「命(ぬち)どぅ宝」は絶対的価値観ではない
先日(6月23日)は、沖縄戦の戦死者を追悼する「沖縄県の慰霊の日」でした。
私も、心よりご英霊の方々を追悼し、黙祷を捧げました。
ところで、「命(ぬち)どぅ宝」とは、「命こそが宝、命こそが尊い」といった沖縄の方言です。
公教育では、「平和教育」のスローガンのひとつとして、よく遣われます。
「命どぅ宝」という言葉が示す通り、沖縄戦の悲惨さを思うと、命が大切であることは議論を待ちませんし、命は大切にしなければなりません。
しかし、日教組ら組合勢力が推進する「平和教育」とは、我が国の伝統・文化や歴史を否定し、国旗・国歌さえも拒否する『反日教育』の中心的役割を担ってきた教育であることは、以前から指摘している通りです。
その彼らの手による「平和教育」でつかわれる「命(ぬち)どぅ宝」という言葉は、子どもたちに「命こそ(だけ)が宝」だと教え込み、日本人の(伝統的な)道徳的価値を貶めるための道具です。
彼らは、「命の大切さ」を「命を長らえる」こととすり替えて、戦争の悲惨さだけを誇張して、子どもたちを反日思想で洗脳し続けます。
国民の「命を長らえさせなかった」戦前の日本は、絶対悪だというのです。
しかし、本来は「命を大切にする」のと、「命を長らえる」ことは、根源的な大きな違いがあります。
もし、「命を長らえること」だけが大切(宝)だとすれば、自らの命を長らえるには、他人の命さえ奪ってよいことになってしまいます。
結局は、「命どぅ宝」と言う言葉は、日教組ら反日主義者らの手によって、「どんなことをしてでも、自分の命さえ守れば(長らえば)よい」という、身勝手な生命至上主義のスローガンに堕してしまっています。
そして、彼らの推進する「平和教育」では、我が国を「侵略国家」として自虐史観で断罪するばかりか、
「他人の命や財産、そして共同体(国家)そのものを守る為に、自らの命の犠牲を省みない」という、崇高で普遍的な価値観があることを教えません。
ですから、靖国に祀られる英霊も、「国家に騙され、命を落とした哀れな兵隊たち=無駄死に」という一方的な構図にされてしまうのです。
「天命を知る」
先日の東日本大震災の際、命を投げ打って多くの人の命を救った人々の姿や、震災後の日本人の冷静で、互いを思いやる姿は、世界を驚愕させました。
そんな姿を見るにつけ、日本人には、戦前から受け継いでいる「命の長さだけにとらわれない」崇高な価値観を、DNAの中に含有していることを痛感します。
自らの命が危機にさらされても、人の命を救ったり、十分な救援物資がなくても、人の命や財産を奪ってはならないという、公徳心や規範意識の高さが、日本人の心の底には眠っています。
そして、先人から受け継いできた大切な命だからこそ、その命で「何事か成し遂げる」。
それは、国家のためであれ、地域のためであれ、家族のためであれ、何がしか他人や公共のために自分の命を使うことです。
それを、かつての日本人は、天から与えられた「天命」と呼び、「天命を知り」、「天命に生きる」ことを、人生最上の目標としました。
自殺者が年間3万人を越えて続出する我が国の現状は、この「天命」を知り、天命に生きることを忘れた結果です。
「命を長らえることだけが大切」だという考えこそが、「命を自分だけのもの」と勘違いさせ、自ら命を絶つという悲しい結果を生んでいます。
今、我が国は、東日本大震災からの復興に向けて、国民一人ひとりが立ち上がらなければなりません。
だからこそ、
命のとらえ方を、「命どぅ宝」などという一面的で、軽々しいもので終わらせず、
「命は自分だけのものではないこと。」
「命を長らえることだけが大切なのではなくて、どう命を遣うのかが大切であること。」
「(ときには)自らの命を越えて、守らなければならないものがあること。」
そして、
「誰にでも、天から与えられた成すべきこと(天命)が必ずあり、天命を知り、天命に生きることが、人生の最上の目標であること。」
「それが、命を大切にするという本当の意味であること。」を、
大人たちが考えて行動しなければなりませんし、後ろ姿で子どもたちに教えることが大切です。
身はたとえ 誰かのために捨るつとも 我はひとえに 天命に生きる



