国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

教育界を蹂躙する左翼思想

vol.153 学校と自衛隊の距離感 ~学校に自衛隊を受け入れよう!~

学校と自衛隊の距離感

 

戦後教育では、自衛隊は忌み嫌われてきました。

その理由は、「自衛隊は軍隊であり、その存在は憲法違反である」という日本国憲法92項を盾にした『自衛隊違憲論』がまかり通ってきたからです。

そして、それを日教組(日本教職員組合)や全教(全日本教職員組合)など政治的な偏向イデオロギーに染まった組合員が、授業をとおして忠実に子どもたちに教え込んできたのです。

 

以前にも書きましたが、最高裁は自衛隊そのものの合憲性の判断を下していませんが、50年以上前の安全保障に関る上告審で、

「憲法9条によって、わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と、米軍の駐留を含めて実質的な「自衛隊合憲論」を示しているように、『自衛隊違憲論』がいかに偏った思想であるかは明白です。

しかし、彼らは最高裁の判断や、多くの国民が自衛隊を支持している背景を完全に無視して、学校という密室で極少数論でしかない違憲論を教え込んでいたのです。

 

ですから、学校と自衛隊の距離感は一向に縮まらずに戦後60年以上が経過してきました。

しかし、昨年起きた東日本大震災以降その雰囲気が大きく変わりました。

災害派遣に赴いた全国の自衛隊の部隊の雄姿は、国民の誇りとなり、自衛隊への信頼となってわたしたちの心に刻み込まれたのです。

今後も起こるであろう大災害に際して、自衛隊抜きでの救難、復旧・復興はないことを全国民が認識したように、学校でも自衛隊抜きでの「防災教育」はあり得ないことを認識しました。

 

 

自衛隊から学ぶ「国防」意識


昨日、わたしの勤務する学校では防災教育の一環として「防災フェア」を開催し、生徒たちや保護者だけでなく、地域の人々とともに防災について学ぶ機会を持ちました。

海沿いにあって太平洋に面している本校では、防災教育はまさに「命を守る」教育です。

 

その協力団体のひとつとして、地元の陸上自衛隊普通科連隊を受け入れました。


被災地でも活躍した軽装甲機動車や人命救助システムなどの説明を受け、生徒たちは避難所としても活用された天幕(テント)設営を自衛官と一緒に体験したのです。


生徒たちにとって、制服姿や迷彩服姿で機敏に行動する隊員たちの姿はどう映ったのでしょうか?


偏向したイデオロギー抜きで自衛隊と出会い、隊員たちの爽やかな笑顔に触れただけでも、国民の安全と財産を守る自衛隊を肌で感じるよい機会となったことでしょう。

「国防」という概念を知らずとも、災害時のヒーローとして彼らを受け入れ、敬意をもって制服姿の自衛官と写真を撮りたい、握手をしたいと願う生徒たちの姿を、わたしたち国民はもっと知らなければならないでしょう。

 

 

このように、学校と自衛隊との距離感は確実に縮まろうとしています。

その証拠に、その準備段階から防災フェア当日にいたるまで、教職員はもちろんですが、地域の人々や保護者から自衛隊参加への反対意見はただのひとつもありませんでした。

 

これからは、国民として育ちゆく中学生たちに、自衛隊の災害派遣だけをクローズアップするのではなく、浅はかな『自衛隊違憲論』などに振り回されないで「国防」や「国際貢献」についてしっかりと考える力を育てていかなければなりません。


もちろんそのためには、生徒の心の内に「我が国や郷土を愛する心」を育むことを忘れてはならないと思います。





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vol.145 中学校で『百人斬り』授業を報告する日教組。教育者の良心さえ持たぬのか?

先日、富山県で開かれた日教組の教研全国集会で、驚きの授業実践が報告されました。

(詳しくは、MSN産経ニュース 『中学授業で「百人斬り」 自虐的教育を報告 日教組教研集会』でご確認ください。)

 

紙面にもあるように、「百人斬り」とは、東京日日新聞(現毎日新聞)が昭和12年に掲載した記事で、旧日本軍の元少尉2人のどちらが先に日本刀で(中国人を)百人斬れるか競争をしたというものです。

当時から、その内容には疑念が持たれていたようですが、後に報道に立ち会った元カメラマンが「戦意高揚のための記事で、あり得ない話だ」と証言していますし、毎日新聞そのものが、平成元年に発行した「昭和史全記録」で「事実無根」と否定している偽りの報道記事です。

 

それを授業に使用したというのですから、もはや教育とは呼べません。

 

私たち教師が授業をする際には、使用する題材(教材)が、「真実」であることに細心の注意を払います。

現代の新聞記事でも、真偽の確認が曖昧なものや記者や新聞社の私見が強いもの、政治色が濃厚な記事は極力使わない、という不文律があります。

 

にもかかわらず、教科書にも載らず、すでに虚偽だと判明している新聞記事を教材にして教えることは、教師としての良心ばかりか、教育者としての資格を問われる愚劣な行為です。

そして、嘘の犠牲になるのは真実を知ることを阻害され、心さえも歪められてしまう子どもたちですから、教師失格の烙印を押されても仕方ないほどの悪質極まりない蛮行で、もはやその実践者を教育者とは呼べません。

 

 

そして、私たち国民がもう一つ見落としてはならないのは、この実践が全国から数千名もの日教組組合員(教職員)が集結して開催される教研全国集会で報告されたということです。

この報告がされたのはおそらく分科会でしょうが、その会場にも多くの教育のプロであるはずの教職員が集まっていたのです。

その中で、このような教育とすら呼べない実践が誇らしげに報告されていく…としたら、この異常さには恐怖さえ感じます。

 

わたしは日教組の組合員ではなくこの集会に立ち入ることはできませんから、真実の程は窺い知れませんが、多くの教師がいても誰一人として「百人斬り」は虚偽報道だと指摘する程度の良心さえ、持ち合わせていなかったのでしょうか?

 

いくばくかの『教師としての良心、常識』を持ち合わせていれば、他にも指摘しなければならないことは多々あったはずです。


例えば、この実践は

○「百人斬り」とされた故両少尉への名誉棄損ではないのか?

○ 両少尉のご遺族への人権侵害ではないのか?

○ 虚偽の事実を、故意に教え込まれた子どもたちの学習権を侵害していないか?また、心身ともに健全に成長する権利を侵していないか?

○ 祖国の歴史や、日本人であることに誇りを持てなくなった子どもたちの心の傷に対して、賠償責任は発生しないのか?

など、まともな教師であれば、いくらでもあるはずです。

 

それを安穏として受け入れるだけでなく、共感しているとすればもはや彼らは教師ではありません。

 

同じ教育者としてこのような蛮行と、それを是とする日本教職員組合(日教組)の不見識な集会開催を強く非難します。


 


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vol.138 挨拶に潜む「日教組思想」さえも、変革できない学校

たかが挨拶、されど挨拶

私の勤務する地域は、歴史的に日教組(全教)の影響力がとても強く、現在は組織率が低下したといえ、未だにその影響下にあるとさえ言われている地域です。

そのこともあってか、私の地域の多くの学校では、授業のはじめが「始めましょう」、授業終わりが「終わりましょう」という、まるで掛け声のような稚拙な挨拶が残っています。

これは、戦後、日教組が推し進めてきた「子どもへの迎合主義」、「悪平等主義」の遺産です。
教師も、生徒も同等の立場で授業に臨むという、浅はかで上辺だけのご都合主義挨拶です。
そこには、授業者としての教師の矜持も、授業を受けるものとしての生徒側の慎みや教師への畏敬の念の欠片も含まれていません。
詳しくは、下記URL本ブログvol.107「脱・日教組教育は挨拶から」を参照してください。
http://blog.livedoor.jp/kokyoren/archives/51872167.html

こういったご都合主義が、我が国の教育の荒廃を招く一因となり、学級崩壊や学力低下につながってきたことは、良識ある皆さんならお判りでしょう。
そこで、私の学校では、「お願いします」「ありがとうございました」という、本来あるべき姿の挨拶に変更したのです。

「お願いします」「ありがとうございました」は上から目線…?

ある学校で、私たちと志を一つにする教師が、職員会議で本来あるべき挨拶へと変更を申し出ました。
すると、「それは上から目線の挨拶なので、認められない」と却下されたというのです。

上から目線とは、どういう意味でしょうか。

教育には、教える立場と教わる立場が厳然として存在しています。
むしろ、その秩序をしっかりと守ることが、学校としての教育力の向上や子どもたちの成長に資することになるという程度の理論すら、この学校の教師たちは持ち合わせていないのでしょうか?
多くの学校で対教師暴力が頻発し、学級崩壊が続発する現状を顧みてその原因を熟考することなく、「上から目線」という、稚拙な理屈を振りかざすその言葉からは、教育者としての理念の脆弱さや、学校正常化への信念の脆弱さを感じてしまいます。


もし、「はじめましょう」「終わりましょう」という挨拶が、どうしても教育現場に必要であるというならば、その根拠を示し、自分の教育理念をもって反論していただきたい、そう切に願うのです。



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vol.136 考察4 あなたの地域の学校は大丈夫か!? 左翼組合支配度チェック!

日教組ら組合の組織には、学校ごとに「分会」なる末端組織があります。

そして、この「分会」を分会長となった教員が取りまとめて、管理職とさまざまな交渉をすることで、学校組織や教育内容への関与を強め、自分たちの偏った主義主張を学校現場で無理強いしていきます。

こうやって、学校そのものを組合の支配下におさめていくのです。

 

子どもさんが現在通っている学校や、将来通う可能性のある地域の学校が、日教組・全教(全日本教職員組合)ら偏向イデオロギーに染まった組合に支配されていないか…それを知りたいなら、以下の項目をチェックしてみてください。

 

  卒業式や入学式の国家斉唱で起立しない教職員が複数名いる。

  国歌斉唱はピアノ伴奏ではなく、歌詞入りテープを流す。

  国歌斉唱のときに、参加者全員が起立するが歌わない。(歌詞入りテープを聞き流す)

  国歌斉唱のときに、多くの生徒が着席する。

  卒業式や入学式がフロアー型の対面式(舞台に正対せず、在校生や保護者と向き合う型式)で、生徒の正面に国旗を置かない。

  学校に国旗掲揚台がなく、日常的に国旗が掲げられていない。

  体育館の舞台に常設の国旗がない。(パネルになっていない。)

 

ひとつでもチェックが入るようなら、偏向組合からの関与がある(あるいは、かつてあった)学校・地域だと見てよいでしょう。

もし、数個チェックが入ったとすれば、左翼組合による学校支配がかなり進んでいると考えられます。

 

しかし、これらの項目は世間的な批判が強まったこともあり、学校では確実に改善しています。

 

ですが、まったくチェックが入らなくても、実は偏向組合による学校支配が進んでいる場合があります。

それを知るには教育内容に目を向けなければなりません。

 

最も分かりやすいのは「先の大戦」をどのように教えているか…ということでしょう。

なぜなら、彼らの偏向教育の原点は、『平和教育』という耳触りのよい名のもとで、我が国だけを悪玉に仕立て上げ、国家と国民の乖離を謀り、我が国体を破壊することにあるからです。(そうやって、共産革命を目指していることは、いまさら説明しなくてもいいでしょう。)

 

その点に絞って、チェックしてみましょう。

 

  遠足や修学旅行、PTA研修などで、歴史的事実のねつ造が疑われる施設見学に出向いている。(従軍慰安婦や南京大虐殺など)

  文化祭で、偏った思想(自虐史観や日本悪玉史観など)による展示や発表がある。

  学校行事で、偏った思想の持ち主(同上)の講演会が開かれる。

  学校通信に、明らかに偏った思想の表現がある。

 

この項目にひとつでもチェックが入れば、それは確実に学校が左翼組合の支配下にある(または、かつて支配下にあって、現在は支配を脱していても、すでに偏向イデオロギーが学校の文化になってしまっている)と考えてよいでしょう。

 

これらの項目は、左翼思想に染まった一教師のスタンドプレーで、できることではありません。

それを援助したり、黙認する風土が学校内に醸成され、学校全体が協力しないとできないことです。

ですから、「左翼組合の支配下にある(あった)」としか表現できない状態なのです。

 

どうか、身近にある学校に目を向けてください。

偏向思想に支配されている学校に勤めている教員は、自身が偏向組合に加入していなくても、感覚が麻痺していたり、あきらめたりしていますから、自浄作用は期待薄です。

 

偏向組合から学校を守る第一歩は、健全な国民の目を学校に向けて、学校を「監視する」ことです。




 

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vol.135 考察3 日教組の学校支配を拒むには~教職員編~

今回は、どうすれば、左翼組合(日教組や全教)の支配から学校を開放できるのか?について考察します。

左翼組合の学校支配の手口については前回報告しました。
この手口の中に、彼らの支配を拒むヒントが隠されています。

彼らの学校支配の手口のキーワードは「民主的な学校運営」というものです。
これらのキーワードを連呼して、教育委員会や学校長からの指導を徹底して撥ねつけていきます。

そして、その手段として使われるのが職員会議ですから(前vol.134をご参照ください)、まずは、職員会議の司会の輪番制を即刻やめて、教頭など職責のある者が責任をもって会議を進行することが肝要です。

その際に、組合員の偏向した発言に対して、毅然とした態度で、その発言を制したり、却下するなど、適切な対応をとれば職員会議を組合にコントロールされることをかなり防ぐことができ、その支配から脱するチャンスになります。

そして、「職員会議が学校の最高決議機関」であるという主張を絶対に認めないことです。

「我が国は法治国家であり、率先して法を遵守すべき学校が法を曲げることはできない。法にある通り、職員会議は学校長の諮問機関であって、最終決定権は学校長に存する。」
旨を正々堂々と主張することです。

そのためには、学校長に左翼組合の不合理な要求に対して、毅然と闘う覚悟が必要です。
平成11(1999)年、広島県立世羅高校では、組合員の執拗な国旗・国歌反対闘争と最後まで闘った学校長が自殺するという痛ましい事件がありましたが、この事件がきっかけとなって国旗国歌法が成立しました。

このように身命をとして我が国の教育を守られた故人の如き真の教育者であれば、必ずや左翼組合の支配から学校を開放することができます。

ただ、一言加えれば、このような悲劇を繰り返さないためにも、現場の良識ある教員が学校正常化に取り組む学校長を補佐して、組合員と最後まで闘う姿勢を持つことが正常化を早めます。

次回は、一般国民や保護者(PTA)が学校を組合支配から開放する手立てを考えます。


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vol.134 日教組の手口 考察2「学校支配の手法を暴く」

今回は、日教組や全教の学校支配の構図を紹介します。

まず、彼らは「職員会議が学校の最高意思決定期間」だと主張します。
学校教育法では、職員会議は「学校長の諮問機関」と位置づけられており、学校の最終決定権は「学校長」に在ります。
彼らは、そのことを十分に知っていながら、あえてそう主張するのです。

なぜなら、ここに学校支配のトリックが隠れているからです。

日教組らの勢力下にある地域の学校の職員会議では、民主的な議事運営を図るためという理由で司会者を教員の輪番制で行います。
(ちなみに日教組らの勢力が弱い地域では、基本的に教頭や教務主任など、主任格以上のものが行います)

この輪番制も、実は学校支配のためには大切なのです。

なぜなら、組合員が司会をすれば、自分たちに都合のよい意見を吸い上げて、会議そのものを恣意的に誘導できます。
また、組合員が司会をしなくても、組合員たちは積極的に自分たちの主張をして意見を『ごり押し』していきます。
ときには、声を荒らげたり、管理職(学校長・教頭)を非難したりしながら、職員会そのものを牛耳っていきます。

そして、「職員会で決まったことは、この学校で一番大切すべきだ」と念を押すことで、学校の意思決定にするのです。

しかし、時には自分たちの都合良く職員会議が進まないこともあります。
そんなときには、組合としての「交渉権」をちらつかせて、学校長と直接交渉をして、裏で職員会議で決まったことを覆す工作をします。

こんなときは、職員会議は意思決定機関ではなくなります。
そうやって自分たちに都合良く解釈を変えながら、主義主張を通していくのです。

どうですか?
この手法なら、例え組合員の数が少数でも、一見民主的に学校を支配下に置くことができるのです。
(すべての組合員がこんなインチキをしている訳ではありませんが)

では、どうすればこの支配を食い止められるのか?
それは、次号で紹介します。



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vol.133 日教組の組織率低下は、組合支配から学校を解放したか? 考察1「組織率にとらわれるな」

前回のvol.132「教育委員会の権限縮小は、国家の教育を誤らせる愚挙である!」の記事に質問をいただきました。

その内容を要約すると
① 近年は、日教組の組織率が下がっているのに、未だに学校を組合が支配するということがあるのか?また、具体的にどのような支配があるのか?
② なぜ、わたしは組合に害されることなく、自己を確立したのか?
ということでした。

まずもって、率直なご質問をいただいたことに感謝し、お礼を申し上げます。
このご質問はもっともだと思います。国民の率直なご質問として、十分なお答えになるかどうか分かりませんが記事にしてお答えします。

今日はまず①のご質問についてです。
現在の日教組の組織率は、平成19(2007年)度で28.7%、組合員29万人ほどです。確かに、昭和30年代には90%を越える組織率でしたから、確実に減ってきています。
しかし、組織率が低下しても彼らの力は決して弱まっていない地域があるのです。

この組織率は、全国平均値です。
しかし、未だに非常に高い組織率を維持している地域があります。例えば、福井、三重、大分などです。
これらの地域では、学校の中に多くの組合員がいます。
全国的に組織率が下がったと言っても、地域差が大きいのです。

そして、この組織率が低下したひとつの要因は、平成4年の日教組の内部分裂です。
この時に、日教組内の共産党支持層が日教組から分離して、【全日本教職員組合】(全教)を立ち上げました。
その組織率が、平成20(2008)年度で、6.4%、組合員が約6万人強です。
これも全国平均値ですから、地域によって組織率はまちまちで、東京、埼玉、京都、高知などで組織率が高くなっています。

このように組織率が低下したと言っても、左翼組合勢力は全国の3割以上の組合員を確保して、その数は30万人に迫るのです。
そして、もっと深刻なのは、それらの組合員がある一定の地域に集中して存在していることなのです。

この現状を見ていただいただけでも、「組合による学校支配」は、まだまだ日本の各地で確実に起こっていることがお分かりでしょう。

次回は、学校支配とは具体的にどう行われるのか、現場の立場からご説明しましょう。



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vol.130 大阪「教育基本条例案」に反対する知識人は、学校の組合支配を肯定することを知れ!

大阪府の地域政党「大阪維新の会」が、府議会などに提案する「職員基本条例案」と「教育基本条例案」では、
「政治が適切に教育行政における役割を果たす」ことを前文で明文化しています。

そして、

○同一の職務命令に3回違反した場合は免職とする
○府立、(条例案が可決された)市立校の全小中高校長も教員や民間などから公募する

などの改革案が示されています。

大阪の教職員組合らは、この条例案に強く反発しています。
なぜなら、これらは「学校を組合支配から開放」するためのものだからです。


中でも、全小中高校長の公募は彼らにとっては驚異です。
学校教育が組合支配から開放され正常化するには、彼らと毅然とした態度で対決できる学校長のリーダーシップが不可欠です。

しかし、日教組や全教など偏向した教職員組合が強い地域では、
「組合出身でないと管理職(校長・教頭)になれない」
「組合幹部をすると管理職になりやすい」など
組合と管理職を登用する教育委員会が馴れ合いで学校を支配しています。

そんな地域では、教育委員会内に学校現場から組合員が多数入り込んでいますから、組合の御用達になっていることもしばしばです。

ところが、公募制となって組合員が学校長に登用されなくなれば、組合と教育委員会の馴れ合い体制に風穴を開け、学校を組合支配から開放する手立てとなる可能性があるのです。

そのためには、教育委員会から組合色を排除しなければなりません。
ですから「政治が適切に教育行政における役割を果たす」ことが必要なのです。


この条例案に反対する一部の知識人たちは、「政治による(良い)関与」さえも、さも危険なことのように煽って反対します。
それは、組合による学校支配で子どもが犠牲になっている姿を知らないが故か、知っていてあえて偏向教育を是とする確信犯です。

教育は、政治的中立を守ることが必要ですが、
「政治の適切な関与」が遠ざけられた結果、学校が組合支配の温床となり、反日教育や左翼思想が蔓延った歴史をしっかりと見なければなりません。

国民は、それを隠して反対する彼らのうさん臭さをしっかりと見極めなければなりません。





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vol.129 高校文化祭で従軍慰安所を再現!? 子どもの人格を踏みにじる反日教育を許してはならない

Twitterで、ある情報が流れています。
大阪府の私立高校文化祭で戦時中の「従軍慰安所」を教室に再現したというものです。


まさか…
ソースの出どころを疑うほどの衝撃でした。


思想的偏向を別にしても、高校生に慰安所を教室で再現させる…その異常さは同じ教育者として信じがたいものです。
当時、慰安婦になった理由はそれぞれ千差万別でしょうが、そこで行われる(商)行為を抜きにして慰安所について語ることはできません。
その慰安所を高校生に再現させる、それも教室で…。


この学校の教師の報告書には、「より現実に近い慰安所をつくる」ことを是とし、創意工夫する生徒たちの姿や、それを取材して持ち上げる「朝日新聞」や「赤旗」らマスコミの姿が赤裸々に描かれています。
https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B0ou7nUQ9_VeMWQ3OWMwZjUtODBhZi00NDI0LThjOWUtZjVlZDZjNDM2NzRi&hl=ja&pli=1


このように教育とは名ばかりの異常さに気づかずに、「平和教育」と称するのですから恐ろしささえ感じます。


この私立学校は、教員の組合組織率が100%で、全国私立学校教職員組合連合に加盟しているようですが、その上部組織は全日本教職員組合(全教)です。
彼らは、日教組が平成4年に分裂したときに、共産党を支持する一派が組織した「第2日教組」とでもいうべき組織です。
その体質は、現在の日教組よりも左翼的だと言われています。
ですから、今回の慰安所再現も彼らが推進する「平和教育」という名の反日教育の一環なのです。



そもそも彼らの言う「従軍慰安婦」「強制連行」という図式は、近年の資料研究で完全に否定されつつあるものです。
小林よしのり氏の著書でも有名になったように、ほぼその論争は終結しています。
にもかかわらず、このような悪質な洗脳教育がなされているのですから、驚愕と同時に怒りさえ覚えます。

ただ、この教育を受けた生徒が小林よしのり氏の「戦争論」を読んで、正気に戻る場面が前述のレポートには書かれています。
このように正しい知識が、子供たちを救うのです。



いつも書きますが、反日教育で間違った歴史を教え込まれ、祖国への憎しみを抱えなくてはならない最大の犠牲者は日本の子供たちです。
公立学校ばかりでなく、一部の私立学校でも反日教育がまかり通っているこの恐怖を、多くの国民に知ってもらい、国民の手で我が国の子供たちを守ってほしいと願います。


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vol.127 伊勢神宮参拝記2 公教育の忘れ物「復興を神々に祈れ!」

さて、今回はいよいよ正宮のお参りです。


瀧祭宮を過ぎて鬱蒼とした林を抜け石段を上ると、正宮です。
なんと厳かな雰囲気でしょう。
心の折り目がピンと立つような思いがします。


本宮は、式年遷宮といって20年に一度、隣接地に立て直されています。
これは、今から約1300年前の持統天皇の時代から続いてきた習わしで(戦国時代には一時途切れていましたが)、現代まで受け継がれており、平成25年が62回目の式年遷宮の年にあたります。
正宮の隣接地ではすでに遷宮に向けて工事が始まっており、石段が新しく組み直され、正宮を造営するための足場が組まれ、白いシートで覆われていました。


式年遷宮という生きた歴史のなかで、実際に工事されている一旦に触れると、1300年前にタイムスリップしたような不思議な感覚になり、「古きものを新たに生まれ変わらせる」という古代人の叡智とロマンに脱帽しました。

さて、正宮は皇祖神をお祀りしているのですから、さぞかし煌びやかかと思いきや…その建物は掘っ立て柱、藁葺き屋根の素朴な建物です。


式年遷宮の習わしが始まった時代には、現代に残るようなお寺を建てる技術力がすでにあり、国家事業としての習わしですから、技術的や経済的に素朴な建物しかできなかった訳ではありません。
なのに、なぜ素朴な佇まいなのでしょう?
ガイドさんの
「漢文化や仏教が流入する以前の、原始的な日本民族の建物様式を色濃く残しています。これは、持統天皇の夫である聖武天皇が、日本人の古の文化を未来永劫残そうとしたからでしょう。」という説明に、大いに納得しました。


正宮の参拝の次に案内されたのは、荒祭宮(あらまつりのみや)という別宮です。
驚くことに、このご祭神は、天照大御神です。
天照大御神は、正宮に祀られているはずなのに…なぜ?


ガイドさんに聞いてみると
「こちらには、天照大御神の荒々しい魂(荒魂)をお祀りしています。古来、日本人は、神様には和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)があると考えていました。荒魂は、神の怒りです。天変地異を起こしたり疫病を広めたりする魂ですから、神の怒りをおさめ荒魂を和魂にするためにお祭りをします。和魂とは神様の優しい魂で、人々に多くの恵みを与えます。正宮には、天照大御神の和魂がお祀りされているのです。」とのことでした。


かつての日本人は、天変地異や疫病さえも神々の意思(荒魂)として受け入れ、その怒りを鎮めようと祈りを捧げてきたのです。なんという健気さ、そして強さでしょう。

古来から、日本人の生活とは「神々との共生」だったのです。


これを迷信と切り捨てて来たのが戦後教育です。
日教組の綱領にあるように「科学的真理」などという、実は共産主義の無神論に類する思想が教育に入り込み、「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」という教育基本法の規定もあって、日本人が古来から大切にしてきた神に祈ったり、神に誓ったりという、人間の成長には根源的に不可欠なものが公教育では否定されてしまいました。

学校ばかりか、家庭でも神々のことを教わる機会が激減し、
それによって日本の子供たちは、自らを超える存在を感じることができなくなってしまい、情緒が貧困になり傲慢になってしまいました。


今、学校現場で起きている様々な問題は、ここに根源的原因があるように思えてなりません。


先の東日本大震災の際に、石原東京都知事が「日本人への神の怒り…」という発言をして批判されましたが、それはまさに日本人として正しい考え方だったのです。
今こそ、我々日本人が日本人の原点に立ち返り、神々と共生してきた歴史を学び、早期復興のために神々に祈りを捧げるときです。
そして、子供たちに神々に祈ることの大切さを教えなければなりません。


そんな日本人の原点に立ち返らせていただけた伊勢神宮参拝は、終わりに近づきます。
続きは、次号で。



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vol.126 与党系参院議員が陛下を写メ撮影。 戦後教育の歪がここまで…

無所属で民主党会派に所属する平山誠参院議員が、国会開会式にご臨席になるために国会を訪れられた天皇陛下を出迎えにでた際、こともあろうに自身の携帯電話のカメラで撮影するという信じられない行動が報じられました。

国民の代表として国会にあるものとしては、あまりにもお粗末な行動です。
携帯電話のカメラで撮影するなど、陛下になかなかお会いできない一般国民から見ると、とても考えられない不敬行為です。

この議員の個人的信条は知りませんが、国会議員として最低限身に付けておくべき「陛下に対する礼節」すら持ち合わせていないのは情けない限りです。

もし、仮に皇室に否定的な立場の者なら(その時点で日本人ではありませんが…)出迎えに参加しなければよいのですから、出迎えに立った平山議員の場合はそういう立場ではないのでしょう。
ならば、礼を失さない程度の最低限の節度を持つのが国会議員としては当然です。

それを、いたって個人的な携帯電話のカメラで撮影したというのですから、礼節を知らないばかりか、陛下への敬愛の念など持ち合わせていないのでしょう。
「ひどく非常識で、日本国民と皇室の歴史も知らず、不見識で軽薄である」とのそしりを受けて仕方ありません。


先の東日本大震災では、陛下の被災地訪問やビデオメッセージが国民をどれほど勇気づけたか…。
そして、そのような陛下を多くの国民がいかにお慕い申しあげているか…。

そんなことも分からずに、国会議員のバッジをつけ、何が復興であろう。

今の我が国の復興のためには、陛下のご存在がいかに大切か。
陛下のもとにしか、日本国民はひとつにはなれません。

いつもぶれ続けている政府や、政党に国民をひとつにまとめる力などありはしません。
我が国の悠久の歴史の中で、陛下の信任の下「わずかな時期だけ政権与党にあり、国政をとっているだけ」という謙虚さを持ち合わせなければ、国民の信頼など得ようはずがありません。

陛下を蔑ろにするような不敬行為を、多くの国民は絶対に許しません。


ここにも、日教組らに歪められ左傾化した戦後教育の弊害がみてとれます。
この不敬議員も戦後教育に蝕まれた犠牲者のひとりです。

彼らマルクス主義者は、我が国の皇室を廃止することが最終的な目的です。
そのために皇室軽視の教育を続け、我が国を自虐史観で縛り続けて、国旗・国歌を否定して子供たちを洗脳し続けているのです。


しかし、今日の「復興」を早め、世界から尊敬される国家になるには、陛下のもとに国民がひとつにならなければなりません。
そして、日本人が日本人らしくあるためにも、ご皇室やその歴史について正しく教育することが今の公教育には絶対に必要です。

その道筋を付けるのが、立法府である国会の役割です。

戦後教育から脱却できず、それを果たせぬ議員など必要ありません。

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vol.122 新教科書に巣食う「自衛隊違憲論」 偏向イデオロギーに染まる教科書たち

自衛隊は違憲か?

 

戦後、日本国憲法9条第2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。】を楯に、

「自衛隊は、憲法で否定されている戦力そのものであり、違憲組織である。」と主張してきた市民団体や政党が数多くありました。

 

教育界では、戦後教育に大きな影響力を与えてきた日教組や全教(全日本教職員組合)がそうです。

彼らは、「反国家」「反日」であり、「反自衛隊」色の気配が強い組合組織で、「自衛隊違憲論」を信奉し、学校現場で子どもたちを洗脳してきました。

これらの組合員の教師が、自衛隊員の親を「悪者」扱いし、その子どもを差別するというような、卑劣な行為さえも起こしています。

 

「自衛隊違憲論」は、偏向イデオロギーでしかない!

そもそも、彼らの言う「自衛隊違憲論」は、イデオロギーに染まった偏向した考え方でしかありません。

国民の代表である日本政府は、一貫して「自衛隊は、憲法上、必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の制約を課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものである。」という立場をとっていますし、

最高裁は、自衛隊そのものの合憲性は判断を下していませんが、50年以上前の安全保障に関る上告審で、

「憲法9条によって、わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と、米軍の駐留を含めて、実質的な「自衛隊合憲論」を示しています。

そして、大多数の国民はと言うと、

平成18年(2006年)に行った日本政府の世論調査では、84.9%が自衛隊に対する印象が「良い」(「良い印象を持っている」37.9%、「悪い印象は持っていない」47.0%)と回答しています。

東日本大震災後の被災地で、自己犠牲を厭わない自衛隊員の雄姿を見た現在は、よい印象を持っている国民はもっと多数でしょう。

 

このような社会状況にあるにも関らず、彼らが長年に渡って学校現場で「違憲論」に固執してきたのは、遵法精神などという崇高なものではなく、「自衛隊違憲論」で子どもたちを洗脳し、将来に渡って自分たちの都合のよい国民世論にするためです。

 

 

新しくなった「教科書」にも巣くう闇

現在、各地方では、来春から完全実施される学習指導要領に伴って中学校で使われる、新しい教科書の採択がなされています。

 

今回の学習指導要領は、「公の精神」や「国や郷土を愛する心」が謳われた平成18年の教育基本法改正後、初の改定版ですから、教育基本法の精神を反映した教科書がつくられることを多くの国民は期待しています。

 

しかし、いくつかの教科書会社の「公民教科書」の中には、

「平和と安全を守るためであっても、武器をもたいないというのが日本国憲法の立場ではなかったのかという意見もあります。」

などと、時代遅れの政治的イデオロギーに染まった表記がされている教科書がまだまだあります。

圧倒的少数意見でありにも関らず、教科書という「子どもたちにとっての公文書」にどうどうと表記されているのです。

 

これらが、教育的中立を守った立場からの表記であると評価してはなりません。

なぜなら、このわずか数行の表記さえあれば、授業を「自衛隊違憲論」に染め上げることなど容易なことだからです。

そして、政治的意図を持って偏向した授業をした言い訳として「教科書に載っているから」と言えるのです。

 

「自衛隊違憲論」は、偏向した教科書の氷山の一角でしかありません。

「皇室の軽視」「伝統・文化の軽視」「自虐史観」「家族崩壊」など、偏向したイデオロギーが散りばめられています。

このように、いまだに教科書という公的媒体を通して、授業の中に政治的イデオロギーを持ち込もうとしている勢力がいます。

 

各地区では、教科書を展示して、一般住民に見せているところもたくさんあります。

どうか、偏向した教科書で、子どもたちが毒されていかないように、大人が子どもたちの教科書に興味を持って、脚を向けてみましょう。



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vol.117 日教組が、全面ストを起こす日が来る!それが国民の選択ですか?


すこし古い記事ですが、日教組の体質を実によく表した事件です。
彼らは、採択された教科書を使用しないで授業をしようとしたのですが、一事が万事この調子です。

 まずは、反対闘争を起こしてみる。
負けた場合は、法廷闘争へ。
そして、今度は、現場での「骨抜き作戦」へと移ります。

今回は、教科書採択で、自分たちの歴史観と合致する歴史教科書が採択されなかった為、組合員で協力して、この教科書を使わないようにしようと画策したものです。

彼らは、こうやって現場を牛耳って、自分たちの思想(イデオロギー)を守ろうとします。
例え、それが非合法であっても意に介しないどころか、それを正当化さえして、「闘争」するのです。



 彼らは、学校現場では、職員会をとても大切にします。
それは、職員会が「学校の最高議決機関」だと信じているからです。
学校教育法では、職員会は、学校長の「諮問機関」と定められているにも関らずです。

ここでも、法律を無視して、組合員の数の多さや、大声で、職員会を牛耳り、自分たちの思想を貫き、管理職に楯ついて、学校現場を混乱させます。

 このように、法律で定められたことを平気で無視して、教育現場で身勝手に振舞うのですから、彼らが巣食う地域や学校では、立法府がどのような法律をつくっても、行政がどんなに教育改革の旗を振っても、学校現場はそう簡単には変わることはありません。
そして、その犠牲になっているのは、子どもたちなのです。



今、国会で現政権は、「協約締結権」を付与する公務員制度改革をしようとしています。
これは、公務員の労働組合に「労使交渉権」を与えようとするものです。
後日詳しく書きますが、「スト権」のない労使交渉などありませんから、いずれは「スト権」が付与されかねない危険な制度改革です。

これは、自らを「労働者」と規定する、日教組らが永年に渡って、政府に求めてきたもの(権利)です。
この国難にむかって国民が一つにならなければならないときに、復興の最前線に立つべき公務員に、さほどの世間的な注目も受けず、驚きの権利が与えられようとしています。

こんな制度改革をすれば、いずれ、学校で全面ストが起き、生徒たちが犠牲になるという悲劇が起きてしまいます。

断じて、教育公務員に「協約締結権」を与えてはなりません。




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vol.113 「夫婦別姓って何?」と問う中学3年生。教科書に記載する必要があるのか?

教師から見た「夫婦別姓」

わたしは、以前から夫婦別姓については、教師の立場として反対です。

理由は、拙ブログ「vol.10」を参照していただければ分かりますが、

簡単に説明すると、子どもたちの生活環境がこれ以上劣悪にならないためと、家庭崩壊を食い止めるためです。

家庭教育が機能しなくなり、公教育すら「学級崩壊」や「学力低下」など、多くの問題を抱えている現状で、これ以上子どもたちの生活環境が悪化して、家庭が崩壊してしまえば、まさに国家百年の大計である教育そのものが、根幹から揺るぎかねません。


「夫婦別姓」賛成論者たちは、

「別姓になると家庭崩壊につながると言うのは、夫婦同姓が浸透しているために引き起こされる錯覚に過ぎない。」

「選択的夫婦別姓を導入している国で離婚が増加しているのは、別姓が原因では無く、経済的に独立している女性が多いため、夫婦間に愛情が無くなれば婚姻関係を続ける意味が無いからである。」

「別姓だと、必要以上の親戚付き合いや嫁としての責任を免れることができて、個人対個人としての関係を作っていくことができる。」


などと言っていますが、そもそも家庭とは、深い愛情によって形作られている運命共同体ですから、「経済的自立」や「個人対個人」といった(我が儘な)「個人重視」の考え方が浸透してはならない聖域のはずです。

 

子どもたちの健全育成のためには、家族という「共同体の一員としての責任を持った個人」を育てなければなりません。

ですから、やはり「夫婦別姓」は、子どもたちの教育環境の悪化にしかつながらないとしか思えないのです。

 

「先生、夫婦別姓って何ですか?」

定期テストの補充学習をしていたときです。

「先生。夫婦別姓とは何ですか?」

彼女は、中学3年生。「公民」(中学校社会科)の問題を解いていました。

「どうしたの?」と問うと

「テキスト(問題)に載っているので、意味を知りたくて…」

 

私は、愕然としました。

未だ、国民的議論が決着を見ず、国会でも結論が出ていない問題が、中学校3年生の学習テキストに載っているのです。

もちろん、テキストに載っているということは、教科書に載り、「重要語句」の一つとして取り扱われているのでしょう。

「夫婦別姓って何?」という、中学校3年生の素朴な疑問に、誰が政治的(思想的)意図を排して、公平・公正に教えることができるのでしょうか?

 

15歳の中学生の両親は同姓なのに、「別姓に変える」ことを、制度として確立していないにも関わらず、教える必要があるのでしょうか?

甚だ疑問ですし、このような問題について、教科書に載せるべきではありません。

 

テキストに見える「政治的意図」

テキストには、男女共同参画社会の項の最後に

「男女別姓を求めている人たちがいます」と書かれていました。

 

テキストの流れから見ると、男女共同参画社会 → 男女の歴史的立場の変化(女性の社会進出)→ 夫婦別姓 とあたかも、男女共同参画社会を構築する為には、夫婦別姓が必要であるかのような記述です。

 

百歩譲って、中学3年生に夫婦別姓について教える必要があるとしても、「反対意見も多くあり、国民的議論は決着を見ていない」こと、そしてその理由を併記すべきです。

そうすれば、中学生として、中学生なりの答えの出しようもあるでしょう。

それが、教育ですし、学問的中立です。

 

彼らの常とう手段はいつも同じです。

社会的議論やその結論を待たず、教科書に載せて子どもたちを洗脳する。

左翼勢力や日教組による、偏向的な歴史教育の実態も、この[構図]と全く同じです。

 

私たち国民が、このような不正な手段を見逃してはなりません。
公教育が偏向しないためにも、子どもたちの教科書に興味をもってみてください。


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vol.107 「脱・日教組教育」は、挨拶から

「はじめましょう」「終わりましょう」は、授業の挨拶とは言えない

以前に拙ブログ「vol.34授業の挨拶にも混入する左翼思想」で指摘しましたが、

「始めましょう」「終わりましょう」
という、授業の始めと終わりに生徒と教師の間で交わされる挨拶の裏には、日教組ら左翼勢力が、長年推し進めてきた、過度な「子ども尊重主義」、「子ども尊重主義」のイデオロギーが隠されています。

 

本来、授業にある「教えるもの」と「教わるもの」という、当然の立場の違いを意図的に破壊して、「教師と生徒は、平等でなければならない」という思想のもと、生徒だけでなく、教える立場の教師すら洗脳してきたのです。

 

もちろん、教師も生徒も人としては平等です。

しかし、「教える立場」と「教わる立場」と言う厳然たる立場の違いがあってこそ、正常な教育は成り立ちます。

子どもから、「教えていただく」という謙虚さが喪失すれば、我が儘を助長させ、学ぶ姿勢や態度の崩壊を招きます。

それでは、学力などつくはずはありません。

 

「学級崩壊」「学力低下」へつながる危険思想

このような教育の成立そのもの(根幹)を揺るがすような危険な思想で、子どもを教育してきた結果が、現在の「学級崩壊」であり、「学力の低下」です。

 

新学習指導要領に準じた教科書検定では、小学校の教科書の内容が3割~4割程度増やされましたが、学習内容を増やしただけで学力が向上するわけではありません。

授業で、どう教え、どう学ばせるのか、といった根幹を見逃していてはなりません。

 

学校には、気づかないうちに、確実に学びを阻害して、子どもを蝕む「日教組的思想」が確実に混入しています。

そして、もっと恐ろしいことは、組合員ではない多くの教師までもが、「学び」を崩壊させる危険な思想を、知らず知らずに受け入れ、疑問を感じていないことです。

 

「挨拶」など、本当に些細なことかも知れませんが、これらの小さな事実を見逃さずにひとつひとつ正していく地道な取り組みがあってこそ、公立学校に本来の「学び」が取り戻され、子どもの学力は向上します。

ですから、教師一人ひとりが、これらの危険思想の本質を見抜いて、本来の「教育」の原点に立ち返らない限り、「学級崩壊」や「学力低下」に歯止めはかからないのです。

 

 

「お願いします」「ありがとうございました」で、脱「日教組」教育へ

私の勤務する学校では、本年度から、学力向上を目指して

「(よろしく)お願いします」
「ありがとうございました」
という、本来あるべき挨拶の形に変更しました。

 

「挨拶を変えたくらいで、学力が向上するはずはない」との批判もあるでしょう。

もちろん、本校でも挨拶を変えるだけではなく、授業改革や補習授業の充実、学習タイムの創出など、多くの取り組みをしていますが、教育の有り様を正すという、根本的な意識改革なくして、学力向上などありえません。

 

「ものを教わる」という謙虚さを持ち続けることが、「自分の能力や可能性を大きく伸ばすことになる」ということを、子どもたちの心に涵養するために挨拶を変更したのです。

 

そして、この些細なことが、学校を「脱日教組」させ、本当の学び舎にするスタートになると確信しています。




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vol.94 卒業式シリーズ3 「日教組による卒業式破壊」 ~対面型卒業式に隠された本当の意味~

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卒業式の式場の体型には、2通りの基本形があります。

一つは、ステージ型、もう一つは対面型(フロア型とも)と言われるものです。

 

ステージ型は、ステージに向かって卒業生が整列するのに対して、対面型は、ステージを無視して、フロアーで卒業生と在校生、卒業生と保護者などが対面式に向き合って座ります。

 

以前は、卒業式といえばステージに向って座るステージ型が当たり前でしたが、式典の厳粛な場面で集中力が続かない子どもたちが増えているので、向き合った者同士の互いの目線が合うフロアー型は、集中力が持続しやすく、現代向きだと評価される向きもあります。

また、ステージ型と違って、保護者から卒業生の顔が見えることも、写真撮影やビデオ撮影が当たり前になった現代では、支持される理由のひとつです。

 

生徒が主役?

生徒が主役 伝統守る/小禄中で「対面式」卒業式
 県内の中学校の卒業式が十、十一日の週末、ピークを迎えた。那覇市の小禄中学校で十一日に開かれた卒業式は、生徒の熱意が校長の方針を覆し、伝統の「対面式」が守られた。学校現場の管理強化が進む中、教員や親を驚かせた生徒たちは、晴れやかな表情で巣立っていった。
 同校では、フロアで卒業生と在校生が向き合って座る対面式が二十年以上続いてきた。しかし、長嶺明浩校長は舞台に向かって全員が座る「通常」の形に変更を求めた。「卒業式は最後の授業。舞台上で、厳粛に証書を渡したい」と理由を説明した。

 「後輩の顔を見ながら進めたい」「先輩たちを送り出したのと同じ形で送られたい」と願った生徒たちは動いた。アンケートを取り、圧倒的多数が対面式を希望していることを示した。校長に直談判する生徒も出た。

 ぎりぎりの九日になって開かれた全校集会。長嶺校長が変更理由を説明し、生徒に意見を求めると十数人が口々に対面式の継続を訴えた。校長が「混乱を避ける」として生徒の希望を受け入れると、拍手が巻き起こった。

 ある教員は「普段目立たない生徒まで、きちんと意見を言っていた。教師をやっていて良かったと感動した」と語る。別の教員は「校長が決めたことがひっくり返るなんて夢にも思わなかった」と、生徒のパワーに目を丸くした。

 文字通り主役になった生徒たちは、いつにも増して準備に懸命に取り組み、式を成功させた。

 終了後の校庭。ある女子生徒は「みんなの気持ちが一つになった。これができなければ本当に心残りだったと思う」と、上気した表情で語った。別の卒業生の母親は言った。「子どもたちが自分の意見を出し、学校が尊重してくれた。鳥肌が立つほどうれしかった」

(平成193月 沖縄タイムス)

 

この対面型(フロアー型)を考案したのは、日教組です。

卒業式を、「厳粛な式典」から「馴れ合い」型へと品格を下げるために、考え出されたものです。

実際に、日教組本部から各支部へ「卒業式で対面型を推進する」指示が出されていた事実もあるようです。そうでなければ、全国的に伝統を打ち壊す対面型が広がるはずはありません。

 

その目的としては、一つには、フロアーを使用することで、学校長や来賓と卒業生との目線を同じくして、それらの権威の失墜をはかること。

二つには、ステージ上に掲げた国旗に背を向けたり、視界に入れないことで、卒業式から実質的に国旗を排除すること。

 

先の沖縄タイムスの記事で分かるように、20年~30年程前から全国的に取り入れら、その形がすでに、伝統になっている学校まであるのです。

 

この事例などは、典型的に日教組による子どもの洗脳が成功した例でしょう。校長先生の「通常」の厳粛な式典をという思いを、生徒がアンケート調査や直談判までして覆す…、そして、それを地元新聞社が美談として掲載する…まさに、革命思想の集大成といったところでしょう。

しかし、少し冷静になって考えてみると、生徒をそういう風に先導し、新聞社にリークした教師がいて始めてなせる業であることは容易に想像がつきます。

彼らは、そうやって日本の学校現場を牛耳り、日本を解体しようとしているのです。

 

卒業式の正常化を!

しかし、沖縄の例にあるように、一度伝統となってしまった型式は簡単に打ち破れません。

ですから、心ある教師は、対面型の意図を知りつつ、せめて国旗の位置を常時視界に入る位置にしたり、フロアーに低くても雛段を設置するなどの地道な正常化をなしていく他にありません。

 

また、卒業式の正常化には、教育委員会や学校長の不断の決意と強いリーダーシップが必要です。

大阪府の一部地域などでは、教育委員会が「対面式卒業式の廃止」を学校に強く指導しています。

こういった動きが、全国的なものになることを強く希望します。

vol.93 卒業式シリーズ2 「仰げば尊しが歌われなくなった本当の理由」

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「仰げば尊し」が歌われなくなった理由②

volで、卒業式で「仰げば尊し」が歌われなくなった理由を書きました。

今日は、その第2段です。

 

そのもう一つの理由とは、

「身を立て 名を挙げ やよ励めよ」という2番の歌詞が、立身出世を肯定しているので、平等主義が蔓延ってきた戦後教育では敬遠されたからです。

卒業式で仰げば尊しを歌ってる学校の中には、2番の歌詞を疎んじて、2番をとばしてしまうところもあると言います。

 

この歌詞の前段部分は「互いに 睦し 日頃の恩/別るる後にも やよ忘るな」です。

友人と互いに大切に思いながら過ごした日々に感謝して、別れても互いのことや共に過ごした時間を忘れないでいようという意味です。

なんと睦ましい友情でしょうか。感動を呼ぶ素晴らし歌詞です。

 

そして、それに続くのが「身を立て 名を挙げ やよ励めよ」です。

なのに、その部分にだけ焦点を当てて、「立身出世を肯定している」として、卒業式から排除するのですから、無茶苦茶です。

 

本来、「身を立て」「名を挙げ」とは、決して立身出世することだけを意味するのではなく、世に名声をあらわすことを指します。

世に名声をあらわすとは、政治家や社長、学者などへの地位的・経済的な立身出世を指すのではなく、ひとつの事に実直に一所懸命に打ち込み、有名ならずとも世間から認められる生き方を指すのですから、なんと卒業式に相応しい名言(歌詞)でしょう。

 


日本の卒業式を蹂躙する左翼思想
にも関わらず、それを排除してきたのは、戦後の教育をミスリードしてきた日教組が掲げてきた偏った『平等主義』が根底にあります。

誰かが立身出世すれば、それに蹴落とされる者がいて、それが富の不平等を生むという資本主義否定の思想です。

そして、立身出世を否定する『平等主義』の裏には、立身出世 → 資本家の仲間入り → 左翼思想(共産主義・社会主義)・労働者の敵 という図式が隠れているのです。

 

 

この図式を長い年月をかけて全国の学校に広め、流行りの曲を式歌にとりいれることで、卒業式から感動を奪ってきた輩がいます。

決して、子どもたちの方から、「仰げば尊し」を歌いたくないと言いだした訳ではなく、そう誘導したのです。

これが、「仰げば尊し」が卒業式から消えていった本当の理由です。

vol.92 卒業式シリーズ1   『仰げば尊し』を取り戻せ!

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「仰げば尊し」が歌われなくなった理由①

全国の公立学校で、卒業式シーズンが近づいてきました。

卒業式と言えば、かつて日本で最も歌われたのが唱歌「仰げば尊し」です。

明治17年(1884年)に発行された『小学唱歌集』第3編に収録されたのが、唱歌としての始まりと言われており、明治から大正、昭和にかけて、卒業式でよく歌われ、日本人の記憶に残る素晴らしい歌です。

 

卒業生が、お世話になった先生方や学び舎の恩に感謝し、そして旅立ちの志を立てるという素晴らしい歌詞は、長年に渡って、多くの学校で卒業生の歌として、歌われてきました。私も、小学校の卒業式で歌った記憶が蘇ります。

 

しかし、残念ながら現在はあまり歌われなくなりました。

理由は、大きく分けて3つほどあるそうですが、1つには、「歌詞が教師への賛美であり、民主主義にそぐわないこと」だそうです。

 

しかし、お世話になった先生の恩を有難く、尊く感じることが、教師への賛美なのでしょうか?

むしろ、そう感じて卒業できる生徒は立派な先生に出会えて幸せで、将来に渡るかけがえのない財産を手にしたと言えると思うのですが…。

現実と乖離しているから歌わないということであれば、日本の学校とは、本当に質が低下したとしか言いようがありません。

 

「報恩」を忘れた日本人

報恩とは、自分が受けた恩に報いることを言います。

恩に報いるには、まずは、恩義を恩義としてきちんと受け止める感性が必要です。

しかし、先生から受けた多くの指導に恩義を感じず、ただ「うっとうしい」としか感じ取れなかったり、指導を無視して心を閉ざす生徒が年々増加しているように思います。

それは、決して子どもたちだけの責任ではありません。

 

親も、「教師が生徒に指導するのは当たり前」で、税金を納めているのだから「学校からサービスを受けるのは当然」だと、教育を単なるサービス業と勘違いして、我が子へ掛けられた手に恩義を感じることが少なくなりました。

 

また、教師も、教育を単純なサービス業として考え、クレームがつかない程度に職務をこなしさえすればよく、生徒や親にどう思われようと意に介さないと言ったドライ感が学校を覆っています。

これでは、子どもたちに、恩義を感じ取れる感性を育てることは難しいでしょう。

そんな学校や社会環境の中では、「仰げば尊し我が師の恩」という歌詞は、いかにも嘘臭く、白々しくなってしまったのかも知れません。

 

日教組の魔の思想

次に、「仰げば尊し我が師の恩」という歌詞が、仮に教師への賛歌であったとしても、それが民主主義にそぐわないと言う理由も、的が外れています。

それを言うならば、民主主義にそぐわないというよりも、戦後の平等主義にそぐわないと言うべきでしょう。

 

以前にも書きましたが、戦後の学校現場を覆う『平等主義』とは、「教師と生徒は人間的に対等で、平等でなければならない」という悪魔の思想です。

教える教師と習う生徒の立場が対等で平等では、教育そのものが成り立たないことは議論を待たないでしょうが、「指導から支援へ」などと、教育への冒涜・教育のネグレクト状態としか言えない主張を繰り返して、子どもを野放しにし、我が国の教育を荒廃させてきた日教組の思想がそれです。

こうやって、卒業式で「恩師に感謝する」という、かつては当たり前だったことを、歌にのせて表現する機会さえ奪われてしまった子どもたちが、いかに不憫なことでしょう。

 

今こそ、「仰げば尊し我が師の恩」を感じ取れるような豊かな感性を持った子どもを育て、再び、卒業式で「仰げば尊し」を歌って、感動を持って学び舎を去っていく卒業生が増えていくことが、荒廃する我が国の教育再生の一つの指針となるのではないでしょうか。

 

「仰げば尊し」の復活が待たれます。

 

vol.90 子どもを人質にとる日教組 「日教組教研全国集会を考える」産経ニュースより

子どもを人質に取る日教組

先日、茨城県で行われた日教組の教育研究全国集会について、産経ニュースは「主張」で次のような記事を発表したので紹介する。

これを読んだ国民諸氏はどう思われるだろうか?

彼らは、学校・学級という王国の中で、確実に子どもたちを洗脳している。子どもの純粋な将来の夢まで踏みにじっているばかりか、自衛隊否定の思想を刷り込んでいく。北方領土を法律に則って我が国固有の領土と教えず、もも太郎の鬼の気持ちになれなどと、正義を否定しても平気な神経は、もはや同じ教育者として異常としか言いようがない。

子どもたちの心が破壊されているこの事実を、私たちは許すわけにはいかない。

 

公教育の現状 これでは子どもが育たない

先月下旬の日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会(教研集会)で、問題授業の一端が明らかになった。

 佐賀市の小学校教師は、児童の考えを変えたことを誇らしげに報告した。将来の夢を「自衛隊に入り日本を守る」としていた児童が、授業の後には「自衛隊を含め一切の武力を放棄すべきだ」という意見になったという。

 沖縄県の中学教師は、自衛隊の国際貢献を否定的に考えさせようとしたところ、生徒から「他国の人々を助ける」などプラス評価が出たことを嘆いた。

 教科書などの記述が政府寄りの考えばかりだとし、「もっと反論できる資料を持ち込まないと」という。教師の政治的主張を一方的に押しつける授業がまかり通っている。子供がかわいそうだ。

 領土問題も分かっていない。北海道の中学教師は、北方領土について教えているうち「どこの国の領土か分からなくなった」という。歴史的経緯もきちんと理解できていないようだ。日本固有の領土であることを教えられないようでは一体、どこの国の教師か。

 「平和教育」などの分科会では、日本を悪者とする一面的歴史観や「戦争は怖い」と強調する授業の報告が相変わらず目立つ。千葉県の小学校では「『桃太郎』で退治される鬼の立場になって考えてみよう」と戦争を考えさせたというが、世界史や国際情勢を無視した自己満足でしかない。そもそも桃太郎は、勇気や正義を教える昔話だろう。

 先人がいかに苦労して国を守ってきたか、そこを理解していない。それどころか新しい学習指導要領で重視される国や郷土を愛する心の育成、道徳教育充実を、「強制」などと否定する報告も変わらず少なくない。

 日教組の組織率は低下が続き、26・6%(昨年10月)だ。しかし地域によっては高く、旧来体質から抜けきれない教師の影響が強い。新指導要領を骨抜きにした勝手な授業が行われないよう注視すべきだ。

 民主党の支持団体である日教組は、教職員の増員や待遇改善に熱心な一方、教員免許更新制には反対で、教育改革の後退が懸念される。免許更新などで教師が不断に努力し、独りよがりの偏向した授業をなくすことこそ、公教育の信頼回復につながる。

vol.58 歴史教育に貫かれる反日思想 ~「万葉集」から~

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ある中学校の3年生で実施された実力テスト(社会:歴史)の問題です。

 

(設問)
光明皇后の死後に完成した、次の和歌がおさめられている歌集の名前を漢字で答えなさい。


から衣 すそに取り付き 泣く子らを

置きてぞ来ぬや 母なしにして (防人の歌)


【口語訳】
裾に取り付いて泣いている子どもたちを置いたまま、(九州に)赴任することになった。この子らには母もいないのに。

 

 

正解は、もちろん「万葉集」です。

父親が、可愛い吾子を郷里に残して、防人(武人)として九州へ赴任していくときの寂しさを歌った、素晴らしい歌です。

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万葉集とは、7世紀~8世紀ごろに編まれた和歌集で、天皇などの皇族や貴族から、下級官吏、防人など、様々な身分の人々の歌が204500首も収められています。

 

 

あかねさす 紫野行き 標野行き 
                    野守は見ずや 君が袖振

額田王 (巻120

【口語訳】
紫草の生える 御料地の野にいらっしゃるあなた そんなに袖を振って私をお誘いになっては、野の番人に見られてしまいますよ 

 

我が背子は 物な思ひそ 事しあらば 
                 火にも水にも 我がなけなくに

安倍女郎 (巻4506

【口語訳】 

わたしの大切なあなた そんなに独りで心配しないで 何かあったなら、火にも水にも飛び込む私というものが一緒にいるじゃありませんか

 

このように万葉集には、古人の恋の歌が多くおさめられています。


また、次に挙げるような、現代の私たちに通じる、自然への豊かな感性を詠んだ歌も多くあります。

 

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の
            声の清きは 年深みかも

市原王 (巻61042

【口語訳】 

一本松は どれほどの時を経てきたのだろう
梢を吹く風の声が 清らかで澄み切っているのは 深く歳月を重ねてきたからでしょうか

 

我が里に 大雪降れり 大原の 
                  古りにし里に 降らまくは後

天武天皇(巻2・103)

【口語訳】 

あなたはうらやましがるでしょう
私の住む里には こんなに大雪が降りました
そちらの大原の古びた里に雪が降るのは しばらく先になるでしょうからね

 


ほんの一部紹介しただけですが、

これだけを見ても、先述の防人の歌が、他の和歌と比べて、ある意味で特異な情景を歌った歌であることが分かるはずです。

それを、万葉集を代表する和歌として、設問として使う(そもそも使用している教科書に載っているから、設問になるのですが)には、明確な意図があります。

 

それは、この歌が最も優れているからとか、万葉集を代表する歌だからではありません。

本当は、行きたくない戦場(九州)へ行かされる防人が、泣く吾子と別れている場面を際立たせ、古代の大和朝廷が個人の自由を奪う負の遺産であると教えたい意図なのです。

防人として九州へ行くように最終的に命令するのは、天皇です。
ですから、天皇は、私たち国民の自由を奪い、戦場へと駆り立てる存在であるというメッセージすら込められ、天皇への嫌悪感を育てるために、この歌が選ばれているのです。


 

これらの根っこにあるのは、反日思想、日本の伝統・文化や皇室の破壊思想です。
ですから、天皇が詠まれた歌は教科書では敬遠され、庶民の歌(防人や作者不明)が重宝されているのです。

 

これらの一つひとつは、大したことのないように見えます。

しかし、「たかが、和歌ひとつで…」と、看過していてはいけません。
これら反日イデオロギーは、歴史教科書全般を貫いています。

万葉集で、この和歌を教えるこで、近現代史で、昭和天皇の戦争責任や東京軍事裁判の肯定への反日線路が轢かれることになり、その軌道の上を子どもたちに走らせるのです。

ですから、教科書で歴史を学ぶと、「戦前までの日本を否定し、日本が嫌いになり、日本人としての矜持が持てなくなる」という、とんでもないことが起きてしまうのです。

 


「万葉集」の代表的歌と言えば、わたしは次の歌ではないかと思います。

短歌ではありませんが、実に古の日本の豊かさや日本人の心の豊かさが表現され、日本人としての矜持を育てるいい歌だと思います。

そして、それを天皇ご自身が詠われていることによって、わたしたち国民と皇室の在りようが伺える絶好の教材です。


このような歌が、万葉集の代表歌として教えられるようにならなければ、本当の日本人を育てることはできません。

 

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

舒明天皇(巻12

 

大和にはたくさんの山があるけれど なかでもとりわけ美しい天の香具山の上に

登り立って国を見ると 広い平野にはかまどの煙があちこちから立ち上り

海原にはカモメが盛んに飛び立っている  ほんとうによい国だ この大和の国は

vol.48 公教育は偏っている!(95.4%の国民の声)

このブログには、「ブログランキング」の投票欄があります。
今日は、その投票結果について紹介します。(平成22年5月11日現在)

(※設問)公立の学校教育は左翼的イデオロギーに偏っている?  
国旗・国歌問題や道徳教育、我が国の伝統文化の否定、偏った権利教育や歴史教育など偏向教育が行われていると感じていませんか?

など、我が国の伝統・文化を否定するばかりか左翼思想に蹂躙された偏向教育の具体例を報告くださり、嘆かわしい現状を憂える意見をいただいています。

そして
かなり偏っている:
人民教育ではなく、日本国民教育を、請い願う。亡国の教職員の絶滅を切望する (男性/50代/福岡)
 
かなり偏っている:
国旗・国家に忠誠(尊敬の念)を持っている人を教師とするべきである。
(男性/50代/秋田)
かなり偏っている:
教育とは垂範! 教育は労働者には出来ない事! 教育する事の出来る者とはすなわち三省と勤勉の者のみ!
 (男性/40代/青森)   

と偏向教師の退場を願う思いと、我が国に貢献できる志ある教師への期待が熱くつづられています。

日教組の組織率は、年々低下して全国で30%を下回りましたが、都道府県ごとに「〇〇県教職員組合(〇〇県教組)」という名のもとで、以前高い組織率を維持している地域が存在しています。
また、平成4年には、日教組(社会党を支持)が全日本教職員組合(共産党を支持)と分離したので、一見は日教組の支配力が低下したように見える地域でも、更にひどい左翼イデオロギーに曝されている地域もあります。

このように日教組や全教(全国教職員組合)は、各地域によって組織に違いがありますから、それぞれの地域で偏向度にも大きな差が生まれます。
東京都の様に、石原都知事の強い信念のもと、違法行為を許さずに法的手段等を取って、近年急速に日教組(都教組)の影響力が排除されようとしている地域もあります。
愛媛県や栃木県等は、日教組の組織はなく、その影響力はほぼ皆無です。
ですから、まず自分の都道府県がどのような状況にあるか把握する必要があります。
退場すべき教師が多くいる地域では、現状に甘んじることなく国民が声を挙げることが大切なのです。


今回は、回答者数が少ないので、広く国民の意思を反映しているとは言えませんが、日本中の国民が公教育の現状を憂いていることは事実でしょう。
 
アンケートは、無制限で投票を受け付けてますので、どうか一言を添えて投票してください。
今後は、このアンケートの結果も踏まえて、様々な場面で教師としても発言をしていきたいと思っていますので、忌憚のないご意見や情報をお寄せください。

また、このアンケートを皆さんのブログに張り付けていただいて
多くの方に投票していただけるようになれば…と思います。

vol.45 少子化を解決する保守思想

kid0051-004_m今日は子どもの日です。
祝日法では「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨としています。

ところで、15歳未満の子どもの数(平成21年4月1日現在)が、1694万人(昨年より19万人減少)との報道がありました。
昭和57年から29年連続で減少しているそうです。

少子化が社会問題となって久しいですが、一向に少子化問題が解決しないのはどうしてでしょうか。
私が勤務する中学校でも、ここ20年余りで学級数が半減しています。
政府も子供手当や保育所の増設など、様々な手を打っているようですが決定的な解決の糸口は見えてきません。

少子化問題の背景は、子育て問題です。
しかし、それは親の経済的不安や保育所などの保育施設の不足などとは、無関係な問題です。
施設不足などをハード面の問題点とすれば、むしろ少子化問題の核心はソフト面(国民の子育て意識)にあるように思えます。

vol.43 「幼児虐待の犯人を暴く」で書いたように、戦後教育では個性尊重ばかりが重視され、我儘が助長される教育がなされてきましたから、本来の親が持つ、子どもへの「自己犠牲」の精神が宿ることはありません。
自分の将来設計を考えたとき、子どもの数が増えるほどに、経済面や自分の時間が制限される面など、「自己犠牲」が伴うことを受け入れられません。
受け入れられないばかりか、子育てが自分の個性を奪うとさえ考えてしまいます。

学校教育では、「父親が外で働き、母親が子どもを育てる」という、かつての家族制度が否定され、共働きを推奨するようにジェンダーフリーや男女同権など外来思想が闊歩していますし、家庭や夫・子どもは、女性の自己実現を妨げる障壁で、女性を家庭に縛りつけるだけの伝統的家庭の在り方は打破すべきであるというようなフェミニズム的要素の強い教育が進歩的だとされてきました。
ですから、子育ての主役であるはずの母親の子育てへの喜びが高まりません。
これでは、いくらハード面を整備したところで出生率が改善するはずはないのです。

経済面を考えてもそうです。
かつての日本の家庭は非常に貧しいものでした。
しかし、貧しいながらも子だくさんで、世代を越えた大家族での生活は楽ではありませんでしたが、決して不幸ではありませんでした。
子育てに、経済的不安が付きまとうのは、今も昔も当然でしょう。
貧しかったからこそ親は子どもの為に必死になって働き、今の豊かな日本があることも事実ですから、経済的不安さえ解消すれば少子化に歯止めがかかるという考え方は浅はか過ぎます。

少子化問題の解決には、ソフト面へのアプローチが避けられません。
そのキーワードは、やはり「保守思想」です。
日本の家族が長年受け継いできた伝統的な家族の在り方や、子育て観、幸福感の見直しこそが必要です。

現在のフェミニズムに偏った女性観や家族観、結婚観は、左傾化した戦後教育の産物です。

そして、その産物の奥深いところには、「国家解体」「反日」の思想が脈々と流れています。
その思想から日本人女性が目覚め、子育てが女性の幸せであるということを再認識しない限り、少子化問題が解決することはありません。

戦後の学校教育は、少子化問題まで悪化させていることを忘れてはならないのです。
 

vol.43 児童虐待の犯人を暴く

kid0068-009_m 子どもへの虐待事件が後を絶ちません。
今日も札幌で20歳の父親が生後4か月の二男の頭を揺らして暴行したとして逮捕されたとの新聞報道がありました。
虐待で親が逮捕された…という記事を読まない日が何日あるのでしょうか。

 平成12年5月に「児童虐待の防止に関する法律」(児童虐待防止法)が施行され、児童相談所や警察、学校など、関係機関を挙げてその防止に努めていますが、効果があがらず、次々に犠牲になる子どもたちの話を聞くにつれ、この国はどうなってしまうのかと不安になります。

 まともな子育てができない親たちが増えている背景にはいったい何があるのでしょうか?
 まずは、親になるための教育を受けていないことです。
学校では、「子どもをつくる(つくらない)方法」(性教育)を教えても、子どもを育てる方法は教えません。家庭科でわずかに保育について学びますが、親としての子育てを教えるわけではありません。
 まして、戦後教育では、個性尊重ばかりが重視され、我儘が助長される教育がなされてきましたから、本来の親が持つ、子どもへの「自己犠牲」の精神が宿ることはありません。
 
 そして、学校教育では、「父親が外で働き、母親が子どもを守り、育てる」という、かつての家庭制度が否定されて、共働きを推奨するようにジェンダーフリーや男女同権など、外来思想が闊歩しています。
 教師たちは、子どもたちの自己実現のために学力をつけ、進学を勧めますが、将来結婚して幸せな家庭を創造し、子育てをすることを自己実現の目標として与えません。
それは、女子であっても、男子と同等若しくはそれ以上の学歴と社会進出こそが、自己実現の唯一の方法であるかのように教えてきたからです。そして、家庭や夫、子どもは、女性の自己実現を妨げる障壁であるかのように教え、かつての日本の家庭の在り方は女性を家庭に縛りつけるだけの愚かな因習で打破すべきであるというような教育が、進歩的だとされてきたのです。

 かつての少女の夢には、「素敵なお嫁さん」「優しいお母さん」があったはずです。しかし、今そんなことをいう女子生徒に出会うことは困難です。

 確かに、女性の社会進出が目覚ましい現代において、女子に社会進出の夢を持たせることは大切です。もちろん、男女の性差に人間としての違いはありません。
 しかし、男女の性差には、子育てにおいても決定的な役割の違いがあります。父親が家事に参加するかしないかというような浅はかな違いではなく、授乳して子どもを慈しみ、受け入れ、抱きしめられるのは母親の特権ですし、子どもはその深い愛情に包まれてこそ、自立に向けて成長していけるのです。
 昨今、「~な子どもの育て方」など、子育てHOW TO本をよく見かけます。しかし、子どもはHOW TOで育つわけではありません。親の考え方、大げさに言えば思想、何を本当の幸せを感じるか…という考え方が大切ですし、子育てへの喜びが不安定では、良い子は育ちません。

 家庭教育ではもちろんですが、学校教育でも、女性教育は実はとても大切にしなければなりません。
幕末に来日した外国人が、日本の子どもたちの姿を見て、「貧しいが、これほど幸せな顔を見せる子どもは世界中にいない」といった、日本の姿を取り戻すためにも、
社会が子育ての大切さを再認識し、子どもたちに、子育ては実はとても楽しくて、社会貢献の中で最も価値があり、自己実現の有効な方法であることを教えていくことが必要です。蛇足ですが、それを支える父親の存在を教えることも見落とせませんが…。

 最後に指摘しておくと、戦後このような教育を推進してきたのは、左翼思想に冒された日教組です。そういう意味でいうと、児童虐待の真の犯人は、日教組だということもできるのです。

vol.42 日教組をなぜ教師と呼べないか?

日教組には『教師の倫理綱領』といういまだに廃棄されていない文書があります。
謂わば日教組の憲法とも言うべきものです。

教師の倫理綱領

1952年6月16日
日本教職員組合

1.教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる

2.教師は教育の機会均等のためにたたかう

3.教師は平和を守る

4.教師は科学的真理に立って行動する

5.教師は教育の自由の侵害を許さない

6.教師は正しい政治をもとめる

7.教師は親たちとともに社会の頽廃とたたかい、新しい文化をつくる

8.教師は労働者である

9.教師は生活権を守る

10.教師は団結する

 これを読んで違和感を覚えない人はいないでしょう。
中でも、4.科学的真理、5.教育の自由、6.正しい政治、8.労働者、10.団結 など明らかに首を傾げる文言が並びます。

高崎経済大学八木秀次教授は、
『日教組の基本文書である「教師の倫理綱領」には、「四 教師は科学的真理に立って行動する」とあるが、「科学的真理」とは自然科学の真理という意味ではない。マルクス・レーニン主義のことで、科学的社会主義のことだ。また「六 教師は正しい政治を求める」というように、政治的中立が完全に否定されている。さらに、「十 教師は団結する」。つまり、労働者と「団結」することが教師の最高の倫理だといっている。』と述べています。

 北海道教職員組合が民主党議員への不法献金で摘発されましたが、その根底には、この倫理綱領の精神が隠されているのです。

 そして、教師にとって魔の綱領は、「八 教師は労働者である。」です。
この綱領のもと、地方公務員法で禁止されているストライキさえ、自分たちの都合で強行してきました。
確かに国外では、公務員や教師にスト権が保障されている国もありますが、それは、それぞれの国の事情からでしょうから、我が国において斟酌する必要はありません。ましてや、ストライキによって一番の被害を被るのは子どもたちです。自分たちの労働条件闘争のために、子どもを犠牲にするその姿勢には、教育者としての理念など微塵もありません。

 わたしたち教師は、教育専門職であり、師道を極めるべく奉職しています。広義の意味では労働者の一部でしょうが、自らが労働者を名乗っていては、自らの専門職としての誇りを失うことになってしまいます。
 私たち教師には、労働時間とプライベートの時間の差などありません。仮に、勤務時間を過ぎていようとも、子どもに何かあればもちろんですが、何かなくともいつでも勤務状態といっても過言ではありません。残業手当もありませんし、家庭に仕事を持ち帰ることも、日常茶飯事です。

 しかし、そうと分かっていて奉職したのです。それが嫌なら、他職業を選択すればよいだけです。
一時期、日教組は「水曜日はNO残業デイ」などと、教師の残業軽減を言っていましたが、残業が辛いなら、他業種へ移ればいいのです。
 子どもたちは、生きています。日々、失敗し、挫折を繰り返しながらも、確実に成長しています。その姿に寄り添い、励まし、そして教えるために私たち教師がいるのです。その子どもを犠牲にして、自分たちの権利闘争や政治活動に明け暮れるなど、教師ではありません。

 日教組が、この倫理綱領を破棄しない限り、彼らは教師ではありません。

 

vol37.「改悪」教育基本法と叫ぶ左翼勢力を駆逐せよ!

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教育基本法が改定されて早くも3年が過ぎました。
 
 当時の安倍内閣は、日本の教育改革を推し進めるため、多くの国民の支持を得て、GHQの監視下のもと制定されておよそ戦後60年も日本の教育を歪めてきた教育基本法を改正しました。

 改正において重要視された点は多くありましたが、いわゆる「愛国心」に基づく教育に法的根拠が付与されたことが最も重要なことでした。
 「愛国心」という言葉は遣われませんでしたが、
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」と表現され、第2条5項に明記されました。

 先日、小学校の教科書検定結果が公表されましたが、「我が国と郷土を愛する」態度が養えるような教材がどの教科書にも随所に散りばめられ、社会科では全ての教科書で竹島が日本の領土であることが明記されました。
 他にも、和歌や古典文学なども取り入れられ、我が国の伝統・文化を教科書の随所に取り入れる工夫がなされました。

 これは、大変な進歩です。教育基本法改正の成果が、徐々に教育現場に具現化しており、大変喜ばしいことです。

 しかし、教科書が変われば教育内容が全て良くなる訳ではありません。何故なら、教材は教師の手によっていかようにも、変色させることが可能だからです。
 具体的に言えば、教科書を使用せずに教育をすることもできますし、教科書を使っていても、自分で独自の副教材を用いて、教科書の内容を相対化してしまうことだってできるのです。ベテランになればなるほど、巧妙にそういった操作ができるといってもいいでしょう。

 日教組を始めとする左翼勢力は、現在の教育基本法を「改悪教育基本法」と呼びます。なぜ、そう呼ぶのかは、お分かりでしょう。「愛国心」を散りばめた教育基本法は、子どもに閉塞感を与え、個人の軽視につながり、結局は子どもの自立を阻害するのだそうです。
 何を言っているのやら・・・といったトンデモ説ですが、彼らは本気でそう思っている節があります。

 そのような勢力は、現行の教育基本法を現場で骨抜きにしようと企んでいます。ですから、教師の授業にもっと国民や健全な親が目を見張る必要があります。

 新学期が始まろうとしています。子どもがどんな教育を学校で受けているか、しっかりとアンテナを張って注視してください。
それが、彼らの活動を阻止する唯一の方法と言えるのです。

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