育勅語」の精神を取り戻し、子どもたち次の世代に受け継いでいく必要があるのではないでしょうか?
大いに国民で議論する必要があるようです。
全国で高齢者の所在不明が相次いでいる問題で、新たに札幌市、堺市などで100歳以上の高齢者10人の所在が確認できていないことが5日午後、分かった。当初、18人の行方が分からないとしていた大阪府東大阪市で、同日の調査の結果不明者が13人となったことから、時事通信のまとめでは、全国の所在不明は18都道府県で66人となった。(時事通信)
他社の集計では、もっと多いとの結果も出ているようです。
都内最高齢とされる113歳の女性の所在が不明になったことを受け、各地で高齢者の所在不明が相次ぎ明らかになりました。
行政の落ち度として指摘されていますが、個人情報保護法などの制約もあり、今まで実態把握がなおざりになっていたのでしょう。
書類が最も重要視される行政には、おのずと限界があり、致し方ないように思います。
しかし、家族はそうではないでしょう。
家族が、不明のまま放置しているとすれば、家族の情の希薄さも「事ここに至れり」という感がします。
愛知の106歳が不明の件では、登録された住所は更地になっている上、親族も所在を把握していなかった(産経新聞)東京の105歳が不明になった件では、 家族は、『数年前に出て行ったきりどこにいるか分からない』」(朝日新聞)と言い、神奈川の104歳が不明 の件では、家族は『もともと家を出てはふらっと帰って来る人で、生死も分からない』」(毎日新聞)など、親の命すら軽々しく考える家族の情の希薄さを感じるのです。
行政の責任というよりは、家族の責任が第一義です。
親の所在や存命かどうかにすら、責任を持たない日本人が増えているのでは…と日本社会の情の希薄さに恐ろしい思いすらします。
親ニ孝シ
今までに何度も書いてきましたが、明治天皇が示された「教育勅語」には、人の徳として、第一に「親ニ孝シ」と、親孝行が挙げられています。
かつての日本人には、「親孝行」が最も大切な徳目として教えられていたのです。
やがて自分が親になることを考えると、次世代につないでいく上でも、大変大切な徳目でした。
しかし、先の大戦後、「教育勅語」は国会決議で否定され、日本人は悠久の時を経て形作られてきた日本人としての徳目を失うことになりました。
そして、この国から「親孝行」という言葉さえも消え去ろうとしているのです。
100歳以上の高齢者の子どもたちを、70~80歳程とすると、ちょうど初期の戦後教育を受けてきた世代です。戦前の教科書は、黒く塗りつぶされ、全然の価値観を全否定してスタートした戦後教育の洗礼を受けているのです。
だからそうなのかどうかは、証明できませんが、その世代から美しき日本の姿は断絶しているとしか、思えないのです。
もちろん、私たちも戦後教育を受けて育ってきました。
しかし、戦後60年を有して、やっと私を含む日本人がその欺瞞に気付き始めたのです。
そして、どうやら日本人の道徳心や公共心の衰退には、「教育勅語の否定」が関与しているようであると気付きだしたのです。
この事件をそのまま行政のせいにして終わらせてはなりません。
まして、「特別の事例だ」「普通の家族に起こることではない」と、他人事にしてしまってはいけないのです。
この事件は、戦後の日本人の有り様を私たちに突きつけているのです。
日本人は、もう一度「教育勅語」の精神を取り戻し、子どもたち次の世代に受け継いでいく必要があるのではないでしょうか?
大いに国民で議論する必要があるようです。
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