東日本大震災で、世界から称賛された日本人の道徳心。

その真実を、次世代につないでいきながら、子どもたちの中に日本人の美徳を育んでいく授業をするために、資料づくりをしています。

子どもたちの魂を揺さぶり、「日本人であることに誇りを持てる」資料をつくるのは困難ですが、日教組により公教育が左傾化して壊れた子どもたちの心は、公教育で立て直すしかないと志を立てて地道に取り組んでいます。

 

今回は、「責任感」を育てることを目的にした資料を紹介します。

 


責任をまっとうする(中学生道徳資料)


日本を襲った大地震

平成23年(2011年)3月11日午後2時46分。

この日、東北など各地で起きた「1000年に一度」と言われる大地震と、その後発生した大津波は、決して忘れられない深く悲しい記憶として、私たち日本人の胸の奥に刻みつけられました。

地震と津波による犠牲者は、現在もまだ増え続けており、死者だけでも1万4千人余り。行方不明者を加えると、3万人になろうとしています。

しかし、今回の震災の犠牲者は、まだまだ多くなっていたかも知れません。

自分の命をかけて、最後まで犠牲者を救おうと責任をまっとうした人たちに、救われた多くの命があることを、私たちは忘れてはなりません。

 

天使の声(命に代えて、まっとうした責任)

今回の津波で、1万7000人の人口の内、8000人もの行方不明者が出た宮城県南三陸町では、大きな揺れの後に来る津波の襲来を予測して、高台への避難をひたすら呼び掛け続けた、ひとりの若い女性がいました。

町役場の防災放送の担当職員だった遠藤未希さん(24)です。彼女は、昨年7月に結婚したばかりで、この秋に披露宴を挙げることを楽しみにしていた町役場の職員でした。

「6メートルの津波が来ます。高台へ避難してください」。

防災庁舎の2階の部屋から流される、冷静で落ち着いた彼女の声は、大地震の大混乱の中でも人々が慌てないように、一語一語はっきり分かるように、丁寧に何度も何度も繰り返し呼び掛けられました。

やがて、予想をはるかに超えた大津波が南三陸町を襲い、未希さんが放送を続けていた防災庁舎も大津波に飲み込まれ、庁舎に残っていた職員と一緒に3階屋上部分まで押し流してしまいました。後に、未希さんの母親は、「(大津波に襲われて)放送が途中で切れた」と避難した知人から聞かされました。最後の方は声が震えていたといいます。

彼女は、襲い来る津波の恐怖と闘いながら、最後の最後まで町民の命を救うために力を尽くしたのです。

無残にも、大津波に飲み込まれてしまった未希さんは、他の20人の職員らとともに、そのまま行方不明になってしまいましたが、その後、捜索隊の懸命な捜索の結果、震災後2カ月近く立って、沖合の海で遺体となって発見されました。

彼女の必死の呼びかけを聞いて高台へ逃げて助かった町民たちは、

「防災無線がなかったら、逃げていなかった」

「あの声ははっきり覚えている。あれがなかったら、もっとたくさんの人が亡くなっていた」

「自分の命と引きかえに町民を助けた。天使の声だと思っています」

と、町民のために最後まで責任を全うした彼女の声を、「天使の声」と呼んで、彼女の責任感の強さとその勇気ある行動に心から感謝しました。

このようにして、彼女は自分の命と引き換えに、多くの町民の命を救いました。それは、彼女の責任感の強さと、町民を思いやる優しさが成し遂げた奇跡です。だからこそ、未希さんの「天使の声」は、今もなお復興を目指す町民の心深くに留まり、生きる勇気を与えているのです。

最期まで果たすのが「本当の責任」

 明治43年(1910年)4月15日、瀬戸内海の岩国沖の海中で、故障を起こして、どのように手を尽くしても浮上できなくなった潜水艇がありました。この潜水艇は、初の国産で性能も悪く、「ドン亀」とさえ言われた操縦困難なものでした。

 その艦長を務めていたのは、佐久間勉(海軍大尉)です。彼は、どうすることもできなくなった潜水艇の中で、艦長としての強い責任感から、潜望鏡から薄くもれてくるかすかな光を頼りにして、手帳に遺言を書きつけます。

艦内の酸素が急速になくなって息苦しくなり、鼓膜が避けんばかりに気圧が高まって、意識が朦朧としてく中で遺書を書くことは、簡単なことではありませんでしたが、渾身の力を込めて39ページもの遺書を残しました。

 遺書には、潜水艇の事故の原因や沈んでからの艇内の様子などと一緒に、この事故によって潜水艇の将来が絶たれることがないように願うことが書きつけられていました。また、乗組員全員が持ち場を離れずに最後まで職務をまっとうしたこと、その部下の遺族がこの後に困らないようにしてほしいことも記されていました。

自分の死が迫りくる中で、潜水艇の将来を案じて、部下の家族のことまで気遣う佐久間艦長の大きな優しさと、上官としての責任感の強さには、心を深く打たれます。

佐久間艦長の旧制中学時代の恩師である成田鋼太郎先生は、彼のことを「温厚にして沈勇(落ち着いていて勇気がある)。小心(細かな気配りができる)にして大胆、純忠(いちずに主君につくす)にして不惑(ものの考えに迷いがない)。」と評しているように、彼は、ただ勇猛なだけではなく、責任感が強く人間味溢れる温かい人柄だったからこそ、このような遺書を残すことができたのでしょう。

海外で賞賛された乗組員たち

潜水艇は、事故が起きてから2日後にやっと引き上げられました。遺体を回収するためにハッチを開いて艇内に入る際には、集まった乗組員たちの遺族たちは遠くへ遠ざけられました。それは、これ以前に英国で起きた潜水艇の事故の際、乗組員たちが助かりたい一心からハッチに向って折り重なって死んでいたことから、そんな姿を遺族に見せたくないという心配りからでした。

しかし、艇内に入った人たちは驚きました。乗組員の誰ひとりとして、ハッチの前にはおらず、それぞれの持ち場についたまま、最期の最期まで職務をまっとうしていたことが分かるような立派な姿で命を落としていたのです。

死を目前にしても、冷静であり続け、自分の持ち場を離れずに、責任を果たした彼らの姿は、国内のみならず、海外でも大きな賞賛を受けました。

英国の新聞は、「この事件でわかることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上にもまた勇敢であることを証明している。今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」と最大の賛辞を贈ったのです。

事故後100年が経った今でも、佐久間艦長の命日に出身地の福井県で行わる慰霊祭では、英国大使館から大使館付き武官が参列して、彼の勇気と遺徳をしのんでスピーチが行われています。彼の偉業は時代を越えて世界中の人々に感動を与えているのです。

 このように、本当の責任感というのは、その人の生き方そのものに深くかかわっています。そして、自分の責任を最後までまっとうする姿は、世界中の多くの人々に感動を与え、人間の歴史の中でずっと生き続けていくのです。

参考資料 道徳の教科書(渡邉 毅著)、産経新聞、共同通信ほか


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