国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

2011年02月

vol.95 ここまで歪んだ日本の高校生の心

日本の高校生「自分に満足」24%

日米中韓で最低

 日米中韓の4か国中、日本の高校生は、最も自分に自信がない――。そんな実態が、24日に発表された文部科学省所管の教育研究機関の調査でわかった。

 調査は財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」が昨年6~11月、日米中韓の高校生計約7200人を対象に実施。それによると、「私は価値のある人間だと思う」と答えた高校生は、日本が36・0%とワースト1位で、米国(89・1%)、中国(87・7%)、韓国(75・1%)の半分以下だった。「私は自分に満足している」への回答でも、米国(78・2%)、中国(68・5%)、韓国(63・3%)に比べ、日本は24・7%にとどまった。「親は私が優秀だと思っている」と答えた割合では、米国(91・3%)、中国(76・6%)、韓国(64・4%)に対し、日本は32・6%。

 調査にあたった放送大学の岩永雅也教授(教育社会学)は「不況で将来の展望を描きづらい日本の社会状況も要因になっているのでは」と見ている。

2011225  読売新聞)

 

社会全体の重大な問題


なんと驚きの結果でしょうか…。

「私は価値がある」と回答した日本の高校生は、わずか36%、「自分に満足している」と答えたのは、それよりも少なく25%弱です。

 

自己肯定感(自分を価値があると肯定的に受け止めること)が低いと、他者を好意的に受け入れる(受容する)ことが難しくなると言われています。

自分を受け入れられない人間が、他者を受け入れることはできないということです。

自己肯定感が低下すると、他者とのコミュニケーションにも支障がでてきます。

極端に言えば、自己肯定感の低下は、若者の社会生活そのものに支障をきたしかねず、国民全体の問題です。

草食系の若者の姿がここにも表れています。
 


個性偏重が子どもの心を歪める


ここで、不思議なことに気づきませんか?

現代の高校生は、学校では小学校の頃から、「個性尊重」教育を受けているはずです。

「あなたは世界でオンリーワンの存在」だと、個性を大切にされて教育されてきているのですから、「自分に満足」して、「私は価値がある」と思っているはずなのでは…という疑問です。

 

それにも関らず、これほど自己肯定感が低いというのは、日本の戦後教育に大きな欠陥があるからです。

 

自己肯定感を育てるのに、最も簡単な方法は、「自分が何かの役に立っている」ことを実感させることです。

自分以外のもの、例えば、ペットのお世話をする程度でも自己肯定感は育つと言われるほど、決して難しいことではありません。

「家族のため」「友人のため」「学校のため」「社会のため」「国のため」…など、誰かの為に生きて、それを周囲から認められることが、自己肯定感を高めるキーワードなのです。

 

しかし、学校教育では、日教組が持ちこんだ「自主性の尊重」「自己決定権」「オンリーワン」など個性尊重の指導で、生徒の自己意識ばかり肥大させてしまっています。

そんな指導のもとで、自分ばかり可愛がっては、我が儘ばかりで、誰かの役に立とうとしないのですから、誰からも認められません。

そんな独りよがりの個性を尊重すれば、むしろ心の成長を阻害してしまい、自己肯定感が高まらないばかりか、自己意識の肥大化によって、学ぶことや、生きることへの意欲の低下が進んでしまいます。

 

先述の新聞記事の調査結果は、まさに、日教組が推進してきた「個性偏重教育」が、子どもの心を歪めてしまった結果です。

 

放送大学の岩永雅也教授が言うように、生徒が「将来の展望を描きづらい」のは、不況や社会状況のせいではなく、「(自分に与えられた)天命を悟れず、人の役に立てない人生は輝かない」ことを教えずに、将来に渡る「志」を立てさせないからです。

 

自分の為だけでなく、

「人さまの為に、学べ」そして、「社会の役に立つ人に育て」

と教えなければなりません。

vol.94 卒業式シリーズ3 「日教組による卒業式破壊」 ~対面型卒業式に隠された本当の意味~

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卒業式のかたちsostugyo

卒業式の式場の体型には、2通りの基本形があります。

一つは、ステージ型、もう一つは対面型(フロア型とも)と言われるものです。

 

ステージ型は、ステージに向かって卒業生が整列するのに対して、対面型は、ステージを無視して、フロアーで卒業生と在校生、卒業生と保護者などが対面式に向き合って座ります。

 

以前は、卒業式といえばステージに向って座るステージ型が当たり前でしたが、式典の厳粛な場面で集中力が続かない子どもたちが増えているので、向き合った者同士の互いの目線が合うフロアー型は、集中力が持続しやすく、現代向きだと評価される向きもあります。

また、ステージ型と違って、保護者から卒業生の顔が見えることも、写真撮影やビデオ撮影が当たり前になった現代では、支持される理由のひとつです。

 

生徒が主役?

生徒が主役 伝統守る/小禄中で「対面式」卒業式
 県内の中学校の卒業式が十、十一日の週末、ピークを迎えた。那覇市の小禄中学校で十一日に開かれた卒業式は、生徒の熱意が校長の方針を覆し、伝統の「対面式」が守られた。学校現場の管理強化が進む中、教員や親を驚かせた生徒たちは、晴れやかな表情で巣立っていった。
 同校では、フロアで卒業生と在校生が向き合って座る対面式が二十年以上続いてきた。しかし、長嶺明浩校長は舞台に向かって全員が座る「通常」の形に変更を求めた。「卒業式は最後の授業。舞台上で、厳粛に証書を渡したい」と理由を説明した。

 「後輩の顔を見ながら進めたい」「先輩たちを送り出したのと同じ形で送られたい」と願った生徒たちは動いた。アンケートを取り、圧倒的多数が対面式を希望していることを示した。校長に直談判する生徒も出た。

 ぎりぎりの九日になって開かれた全校集会。長嶺校長が変更理由を説明し、生徒に意見を求めると十数人が口々に対面式の継続を訴えた。校長が「混乱を避ける」として生徒の希望を受け入れると、拍手が巻き起こった。

 ある教員は「普段目立たない生徒まで、きちんと意見を言っていた。教師をやっていて良かったと感動した」と語る。別の教員は「校長が決めたことがひっくり返るなんて夢にも思わなかった」と、生徒のパワーに目を丸くした。

 文字通り主役になった生徒たちは、いつにも増して準備に懸命に取り組み、式を成功させた。

 終了後の校庭。ある女子生徒は「みんなの気持ちが一つになった。これができなければ本当に心残りだったと思う」と、上気した表情で語った。別の卒業生の母親は言った。「子どもたちが自分の意見を出し、学校が尊重してくれた。鳥肌が立つほどうれしかった」

(平成193月 沖縄タイムス)

 

この対面型(フロアー型)を考案したのは、日教組です。

卒業式を、「厳粛な式典」から「馴れ合い」型へと品格を下げるために、考え出されたものです。

実際に、日教組本部から各支部へ「卒業式で対面型を推進する」指示が出されていた事実もあるようです。そうでなければ、全国的に伝統を打ち壊す対面型が広がるはずはありません。

 

その目的としては、一つには、フロアーを使用することで、学校長や来賓と卒業生との目線を同じくして、それらの権威の失墜をはかること。

二つには、ステージ上に掲げた国旗に背を向けたり、視界に入れないことで、卒業式から実質的に国旗を排除すること。

 

先の沖縄タイムスの記事で分かるように、20年~30年程前から全国的に取り入れら、その形がすでに、伝統になっている学校まであるのです。

 

この事例などは、典型的に日教組による子どもの洗脳が成功した例でしょう。校長先生の「通常」の厳粛な式典をという思いを、生徒がアンケート調査や直談判までして覆す…、そして、それを地元新聞社が美談として掲載する…まさに、革命思想の集大成といったところでしょう。

しかし、少し冷静になって考えてみると、生徒をそういう風に先導し、新聞社にリークした教師がいて始めてなせる業であることは容易に想像がつきます。

彼らは、そうやって日本の学校現場を牛耳り、日本を解体しようとしているのです。

 

卒業式の正常化を!

しかし、沖縄の例にあるように、一度伝統となってしまった型式は簡単に打ち破れません。

ですから、心ある教師は、対面型の意図を知りつつ、せめて国旗の位置を常時視界に入る位置にしたり、フロアーに低くても雛段を設置するなどの地道な正常化をなしていく他にありません。

 

また、卒業式の正常化には、教育委員会や学校長の不断の決意と強いリーダーシップが必要です。

大阪府の一部地域などでは、教育委員会が「対面式卒業式の廃止」を学校に強く指導しています。

こういった動きが、全国的なものになることを強く希望します。

vol.93 卒業式シリーズ2 「仰げば尊しが歌われなくなった本当の理由」

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「仰げば尊し」が歌われなくなった理由②

volで、卒業式で「仰げば尊し」が歌われなくなった理由を書きました。

今日は、その第2段です。

 

そのもう一つの理由とは、

「身を立て 名を挙げ やよ励めよ」という2番の歌詞が、立身出世を肯定しているので、平等主義が蔓延ってきた戦後教育では敬遠されたからです。

卒業式で仰げば尊しを歌ってる学校の中には、2番の歌詞を疎んじて、2番をとばしてしまうところもあると言います。

 

この歌詞の前段部分は「互いに 睦し 日頃の恩/別るる後にも やよ忘るな」です。

友人と互いに大切に思いながら過ごした日々に感謝して、別れても互いのことや共に過ごした時間を忘れないでいようという意味です。

なんと睦ましい友情でしょうか。感動を呼ぶ素晴らし歌詞です。

 

そして、それに続くのが「身を立て 名を挙げ やよ励めよ」です。

なのに、その部分にだけ焦点を当てて、「立身出世を肯定している」として、卒業式から排除するのですから、無茶苦茶です。

 

本来、「身を立て」「名を挙げ」とは、決して立身出世することだけを意味するのではなく、世に名声をあらわすことを指します。

世に名声をあらわすとは、政治家や社長、学者などへの地位的・経済的な立身出世を指すのではなく、ひとつの事に実直に一所懸命に打ち込み、有名ならずとも世間から認められる生き方を指すのですから、なんと卒業式に相応しい名言(歌詞)でしょう。

 


日本の卒業式を蹂躙する左翼思想
にも関わらず、それを排除してきたのは、戦後の教育をミスリードしてきた日教組が掲げてきた偏った『平等主義』が根底にあります。

誰かが立身出世すれば、それに蹴落とされる者がいて、それが富の不平等を生むという資本主義否定の思想です。

そして、立身出世を否定する『平等主義』の裏には、立身出世 → 資本家の仲間入り → 左翼思想(共産主義・社会主義)・労働者の敵 という図式が隠れているのです。

 

 

この図式を長い年月をかけて全国の学校に広め、流行りの曲を式歌にとりいれることで、卒業式から感動を奪ってきた輩がいます。

決して、子どもたちの方から、「仰げば尊し」を歌いたくないと言いだした訳ではなく、そう誘導したのです。

これが、「仰げば尊し」が卒業式から消えていった本当の理由です。

vol.92 卒業式シリーズ1   『仰げば尊し』を取り戻せ!

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「仰げば尊し」が歌われなくなった理由①

全国の公立学校で、卒業式シーズンが近づいてきました。

卒業式と言えば、かつて日本で最も歌われたのが唱歌「仰げば尊し」です。

明治17年(1884年)に発行された『小学唱歌集』第3編に収録されたのが、唱歌としての始まりと言われており、明治から大正、昭和にかけて、卒業式でよく歌われ、日本人の記憶に残る素晴らしい歌です。

 

卒業生が、お世話になった先生方や学び舎の恩に感謝し、そして旅立ちの志を立てるという素晴らしい歌詞は、長年に渡って、多くの学校で卒業生の歌として、歌われてきました。私も、小学校の卒業式で歌った記憶が蘇ります。

 

しかし、残念ながら現在はあまり歌われなくなりました。

理由は、大きく分けて3つほどあるそうですが、1つには、「歌詞が教師への賛美であり、民主主義にそぐわないこと」だそうです。

 

しかし、お世話になった先生の恩を有難く、尊く感じることが、教師への賛美なのでしょうか?

むしろ、そう感じて卒業できる生徒は立派な先生に出会えて幸せで、将来に渡るかけがえのない財産を手にしたと言えると思うのですが…。

現実と乖離しているから歌わないということであれば、日本の学校とは、本当に質が低下したとしか言いようがありません。

 

「報恩」を忘れた日本人

報恩とは、自分が受けた恩に報いることを言います。

恩に報いるには、まずは、恩義を恩義としてきちんと受け止める感性が必要です。

しかし、先生から受けた多くの指導に恩義を感じず、ただ「うっとうしい」としか感じ取れなかったり、指導を無視して心を閉ざす生徒が年々増加しているように思います。

それは、決して子どもたちだけの責任ではありません。

 

親も、「教師が生徒に指導するのは当たり前」で、税金を納めているのだから「学校からサービスを受けるのは当然」だと、教育を単なるサービス業と勘違いして、我が子へ掛けられた手に恩義を感じることが少なくなりました。

 

また、教師も、教育を単純なサービス業として考え、クレームがつかない程度に職務をこなしさえすればよく、生徒や親にどう思われようと意に介さないと言ったドライ感が学校を覆っています。

これでは、子どもたちに、恩義を感じ取れる感性を育てることは難しいでしょう。

そんな学校や社会環境の中では、「仰げば尊し我が師の恩」という歌詞は、いかにも嘘臭く、白々しくなってしまったのかも知れません。

 

日教組の魔の思想

次に、「仰げば尊し我が師の恩」という歌詞が、仮に教師への賛歌であったとしても、それが民主主義にそぐわないと言う理由も、的が外れています。

それを言うならば、民主主義にそぐわないというよりも、戦後の平等主義にそぐわないと言うべきでしょう。

 

以前にも書きましたが、戦後の学校現場を覆う『平等主義』とは、「教師と生徒は人間的に対等で、平等でなければならない」という悪魔の思想です。

教える教師と習う生徒の立場が対等で平等では、教育そのものが成り立たないことは議論を待たないでしょうが、「指導から支援へ」などと、教育への冒涜・教育のネグレクト状態としか言えない主張を繰り返して、子どもを野放しにし、我が国の教育を荒廃させてきた日教組の思想がそれです。

こうやって、卒業式で「恩師に感謝する」という、かつては当たり前だったことを、歌にのせて表現する機会さえ奪われてしまった子どもたちが、いかに不憫なことでしょう。

 

今こそ、「仰げば尊し我が師の恩」を感じ取れるような豊かな感性を持った子どもを育て、再び、卒業式で「仰げば尊し」を歌って、感動を持って学び舎を去っていく卒業生が増えていくことが、荒廃する我が国の教育再生の一つの指針となるのではないでしょうか。

 

「仰げば尊し」の復活が待たれます。

 

vol.91 歴史教育と神話 ~建国記念日に思う~

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靖国神社 006歴史教育と「日本の神話」

昨年の2月に、次のような記事をvol.21 歴史教育と「日本の神話」と題してUPしました。

 

先日の211日が、なぜ「建国記念の日」なのか
その意味を知らない日本人が年々増えています。
「大日本帝国憲法の発布された日」(そのことは事実ですが)だとか、「戦後の日本が新たなスタートを切った日」だと言う人までいます。
まして、生徒たちはほとんどが知りません。大人が知らないのですし、学校で教えることもないのですから当然でしょう。

「建国記念の日」は、古事記にまで遡る雄大な日本の歴史の産物です。
今年は、皇紀2670年ですが、この2670年前、東征(九州方面から東へと攻めのぼった)を経て、大和の橿原で天照大神の子孫である神武天皇が、初代天皇に即位された日を現代の太陽暦に換算して、我が国(日本)の建国の日としてお祝する大切な日なのです。

 この雄大な歴史を今の日本人の多くは知りません。もし、知っていたとしても「大和朝廷が2670年も前に存在した証拠などない。」「神武天皇が存在した証はない。」と、古事記は神話が書かれているので非科学的であると言う人たちが多くいます。

しかし、そうでしょうか?
むしろ、神武天皇が実在されたかどうかなど大した問題ではないのです。大した問題ではないなどと言うと叱られるかも知れませんが、それが歴史的事実かどうかではなく、そういう物語(神話)を戴いて、日本という国が現在まで綿々と続いていることが大切なのです。
ですから、そういう意味では神武天皇は実在でなくても存在されており、それが事実でなくても、日本人の歴史の真実なのです。


 このように、わたしたち日本人には、日本誕生の歴史(神話)があります。しかし、戦後の学校の歴史の時間で子どもたちには教えられることはありません。理由はいろいろあるようですが、「事実ではないから。」「立証できないから。」といった理由が大半でしょう。その代わりに、猿→原人→現代人(縄文人・弥生人)といった進化論が教科書のトップを飾ります。これでは、猿→日本人と教えているようなものです。
 進化論は、学問ですから教える必要があるでしょう。しかし、教えるなら理科で教えればいいのであり、歴史の時間には必要ありません。それよりは、雄大な日本神話を、わたしたち日本人の真実として教えるほうが、どれほど子どもたちにとって楽しい歴史になることでしょう。

 
 戦後の日本人が、どうして自らの神話を手放したのか?それは、もう説明しなくても多くの人は知っているでしょう。決して、自ら葬った訳ではないこともご存じの通りです。

 現代の子どもたちは、自らのアイデンティティーの確立に苦しんでいます。青年期に躁うつ病にかかったり、どこかで自殺者が出るとそれを後追いする子どもたちの現実を見ても分かることです。
 「日本人の誇り」を大人から教えられず、むしろ教育で「誇り」を奪われているのですから、当然のことでしょう。
 今こそ、子どもたちに「日本人の誇り」を持たせる教育が必要です。そのためには、日本人の悠久の歴史である「神話」を教えてやりたいものです。

 

益々進む日本の弱体化

この記事から1年間経過して、日本はどうなったでしょうか?

中国による尖閣諸島問題やメドベージェフ大統領の国後島訪問など外患が増すばかりか、元閣僚が国会式典で秋篠宮殿下ご夫妻へ「早く座れ!」と発言する不敬的態度をとったり、終戦記念日に閣僚の参拝が皆無になるなど、国内では、相も変わらず「国体」の崩壊と国史の軽視へと時計が進み、日本人の活力そのものが萎んでいます。

これでは、日本経済の先行きが不安になるのは当然です。

 

教育界でも、いっこうに自虐史観からの脱却ができません。

先日、お話した皇學館大学松浦光修教授のお話では、「調べてみると、今度の教科書検定で小学校の教科書は、以前よりひどくなっている。教育基本法が変わっても、自虐史観のオンパレードだ。」そうです。

そして、教科書によっては、「○○をする天皇」などという表記がまかり通り、「○○なさる」「天皇陛下」と、尊敬語や尊称すら使用していないものまであると言うのです。

 

このように、むしろ事態は、日本弱体化へと益々進んでいると言えそうです。

だからこそ、次世代に向けて、日本人の魂を宿した日本人を育てなければなりません。

そうしないと、益々国の活力は失われ、国民の精神が病んでしまいます。

国民の精神が病んでしまった国家は、廃れ滅びていく運命にあると言えるでしょう。

 

その為には、日本人が日本の神話を取り戻し、2000年を超える歴史をつないできた国史を見直すことから始め、子どもたちに伝える作業を惜しんではなりません。

しかし、残念ながら、まだまだ左傾化した学校教育では、できない教育です。

ですから、まずは家庭で、子どもたちに「日本の神話」の素晴らしさと、その意味を教えなければなりません。

vol.90 子どもを人質にとる日教組 「日教組教研全国集会を考える」産経ニュースより

子どもを人質に取る日教組

先日、茨城県で行われた日教組の教育研究全国集会について、産経ニュースは「主張」で次のような記事を発表したので紹介する。

これを読んだ国民諸氏はどう思われるだろうか?

彼らは、学校・学級という王国の中で、確実に子どもたちを洗脳している。子どもの純粋な将来の夢まで踏みにじっているばかりか、自衛隊否定の思想を刷り込んでいく。北方領土を法律に則って我が国固有の領土と教えず、もも太郎の鬼の気持ちになれなどと、正義を否定しても平気な神経は、もはや同じ教育者として異常としか言いようがない。

子どもたちの心が破壊されているこの事実を、私たちは許すわけにはいかない。

 

公教育の現状 これでは子どもが育たない

先月下旬の日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会(教研集会)で、問題授業の一端が明らかになった。

 佐賀市の小学校教師は、児童の考えを変えたことを誇らしげに報告した。将来の夢を「自衛隊に入り日本を守る」としていた児童が、授業の後には「自衛隊を含め一切の武力を放棄すべきだ」という意見になったという。

 沖縄県の中学教師は、自衛隊の国際貢献を否定的に考えさせようとしたところ、生徒から「他国の人々を助ける」などプラス評価が出たことを嘆いた。

 教科書などの記述が政府寄りの考えばかりだとし、「もっと反論できる資料を持ち込まないと」という。教師の政治的主張を一方的に押しつける授業がまかり通っている。子供がかわいそうだ。

 領土問題も分かっていない。北海道の中学教師は、北方領土について教えているうち「どこの国の領土か分からなくなった」という。歴史的経緯もきちんと理解できていないようだ。日本固有の領土であることを教えられないようでは一体、どこの国の教師か。

 「平和教育」などの分科会では、日本を悪者とする一面的歴史観や「戦争は怖い」と強調する授業の報告が相変わらず目立つ。千葉県の小学校では「『桃太郎』で退治される鬼の立場になって考えてみよう」と戦争を考えさせたというが、世界史や国際情勢を無視した自己満足でしかない。そもそも桃太郎は、勇気や正義を教える昔話だろう。

 先人がいかに苦労して国を守ってきたか、そこを理解していない。それどころか新しい学習指導要領で重視される国や郷土を愛する心の育成、道徳教育充実を、「強制」などと否定する報告も変わらず少なくない。

 日教組の組織率は低下が続き、26・6%(昨年10月)だ。しかし地域によっては高く、旧来体質から抜けきれない教師の影響が強い。新指導要領を骨抜きにした勝手な授業が行われないよう注視すべきだ。

 民主党の支持団体である日教組は、教職員の増員や待遇改善に熱心な一方、教員免許更新制には反対で、教育改革の後退が懸念される。免許更新などで教師が不断に努力し、独りよがりの偏向した授業をなくすことこそ、公教育の信頼回復につながる。

vol.89 東京漫画条例に反対する?それは本当の大人か?

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子どもの登場人物による露骨な性行為が描かれた漫画などの販売・レンタルを規制する東京都青少年健全育成条例改正案が13日、都議会総務委員会で可決され、本会議でも可決・成立する見通しになった。今年3月、都議会に初めて提案されたがいったん否決され、修正を経ての可決。出版社側は「表現の自由の侵害」などと反発、都は「単なる販売規制で、内容も明確にした」としている。(中略) 改正案は、露骨な性描写の漫画が一般書棚で区別なく売られている現状から作られた。だが今年3月、都議会に提出されると、有名漫画家や出版社などが相次ぎ反対。都議会第1党の民主党も、18歳未満の登場人物の定義となる「非実在青少年」などの文言について「表現があいまい」などと反対し、同6月に都議会で否決された。(平成221214日読売新聞)


東京都青少年健全育成条例が昨年都議会で可決されました。当時、「表現の自由の侵害」だと漫画家や出版会社らが執拗に反対し、連日マスコミが過熱報道を繰り返しました。


この条例が出版物を取り締まり、今までのような性描写がある漫画が描けなくなるような報道がされていましたが、それは違います。ただ、指定した書籍を一般書棚から成人書棚へと移動させるというだけの措置です。
にもかからず、出版業界が「表現の自由」を楯に執拗に反対したのは、明らかに過剰反応だと言えます。他に、「いかがわしいものを子どもから完全に遠さけることはできない。」などと、反対の理由にもならない文言を並べ立てた議員もいました。


これら、無責任に反対する人々の周辺には年頃の子どもはいないのでしょうか?


思春期の真っただ中にいる子どもたちと日常を過ごしている教師としては、もちろん条例には賛成です。
思春期の子どもたちは、性交や暴力的行為にとても強い興味を持っています。そして、純粋であるが故に、TVや漫画から過度の感化を受けてしまい、過激な行動になってしまうことは決して珍しいことではありません。


まして、現代の子どもたちは、TVゲームで育っている世代ですから、多くの専門家が指摘しているように、バーチャルと現実との狭間が曖昧になっています。ある調査ではっきりしたように「死んでも生き返る」と真剣に信じている世代です。


そんな世代の子どもたちに、刺激の強い「成人漫画」を読ませる危険性をもっと真剣に考えなければなりません。規制しても完全に遠ざけられないのは当たり前ですが、せめて条例の範ちゅうだけでも規制してやるのが大人の責務です。


本来は、「親がダメ」だと規制すれば済むことですが、今の家庭にそんな指導力は期待できません。ですから、せめて世間が「ダメだ」と強く主張することが大切なのです。


それを、「表現の自由を奪う」「作家が委縮する」などと妄言を吐く出版界は、子どもの健全育成よりも、子どもを食い物にして、自分たちの既得権益を守ろうとするだけのエゴスティックな業界だと断罪せざるを得ません。


大人が背伸びをしてでも大人らしく振舞う以外に、子どもを真っ当に育てる術はありません。子どもを食い物にすることが「表現の自由」ならば、そんなものは自ら放棄したほうがいいでしょうし、たかが成人書棚に書籍が異動されるくらいで委縮するほどの作家ならば、大した作品など残せないでしょうから、作家活動を止めるべきです。


作品の一場面として性表現や暴力表現を表現する必要があるなら、それを凌駕するだけの芸術性や物語性で読者を納得させれば済むのです。

出版業界も、どの棚で売られるか…より、社会の一員として、どう子どもを育てるのかを考えられる大人であるべきです。

日本から、良質の大人が消え去ろうとしているのではないか…。
こんな大人をつくってきたのも「戦後教育」だとすれば、教育の立て直しは急務です。

vol.88 国旗国歌訴訟 ~判決は甘すぎる。もっと厳しく断罪を!~

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入学式や卒業式で国旗に向かっての起立や国歌斉唱を求めた東京都教育委員会の「通達」や「校長の命令」は、思想と良心の自由を定めた憲法に違反するなどとして、教職員ら395人が、従う義務がないことの確認や慰謝料を求めた訴訟の控訴審判決で東京高裁の都築弘裁判長(三輪和雄裁判長代読)は28日、「通達には合理性があり、思想・信条・良心などの自由を定めた憲法に反しない」などとして1審東京地裁判決を取り消し、教職員側の請求を棄却した。教職員側は上告する方針。(中略)

 判決は、国旗国歌法制定(11年)の前から日の丸が「国旗」、君が代が「国歌」であることは慣習法として確立していたと判断。「一律に起立、斉唱するよう求めた都教育長通達には合理性があり、思想・信条・良心などの自由を定めた憲法に反せず、教育基本法が禁じる『不当な支配』にも当たらない」とした。(平成23128日産経ニュース)

不毛な裁判

この裁判が不毛なのは、学校現場のことながら、生徒への視点が欠けていることです。

そもそも公務員の公立高校の教師が、個人の主義で「国旗・国歌」に敬意を表さない姿が、生徒たちにどう受け止められているのか、どのような影響を与えているのか判決でも一歩も踏み込まれていません。

 

裁判所が、教育の在り方についてまで深い言及を避けるのは、司法機関としては仕方がないかも知れません。

しかし、教育が国家百年の大計であることを考えると、東京高裁は、もっと深く言及し、子どもの将来に渡る成長や健全な社会構築の為には、「国旗・国歌」の尊重が、国民としての最低限のマナーであり、教育として「国旗・国歌」の指導は必要不可欠で、避けて通れない道であることを明確にするべきでした。

そして、個人の主義・主張は、「公共の利益」に反しない場合のみ認められるべきであって、公務員の「国旗・国歌」への不敬的態度は、公共の利益に反した反社会的行為であると断罪すべきです。

 

より踏み込んだ判決

今回、「都教委の行為は違憲ではない」との判決は当然でしたが、上記のような事柄を明確にせず、お茶を濁した残念な判断であったとしか言いようがありません。

 

不逞な教職員が、現場の生徒らを無視して、組合活動の一環で「勝敗に無関係」に提訴を乱発しているのですから、最高裁には、まず組合活動による提訴権の乱用について制し、かつ「国旗・国歌」への不敬的態度は、公務員の場合反社会的行為に相当と断罪する判断が望まれます。

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