国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

教師論

vol.158 教育正常化への取組

教育正常化とは何か

 先日、ある地域で講演をしてきました。演題は、「教育正常化とは何か?」です。
この地域は、左翼教職員組合が強く、未だに学校に組合員が多くいます。もちろん、管理職の多くも元組合員の出身で、組合とは馴れ合いの学校運営がなされている地域です。
そんな地域の教職員を集めて、組合に振り回されず教育に当たれるよう教職員を応援するために講演をしてき
たのです。
 教育を正常化するには、学校が左翼組合と決別する必要がありますが、そのためには
① 教育行政と組合の癒着を許さないこと
② 左翼組合から、善良な教職員を守ること
が必要です。
そのための活動の一環として、講演を引き受けました。

教育正常化とは何か。

「正常」の対義語は「異常」です。
まず、現在自分が勤務している状態が、異常な状態にないかを知ってもらうことが大切です。
歴史的な背景を踏まえながら、左翼組合の活動によって、
「教育よりも、教師の労働権利」が優先され、
「聖職(教育専門職)ではなく、労働者」
に貶められてきた現在の教師の立場を把握して、疑問を持つことから個人の教育正常化は始まるからです。
その過程で、日教組らが推進してきた「道徳教育反対闘争」「勤評闘争」「日の丸・君が代反対闘争」などが、いかに学校現場を混乱させ、子供たちを犠牲にしてきたのかを理解していくのです。

そうすれば、個人として左翼組合と決別する決意を固めることは容易です。
相手は違法行為を繰り返してきた組織なのですから、高い遵法精神が求められる教育公務員である教職員たちは、すぐにその異常さに気づき、決別の意思を固めます。

ただし、これは個人としての「決別の決意」です。
多くの組合員がいる学校では、決意を固めても、学校の正常化にはなかなか踏み切れません。
また、組合員は少なくても、かつての組合活動が文化として学校に根付いていることもあります。
自分個人としては決別しても、学校が組合と決別するには高いハードルがあるのが現実です。

そこで、彼らと本当の意味で決別するには、個人だけでは対応できません。
ですから、教育正常化団体(なかま)が必要なのです。
わたしたちは、そのなかまになるためにあります。


このように、我が国の教育を正常化のための地道な努力は続いています。
それが、我が国と子供たちの本当の幸福につながると確信しているからです。
わたしたちの力の源は、善良な国民の皆様の応援です。

どうぞ、これからもお力添えをお願いします。


 

vol.129 高校文化祭で従軍慰安所を再現!? 子どもの人格を踏みにじる反日教育を許してはならない

Twitterで、ある情報が流れています。
大阪府の私立高校文化祭で戦時中の「従軍慰安所」を教室に再現したというものです。


まさか…
ソースの出どころを疑うほどの衝撃でした。


思想的偏向を別にしても、高校生に慰安所を教室で再現させる…その異常さは同じ教育者として信じがたいものです。
当時、慰安婦になった理由はそれぞれ千差万別でしょうが、そこで行われる(商)行為を抜きにして慰安所について語ることはできません。
その慰安所を高校生に再現させる、それも教室で…。


この学校の教師の報告書には、「より現実に近い慰安所をつくる」ことを是とし、創意工夫する生徒たちの姿や、それを取材して持ち上げる「朝日新聞」や「赤旗」らマスコミの姿が赤裸々に描かれています。
https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B0ou7nUQ9_VeMWQ3OWMwZjUtODBhZi00NDI0LThjOWUtZjVlZDZjNDM2NzRi&hl=ja&pli=1


このように教育とは名ばかりの異常さに気づかずに、「平和教育」と称するのですから恐ろしささえ感じます。


この私立学校は、教員の組合組織率が100%で、全国私立学校教職員組合連合に加盟しているようですが、その上部組織は全日本教職員組合(全教)です。
彼らは、日教組が平成4年に分裂したときに、共産党を支持する一派が組織した「第2日教組」とでもいうべき組織です。
その体質は、現在の日教組よりも左翼的だと言われています。
ですから、今回の慰安所再現も彼らが推進する「平和教育」という名の反日教育の一環なのです。



そもそも彼らの言う「従軍慰安婦」「強制連行」という図式は、近年の資料研究で完全に否定されつつあるものです。
小林よしのり氏の著書でも有名になったように、ほぼその論争は終結しています。
にもかかわらず、このような悪質な洗脳教育がなされているのですから、驚愕と同時に怒りさえ覚えます。

ただ、この教育を受けた生徒が小林よしのり氏の「戦争論」を読んで、正気に戻る場面が前述のレポートには書かれています。
このように正しい知識が、子供たちを救うのです。



いつも書きますが、反日教育で間違った歴史を教え込まれ、祖国への憎しみを抱えなくてはならない最大の犠牲者は日本の子供たちです。
公立学校ばかりでなく、一部の私立学校でも反日教育がまかり通っているこの恐怖を、多くの国民に知ってもらい、国民の手で我が国の子供たちを守ってほしいと願います。


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vol.108 今こそ「教育復興」をなすとき!

教育正常化の抵抗勢力

卒業式に向けて行った、私たちが誇るべき「国旗・国歌」の授業。


東日本大震災直後、卒業式後に、クラスの卒業生たちに話した「我が国を愛し、我が国に貢献せよ。」との訓話。


そして、4左翼思想に毒された授業の挨拶「はじめましょう」「終わりましょう」を、「お願いします」「ありがとうございました」へと変更。

 

これらは、かつて、日教組が国民を無視して強引に推進してきた偏向教育(偏った左翼イデオロギーに染まった教育)から、子どもたちを解放する「教育正常化」の実践です。

 

私の住む地域は、かつて、日教組の組織力が非常に強く、勤評闘争や日の丸・君が代反対闘争などの闘争が激しく行われ、長年に渡って偏向教育がまかり通ってきた地域です。


現在は、日教組から分裂した「全日本教職員組合」(全教)系の「県教組」が依然高い組織率を維持していますから、私たちの実践に対して、強硬な反対や妨害行為などの「よこやり」が入ること、実践後に執拗なクレームがつくことなども、十分に予想されました。

「教育正常化」とは、これら抵抗勢力との闘いでもあるのです。
 

 

「私も実践したいので、資料を貸してほしい」

しかし、その結果は、教職員、保護者、地域を含めて、妨害行為どころか、ただ一つの反対意見さえありませんでした。

反対意見や妨害行為、クレームなどは、皆無だったのです。

 

そればかりか、国旗・国歌の授業実践を聞きつけた本校の教師の中には、「私も実践したいので、資料を貸してほしい」と、私の所へたのみに来たものさえいたほどです。

どのような妨害行為とも、日本人として正々堂々と闘う覚悟を決めていた私としては、正直、肩すかしをくらったような気さえしました。

 

今回の東日本震災後に、石原東京都知事が、

「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。」
と発言して、非難を浴びましたが、
震災後の冷静な行動が、世界中から称賛されたように、
日本人のモラルの高さが世界へ証明されたことや、
復興に向けて「日本は一つ」という雰囲気が国内に出来上がっていく様子を見ていると、
高い代償は払いましたが、今回の大震災が、私たち日本人に「祖国と向きあわざるを得ない」機会や「公」の精神を与えたことは事実です。


私たちの実践への反対意見や妨害行為を封じたのは、結果的には、大きな犠牲を強いた大震災だったのかも知れません。

そう考えると、石原都知事の発言には、大いに頷ける部分があります。

 

教育の世界も今やっと、多くの犠牲の上に、日教組や偏向教育と訣別して、再スタートを切るべき時期がきたと実感しています。
そんな時期だからこそ、地道な教育正常化の実践を積み重ねる必要があるのです。


そして、多くの犠牲者や被災者のためにも、私自身が、「教育復興」の魁で有り続けたいと強く思っています。



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vol.107 「脱・日教組教育」は、挨拶から

「はじめましょう」「終わりましょう」は、授業の挨拶とは言えない

以前に拙ブログ「vol.34授業の挨拶にも混入する左翼思想」で指摘しましたが、

「始めましょう」「終わりましょう」
という、授業の始めと終わりに生徒と教師の間で交わされる挨拶の裏には、日教組ら左翼勢力が、長年推し進めてきた、過度な「子ども尊重主義」、「子ども尊重主義」のイデオロギーが隠されています。

 

本来、授業にある「教えるもの」と「教わるもの」という、当然の立場の違いを意図的に破壊して、「教師と生徒は、平等でなければならない」という思想のもと、生徒だけでなく、教える立場の教師すら洗脳してきたのです。

 

もちろん、教師も生徒も人としては平等です。

しかし、「教える立場」と「教わる立場」と言う厳然たる立場の違いがあってこそ、正常な教育は成り立ちます。

子どもから、「教えていただく」という謙虚さが喪失すれば、我が儘を助長させ、学ぶ姿勢や態度の崩壊を招きます。

それでは、学力などつくはずはありません。

 

「学級崩壊」「学力低下」へつながる危険思想

このような教育の成立そのもの(根幹)を揺るがすような危険な思想で、子どもを教育してきた結果が、現在の「学級崩壊」であり、「学力の低下」です。

 

新学習指導要領に準じた教科書検定では、小学校の教科書の内容が3割~4割程度増やされましたが、学習内容を増やしただけで学力が向上するわけではありません。

授業で、どう教え、どう学ばせるのか、といった根幹を見逃していてはなりません。

 

学校には、気づかないうちに、確実に学びを阻害して、子どもを蝕む「日教組的思想」が確実に混入しています。

そして、もっと恐ろしいことは、組合員ではない多くの教師までもが、「学び」を崩壊させる危険な思想を、知らず知らずに受け入れ、疑問を感じていないことです。

 

「挨拶」など、本当に些細なことかも知れませんが、これらの小さな事実を見逃さずにひとつひとつ正していく地道な取り組みがあってこそ、公立学校に本来の「学び」が取り戻され、子どもの学力は向上します。

ですから、教師一人ひとりが、これらの危険思想の本質を見抜いて、本来の「教育」の原点に立ち返らない限り、「学級崩壊」や「学力低下」に歯止めはかからないのです。

 

 

「お願いします」「ありがとうございました」で、脱「日教組」教育へ

私の勤務する学校では、本年度から、学力向上を目指して

「(よろしく)お願いします」
「ありがとうございました」
という、本来あるべき挨拶の形に変更しました。

 

「挨拶を変えたくらいで、学力が向上するはずはない」との批判もあるでしょう。

もちろん、本校でも挨拶を変えるだけではなく、授業改革や補習授業の充実、学習タイムの創出など、多くの取り組みをしていますが、教育の有り様を正すという、根本的な意識改革なくして、学力向上などありえません。

 

「ものを教わる」という謙虚さを持ち続けることが、「自分の能力や可能性を大きく伸ばすことになる」ということを、子どもたちの心に涵養するために挨拶を変更したのです。

 

そして、この些細なことが、学校を「脱日教組」させ、本当の学び舎にするスタートになると確信しています。




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vol.71 教師よ、国民の負託に応えよ!

モンスターペアレンツ

無理難題や理不尽な苦情を次々と保育所や幼稚園、学校に突きつける「モンスターペアレント」と呼ばれる保護者たちがいます。
私も何度もそういう人の対応をしてきましたが、個人情報も含まれるため、事例として、富山市がまとめた「保育所クレーム対応事例集」(平成20年3月)から、常軌を逸したクレームのひとつを紹介します。

子供と親の分、保育所で朝食を用意して欲しい

「仕事で忙しい親が多く、特に朝は出勤や保育所へ登所する子供の準備で忙しいので、子供の朝食と大人の朝食を用意して欲しい。食べた人が実費を支払えばいいのではないだろうか。ぜひ検討して欲しい」
「また、保育所で汚した衣類は保育所で洗濯して元通りにして返して欲しい。保育料も税金も払っているのだから当然ではないだろうかと投書箱に意見として入っていた」

これは、ほんの一部です。
親の保護責任のひとつの柱は、食事を摂らせることです。
食事を摂らないと生命の存続ができない訳ですから、当然のことですが、ただ食事を与えればよいと言う訳ではありません。
栄養バランスなど、栄養的配慮も当然大切ですが、何よりも母親の愛情いっぱいの手料理が、子どもがスクスクと育つためには不可欠です。
それが、家族の絆の根源である食事さえも、提供される「サービス」にしてしまう身勝手な親がいるのです。

モンスターペアレンツが生まれる背景

このようなモンスターペアレンツを作り出してしまうのは、「何でもお金で解決できる」(拝金主義)や「自分のことばかり主張する」(個人至上主義)など社会の歪みです。
しかし、残念ながら、その一端を担っているのが、不当な要求に対して毅然とした態度で対応できない我々教師でもあります。
モンスターペアレンツともめないためには、ある程度要求を受け入れ、相手が指摘している問題を改善する必要があります。
しかし、そのことばかりに目を奪われていると、相手の要求の本質を見失い、不当な要求とそうでない要求の分別すらできなくなってしまい、結果的に不当要求に対して毅然とした態度を示すことができなくなるのです。

このように、毅然とした対応ができない一つの理由は、教師さえも教育を単なるサービスとして捉えているからです。
広い意味で言えば、もちろん我々は子どもたちに、教育というサービスを提供しています。
しかし、間違えてならないのは、「教育」とは、目の前の子どもたちや保護者だけに提供するサービスでは無く、国民全体に提供されるサービスでなけばならないということです。
私たち教育公務員は、保護者からだけでなく、国民からの負託を受け、子どもの教育をしているのです。
ですから、仮に顧客満足度を測るとすれば、子どもたちや保護者の満足度だけではなく、国民の満足度を測る必要があります。


教師が子どもの将来を、そして日本を愛せ!

何度も言いますが、私たち教師は、国民からの負託を受けて、目の前の子どもたちを指導しています。
ですから、指導の正当性の判断(不当要求か否かの判断)には、国民の目線が必要です。
ということは、教師には、国民の声に耳を貸す姿勢と、その国民が期待する国家の発展への相当な見識(正しい国家観や歴史観)が必要です。

日教組のように、自分たちの(左傾化した)主義主張ばかりを国民に押し付け、堂々と政治活動に関与して、国民の信託を裏切るばかりか、国民を欺くような行為をしていたのでは、教師に正しい国家観など毛頭育つはずはありませんし、国民からの信頼を損なうばかりです。

教師が、一部の要求者だけの声でなく、公正に国民の声に耳を傾ける真摯な態度を持ち、この国を愛し、この国の将来を担う子供らを愛して、子どもの幸せと国家の発展の為に指導に当たれば、国民は教師や学校を信頼します。
そうなれば、モンスターペアレンツから教師や学校を守ってくれるのは、国民であり世論になるのです。

学校と国民が乖離しているのは、日本にとって、とても不幸なことです。
その歪みが、モンスターペアレンツを次々と生みだしています。

教育とは、国民の手にあることを、教師は忘れてはなりません。
そして、国家の発展に寄与する志と、日本を愛する心を大切にしなければなりません。





vol.64 日本人になったことを誇りに思う ~ ワールドカップ 闘莉王選手に学べ ~ 

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日本人になったことを誇りに思う

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「僕がセットプレーで点を取っていたら勝っていた」と攻撃面での悔しさをのぞかせた闘莉王は「僕は日本人になったことを誇りに思う」と胸を張った。(6月30日 産経新聞 抜粋)

素晴らしい戦いを見せた日本代表。
守りの要として奮闘した田中マルクス闘莉王選手(名古屋グランパス)は、PKで敗れたパラグアイ戦の後のインタビューでこう答えています。

彼は、ブラジル、パルメイラ・ド・オエスチ出身の日系3世。
留学先である千葉の渋谷幕張高校を卒業後、平成13年(2001年)にサンフレッチェ広島に入団し、水戸ホーリーホック(期限付き)、浦和レッズ、名古屋グランパスとプロ球団を渡り歩きながら、平成15年(2003年)に帰化し、日本国籍を取得しました。

父方の祖父は広島県出身、父方の祖母は富山県出身で共にブラジルに渡った日系移民です。
その彼が、日本人として参加したワールドカップで活躍する姿は、私たち日本人に勇気を与えましたし、「僕は日本人になったことを誇りに思う」という言葉の重みや、ピッチで堂々と国歌(君が代)を歌う姿の素晴らしさに感動しました。

生まれた時から日本人である私たちは、ついつい日本人であることの素晴らしさを見失ってしまいます。
ですから、彼のような帰化した人たちの日本への思いを知ったり、学んだりすることは、日本人の誇りを取り戻す上では、とても大切な教育です。


自分の国を誇りに思うことを恥ずかしがっていちゃダメ

同じようにブラジルから日本に帰化して、かつて日本代表として闘ってきたラモス瑠偉氏は、
「日本代表の一員になって、選ばれた他の選手たちがなんだか軽い気持ちでプレーしているように見えたことも不満でした。愛国心もなくて、なんのために「日本代表」として闘っているのかなって。このままじゃダメだ。勝てるわけがないと思いましたね。」
「せっかく日本代表に選ばれてプレーするんだから、やっぱり誇りをもって、日の丸を背負って闘いたかった。国を背負うこと、自分の国を誇りに思うことを恥ずかしがっていちゃダメなんです。」と語っています。
帰化して日本人になったからこそ、国を背負うことを知らない日本人がもどかしかったのです。

CIMG0456_1このワールドカップでも、闘莉王選手はチーム随一の闘志を見せました。
もちろん、その内面には、「僕は日本人になったことを誇りに思う」という熱い気持ちがあったのです。
国を背負うこと、自分の国を誇りに思うことを恥ずかしがっていてはダメなんです。
彼らの姿に、私たちは学ばなければなりません。

そして、スポーツの日本代表という特別の立場でなくても、ひとりひとりが自分の国を誇りに思うことが、自分に力を与え、困難にも闘志を呼び起こし、世界の中で闘っていく原動力になること、そして、それが真の国際人として活躍することであることを、子どもたち若い世代にしっかりと教えなければなりません。


教師こそが、日本代表の思いを学べ!

それを教えるのは公立学校の教師であるものの責務です。
しかし、学校現場は、日教組などによる左翼思想に深く侵された教育界にあって、愛国心や日本人としての誇りを否定する風潮が蔓延しています。

だからこそ、教師一人ひとりが、このような現状に埋没することなく、個として、自分の国に誇りを持つ教師であらねばなりませんし、それを伝える術を持った「プロ」の教育者であらねばなりません。
公立学校の教師こそ、闘莉王選手やラモス氏から、日教組などの左翼勢力ときっぱりと縁を切る「勇気」と、「自分の国を想う熱い心」を学ばなければなりません。

vol.55 教育は率先垂範にあり!「インドネシアに残る日本の教育」

教育とは率先垂範なり

インドネシアの解放者
昭和17年(1942年)3月、日本軍はインドネシアを350年に渡り植民地化していたオランダ軍をわずか9日間で降伏へと追い込み、インドネシア全土から追い出します。
その様子を見たインドネシアの人々は、同じアジアの黄色民族が、自分たちを長年虐げ、絶対に逆らえないと思っていた白人を追い出したことに驚愕します。
それは、まさに「この白い人の支配は長く続くが、空から黄色い人びとがやってきて白い人を駆逐する」とのインドネシアの伝承が現実になった瞬間でした。

その後、日本軍はインドネシアに軍政を敷くと、オランダ統治時代の政治犯を社会復帰させて地元行政機関で重用したり、愚民化政策で教育不毛の地であったこの国に学校を造って教育を充実させたりと、インドネシアの近代化施策を矢継ぎ早に実施しました。

photo179296そして、後の独立運動の核とするために、軍事教練を実施して義勇軍として育てるため、青年訓練所にインドネシア青年を募集し、「インドネシア祖国義勇軍(PETA)」を組織します。
すると、独立の希望と、国軍整備の志に燃えた若者が、多数志願してきました。
そのうち、全土各所から特に優秀な青年を集めた青年道場では、第一期生として47名を将校候補として訓練しました。


炎天下の教育
その青年道場で、ある日、午前中の野外訓練中に厳しさが足りなかったと指摘された中隊のインドネシア青年が、訓練終了後、銃を構えて炎天下に直立不動の姿勢で立たされるという罰を与えられました。
それは、午前中の厳しい訓練の後で、赤道直下の炎天下に立ち続けるという軍事訓練の一環とは言え過酷な罰です。

その青年が指示通りに銃を構えて立つと、その横に同じ姿勢で立ち始めた日本人将校がいました。
この青年道場の教官で、中隊長を務める土屋競中尉でした。
年齢は、まだ20歳代半ばで、訓練を受けている青年たちとさほど変わらない歳でした。
結局、2人は、午後の訓練が始まるまでの間、一緒に罰を受けました。
教官自らが、訓練生とともに罰を受けるその姿に、日本人の教育感が顕れていました。

その光景を見た他の訓練生は、
「私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。この指導は、インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。」と当時を回想しています。

この部隊には、後のスカルノ大統領もおり、戦後20数年が経ち来日したときには尊敬する土屋中尉との再会を熱望し、実現されました。
 
sor0147-039_m率先垂範の教育
このような教育を施したのは、決して土屋中尉が特別だったからではありません。
この道場の現場責任者の柳川宗成中尉も、「教官が自らやって見せる」という信念のもと、自営農場では、褌(ふんどし)姿で肥桶を担いだと言います。
このように、日本人の教育とは率先垂範の精神が伝統でした。
ですから、海外で外国人の指導に当たっても、当然この伝統が守られたのでしょう。

それにしても、訓練生と同じ罰を受ける教官がいたと言うこの事実は、同じ教育現場に立つ身として、日本人として心に留めておきたい話です。

戦後日本の教育は、この率先垂範の精神を欠いてきました。
そして、日教組による教員の労働者化が進められ、子どもたちを放りだして、違法なストライキなどの権利闘争と反日活動が繰り返され、教育者の姿が歪められてきました。
教育者自らが歪むのですから、教えを請う子どもたちが歪んでいくのは当然です。


世界に最も良い影響を与えている日本
平成18年(2006年)に米メリーランド大学と英BBCの共同調査で、「世界に最も良い影響を与えている国は日本」という結果が出ました。
その中でも、日本肯定派が一番多かったのはインドネシア。
「日本が好影響を与えている」とする回答が85%にも上りました。

戦後教育は、戦前の日本の姿を全否定して成立しています。
しかし、これらの事実を見るだけでも、それがいかに偏向した教育であるか分かります。
大戦後、インドネシアの独立戦争に従軍した2000名もの日本将兵の姿や、その行為を未だに国の英雄として崇めるインドネシア国民の思いを子どもたちに教える必要があります。

そして、私たち教職に就くものは、土屋競中尉の如く、「率先垂範」の伝統を守って、子どもたちの心を育て、今後も世界に貢献できる日本国民を育てる教育を推進することが求められているのです。

vol.29 教員免許更新制を堅持せよ!

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 教員免許更新制が廃止されようとしています。

 先般、全教(全日本教職員組合:平成4年に政治的対立から日教組を離脱して組織)が、組合員の意識調査を発表しています。
 それを見ると、「この制度で教育はよくならない」と回答した教員が67.5%を占め、「よくなる」との回答はわずか0.3%だったそうです。

 そもそもこんな意識調査をする前に、彼らはなぜこの教員免許制度が安倍内閣で議論され、制度化するに至ったのかをしっかり考えるべきです。
 
 それは、国民が求める質の高い教育を提供してこなかった教員への強い批判があったからです。国民意識と乖離して、反日イデオロギーを教育現場へ持ち込み、教師を労働者と標榜して違法なストを繰り返し、子どもをないがしろにしたのはいったい誰でしょう。そう、わたしたち教員です。
 
 「この制度で教育はよくならない」と多くの組合教員が答えていますが、そんな彼らが言う「よくなる」とは、学校がどうなる状態を言うのでしょうか。同じ教員であるわたしですら、想像ができません。

 国民はそんな教員に失望し、免許更新制を導入することで、学校で組合活動を専らとし、反日教育を繰り返す教師の退場を望んだのです。
 
 その強い世論を背景に安倍内閣は、教育改革の目玉として教員免許更新制を導入したのです。
 ですから、
「受講にあたっての負担感を97・1%が訴え教員の多忙に拍車をかける」という彼らの主張は的を得ていません。
 なぜなら、多忙化して負担感が増すことは想定内であり、それが分かっていても断行すべきと国民が望んだ制度だからです。

 今、教員免許更新制が日教組の主張通り、廃止されようとしています。
学校現場では、その受講の際の多忙感や金銭的負担の解消から、日教組の組合員のいかんを問わず、この方向を是として受け入れる雰囲気です。

 しかし、志ある善良なる教員は、この制度が始まった経緯を熟慮すべきです。国民世論に耳を傾けてほしいのです。そうすれば、この制度の重要さが分かります。そして、廃止論に安易に迎合することをやめてほしいのです。

 教育への志があるならば、その多忙感や金銭的負担は、国民の期待に応えらなかった過去の教育界への決別料、代償として受け入れるくらいの度量を持つべきです。
 
 そして、大学に講義を丸投げされ、30時間の講習さえ受ければほとんどの教員が免許更新できるような形骸化した制度では無く、
文科省や任命権者の教育委員会が主体的に不適格教員に免許更新を認めないような制度として確立する必要があります。


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 それが国民の期待に応える教育界への芽吹きになるのです。

 
 

 

vol.26 教師論(2) 志を立てよ!

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 教師として愛国心が必要なことは以前書きました。
しかし、それで教師としての資質が足りるわけではありません。

 もちろん、指導力や情熱も必要不可欠ですが、その元になるのは「志」です。
 何の為に教師をして、子どもを育てるのかということです。
その答えが不十分だと、心ない教職員組合に取り込まれ、違法献金や違法なスト行為などに手を染めてしまうことになってしまいます。

 昔は、「でもしか」先生と言って、「教師でも」「教師しか」という時代がありましたが、現在は、教員採用試験も難しくなりましたし、試験そのものも工夫改善されていますので、成績が良いだけでは採用になりません。ですから、それなりの夢を持って教員になっているはずです。

 しかし、夢と志は違います。
 夢とはあくまでも自分自信の目標であって、一人称です。
「日本一の先生になりたい」では、まるで小学生の作文です。

 志とは、世界や日本、地域にいかに貢献するかということです。
教育を通していかに他者に貢献できるかです。
 
 教育を通していかに日本に貢献できるか、ということを問うているのです。日本が大きすぎるというのであれば、県や市町村単位でもよいでしょう。日本や地域に、いかに貢献できる教育を創造できるかが大切なのです。

 もちろん、目の前の一人の生徒に全力を尽くすことは当然です。しかし、バックボーンになり得る志が無いと、今日の荒廃した教育現場ではいずれ潰れてしまい、目の前の生徒からさえも目を背けてしまうのです。

 
 学校現場は、自分の権利を主張して、権利闘争を繰り返し、反日思想を刷り込む教職員組合に侵されて続けています。
 そんな中で、国家や地域を背負って教壇に立ち続けることは、並大抵のことであはりません。志いかんで、ただの労働者に成り下がることになってしまいます。

 今こそ、わたしたち教員が高い志を持つことです。
かつての日本人は、国家とともに夢を見てきました。列強諸国と対等な立場になるために、日本人は同じ方向を向いていました。
 しかし、現在は国家そのものが方向性を見失っています。だからこそ、この国を背負って立てる若い人材を育てなければなりません。

 
 教師よ、志を立てよ!

違法行為を繰り返す教職員組合と決別する勇気を持て!

教職員組合の不正を正す、正義を貫け!

そして、この国を照らす灯となれ!

vol.18 教師論(愛国心を問う)

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 教師とは、どうあるべきか。
それを考えるには、教師とは何を教えるのかを紐解く必要があります。

 それは、教科ではありません。
少なくとも教科指導(国語や数学など)は、教育の手段であって、目的でありません。義務教育で、日本史のスペシャリストを育てるわけではありませんし、学校だけでオリンピック選手を育てることはできません。ですから、教科を教えることだけが教師の役割ではなく、教科を通して教えるべきことは何かということです。

 学習態度や、思いやり、協調性、公共性や公平性など、教えなければならないことはたくさんありますが、今回はもっと中心的なことを考えてみます。

 そのために、まず問わねばならないのは、誰が誰を教えているかということです。
 それは、言わずもがなでしょう。
もちろん、日本人が日本人を教えているという明確で単純なことです。
最近では、公立学校に外国人子女が在籍することもありますが、ほとんどの子どもは日本人ですし、外国語を指導する外国人以外の教師は日本人です。
 
 しかし、このことが実はあまりにも当たり前すぎて、ほとんどの教師は意識していません。日本人の子どもを教えるのですから、教師は、日本人を育てているのですが、そのことに気がついていないか、意図的に気付かないふりをしているのです。

 結論を言うと、教科を通して教えることは、日本人としての教養であり、日本人としての在り方であり、生き方です。
 日本人として生まれてきた子どもたちは、日本人として生きていきます。それは死ぬまで変わらない事実です。
グローバル化などと言っても、世界が無国籍になるわけではありませんし、日本人だからこそ世界で評価されているのですから、日本人としての生き方を教えることが、子どもたちを幸せにして、真の国際人を育てることになります。

  かつて、国民教育の父と言われた森信三先生が、
「教師たるもの、民族の将来を見据えて教育に当たらなければ、本当の教師とは言えない」
という旨のことをおっしゃっているように、
「日本民族の将来を見据えて、より善い日本人を育てる」ことが教師の務めです。
 ですから、まず教師として絶対に必要なことは、国を愛する心、そう愛国心です。日本を愛していない人間が、真の日本人を育てることなどできません。(何をもって日本や国と規定するかは、後日書きます)

 
                                                       しかdappannomitiし、残念なことに大学で教員免許の単位を取得しても、こんな当たり前のことを教えられません。意図的に教えていないと言った方が正しいかもしれません。
 大切なことは何も教えられず、ただ教科や道徳の教育法や心理学、学級経営など、枝葉のことばかり教えられます。それはそれで大事なのですが、多くの教員が教育の目的を明確にできずに教師になっているのが現状です。
 こういうと、「人格の形成」が教育の目的であると反論する人もいますが、どこの国の人の人格を形成するのかという当たり前のことが抜けています。もちろん、目指す人格として共通するものはあるでしょうが、米国には米国の、中国には中国の目指す人格がありますし、あって当たり前です。ですから、日本人には日本人として目指す人格があるはずです。


 教師の資質がとやかく言われます。しかし、最も大切な資質である、「日本を愛していること」が話題になることはほとんどありません。教師として、日本を愛することが、日本で生まれた子どもたちを本当に愛することになるのですが、そのことを問われることはまずありません。

 日教組は、教員を労働者だと言います。しかし、教師は単純な労働者であってはなりません。教育専門職として、子どもの真の幸せとは何か、問い続けながら、教育に当たる必要があるのです。

 
※かつての日本人は、国を憂いて祖国を後にした(高知県梼原町 脱藩の道) 筆者撮影

vol.14 教えることを恐れてはならない

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 先日、ある教育協議会に委員として参加しましたが、その時に学校の実践発表がありました。内容は割愛しますが、その指導案(教師が作る授業のレシピのようなもの)の中に気になる表現を見つけました。

 指導案には、どの教員がこの授業を教えるのか書く項目があります。それはそれで必要なのですが、その項目に「指導者」ではなく、「支援者」と書かれていたのです。

 これは、何を意味するのかお分かりでしょうか?
一般的に見ると「指導」と「支援」に大差は無いように見えますが、この思想が日本の教育を蝕み、教育の混乱を生んできた元凶のひとつです。

 この表現には、「教師は、生徒を指導するのではなく、支援するものである」という過度の子どもへの人権思想が隠されています。支援とは、通常、相手を分別のつく立場として認めて、最小限の手助けをすることを意味します。企業支援、子育て支援などの言葉をイメージすれば分かると思います。

 この思想の恐ろしいところは、子どもを無条件に分別ある大人のごとく扱っているところです。教育の原点は、読んで字のごとく「相手の未熟な部分」を「教え育む」ことですから、子どもを無条件に一人前の大人扱いしてしまっては教育という概念すら崩壊してしまいます。
 にもかかわらず、敢えて「支援」という言葉を意図的に選んで使用している人たちは、「子どもはありのままでいい。それが個性だ」という幻想に憑依されているとしか言いようがありません。教育者であり、教師と呼ばれる自らの存在の自己矛盾に気づかないのでしょうか?

 子どもは、教え育む対象です。支援しているだけでは正しく育っていくはずはありません。「教師が教えすぎる」という批判をよく耳にしますが、それは教え方が不適切なだけで、適切な教えに教えすぎると言うことはありません。
 また、「子ども自身が考えることが大切だ」と主張する人たちもいますが、子ども自身が考えることも、教師の教えの中で正確にできるのであって、勝手な考えを膨らませても正しい答えは見つかりません。

 戦後教育、特に近年の教育は、教えることに憶病になっています。教えることが、あたかも子どもの個性や学ぶ意欲を削ぐかのような論調が闊歩しています。
 しかし、そもそも教育とは強制であり、矯正ですらあります。大人が守ってきた価値観や蓄積してきた知識を、(無理にでも)子どもに身につけさせることが教育であることを忘れてはなりません。

 教師が教えることに憶病になっていては、学校は成り立ちません。そればかりか、そんな学校は必要ないと言わなければなりません。教師は、「支援者」ではなく、「指導者」です。
 「支援」などと子どもに迎合した耳触りのよい言葉で、この混乱した教育界を是正することなどあり得ませんし、子どもの将来に渡る真の幸せを保証することなどできないのです。

vol.7 偏向教師は、子どもたちの為に教育界から退場せよ。

日教組に所属する北海道教職員組合(北教組)による、小林千代美衆議院議員への1600万円に上る違法献金が報道されています。

 そもそも、教職員は組合を組織することすら認められていません。認められているのは、「教職員団体」であって、勤務条件などは交渉権を有していますが争議権(スト権)も付与されてはいません。ましてや、政治活動を行うことは法律によって固く禁止されています。

 しかし、北教組は政治活動をもっぱらとして、勤務時間内にも選挙運動をしていたというのだからデタラメです。そして、違法献金の原資が「主任手当」拠出運動の積立金ではないかという疑惑が浮上してきました。

 学校には、管理職(学校長、教頭)以外に、学校運営と教育諸般の連絡等を円滑に行うために、教務主任、生徒指導主事、学年主任などの主任手当(出勤日一日につき200円程度)が支給されている教員がいます。
 日教組は、この主任手当に対して長年に渡り「教職員に上下関係ができ、和を崩す」といった理由で反対してきました。しかし、それが「横並び主義」であるのと同時に「無責任主義」であることは、社会の普通の組織と比べれば明瞭です。

 高知県でもかつて同様の反対活動がありました。わたしが初めて主任手当が支給される立場になったときは、組合員以外にも協力を願って「手当拠出」→組合(または学校ごとの分会)が管理するという仕組みでした。高知県では、それらの拠出金を生徒へ還元しようと、分会ごとにビデオや本を購入(もちろん左翼思想を補助するようなものでしたが)していたので、まだ北教組よりは良心的なものでした。

 北教組ではこれらを長年プールしていたようで、その額が数十億円と言われています。そのプール金から違法献金をした可能性を指摘されているのです。
 違法献金はもちろん許されることではありませんが、その原資が主任手当拠出金からだとすると、明らかに児童生徒及び国民への背任行為であり、その手当を拠出した組合員は教職員失格です。
 何故なら、主任手当も児童生徒育成のために国会決議を経て投入された税金であり、支給された各主任がその職責を果たすことでしか合法性が担保できないからです。

 公立学校の教職員は、教育の政治的中立を守るべき立場であり、そこに政治活動や政治的イデオロギーを持ち込んではなりません。
 しかし、それを平然と無視して、政治活動に邁進し、イデオロギーを教育現場に持ち込む「偏向教師」は、早速に教壇から去り、教育界から退場してもらう他にありません。

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