拙ブログvol.111 震災から学ぶ道徳授業「責任をまっとうする」でも、道徳教材として紹介した遠藤未希さん(南三陸町で防災庁舎から避難を呼びかけ続け、命を落とした同町職員)の話が、埼玉県によって道徳用教材として作成され、埼玉県内の小中学校1230校で4月から授業で使用されることになりました。
東日本大震災で見せた日本人の道徳性の高さは、世界から賞賛されましたが、
その中でも、最後の最後まで自分の責任をまっとうした遠藤未希さんの姿は、日本だけでなく、世界の人々にも大きな感銘を与えました。
この話を一人でも多くの日本の子どもたちに知ってほしいと願っている私としては、とても嬉しいことです。
しかし、道徳教材にすることには反対の声も挙がっています。
例えば、あるコミュニティーサイトでも、
「人の死を好き勝手に美談にするな。子どもに歪んだ自己犠牲を教え込むのは戦前教育と同じ。」
「こういうものを子供に押し付けるべきではない。授業をする先生によっては他人を守るためなら死ぬことは正義だと生徒に伝わってしまうかもしれない。」
「ご本人も死にたくはなかったし自分が死ぬとは思ってもなかったはず。犠牲になられた方たちに優劣をつけるようで気に入らない。他にも職務を全うしようと亡くなられた人も大勢おられよう。日本人はすぐこうやって美化して反省することをしないから原発事故なんて起こす。」
といった意見も多くあるのです。
これらの意見については、道徳教材化して授業実践をした一人として、きちんと整理して反論しておきます。
まず、私が子どもたちに伝えようとしているのは、彼女の強い責任感とその行動です。
そして、勇気ある遠藤さんの声で、多くの命が救われたという事実です。
決して遠藤さんの死そのものを美化しているわけではありませんが、命を懸けてまでも全うした責任が多くの人の命を救ったという、その行動の崇高さは誰もが認める厳然たる事実です。
次に、「彼女は死を覚悟して放送していたのではない」という指摘についてです。
そう指摘する人々は、彼女が死に至ったのは、防災対策の不備のせいで逃げ遅れたからであって他者のために命を捧げようとしたのではない、と言いたいのです。
そこには、「そんな崇高な人間などいるはずがない…。」という、自己中心的な偏った人間観が垣間見えます。
故人の思いですから想像するしかありませんが、彼女も自らが命を落とすとは想像していなかったのかも知れませんし、愛する人や家族の為にも生きたかったことでしょう。
しかし、同僚や上司が避難を促しても、津波の到来ギリギリまで放送をし続けた…その尊い行動の奥底には、死をも超越した強い責任感と使命感があったことは間違いありません。
その尊い行動が私たちに感動を与えるのです。
彼女が、死を覚悟していたか否か…そんな議論は、彼女の崇高な行動の前では無意味です。
最後に、この震災で、遠藤さんのように強い責任感と使命感から命を落とされた方々がたくさんいらっしゃいます。
もちろん、その方々の犠牲ばかりか、全ての犠牲に優劣はありません。
だからといって、「遠藤さんのことばかりを道徳教材にしてしまっては、犠牲に優劣がつき、不平等だ」ということにはなりません。
むしろ、その逆です。
遠藤さんだけでなく、命に代えて責任を全うされた方々の勇気ある行動がたくさんあったことを、日本の子どもたちに伝えていかなければならないのが、残された私たちの責務ですし、犠牲になられた方々のことを、家庭で、地域で、我が国全体で語り継いでいかなくてはなりません。
戦後教育は、長い間、道徳教育を否定してきました。
「命は地球よりも重い」のだと呪文のように唱え、それ以外の価値観を否定してきたのです。
しかし、命の重さに優劣はありませんが、「生き方」には優劣があります。
そして、ときには命を超える価値観があることもひとつの事実です。
自分が人間としてどう生きるべきか、(そしてどう死ぬべきか)という問いから、私たちは逃れることはできません。
しかし、この問いは一生をかけても導き出せないのも事実です。
だからこそ、その基礎・基本を学ぶ道徳教育が必要ですし、遠藤さんの生きざまは、子どもたちに多くの感動と、世界から賞賛された日本人としての生き方の指針を示してくれるのです。
今こそ、雑音に耳を奪われず、子どもたちに日本人としての生き方をしっかりと教えなければなりません。
遠藤さんを始め、犠牲になられた方々のご冥福を、改めて、心からお祈り申し上げます。
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