親の生死に興味がない家族
全国で高齢者の所在不明が相次いでいる問題で、新たに札幌市、堺市などで100歳以上の高齢者10人の所在が確認できていないことが5日午後、分かった。当初、18人の行方が分からないとしていた大阪府東大阪市で、同日の調査の結果不明者が13人となったことから、時事通信のまとめでは、全国の所在不明は18都道府県で66人となった。(時事通信)
他社の集計では、もっと多いとの結果も出ているようです。
都内最高齢とされる113歳の女性の所在が不明になったことを受け、各地で高齢者の所在不明が相次ぎ明らかになりました。
行政の落ち度として指摘されていますが、個人情報保護法などの制約もあり、今まで実態把握がなおざりになっていたのでしょう。
書類が最も重要視される行政には、おのずと限界があり、致し方ないように思います。
しかし、家族はそうではないでしょう。
家族が、不明のまま放置しているとすれば、家族の情の希薄さも「事ここに至れり」という感がします。
愛知の106歳が不明の件では、登録された住所は更地になっている上、親族も所在を把握していなかった(産経新聞)東京の105歳が不明になった件では、 家族は、『数年前に出て行ったきりどこにいるか分からない』」(朝日新聞)と言い、神奈川の104歳が不明 の件では、家族は『もともと家を出てはふらっと帰って来る人で、生死も分からない』」(毎日新聞)など、親の命すら軽々しく考える家族の情の希薄さを感じるのです。
行政の責任というよりは、家族の責任が第一義です。
親の所在や存命かどうかにすら、責任を持たない日本人が増えているのでは…と日本社会の情の希薄さに恐ろしい思いすらします。
親ニ孝シ
今までに何度も書いてきましたが、明治天皇が示された「教育勅語」には、人の徳として、第一に「親ニ孝シ」と、親孝行が挙げられています。
かつての日本人には、「親孝行」が最も大切な徳目として教えられていたのです。
やがて自分が親になることを考えると、次世代につないでいく上でも、大変大切な徳目でした。
しかし、先の大戦後、「教育勅語」は国会決議で否定され、日本人は悠久の時を経て形作られてきた日本人としての徳目を失うことになりました。
そして、この国から「親孝行」という言葉さえも消え去ろうとしているのです。
100歳以上の高齢者の子どもたちを、70~80歳程とすると、ちょうど初期の戦後教育を受けてきた世代です。戦前の教科書は、黒く塗りつぶされ、全然の価値観を全否定してスタートした戦後教育の洗礼を受けているのです。
だからそうなのかどうかは、証明できませんが、その世代から美しき日本の姿は断絶しているとしか、思えないのです。
もちろん、私たちも戦後教育を受けて育ってきました。
しかし、戦後60年を有して、やっと私を含む日本人がその欺瞞に気付き始めたのです。
そして、どうやら日本人の道徳心や公共心の衰退には、「教育勅語の否定」が関与しているようであると気付きだしたのです。
この事件をそのまま行政のせいにして終わらせてはなりません。
まして、「特別の事例だ」「普通の家族に起こることではない」と、他人事にしてしまってはいけないのです。
この事件は、戦後の日本人の有り様を私たちに突きつけているのです。
日本人は、もう一度「教育勅語」の精神を取り戻し、子どもたち次の世代に受け継いでいく必要があるのではないでしょうか?
大いに国民で議論する必要があるようです。
全国で高齢者の所在不明が相次いでいる問題で、新たに札幌市、堺市などで100歳以上の高齢者10人の所在が確認できていないことが5日午後、分かった。当初、18人の行方が分からないとしていた大阪府東大阪市で、同日の調査の結果不明者が13人となったことから、時事通信のまとめでは、全国の所在不明は18都道府県で66人となった。(時事通信)
他社の集計では、もっと多いとの結果も出ているようです。
都内最高齢とされる113歳の女性の所在が不明になったことを受け、各地で高齢者の所在不明が相次ぎ明らかになりました。
行政の落ち度として指摘されていますが、個人情報保護法などの制約もあり、今まで実態把握がなおざりになっていたのでしょう。
書類が最も重要視される行政には、おのずと限界があり、致し方ないように思います。
しかし、家族はそうではないでしょう。
家族が、不明のまま放置しているとすれば、家族の情の希薄さも「事ここに至れり」という感がします。
愛知の106歳が不明の件では、登録された住所は更地になっている上、親族も所在を把握していなかった(産経新聞)東京の105歳が不明になった件では、 家族は、『数年前に出て行ったきりどこにいるか分からない』」(朝日新聞)と言い、神奈川の104歳が不明 の件では、家族は『もともと家を出てはふらっと帰って来る人で、生死も分からない』」(毎日新聞)など、親の命すら軽々しく考える家族の情の希薄さを感じるのです。
行政の責任というよりは、家族の責任が第一義です。
親の所在や存命かどうかにすら、責任を持たない日本人が増えているのでは…と日本社会の情の希薄さに恐ろしい思いすらします。
親ニ孝シ
今までに何度も書いてきましたが、明治天皇が示された「教育勅語」には、人の徳として、第一に「親ニ孝シ」と、親孝行が挙げられています。
かつての日本人には、「親孝行」が最も大切な徳目として教えられていたのです。
やがて自分が親になることを考えると、次世代につないでいく上でも、大変大切な徳目でした。
しかし、先の大戦後、「教育勅語」は国会決議で否定され、日本人は悠久の時を経て形作られてきた日本人としての徳目を失うことになりました。
そして、この国から「親孝行」という言葉さえも消え去ろうとしているのです。
100歳以上の高齢者の子どもたちを、70~80歳程とすると、ちょうど初期の戦後教育を受けてきた世代です。戦前の教科書は、黒く塗りつぶされ、全然の価値観を全否定してスタートした戦後教育の洗礼を受けているのです。
だからそうなのかどうかは、証明できませんが、その世代から美しき日本の姿は断絶しているとしか、思えないのです。
もちろん、私たちも戦後教育を受けて育ってきました。
しかし、戦後60年を有して、やっと私を含む日本人がその欺瞞に気付き始めたのです。
そして、どうやら日本人の道徳心や公共心の衰退には、「教育勅語の否定」が関与しているようであると気付きだしたのです。
この事件をそのまま行政のせいにして終わらせてはなりません。
まして、「特別の事例だ」「普通の家族に起こることではない」と、他人事にしてしまってはいけないのです。
この事件は、戦後の日本人の有り様を私たちに突きつけているのです。
日本人は、もう一度「教育勅語」の精神を取り戻し、子どもたち次の世代に受け継いでいく必要があるのではないでしょうか?
大いに国民で議論する必要があるようです。



