国民教育のススメ ~教育正常化の風~

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2011年01月

vol.87 老舗企業から学ぶ「信頼感」

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ファーストフードも「老舗」の日本

大都会から片田舎の隅々まで、いたるところにある牛丼の「吉野家」が、昨年創業111年を記念してキャンペーンをしていました。

現代のファーストフードとも言える牛丼の「吉野家」が、111年も続いている老舗企業であることに驚きつつ、美味しさの理由が分かったような気がしました。

考えてみると私たちの周囲には、「創業○○年」とその歴史を冠する老舗がとても多くあることに気がつきます。

思いつくものを少し挙げただけでも、天正年間(1573~92年)創業のヒガシマル醤油(兵庫県)や、延宝元年(1673年)創業の三越百貨店(東京都)、宝永4年(1707年)創業の赤福(三重県)など、ご当地銘菓となるとその多くが老舗企業であるように、私たちの身近に老舗企業は今も生きています。

 

日本は「老舗」天国

現代も大阪に残る建設業「金剛組」は、聖徳太子の御代、敏達天皇6年(567年)、我が国初の官寺である四天王寺を建てる為に百済から渡来した工匠たちが創業しました。

「金剛組」は、四天王寺専属の宮大工集団となって、大阪冬の陣など幾多の戦火によって焼失した寺を生まれ変わらせ続け、幾多の厳しい時代を乗り越えて老舗企業として現在まで続いています。

もちろん、その古さは他の追随を許さず世界最古で、1400年以上もの間、伝統建築である寺社を建て続け、守り抜いてきた奇跡の老舗企業と言えるでしょう。

 

日本には創業以来200年を超える企業が3000社も残っています。

創業200年というと、同じアジアでも中国ではわずかに9社、インドは3社残るばかりで、韓国には全くありません。

我が国は、100年以上続く企業だと15000社もあると言われており、まさに「老舗」天国です。

日本は、皇室とともに神話の時代から2000年以上も続く世界地図上の最古の国家ですから、世界最古の企業があることも、老舗が多く残ることも決して不思議ではありません。

中国の自称「4000年の歴史」は、支配王朝が民族ごと入れ替わり、前王朝を徹底して破壊してきた断裂した歴史ですから、いくら表面上の歴史が長くても老舗企業が少ないことは当然です。

こんな所にも、私たち日本人が世界に誇れる歴史が隠れているのです。

 

不義にして富ま

ある老舗酒造業の家訓に「不義にして富まず」とあるように、これら老舗に共通するのは、「三方よし」という考え方です。

三方とは、「お客様」「企業」「社会(世間)」のことです。

商売は、企業だけが得をしていたのでは、ゆくゆく客が離れてしまい、一時的には儲けてもやがて潰れてしまいます。

ですから、ご先祖から受け継いできた技術で、世のためになるものを造って売ることで、何か世の中の役に立ちたい…その志こそが、日本の老舗を次世代へとつないできたと言えます。

もちろん、この「三方よし」という考え方は、世間への根強い「信頼感」が流れていればこそです。

中国のように、騙し合い、奪い合うような侵略の歴史が繰り返されてきた社会では、醸成されることがないものです。

老舗企業は、世間を信頼しているからこそ、「誠を尽くして商売をしていれば、世間は受け入れてくれる。」と正業に励み、その歴史を現在まで紡いできたのです。

 

現在の私たちは、日本の社会(世間)の根底に流れる「信頼感」を意識することはほとんどありません。

しかし、私たちは、我が国が悠久の歴史の中で紡いできた国民相互の「信頼感」こそ、大切にしなければなりません。

それは、世界に誇れる文化だからです。

老舗企業は、そのことを私たち国民に教えてくれています。

学校でも、「生徒同士」「教師と生徒」「教師と保護者」そして、「教師同士」の「信頼感」もがどんどん失われようとしています。

だからこそ、子どもたちに老舗企業が続いてきた意義や素晴らしさを教えたいものです。

vol.86 「孫の教育は奉公なり」 かつての日本の家庭教育観 ~武士の家計簿より~

武士の家計簿

武士の家計簿~「加賀藩御算用者」の幕末維新(磯田道史 著)という本をご存じのことでしょう。

加賀藩御算用者の猪山家に残された古文書を紐解き、幕末から明治維新を生きた武家の姿を明らかにすることを試みた磯田氏の労作です。

藩政期から明治にかけて、生活苦から借金を重ねながらも、懸命に武家としての家格を守り抜く武家の悲哀と、明治維新という激動の時代を生き抜く武家のしたたかさが良く分かる良書です。

 

猪山家は、武家の中では身分的に恵まれてはいませんでしたが、幕末の頃の当主、猪山成之が、政治の中心となった京都に加賀藩兵を駐留させるための兵站事務をつかさどるために京へと登り、大活躍しました。

その活躍が認められた縁で、大政奉還の後は、新政府の「軍務官会計方」に任用され、後には「海軍掛」として日本海軍の会計を担当することになります。

こうして、猪山家は、没落していく多くの士族を尻目に、新政府に出仕することができた「勝ち組」士族となったのです。

 

孫の教育が我等の奉公

兵部省に出仕した成之は、妻子と年老いた両親を金沢に残して東京で単身赴任します。成之は几帳面な性格で、家族思いですから、頻繁に家族と手紙でやり取りをしました。

 

その中に、明治5年に父直之から成之に宛てられた手紙があります。

「(孫)の綱太郎はじめの成長を念じて、『大学』の一字をも教え、また強情を叱り、あるいは遊び相手になるだけです。」

「これら(孫への教育)が「当今、我等の奉公」と心得て居るところです。」

 

直之は、孫の教育が「公」に通じる道であることをよく自覚していました。

藩政時代を生きてきた武家の「奉公するべき対象」は、華族になってしまったものの旧藩主の前田家であったのかも知れませんが、明治維新の後の直之にとっては、すでに新国家が奉公の対象だったのかも知れません。

いずれにしても、直之にとって孫を教育して立派に育てることは、公の作業だったのです。

武家にとっては、愛する我が子の幸せを願いながらも、先祖から受け継いできた「家」の発展を託して、子を教育します。

そして、立派に育った子が、「家」を背負って主家や国家の為に奉公するのですから、子育てとは、まさに「奉公」そのものだったのです。

 

家庭教育とは社会貢献

しかし、現在の家庭では、「我が子の為」だけに教育があるかのようです。

とにかく我が子に学力をつけて、一流の高校や大学へ進学させ、立派な会社や役所に勤務できるようにすることが、親の教育の唯一の目標になってしまっています。

 

かつての日本人が持っていた「奉公」という感覚を、現代の言葉に置き換えると「社会貢献」ということになるでしょうか。

そういう言葉で表現するなら、現代の親には、「我が子の教育は、親としての社会貢献」だという視点が決定的に欠落しています。

ですから、我が子のことばかりに目が眩んで、学校へとんでもない不当要求を突き付ける「モンスターペアレンツ」なるものが生まれてくるのです。

 

我が子は、いずれ社会の担い手になります。

その子が親の施す「英才教育」によって社会的成功を収めるとすれば、いずれ社会に大きな影響力を及ぼす人材となります。

その時に、人心を忘れ、利をむさぼり、挙句、他者を蹴落として成功者として成りあがったとしても、決して幸せな人生を歩むことなどできません。

 

我が子が可愛いからこそ、親にとって稀有の存在だからこそ、「人さまや社会、国のお役に立つ」ことを、幼少の頃からしっかりと子どもの心に植え付けておかないと、結局は我が子の幸せすら奪ってしまうことになりかねないのです。

かつての日本人は、我が子の教育を(社会・国家への)「奉公」だと思って、我が子に真摯に向き合ってきたという事実を、多くの方に知ってほしいと思います。

vol.85  敵兵を救助せよ! (道徳資料) ~武士道精神をいかに教えるか~

敵兵を救助せよ!


1942
年(昭和17年)3月、スラバヤ沖海戦で交戦中の日本軍に撃沈された英国軍艦の乗組員たちは、撃沈された船舶の重油にまみれ、のどの渇きと飢えに耐え、襲い来る「サメ」の恐怖と闘いながら、味方船が救助してくれることを期待して、太平洋の大海原で首から上だけを水面に浮かべて漂っていました。

漂流してすでに丸一日が過ぎようとしており、精神的にも体力的にも限界が近づいていました。

 

しかし、彼らの期待を裏切って、彼らを発見したのは味方船ではなく、敵船である日本艦船でした。

この翌年、1943年(昭和18年)に行われたビスマルク海海戦の折に、米軍やオーストラリア軍は日本軍漂流者を捕虜と見なさず、救助しないばかりか機銃掃射で無抵抗の命を奪ったように、交戦中の敵軍艦船に救助などは期待できず、彼らは死を覚悟しました。

英国兵士たちは、日本軍に機銃掃射されることを予想して、頭部をかばうように海に浮かぶ重油の中にさえ顔を埋めたのです。

 

更に、この海域は、前日には潜水艦からの攻撃によって日本軍の輸送船が撃沈されており、日本軍艦船にとってもいつ攻撃を受けるか分からない危険な海域でした。

通常は、交戦中の危険海域では漂流者を救助することはありません。したとしても、短時間だけ、そして体力の残っている兵士だけの救助です。

なぜなら、救助のためには停船しなければなりませんが、海上で停船すると攻撃の標的になり易くなってしまうからです。そうすれば、自船が撃沈される可能性さえあるのです。

ましてや味方兵の救助ではなく、敵兵の救助です。英国の漂流者たちが日本艦艇による救助をあきらめたことも、仕方ありませんでした。

 

その漂流者を発見したのは日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」でした。

駆逐艦は比較的小さい艦艇ですから、乗組員は200名ほどです。

海原を漂っている漂流者の数は、ざっとその倍以上の数でしたが、漂流者を発見した工藤俊作艦長は、危険海域であることを顧みず、即座に「戦いが終われば敵も味方もない。全員を救助せよ!」という命令を下しました。

 

雷は、機関停止して救助にあたります。

これは、戦争中の通常の救助活動ではありえないことでした。

いくら「救助活動中」の国際信号旗を掲げているとは言え、いつ敵からの攻撃を受けるか分かりません。停船した上に、機関を停止してしまうと、敵の攻撃から身をかわしたり、反撃することは全くできないのです。

それに、当初は敵からの攻撃を防ぐために警戒要員を配置して救助していましたが、救助者数が多く、敵兵が弱っていたため、工藤艦長から乗組員全員へ救助が命じられました。

まさに、艦命をかけた決死の救出作戦でした。

 

20090726_463950雷の乗組員たちは、自分たちの倍以上の数にのぼる敵兵を、艦上から縄ばしごや竹ざおを下して、それにつかまらせると甲板へ引き上げました。

しかし、中には負傷して体力が弱ってしまい自力でつかまることすらできず、海底へ沈んでいく者もありました。その様子を見た乗組員たちは、危険を顧みず海原へ飛び込んで、沈みゆく敵兵を抱え込み、その身体に綱を巻き付けて引き上げました。

そして、乗組員たちは引き上げた兵士たちにこびり付いた重油を丁寧に拭き取り、服や靴を支給し、水と食事を与えました。

それは、敵味方を越えた海の男たちの救助活動でした。

 

全員の救助が終わると、工藤艦長は、甲板に引き上げた敵兵の中から21人の士官を集めました。

そして、端正な挙手の敬礼をして彼らに敬意を表すると、流暢な英語で「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」とスピーチをしました。

英軍兵士たちは、危険を顧みずに敵兵を助けた工藤艦長の英断に感謝し、その後の日本海軍兵士の紳士的な振る舞いに対して、「これは夢ではないか」と何度も手をつねるほど喜んで、涙を流しました。

こうして、工藤艦長と雷の乗組員たちは漂流者422名全員の敵兵の命を救ったのです。

 

時を越えた感謝の念

この救出劇は、長年日本でも忘れ去られていました。

戦争中で、慌ただしいときの出来事ですから、それもまた仕方ありませんでした。

しかし、ひとりの外国人の行動が、この事実を歴史の彼方から目覚めさせたのです。

 

救助された兵士の中に、サムエル・フォール海軍中尉(当時)がいました。

工藤艦長に命を救われた彼は、終戦後、英国外交官として活躍しましたが、救助されたことへの感謝の念をずっと持ち続け、恩人である工藤艦長の消息を探し続けていました。

工藤艦長は、終戦後は軍人を退役して公職にも就かず、この救出劇を妻にさえ話さずに、日本の片隅でひっそりと暮らしていましたが、フォールさんがやっと工藤艦長の消息を突き止めた時には、工藤艦長はすでに亡くなっていました。

終戦から、すでに58年が過ぎていた2003年(平成15年)のことでした。

その後、89歳になったフォールさんは2008年(平成20年)に不自由な身体を押して来日し、埼玉県川口市内の工藤艦長の墓前で感謝の気持ちを伝えました。

その時の記者会見で、「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と述べました。

このフォールさんの行動は、当時のマスメディアにも取り上げられ、工藤艦長の偉業を多くの日本人に知らせることになり、日本人の心にも大きな感動を呼んだのです。

 

海の武士道

「海の武士道」として有名になった逸話を、私が授業用にいろいろな参考資料から中学生にも分かり易く文章にまとめた道徳資料です。

この資料から生徒に学ばせたいのは、工藤艦長の人道的行動の源泉がどこにあるのかということです。

 

当時の国際戦時法では、交戦海域での海難救助活動は、義務付けられていませんでした。交戦中の救助活動は、自らの命を落としかねないのですから、見過ごしたとしても罪にはならなかったのです。

まして、米軍は、日本軍の漂流者には容赦なく機銃掃射をして殺戮しています。

救助した敵兵に、艦内で蜂起されでもしたらと考えれば救助しないのは致し方ないのかも知れませんが、抵抗する術のない漂流者を殺戮する非道ささえも敵軍は持っていたのです。

 

しかし、工藤艦長は「全員を救助せよ!」と命令しています。

その彼の英断の裏側にあったのは、何でしょうか?

そこには、フォール氏が述べたように、その源泉には日本帝国海軍が大切にした「武士道」精神が脈々と流れていたはずです。決して、工藤艦長が海軍の中の特別な人道主義者だった訳ではないでしょう。

帝国海軍は、「雌雄決した後は敵にあらず」という精神性を持っていました。

ですから、戦闘後の敵の漂流兵士の救助活動は、邪魔をせず見守っていたと言います。

ましてや、病院船を攻撃することなどありませんでした。

 

未だ先の大戦を、日本側を一方的な「悪」として評価する「東京裁判史観」が闊歩しています。
しかし、歴史の一片を丁寧に探し照らすことで、その歴史観がいかに一方的なものであるか明瞭になります。

そんな偏った歴史観ではなく、このようなフェアな精神、敗者への労り、そして自分の危険を顧みない勇気…そういった日本人が大切にしてきた精神性を、授業を通して子どもたちに伝えなければならないのです。

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