国を愛するということ
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
この歌は、幕末に活躍し、安政の大獄で絶命した吉田松陰先生の辞世の句と言われています。
有名な歌ですから、皆さんご存じのことでしょう。
先生は、若い時には、外国船に乗り込んで密航を企てるなど、熱い愛国の志を携えた激情家の一面を持ちながら、後には松下村塾という私塾で、維新の立役者を多く輩出した、立派な「教育者」でした。
親思ふ 心にまさる 親心 今日のおとづれ 何と聞くらむ

この歌は、先ほどの歌と一緒に、処刑の前に詠まれたもので、長州に残された萩にいる両親へ贈られました。
この歌で分かるように、先生は、強い愛国の志のもとで激動の人生を歩みながらも、両親を慕い、想う親孝行な人物でもありました。
この二首の歌は、一見すると「国を愛する心」と「親を想う心」という、別次元の歌のようです。
しかし、先生にとっては、国を愛することと、親を愛することは、同義語だったように思うのです。
ですから、処刑前の辞世として、この二首を詠んだのです。
子どもは、親を選ぶことはできませんから、どんな親であれ、その存在を受け入れるしかありませんし、人は、親への愛情を生まれながらにして持っています。
自然と身についている親への想いが、その親から注がれる深い愛情によって、より確かなものになっていきます。
それは、まさに、私たちが生まれる国を選ぶことができないことと同じです。
私たちが、日本人に生まれたことは、両親の子どもとして生まれたように偶然の出来事です。
ですから、どんな国であれ、生まれた国を受け入れ、愛するしかありません。それが、愛国心の源です。
国を愛するということは、親を愛するということと同質です。
そして、自分だけでなく、愛する両親や家族、友人、恋人、それらすべての人々を育み、愛情を注いでくれたのが、この国の歴史や文化や伝統であることに気付いたとき、本当にこの国を愛することができるのです。
国を愛することは、危険ではない
現代では、親孝行という言葉すら死語になろうとしています。
生まれながらにして、持ち備えていた親への愛情は、自分の脚で歩けるようになり、自分で食事ができるようになると、薄れていき、成長とともに忘れてしまいがちです。
大人へと階段を上る過程では、自立に向けて親離れが必要ですから、ある意味では当然のことです。
だからこそ、教育の力で、親への感謝の念や、尊敬の念を抱かせることが必要だったのです。
かつての日本人は、「孝」を第一の徳目として、教育の中心にしていました。
教育勅語にいう「親ニ孝シ」と言うことです。
しかし、現代の日本人は、親を愛し、孝行を尽くすことができなくなっています。
それは、戦後の教育で、「親孝行」という徳目をしっかりと教えてこなかったからです。
そして、親を大切にできなくなったのと、並行して、国を愛することもできなくなりつつあります。
その結果が、国内の政治的混乱や社会情勢の不安定さ、対外的な国益の損失に繋がっています。
今こそ、坂本龍馬のように「この国を洗濯する」には、教育を根本から見直すことが必要です。
自国を愛することを、「危険だ」などと言っていてはダメです。
親や家族を愛することを、「危険だ」などとは言わないように、親を想う気持ちと同質である「国を愛する思い」を教えることをためらう必要などありません。
そして、愛国心を教えることが、グローバルスタンダードであることも、知っておくべきです。
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
この歌は、幕末に活躍し、安政の大獄で絶命した吉田松陰先生の辞世の句と言われています。
有名な歌ですから、皆さんご存じのことでしょう。
先生は、若い時には、外国船に乗り込んで密航を企てるなど、熱い愛国の志を携えた激情家の一面を持ちながら、後には松下村塾という私塾で、維新の立役者を多く輩出した、立派な「教育者」でした。
親思ふ 心にまさる 親心 今日のおとづれ 何と聞くらむ

この歌は、先ほどの歌と一緒に、処刑の前に詠まれたもので、長州に残された萩にいる両親へ贈られました。
この歌で分かるように、先生は、強い愛国の志のもとで激動の人生を歩みながらも、両親を慕い、想う親孝行な人物でもありました。
この二首の歌は、一見すると「国を愛する心」と「親を想う心」という、別次元の歌のようです。
しかし、先生にとっては、国を愛することと、親を愛することは、同義語だったように思うのです。
ですから、処刑前の辞世として、この二首を詠んだのです。
子どもは、親を選ぶことはできませんから、どんな親であれ、その存在を受け入れるしかありませんし、人は、親への愛情を生まれながらにして持っています。
自然と身についている親への想いが、その親から注がれる深い愛情によって、より確かなものになっていきます。
それは、まさに、私たちが生まれる国を選ぶことができないことと同じです。
私たちが、日本人に生まれたことは、両親の子どもとして生まれたように偶然の出来事です。
ですから、どんな国であれ、生まれた国を受け入れ、愛するしかありません。それが、愛国心の源です。
国を愛するということは、親を愛するということと同質です。
そして、自分だけでなく、愛する両親や家族、友人、恋人、それらすべての人々を育み、愛情を注いでくれたのが、この国の歴史や文化や伝統であることに気付いたとき、本当にこの国を愛することができるのです。
国を愛することは、危険ではない
現代では、親孝行という言葉すら死語になろうとしています。
生まれながらにして、持ち備えていた親への愛情は、自分の脚で歩けるようになり、自分で食事ができるようになると、薄れていき、成長とともに忘れてしまいがちです。
大人へと階段を上る過程では、自立に向けて親離れが必要ですから、ある意味では当然のことです。
だからこそ、教育の力で、親への感謝の念や、尊敬の念を抱かせることが必要だったのです。
かつての日本人は、「孝」を第一の徳目として、教育の中心にしていました。
教育勅語にいう「親ニ孝シ」と言うことです。
しかし、現代の日本人は、親を愛し、孝行を尽くすことができなくなっています。
それは、戦後の教育で、「親孝行」という徳目をしっかりと教えてこなかったからです。
そして、親を大切にできなくなったのと、並行して、国を愛することもできなくなりつつあります。
その結果が、国内の政治的混乱や社会情勢の不安定さ、対外的な国益の損失に繋がっています。
今こそ、坂本龍馬のように「この国を洗濯する」には、教育を根本から見直すことが必要です。
自国を愛することを、「危険だ」などと言っていてはダメです。
親や家族を愛することを、「危険だ」などとは言わないように、親を想う気持ちと同質である「国を愛する思い」を教えることをためらう必要などありません。
そして、愛国心を教えることが、グローバルスタンダードであることも、知っておくべきです。



