国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

いじめ問題

vol.110 被災地に流れる「アンパンマンのマーチ」に学べ!

被災地に「生きる よろこび」を


今、人々の心を揺さぶりながら、一陣の風のように被災地を吹き抜けている曲があるそうです。

「アンパンマンのマーチ」

みなさんが良く知っている、あのアンパンマンの主題歌です。

震災後に、地元ラジオでリクエストが相次ぎ、You Tubeでも総再生回数が1300万回を越えたと言います。

 

そうだ うれしいんだ/生きる よろこび/たとえ胸の傷が いたんでも

なんのために生まれて/なにをして生きるのか

こたえられないなんて/そんなのいやだ!

いまを いきることで/熱い こころ 燃える

だから きみは いくんだ/ほほえんで

そうだ うれしいんだ/生きるよろこび

たとえ 胸の傷がいたんでも

ああ アンパンマン/やさしい 君は/いけ!みんなの夢 まもるため

作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし

 

アンパンマンは、子どもたちに大人気のヒーローです。

震災後も、被災地の子どもたちに、生きる勇気と希望を与え続けています。

 

しかし、アンパンマンは、最初から人気があった訳ではありませんでした。

その理由は、ヒーローのくせに、バイキンマンにやられて弱音を吐いたり、お腹のすいた人に、自分の顔を食べさせたりするからだそうです。

その姿がヒーローに似つかわしくない…と敬遠されたのです。

 

でも、今は、そのヒーローに似つかわしくない姿が人気の源のようです。

そんな様子が、歌詞の中に謳いこまれています。

 

「たとえ 胸の傷がいたんでも」

 

アンパンマンの作者で、この歌を作詞したやなせたかし先生も、「アンパンというヒーローは他のアニメのヒーローと違い、いつも傷つくからなんです。バイキンマンに押しつぶされたりして、ジャムおじさんに「助けて」と弱音も吐いたりする。でも作り直してもらうとまた元気に飛び立っていく。そのアンパンが負う傷の全てを「胸の傷」で代表させました。苦しくても傷ついても、ヒーローは人を助けるために飛び立つのです。」と言われています。

 

この歌に謳われた、その自己犠牲の精神が、子どもを勇気づけるだけでなく、大人の心をも揺さぶっています。

そして、被災地だけでなく、困っている東北の人達の為に、胸の傷が痛んでも、また飛び立てるアンパンマンのようなヒーローになりたいと願う、多くの日本人たちの熱い心を燃やしているのです。

 

生きる意味を問うアンパンマン


なんのために生まれて/なにをして生きるのか

こたえられないなんて/そんなのいやだ!

 

この豊かな現代に、生きる意味を見つけられずに彷徨っている日本人がたくさんいます。

子どもから大人までの家庭への「引きこもり」が、予備軍を加えると全国で300万人を越えると言う時代には、大人になっても、なんのために生まれて、なにをして生きるのかを、見つけられない人たちがたくさんいます。

そして、それは子どもたちも同じです。
「何の為に生まれ、そして、何の為に学んでいるのか」分からずに悩み苦しんでいます。
 

そんな生きる意味を失った日本人のために、

「アンパンマンのように皆のヒーローにはなれなくても、家族や友人、身近な人の小さなヒーローになって、大切な人を守ったり、助けたり…そんな生き方がとても大切なことだ」と、アンパンマンは教えてくれています。

 

学校で起きる学級崩壊やいじめは、自己中心的で、我が儘や身勝手な行動から生まれてくるものです。

そして、それを助長させてきたのは、日教組が推進してきた子ども中心主義の教育です。

 

ですから、それを糾せるのは教育でしかありません。

小さくても、勇気を持って、自己犠牲の精神で人を守れるアンパンマンが増えていけば、クラスの中のいじめも、学級崩壊もきっとなくなります。

 

今こそ、教師や親が責任を持って、子どもたちに、

アンパンマンのように「人の為に尽くす」「人の為に生きる」ことの素晴らしさを教えなければなりません。

そして、それは「胸の傷が痛むこともある」という自己犠牲の精神がなければできないことを教えなければなりません。

 

そして「アンパンマンになれ!」と。



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vol.16 いじめをなくす教育論

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 「いじめ」が教育現場で問題視されるようになって、随分と長い年月が過ぎました。様々な悲劇を繰り返しながらも、現在も未だ解決にいたりません。最近では、「ネットいじめ」という新しい形態のいじめが問題になっています。

 そもそも、いじめはなぜ起こるのでしょうか。
それは、「優越感」やその逆に「劣等感」、ときには「嫉妬心」といった人間の心にある奥深い部分が関係しています。
「人より優位な立場に立ちたい」
「人に認められたい」
「ダメな人間に見られたくない」
そういった人間の本能に近い感情(心)が、いじめには深く関係しています。ですから、自分より立場の弱い人間や人と少し違った行動や容姿など、些細な違いに心を奪われて相手を攻撃していまう、人間の弱さが原因です。そして、それは大人の社会でもあることです。

 しかし、そう思うことそのものが問題なのではありません。ときには、そういった感情が、「向上心」や「よい競争心」となって成長の糧にすらなります。

 では、いじめになってしまうのはなぜでしょう。
それは、相手を言葉や態度、暴力などで攻撃することで、そういった自己欲求を満たそうとするからです。多くの場合は、攻撃する側が多数となり、少数の人間を攻撃する構図ができあがってしまいます。それに傍観者が加わり、いじめがエスカレートしてしまうのです。

 これらのいじめを防ぐには、まず、人にはそういった「優越感」「劣等感」「嫉妬心」などがあることを理解させる必要があります。そういった感情があるからこそ、人は成長できるのだと肯定的に受け入れさせることが必要です。

 そして、いじめに対して教えることはただ一つ。

「卑怯なことはするな。」

この一言だけです。

 日本人は、卑怯なことを最も軽蔑する道徳心を持ってきました。他人を顧みない卑怯な行為は、忌み嫌われる最低の行為だったのです。

 しかし、戦後教育は、子どもの個性を尊重するあまり、我が儘放題の子どもを育ててきました。
 そして、いつしか自分さえ良けれよければ…という自己中心的な考えが大人の社会でも蔓延るようになり、「卑怯」という言葉さえ耳にすることが少なくなりました。例え「卑怯であろうが、自分が得をすれば(損をしなければ)それでよい」という価値観が蔓延ってきたのです。


 今こそ、大人が「卑怯なことは許さない」と声を大にして子どもに教えるべきです。
 かつては、「家名を汚す」、「ご先祖様に顔向けができない」と、卑怯な行為が自分だけの恥辱では済まされないと、子どもたちに教えた時代がありました。それを取り戻せばよいのです。
 
 さすがに、家長制度の崩れた今の時代に「家名を汚す」と言っても子どもたちには伝わりにくいでしょう。ですが、「父や母の顔に泥を塗る」くらいのことは分かるでしょう。大人がそう言えばいいのです。

 戦後教育に毒された個人主義を脱して、かつての日本の親が教えたように子どもたちに教えることが必要です。それが、道理に適った教育ですし、いじめを無くす唯一の方法です。

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