国民教育のススメ ~教育正常化の風~

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2012年01月

vol.144 天使の声(南三陸町)道徳教材化にあがる非難の声に反論する。

拙ブログvol.111 震災から学ぶ道徳授業「責任をまっとうする」でも、道徳教材として紹介した遠藤未希さん(南三陸町で防災庁舎から避難を呼びかけ続け、命を落とした同町職員)の話が、埼玉県によって道徳用教材として作成され、埼玉県内の小中学校1230校で4月から授業で使用されることになりました。

 

東日本大震災で見せた日本人の道徳性の高さは、世界から賞賛されましたが、

その中でも、最後の最後まで自分の責任をまっとうした遠藤未希さんの姿は、日本だけでなく、世界の人々にも大きな感銘を与えました。

この話を一人でも多くの日本の子どもたちに知ってほしいと願っている私としては、とても嬉しいことです。

 

しかし、道徳教材にすることには反対の声も挙がっています。

例えば、あるコミュニティーサイトでも、

「人の死を好き勝手に美談にするな。子どもに歪んだ自己犠牲を教え込むのは戦前教育と同じ。」

「こういうものを子供に押し付けるべきではない。授業をする先生によっては他人を守るためなら死ぬことは正義だと生徒に伝わってしまうかもしれない。」

「ご本人も死にたくはなかったし自分が死ぬとは思ってもなかったはず。犠牲になられた方たちに優劣をつけるようで気に入らない。他にも職務を全うしようと亡くなられた人も大勢おられよう。日本人はすぐこうやって美化して反省することをしないから原発事故なんて起こす。」

といった意見も多くあるのです。

 

これらの意見については、道徳教材化して授業実践をした一人として、きちんと整理して反論しておきます。

 

まず、私が子どもたちに伝えようとしているのは、彼女の強い責任感とその行動です。

そして、勇気ある遠藤さんの声で、多くの命が救われたという事実です。

決して遠藤さんの死そのものを美化しているわけではありませんが、命を懸けてまでも全うした責任が多くの人の命を救ったという、その行動の崇高さは誰もが認める厳然たる事実です。

 

次に、「彼女は死を覚悟して放送していたのではない」という指摘についてです。

そう指摘する人々は、彼女が死に至ったのは、防災対策の不備のせいで逃げ遅れたからであって他者のために命を捧げようとしたのではない、と言いたいのです。

そこには、「そんな崇高な人間などいるはずがない…。」という、自己中心的な偏った人間観が垣間見えます。

故人の思いですから想像するしかありませんが、彼女も自らが命を落とすとは想像していなかったのかも知れませんし、愛する人や家族の為にも生きたかったことでしょう。

しかし、同僚や上司が避難を促しても、津波の到来ギリギリまで放送をし続けた…その尊い行動の奥底には、死をも超越した強い責任感と使命感があったことは間違いありません。

その尊い行動が私たちに感動を与えるのです。

彼女が、死を覚悟していたか否か…そんな議論は、彼女の崇高な行動の前では無意味です。

 

最後に、この震災で、遠藤さんのように強い責任感と使命感から命を落とされた方々がたくさんいらっしゃいます。

もちろん、その方々の犠牲ばかりか、全ての犠牲に優劣はありません。

だからといって、「遠藤さんのことばかりを道徳教材にしてしまっては、犠牲に優劣がつき、不平等だ」ということにはなりません。

むしろ、その逆です。

遠藤さんだけでなく、命に代えて責任を全うされた方々の勇気ある行動がたくさんあったことを、日本の子どもたちに伝えていかなければならないのが、残された私たちの責務ですし、犠牲になられた方々のことを、家庭で、地域で、我が国全体で語り継いでいかなくてはなりません。

 

 

戦後教育は、長い間、道徳教育を否定してきました。

「命は地球よりも重い」のだと呪文のように唱え、それ以外の価値観を否定してきたのです。

 

しかし、命の重さに優劣はありませんが、「生き方」には優劣があります。

そして、ときには命を超える価値観があることもひとつの事実です。

自分が人間としてどう生きるべきか、(そしてどう死ぬべきか)という問いから、私たちは逃れることはできません。

しかし、この問いは一生をかけても導き出せないのも事実です。

だからこそ、その基礎・基本を学ぶ道徳教育が必要ですし、遠藤さんの生きざまは、子どもたちに多くの感動と、世界から賞賛された日本人としての生き方の指針を示してくれるのです。


今こそ、雑音に耳を奪われず、子どもたちに日本人としての生き方をしっかりと教えなければなりません。 

 

遠藤さんを始め、犠牲になられた方々のご冥福を、改めて、心からお祈り申し上げます。



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vol.143 我が国では、「祖国」という概念が自然発生的である、その理由。

以前、twitter上で、

「(略)。子どもたちの心の中には、祖国を愛する気持ちが溢れている。なぜなら、それが本能ですから。」

という、わたしの呟きに対して、

「祖国という概念は、自然発生しないし本能ではない。それを言うなら郷里と家族のことだ」という指摘をもらいました。

 

確かに、「クニ」という概念を狭義の近代国家というとらえ方をすれば、「祖国」という概念は自然発生的ではありません。

世界の近代国家の中には、文化の違う多民族が集った国家が多く存在しますし、建国の歴史が浅い国や、国家としての歴史が断絶している国も数多くあります。

こういった国々では、「クニ」そのものが人工的ですから、無論「祖国」という概念も人工的であり、作為的です。

 

しかし、わたしたちの祖国「日本」は違います。

わたしたち日本人は、生活習慣や文化だけでなく、建国以来2000年以上の歴史を共有し、同じ言語(日本語)で話し、ほぼ同じ価値観を抱いて社会を構築しています。

そして、その社会には、文化と歴史に裏付けられた国民相互の「信頼」関係が存在し、言葉にしなくとも暗黙の了解、「阿吽(あうん)の呼吸」で意思疎通を図りながら、生活が営なまれています。

 

この「阿吽の生活圏」の範囲が、わたしたちの「クニ」そのものです。

ですから、私たちの家庭や郷里は、地続きに「日本」という国家(クニ)につながっており、家庭や郷里と「クニ」をほぼ重ね合わせることができる、世界でも稀有な国家です。

そういった意味で、我が国の「祖国」という概念は、「家族」や「故郷」のように自然発生的で、本能的であると言えるのです。

 

我国を「近代国家」という、人工的な色眼鏡だけでみていたのでは、本当の姿は見えてきません。

その姿の素晴らしさを子どもたちに教え、「祖国」を愛する心を育てたいものです。





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vol.142 日の丸・君が代は、戦争遂行の道具だったのではなく、アジアの希望だったのです。

かつて教育現場を混乱に陥れた、日教組による「日の丸・君が代反対闘争」で、組合員らは「戦争の道具となった日の丸・君が代を国旗・国歌として認めることはできない」と主張しました。

 

はたして、彼らの言うように、

国旗「日の丸」と国歌「君が代」は、戦争遂行の道具となったのでしょうか?

 

この疑問そのものが「戦争=悪」「大東亜戦争=侵略戦争」という、GHQによって作られた戦後教育の構図そのものですから、答えるに値しない愚問ですが、考えてみましょう。

 


先の戦時下において、日の丸は我が国を象徴する旗として、国民ばかりか占領地の人々の手で振られましたし、軍隊の所属を表すために戦場でも使用されました。

また、君が代は、我が国象徴の歌として、国内外の様々な場面、場所で歌われました。

もちろん、多くの戦場や占領地でも歌われたことでしょう。

 

しかし、この事実をもって、戦争遂行の道具となったというのは、反日イデオロギーに染まった狂った見方です。


国旗・国歌は、常に国民の営みとともにあるのですから、戦争に利用されたのではなく、先の大戦をずっと見守り、日本人に勇気と希望をあたえてきたのです。

 

そして、「我が国の独立」と「アジアの開放」という、大義の御旗を振って聖戦を闘った日本人にとって、
戦場や占領地の空にはためき、響き渡った日の丸・君が代は、西洋諸国の覇権主義に挑んだ祖国の象徴として、世界に誇れる国旗、国歌であったことは間違いないでしょう。

 

さらに、日本人だけでなく、西洋諸国によって数世紀に渡って虐げられ、搾取されてきたアジア諸民族にとっても希望の旗・歌であったのです。

 

狂った国旗・国歌観に惑わされず、誇りと真実を子どもたちに正確に教え、さまざまな場面で堂々と国歌(君が代)を歌い、国旗(日の丸)に身を正せる大人に育てなければならないと思います。




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vol.141 国歌不起立教員のコメントにもの申す! 最高裁判決

さて、1月16日に最高裁において、国歌斉唱時の不起立による減給処分を取り消された原告(61)は
「昨年3月の高裁判決をみんなで勝ち取った力が今回の勝利につながった。子どもたちや保護者、私たちの手に教育の自由を取り返すまで頑張りたい。」とコメントしました。

 

また、過去に国旗を引き下ろしたことなどが影響して処分が取り消されなかった元教員は、未だ「式典で日の丸を下したのは妨害行為ではなく子どもたちへの教育行為だと思っている」とコメントしています。

 

子どもたちや保護者が、まるで自分たちの行為を支持しているかのような言葉や、自分の為でなく子どもたちや教育のためにやったと開きなおる姿は、同じく教職につくものとして大いに疑問です。

 

多くの国民は、我が国の国旗・国歌を支持していますし、どの国の国旗にも敬意を払い、どの国の国歌が流れても起立・脱帽するという程度の常識的なマナーは持ち合わせています。

 

当然、卒業式の国歌斉唱の際にはほとんどの参列者が起立しています。

それは、子どもたちも保護者も例外ではありません。

それにもかかわらず、自分の偏ったイデオロギーを振りかざし教育現場を混乱させるだけの愚行を、子どもたちや保護者たちはもちろん、同職にある我々も決して指示などしていません。

 

それに、最高裁は処分の内容を取り消した(実際は軽減)のであって、不起立を認めたわけではありません。それを、まるで自分たちの勝利のように着色してコメントする悪質さを許すことはできません。

 

彼らの言う「教育の自由」などとは全く関係なく、公教育を担うものとしての常識、教育公務員としての職責、そして日本国民としての最低限のマナーが問われているだけなのです。

 

「祖国を踏みにじるものが、若者の教育者であってはならない。」


ただ、それだけのことです。




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