国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

日本人教育論

vol.155  国防なくして教育なし  ~自衛隊と学校の絆~

自衛隊と学校の交流はできる

 

本校では、昨年度から防災教育に自衛隊の協力を得ています。

 

地元の陸上自衛隊普通科連隊に協力を願い、避難所体験の一環として(生徒の)テント張り体験で指導していただいたり、東日本大震災の災害派遣活動について、実際の写真を交えながら講話をしていただいたりしています。

 

学校に自衛隊を招くことに対しては、賛否両論が激しくなることを予想しましたが、結局は、校内はもちろん地域からもまったく否定的意見が聞こえてくることはありませんでした。

 

少し以前なら、偏ったイデオロギーを振りかざして

「人殺し(軍隊)を学校へ入れるとは何事か!」

と保護者だけでなく、日教組ら教職員組合や地域・市民団体などからも反対意見が続出したことでしょう。

 

しかし、現実には全くなかった。

その理由を考えたとき、東日本大震災での自衛隊員の献身的活動に触れないわけにはいきません。

彼らは被災地において数多くの命を救い、そして多くの遺体を回収しました。その中には、自らが被災し、家族を失った隊員もいたと言います。

 

来る日も来る日も遺体回収や生活道路復興など、過酷でつらい任務に就きながらも、温かい食事は被災者に回して、隊員たちは冷めた缶詰を食し、風呂も被災者優先で入らないなど、自らを犠牲にしても被災者のために活動するその姿は、被災地の多くの人々を助けただけではなく、その心まで癒して、勇気づけたのです。

 

 《自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる》

《国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ》

 

そういう彼らの思いは確実に国民の心深くに届き、自衛隊が学校に立ち入ることへの違和感や反感も一気に溶けてなくなってしまったのでしょう。

 

国防なくして 教育なし

 

学校では東日本大震災以降、自衛隊との距離が近くなったことを実感していますが、彼らの災害派遣活動だけがクローズアップされている感は否めません。

災害派遣は立派な任務なれど、彼らの主務は専守防衛…そう国防です。

 

しかし、学校で国防について教えることはまずありません。

国民の生命・財産などを守るという崇高な任務であるにもかかわらず、授業では国防という概念さえも(ほとんど)触れられることはありません。

戦後教育では、国防について教えることはタブー視されてきました。

 

しかし、家族を守り、愛する人を守ることと、国を守ることは同義であること、国防なくしては、人間らしく生きることさえできなくなることを教えないで、どうして子どもたちを「幸せ」にできると言えるのでしょうか。

 

拉致被害者救出に無関心なままで、「平和教育」にばかり熱心な戦後教育は既に破綻しようとしています。その欺瞞に子どもたちも気づいています。

国防とは、我が国の領土を守るだけでなく、国民の生命と財産はもちろんのこと、人間らしく生きる権利を守ることであるという本義と、国防には国民による多大な努力が必要なことを子どもたちにしっかりと教え、その崇高な任務に携わる自衛隊に尊敬の念を与えられる公教育であらねばなりません。

vol.153 学校と自衛隊の距離感 ~学校に自衛隊を受け入れよう!~

学校と自衛隊の距離感

 

戦後教育では、自衛隊は忌み嫌われてきました。

その理由は、「自衛隊は軍隊であり、その存在は憲法違反である」という日本国憲法92項を盾にした『自衛隊違憲論』がまかり通ってきたからです。

そして、それを日教組(日本教職員組合)や全教(全日本教職員組合)など政治的な偏向イデオロギーに染まった組合員が、授業をとおして忠実に子どもたちに教え込んできたのです。

 

以前にも書きましたが、最高裁は自衛隊そのものの合憲性の判断を下していませんが、50年以上前の安全保障に関る上告審で、

「憲法9条によって、わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と、米軍の駐留を含めて実質的な「自衛隊合憲論」を示しているように、『自衛隊違憲論』がいかに偏った思想であるかは明白です。

しかし、彼らは最高裁の判断や、多くの国民が自衛隊を支持している背景を完全に無視して、学校という密室で極少数論でしかない違憲論を教え込んでいたのです。

 

ですから、学校と自衛隊の距離感は一向に縮まらずに戦後60年以上が経過してきました。

しかし、昨年起きた東日本大震災以降その雰囲気が大きく変わりました。

災害派遣に赴いた全国の自衛隊の部隊の雄姿は、国民の誇りとなり、自衛隊への信頼となってわたしたちの心に刻み込まれたのです。

今後も起こるであろう大災害に際して、自衛隊抜きでの救難、復旧・復興はないことを全国民が認識したように、学校でも自衛隊抜きでの「防災教育」はあり得ないことを認識しました。

 

 

自衛隊から学ぶ「国防」意識


昨日、わたしの勤務する学校では防災教育の一環として「防災フェア」を開催し、生徒たちや保護者だけでなく、地域の人々とともに防災について学ぶ機会を持ちました。

海沿いにあって太平洋に面している本校では、防災教育はまさに「命を守る」教育です。

 

その協力団体のひとつとして、地元の陸上自衛隊普通科連隊を受け入れました。


被災地でも活躍した軽装甲機動車や人命救助システムなどの説明を受け、生徒たちは避難所としても活用された天幕(テント)設営を自衛官と一緒に体験したのです。


生徒たちにとって、制服姿や迷彩服姿で機敏に行動する隊員たちの姿はどう映ったのでしょうか?


偏向したイデオロギー抜きで自衛隊と出会い、隊員たちの爽やかな笑顔に触れただけでも、国民の安全と財産を守る自衛隊を肌で感じるよい機会となったことでしょう。

「国防」という概念を知らずとも、災害時のヒーローとして彼らを受け入れ、敬意をもって制服姿の自衛官と写真を撮りたい、握手をしたいと願う生徒たちの姿を、わたしたち国民はもっと知らなければならないでしょう。

 

 

このように、学校と自衛隊との距離感は確実に縮まろうとしています。

その証拠に、その準備段階から防災フェア当日にいたるまで、教職員はもちろんですが、地域の人々や保護者から自衛隊参加への反対意見はただのひとつもありませんでした。

 

これからは、国民として育ちゆく中学生たちに、自衛隊の災害派遣だけをクローズアップするのではなく、浅はかな『自衛隊違憲論』などに振り回されないで「国防」や「国際貢献」についてしっかりと考える力を育てていかなければなりません。


もちろんそのためには、生徒の心の内に「我が国や郷土を愛する心」を育むことを忘れてはならないと思います。





教育正常化を応援してくださる方は
応援クリックをお願いします。
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.152 寛仁殿下とともに闘った男子バレーボール 日本人の心がそこにあった

バレーボールのオリンピック最終予選が終わりました。
残念ながら男子はオリンピックへの参加資格を手にできませんでした。

しかし、その闘いの中で多く日本人が心を揺さぶられました。
それは、選手・監督が身に着けていた小さな喪章です。
(写真 時事通信 6月10日付)
100106_1532~010001jijitusin0610

皇位継承順位第6位で、今上陛下の従弟にあたられる寛仁親王殿下が薨去された後のことです。
日本を代表して闘う彼らの身には、小さいながらも喪章がありました。
選手たちのユニフォームの国旗(日の丸)の横に着けられていたのです。

彼らの身にある喪章は、まさに皇室とともにある私たち日本人の心を示していました。

大手マスメディアは、殿下の薨去を大きく報道することもなく、ご生前のご活躍さえ十分に国民に伝えることはありません。
有名芸能人が死去すると特番を組んでまで報道をくり返すのに、今回は私の住む地域では特番が放送されることはありませんでした。

あえて皇室に列する皇族方の薨去を無視するかのような報道姿勢には、日本人として甚だ疑問を感じます。


そんな中で喪章を身に着けて、弔意を胸に世界と闘う男子バレーボールの選手・監督の姿は、私たち日本人の心を、皇室との絆を世界中に示したのです。

わたしたち日本人は、心の奥深く皇室を慕い、皇室とともに生きています。
そして、世界最古の皇室を心から誇りに思っています。
その姿を世界に示した彼らの姿に多くの日本人が感動したのです。

戦後教育は、戦前の教育を否定することで国民と皇室との距離を意図的に拡げてきました。
日教組を中心として「皇室を敬うことが、戦禍を繰り返すことになる」と教えてきたのです。
そして、未だ学校では歴史上の天皇や上皇のことを教えても、今上陛下や現在の皇室の方々のことについて教え、敬愛の念を育むことはタブー視されています。
タブー視する法的根拠は全くないのにです。

しかし、わたしたち日本人の内には、神話から続く皇室との2000年を超える深い絆の歴史があります。
それは、DNAとして日本人の内に確実に息づいています。
わずか70年足らずの戦後教育で、消え去ることはできません。

子どもたちには、彼らNipponチームの日本人としての雄姿と心意気を、きっと目に焼き付けておいてほしいと願います。



教育正常化を応援してくださる方は
応援クリックをお願いします
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.151 和歌に宿る日本人の公平性を、子どもたちに教えよう!

和歌は我が国固有の文化であり、1000年をゆうに超える歴史を宿しています。


その中でもっとも古い文献はご存じのとおり「万葉集」であり、短歌・長歌合わせて
4,500首が収められた世界最古の詩集です。


しかし、万葉集の稀有さは、その古さばかりにあるのではありません。


万葉集に収められた歌い手を見てみると、上皇や皇族、貴族はもちろんですが、防人(軍人)や農民、歌い手が分からないものまで大変多様で身分の別はありません。

また、男女ともに素晴らしい歌が収められており、その別もありません。

そして、歌は畿内(大和地方)に限らず、東国、九州など日本各地から集められており、地域の別もないのです。


これこそが、信じがたい奇跡です。

なぜなら、撰者は大伴家持など朝廷において重要な位置を占める貴族です。


国家的事業として宮廷文化を誇るためならば、宮廷にかかわる高貴な人物の歌だけを集めればよいのです。
むしろ、そうすることが、世界の宮廷文化では自然でしょう。

なにも庶民の歌などに耳を貸す必要はないのです。



このことについて、上智大学名誉教授の渡部昇一先生は

「一つの国民が国家的なことに参加できるという制度は、近代の選挙の拡大で現れたと考えるのが普通である。選挙に一般庶民が参加できるようになったのは新しいことであるし、女性が参加できるようになったのはさらに新しい。しかしわが国においては、千数百年前から、和歌の前には万人平等という思想があった」とその著書『日本史から見た日本人 古代編』で述べられています。


わたしたちは、このような古代日本人の公平性をもっと誇るべきです。

そして、その血が現代の私たちに流れていることを知るべきです。


しかし、現代の公教育では万葉集の存在を教えても、こういった視点を生徒たちに与えることはありません。

中学校の歴史の教科書には、

「から衣 すそに取り付き 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして (防人の歌)」という、遠方(九州)の任務に出向く防人の歌が載せられています。


この歌は親心の深さを歌った素晴らしいものですが、勅撰とも言われる国家的事業の和歌集に、名もなき防人の歌を撰んだ和歌文化の公平さが生徒たちに語られることはありません。

遠方に任務として防人を送るのは、皇室を中心とした貴族社会です。

取りようによっては、この歌は社会の不条理さを非難する意味さえも込められています。


このように、宮廷社会への非難さえ公平に後の世に残そうとした日本人の清らかさを、子どもたちにしっかりと教えなければなりません。

この文化の公平性こそが、世界に誇れる我が国の伝統なのです。



教育正常化を応援してくださる方は
クリックをお願いします。
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.148 早大入試で「教育に国旗・国歌の強制ふさわしくない」との問題文。その主張を検証する

私立の名門、早稲田大学法学部が先月実施した入学試験の問題に、
「学校行事での国歌斉唱時の起立強制はふさわしくない」
「日の丸・君が代が戦前の日本の軍国主義下でのシンボルと考える人々にとっては、君が代に敬意を払えという命令は自己の思想に反すると感じられる」
「教育には強制はふさわしくないのではなかろうか」
「学校の式典で日の丸を掲揚し君が代を斉唱することは、それを通じて国家への敬愛の念を抱かせようとするものであり、教育には似つかわしくない」
などと記述する偏向した出題文があったようです。(MSNニュースより)


すでに最高裁では、国歌斉唱時の起立を求める職務命令は合憲であり、戒告までの処分も妥当であると判断しています。
それにもかかわらず、(いくら私立大学とは言え)このような偏向した出題文には大いなる怒りと疑問が残ります。
入学選考の段階から、思想的に洗脳しようとしていると言われてもいたしかたない行為ですし、国民から非難されて当然です。


ところで、早稲田大学の問題文の主張に正当性はあるのでしょうか?
本当に教育に強制はふさわしくないのでしょうか?


そもそも、家庭や学校で行われる教育とは、ある一定の強制を含む行為です。
例えば、教室で『席に着く』、『姿勢を正す』、『問題を解く』といった行為そのものは、子どもたちの意思に反することばかりだと言っても過言ではありません。

それを生徒に負担に感じさせないように工夫したり、
最終的に(強制ではなく)自分の意思で行動できるように育てることが『教育』ですが、入口においては強制性があってこそ教育が成り立つのです。

ですから、教育から『強制』性をすべて取り除くことなどできませんし、基礎・基本を作り上げる時期においては、『強制』の比率が相対的に高くなります。

愛国心(我が国を愛する心)においても同様のことが言えるでしょう。
まずは、型としてのマナーをしっかりと身に着けさせることが、真の愛国心を育むことになります。
普段の教育では、あらゆる「強制」「押し付け」をしているにもかかわらず、このときだけ「強制はふさわしくない」というのは詭弁以外の何物でもありません。

将来的に、自分自身と国家との距離を決めるのはもちろん生徒自身です。
しかし、まずは、日本人として国旗・国歌を大切にするマナー、祖国を愛する心を型として身に着けさせることが必要です。
そのためには、その指導者たる教員が身をもって手本となる必要があります。


教育正常化を応援してくださる方は
クリックをお願いします
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.147 「我が国を愛する態度を育てる」 道徳の目標に込める安倍内閣・教育基本法改正への思い

学校では、年度末に来年度の「教育計画」を作成します。来年度はちょうど「新学習指導要領」が中学校で完全実施される年ですので、本校でも作業を急いでいるところです。

 

そんな中、わたしは、本校の道徳教育をゼロベースで見直し、来年度の道徳教育の計画を作成しています。

その作業の中で、本校の道徳教育の目標を次の4点としました。

 

①人間尊重の精神と生命や自然に対する畏敬の念を育てる

②自己の将来をしっかりと考えて社会形成に意欲的に参加するとともに、公共の精神を尊び、法やきまりを遵守する姿勢を育てる

③他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し、未来を拓く主体性のある日本人を育成する

④伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土 
を愛する態度を育てる

 

これらの目標は、学習指導要領に則って作成します。

みていただければ分かるように、学習指導要領にきちんと則って目標を立てれば、道徳教育とは、
「公共の精神を尊ぶ心」
「我が国や郷土を愛する心」
「主体性ある日本人」
「伝統と文化の尊重」
など、まさに『誇り高き日本人』を育てる教育そのものです。

 

そして、この目標を、より具体的にして「学年の重点目標」を作成します。

例えば、
私の創った中学校3年生の重点目標の一つは、

「地域社会の一員であること,日本人であることの自覚をもって郷土や国を愛し,郷土と国家の発展に努めるとともに,世界の平和と人類の幸福に貢献する態度を育てる」
です。

 

 

来年度から実施される新学習指導要領は、平成18年に「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍内閣によって改正された教育基本法の精神を具現化したものです。

日教組は、戦後長年にわたって道徳教育を徹底して排除し、教育基本法の改正のときも、「改正」を「改悪」と呼び換えて、強硬に反対しました。
その理由は、私の作成した目標を見て頂ければ一目瞭然でしょう。

そこには、彼らが推進する「反日教育」の一かけらもありません。
この道徳教育が本当に進められれば、彼らの進めてきた「反日教育」は、学校現場から駆逐されるのです。
 

 

我が国の公教育を立て直すし、教育基本法の精神を全うするには、教育の実践者である教師が着実な実践を重ねて、「教育の根幹」を正していく他はありません。


しかし、日教組らは、法の精神をあえて歪曲し、実践を捻じ曲げることで抵抗を続けます。

簡単に言えば、学校に目標ができたとしても、道徳の授業をしなければよいのです。

そうすれば、新教育基本法の精神はまったく絵空事になって、骨抜きになってしまいます。

それが、日教組ら反日勢力の手口です。

 

それを阻止して、授業の実践をつみあげることができるのも、実践者である教員一人ひとりです。



どうか、日本全国の学校で、道徳教育がその目的を果たせるように、地道な取り組みがなされんことを願います。




教育正常化を応援してくださる方は
応援クリックをお願いします。
 

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.143 我が国では、「祖国」という概念が自然発生的である、その理由。

以前、twitter上で、

「(略)。子どもたちの心の中には、祖国を愛する気持ちが溢れている。なぜなら、それが本能ですから。」

という、わたしの呟きに対して、

「祖国という概念は、自然発生しないし本能ではない。それを言うなら郷里と家族のことだ」という指摘をもらいました。

 

確かに、「クニ」という概念を狭義の近代国家というとらえ方をすれば、「祖国」という概念は自然発生的ではありません。

世界の近代国家の中には、文化の違う多民族が集った国家が多く存在しますし、建国の歴史が浅い国や、国家としての歴史が断絶している国も数多くあります。

こういった国々では、「クニ」そのものが人工的ですから、無論「祖国」という概念も人工的であり、作為的です。

 

しかし、わたしたちの祖国「日本」は違います。

わたしたち日本人は、生活習慣や文化だけでなく、建国以来2000年以上の歴史を共有し、同じ言語(日本語)で話し、ほぼ同じ価値観を抱いて社会を構築しています。

そして、その社会には、文化と歴史に裏付けられた国民相互の「信頼」関係が存在し、言葉にしなくとも暗黙の了解、「阿吽(あうん)の呼吸」で意思疎通を図りながら、生活が営なまれています。

 

この「阿吽の生活圏」の範囲が、わたしたちの「クニ」そのものです。

ですから、私たちの家庭や郷里は、地続きに「日本」という国家(クニ)につながっており、家庭や郷里と「クニ」をほぼ重ね合わせることができる、世界でも稀有な国家です。

そういった意味で、我が国の「祖国」という概念は、「家族」や「故郷」のように自然発生的で、本能的であると言えるのです。

 

我国を「近代国家」という、人工的な色眼鏡だけでみていたのでは、本当の姿は見えてきません。

その姿の素晴らしさを子どもたちに教え、「祖国」を愛する心を育てたいものです。





教育正常化を応援してくださる
方は、応援クリックお願いします。 

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.140 靖国放火事件に思う。日本人の忘れ物がそこにある

c8fef7c5.jpg

昨日の1226日午前45分ころ。

東京九段北にある靖国神社の「神門」が放火されました。

幸いにも警備員らによって早期消化されて大事に至りませんでしたが、何とも心が痛む事件でした。

 

twitter上では犯行声明が流れていたとの情報もあるようですが、その真偽はともかくとして、警察の徹底捜査による被疑者の検挙と厳正なる処分を期待します。

 

 

ところで、靖国神社は明治2年に明治維新において命を捧げた人々の霊をなぐさめるために建てられた東京招魂社を前身として現在まで続いている社です。

 

我国の 為をつくせる人々の 名もむさし野に
    とむる 玉かき(明治
7
年 明治天皇御製)

 

明治天皇もお詠みになられているように、靖国の玉かき(神社・神域との境の垣根のこと)の奥には、我国のために命を捧げられた2466千余柱の英霊が護国の神として祀られています。

今回の行為は、これら250万余柱の英霊の想いばかりか、幕末以降の「日本人の歴史」を侮辱する蛮行であると断罪しなければなりません。

 

 

この年の この日にもまた 靖国の 
      みやしろのことに うれひはふかし
(昭和61815日 昭和天皇御製)

 

この御製が作られた前年に靖国神社を公式参拝した中曽根首相(当時)は、その後に起こった中国からの「靖国神社参拝阻止」の外圧と、それに同調したマスコミによる内圧に敗れ、この年の公式参拝断念を余儀なくされました。

その状況をお憂いになられた昭和天皇が詠まれた歌です。

 

あれから20有余年、未だ我が国民(政府)は、靖国神社に対する外圧による内政干渉やマスコミが作り出す内圧に屈したままです。

昨年は終戦記念日に閣僚が誰一人参拝しない体たらくですし、先日は与党政調会長がA級戦犯分祠に言及するなど、国民・政治家の無知・無関心は進む一方です。


そんなことですから、今回のような不届きな犯罪行為が起きてしまうのです。

 

今こそ、わたしたちは靖国に祀られる英霊の御心に触れ、私たち日本人が命を懸けて守ろうとしてきたものを再確認して、まずは私たち日本人が靖国神社を大切に想う必要があるのです。
そう、それこそが日本人の忘れ物です。


 

そして、学校でも、子どもたちに靖国神社とそこに祀られる英霊の神聖さや崇高さを教えなければなりません。

 

それが、真の日本人を育てるためにはどうしても必要な教育です。




教育正常化を応援してくださる方は
クリックをお願いします。
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.139 「大東亜共栄圏」に託した理想の見直しこそが、真の日本人を育てる

戦後教育は、GHQの支配下で,戦前という「歴史」を全否定することで成り立ってきました。

それは、サンフランシスコ講和条約を締結し独立国家となっても変わらず、現在も続いています。

 

今から15年以上も前のことですが、当時教師になり立ての私もそんな教育の片棒を担いでいました。

かつて自分が教わったように、日本軍によるアジア侵略を信じ、軍部の独走でアジア諸国に多大なる犠牲を強いたのだと、歴史的真実に迫ることなく教えました。

 

それが、学校で行われる「平和教育」の実態でしたし、先輩教師から教わったことでした。

そうやって、ひたすらに先の大戦は日本軍が悪かったと「日本(軍)悪玉史観」や「自虐史観」で近現代史を塗り固め、教育とは名ばかりの洗脳をしていたのです。

その教育のどこにも、日本人が西洋列強と渡り合うために掲げた「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」といった理想を語る場面はありませんでした。

 

今思えば、そこに我が国の近現代史への学問的な真摯さなどはなく、あったのは反日思想という「偏向イデオロギー」に染まった「赤い学問」だったのです。

 

 

時代が変わっても戦後教育の本質はいまだ変わっていません。

だからこそ、今、「現代史への学問的な真摯さ」を思うと、次の言葉を子どもたちに聞かせたいと思うのです。

 

「第2次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本が掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の目前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神ではないことを明らかに示した点にある。」(英紙【オブザーバー】1965年)アーノルド・J・トインビー(歴史学者)

 

そして、アジアの多くの国々は、日本の現代史に尊敬と畏敬の念を持っていることを、しっかりと教えなければなりません。
それが、真の日本人を育てるためには絶対的に必要なことなのです。




教育正常化を応援してくださる方は
クリックお願いします。
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.131 学校で『氏名』を使うと人種差別? 日本の文化を守り、子供たちを守れ!神戸市

神戸市では、一部の団体から「『氏名』という表記は、氏をもたない韓国朝鮮人への差別になる」という指摘を受けて、法令・条例等に反しない限り、「名前」を使う配慮をしているようです。

そして、それは行政として最小単位である「(市立)学校」においても、進められていると言います。
とても信じがたいことですが…。

「氏」とは現在の苗字とは違い、ヤマト王朝に仕えた古代の豪族らが名乗った尾張、蘇我などや、朝廷から賜った源平藤橘や豊臣などをさし、同族の系統を表すものです。
そして、自ら勝手に名乗った苗字とは違い、皇室との深い関係のなかでつくられてきたものです。

明治以前は、公式な場では苗字ではなく、氏に姓(かばね)を加えて「源朝臣家康」(徳川家康)、「越智宿禰博文」(伊藤博文)などと使っていましたが、明治以降は、徐々に「氏」「姓」「苗字」は同義となり、区別されなくなって現在に至っています。
ですから、多くの日本人が「あなたの氏は何ですか?」と尋ねられても正確に答えられません。

しかし、説明したように「氏」は古代に遡る我が国の歴史に裏付けされた立派な日本の文化です。
その文化は日本人だからこそ受け継げるものですから、外国人が「氏」を持たないからといって放棄すべきものではありません。
ましてや、それを使用したからといって外国人を差別することになるはずはありません。

他国の文化を否定することのほうが、差別でしょう。

そんな単純なことが、神戸市という公機関で分からないのでしょうか?
そして、それを学校現場に押し付けているとしたら…。

またも、犠牲になるのは子どもたちです。
日本の伝統や文化をないがしろにする学校であっていいはずはありません。

日本人は日本人。
韓国朝鮮人は韓国朝鮮人。
それぞれが、それぞれの文化をもった違う民族です。
その民族の違いを否定してはなりませんし、相手の文化を否定してはなりません。
そう教えるのが教育です。


学校に韓国朝鮮人の子どもがいたとしても、
その違いや相手国の文化を否定してしまっては、真の友好関係など築けるはずはありませんし、国際人など育つはずはありません。

どうか大人のつまらないエゴや事なかれ主義で、子どもたちを犠牲にすることがないよう、大人たちの正しく毅然とした対応を期待します。



応援クリックお願いします
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.130 大阪「教育基本条例案」に反対する知識人は、学校の組合支配を肯定することを知れ!

大阪府の地域政党「大阪維新の会」が、府議会などに提案する「職員基本条例案」と「教育基本条例案」では、
「政治が適切に教育行政における役割を果たす」ことを前文で明文化しています。

そして、

○同一の職務命令に3回違反した場合は免職とする
○府立、(条例案が可決された)市立校の全小中高校長も教員や民間などから公募する

などの改革案が示されています。

大阪の教職員組合らは、この条例案に強く反発しています。
なぜなら、これらは「学校を組合支配から開放」するためのものだからです。


中でも、全小中高校長の公募は彼らにとっては驚異です。
学校教育が組合支配から開放され正常化するには、彼らと毅然とした態度で対決できる学校長のリーダーシップが不可欠です。

しかし、日教組や全教など偏向した教職員組合が強い地域では、
「組合出身でないと管理職(校長・教頭)になれない」
「組合幹部をすると管理職になりやすい」など
組合と管理職を登用する教育委員会が馴れ合いで学校を支配しています。

そんな地域では、教育委員会内に学校現場から組合員が多数入り込んでいますから、組合の御用達になっていることもしばしばです。

ところが、公募制となって組合員が学校長に登用されなくなれば、組合と教育委員会の馴れ合い体制に風穴を開け、学校を組合支配から開放する手立てとなる可能性があるのです。

そのためには、教育委員会から組合色を排除しなければなりません。
ですから「政治が適切に教育行政における役割を果たす」ことが必要なのです。


この条例案に反対する一部の知識人たちは、「政治による(良い)関与」さえも、さも危険なことのように煽って反対します。
それは、組合による学校支配で子どもが犠牲になっている姿を知らないが故か、知っていてあえて偏向教育を是とする確信犯です。

教育は、政治的中立を守ることが必要ですが、
「政治の適切な関与」が遠ざけられた結果、学校が組合支配の温床となり、反日教育や左翼思想が蔓延った歴史をしっかりと見なければなりません。

国民は、それを隠して反対する彼らのうさん臭さをしっかりと見極めなければなりません。





応援クリックお願いします。
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.127 伊勢神宮参拝記2 公教育の忘れ物「復興を神々に祈れ!」

さて、今回はいよいよ正宮のお参りです。


瀧祭宮を過ぎて鬱蒼とした林を抜け石段を上ると、正宮です。
なんと厳かな雰囲気でしょう。
心の折り目がピンと立つような思いがします。


本宮は、式年遷宮といって20年に一度、隣接地に立て直されています。
これは、今から約1300年前の持統天皇の時代から続いてきた習わしで(戦国時代には一時途切れていましたが)、現代まで受け継がれており、平成25年が62回目の式年遷宮の年にあたります。
正宮の隣接地ではすでに遷宮に向けて工事が始まっており、石段が新しく組み直され、正宮を造営するための足場が組まれ、白いシートで覆われていました。


式年遷宮という生きた歴史のなかで、実際に工事されている一旦に触れると、1300年前にタイムスリップしたような不思議な感覚になり、「古きものを新たに生まれ変わらせる」という古代人の叡智とロマンに脱帽しました。

さて、正宮は皇祖神をお祀りしているのですから、さぞかし煌びやかかと思いきや…その建物は掘っ立て柱、藁葺き屋根の素朴な建物です。


式年遷宮の習わしが始まった時代には、現代に残るようなお寺を建てる技術力がすでにあり、国家事業としての習わしですから、技術的や経済的に素朴な建物しかできなかった訳ではありません。
なのに、なぜ素朴な佇まいなのでしょう?
ガイドさんの
「漢文化や仏教が流入する以前の、原始的な日本民族の建物様式を色濃く残しています。これは、持統天皇の夫である聖武天皇が、日本人の古の文化を未来永劫残そうとしたからでしょう。」という説明に、大いに納得しました。


正宮の参拝の次に案内されたのは、荒祭宮(あらまつりのみや)という別宮です。
驚くことに、このご祭神は、天照大御神です。
天照大御神は、正宮に祀られているはずなのに…なぜ?


ガイドさんに聞いてみると
「こちらには、天照大御神の荒々しい魂(荒魂)をお祀りしています。古来、日本人は、神様には和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)があると考えていました。荒魂は、神の怒りです。天変地異を起こしたり疫病を広めたりする魂ですから、神の怒りをおさめ荒魂を和魂にするためにお祭りをします。和魂とは神様の優しい魂で、人々に多くの恵みを与えます。正宮には、天照大御神の和魂がお祀りされているのです。」とのことでした。


かつての日本人は、天変地異や疫病さえも神々の意思(荒魂)として受け入れ、その怒りを鎮めようと祈りを捧げてきたのです。なんという健気さ、そして強さでしょう。

古来から、日本人の生活とは「神々との共生」だったのです。


これを迷信と切り捨てて来たのが戦後教育です。
日教組の綱領にあるように「科学的真理」などという、実は共産主義の無神論に類する思想が教育に入り込み、「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」という教育基本法の規定もあって、日本人が古来から大切にしてきた神に祈ったり、神に誓ったりという、人間の成長には根源的に不可欠なものが公教育では否定されてしまいました。

学校ばかりか、家庭でも神々のことを教わる機会が激減し、
それによって日本の子供たちは、自らを超える存在を感じることができなくなってしまい、情緒が貧困になり傲慢になってしまいました。


今、学校現場で起きている様々な問題は、ここに根源的原因があるように思えてなりません。


先の東日本大震災の際に、石原東京都知事が「日本人への神の怒り…」という発言をして批判されましたが、それはまさに日本人として正しい考え方だったのです。
今こそ、我々日本人が日本人の原点に立ち返り、神々と共生してきた歴史を学び、早期復興のために神々に祈りを捧げるときです。
そして、子供たちに神々に祈ることの大切さを教えなければなりません。


そんな日本人の原点に立ち返らせていただけた伊勢神宮参拝は、終わりに近づきます。
続きは、次号で。



応援クリックお願いします。
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.125 伊勢神宮参拝記1 日本人の信仰の原点とは?

保守思想に目覚めて以来、念願だった「お伊勢参り」をする機会を先週末に得ました。
私の住んでいる地域からは、高速道路を走っても、6時間以上ほどもかかる遠方です。

お伊勢さんと言えば、皆さんご存知のとおり、ご皇室(もちろん今上天皇陛下)の祖先にあたる皇祖神「天照大神」をご祭神とする、日本の総氏神とも言われる格式高いお宮さんです。

このお伊勢さんは、式年遷宮という、20年に一度本宮(ほんぐう)を隣地に建て替えるという作業を1300年以上も続けながら、未だ縄文時代の掘っ立て柱の社をお祭りしています。
世界にはお伊勢さんよりも古い遺跡は多々ありますが、お伊勢さんは「遺跡」ではなく、式年遷宮という特別なお祭りで幾たびも再生しながら歴史をつないできた生きた信仰の地です。


ガイドさんに案内をしていただきながら、参拝をしました。

まず、過去の式年遷宮で取り壊された本宮を使ってつくられた宇治橋鳥居をくぐり、五十鈴川を渡ると、もうそこは内宮の地です。
平成25年度には次の式年遷宮が迫っており、あちこちでその準備が始まっているので、重機の音が静かな森に響いています。
喧噪な感じがして少し残念ですが、それを超えて 「ピーン」と張り詰めた雰囲気があり、やはり日本一の聖域にふさわしい感じです。
前夜の雨のせいか、玉砂利が濡れていて、打ち水をしたかのようにますます神聖さをましています。

第一鳥居を抜けると、五十鈴川御手洗場で手を洗い清めます。
清流五十鈴川の水は透き通り、とても冷たく一瞬の涼を与えてくれます。

そのすぐそばの森の中に、滝祭神(たきまつりのかみ)という質素な祠があります。

ガイドさんの説明で
「この神様は、この場に天照大御神がご鎮座する以前から、この地域の先住民が五十鈴川の守護神としてお祭りしてきた水の神様です。」
「神社に、まだ立派な社を建てるようになる以前の原始的な信仰が伺えるんですよ。」
と言われて、祠の中を覗いてみると、そこには畳2帖ほどの大きさに、小さな石が積まれただけの小山状のものがありました。
これが、実に素朴な中に神々しい雰囲気が漂っているのです。

「ああ我々日本人の先祖たちは、こうやって自然を愛し、敬い、恐れ、そして祀ってきたんだなあ…」
わたしに、2000年以上前のそんな姿を目に浮かぶように想像させたその祠は、わたしの心に想像以上の感動を与えました。

現代の日本人は、自然を愛し、恐れ、そして神として崇めてきた信仰心を失ってしまったのではないか…。
その信仰心を失ったことで、「日本人の心」を喪失してしまったのではないか…。
「科学力」や「経済力」で、何でもできると過信して、信仰をないがしろにしてきた「つけ」を払わされたのが先の大震災ではなかったか…。

そんなことを考えながら、
この小さな石山を祀った先人たちのように、素朴でも純粋な信仰をもち、自然を愛して謙虚に生きていくこと…そんな日本人の心の持ちようを思い出させていただいたのです。

日本人として、子供たちに教えたいことがまたひとつ増えました。

この続きは、次号で。
いよいよ本宮へと進みます。




応援クリックお願いしますにほんブログ村 政治ブログ 保守へ
にほんブログ村

vol.124 小学校教科書も 「皇室を貶める」  皇室を取り巻く黒い闇

小学校教科書に見える皇室軽視
本年度から、小学校で完全実施されている新学習要領は、平成18年に改正された教育基本法に則って行われた改定版です。

ですから、「我が国の伝統や文化の尊重」や「我が国と郷土を愛する心」が明記された新教育基本法の趣旨に沿って、本年度から小学校教育がなされているはずです。
しかし、昨年度採択された「小学校社会」の教科書には、未だにトンデ記述がまかり通っています。



~する天皇!?
「天皇」に対する敬称は、陛下です。
歴史上の天皇を呼んだり、法律上の天皇の地位などを表す場合は敬称は用いませんが、今上陛下ご自身の活動を表現する場合は、「陛下」をつけてお呼びするのが一般的です。


ところで、陛下という敬称は、長い歴史の中で天皇にのみ使用されてきたもので、その長い歴史は律令法(大化の改新のころ)にまで遡ります。
明治以降は、「皇后、皇太后、太皇太后」の三宮にも使用されるようになりましたが、いずれにせよ特別な意味があって使用されてきた「特別な敬称」なのです。

隣国の朝鮮国王は、歴史的に「国王殿下」と呼ばれ、支那王朝の皇帝陛下に臣従する立場をとっていました。

それと比して、我が国では支那の皇帝と同等の敬称である「陛下」を使用しました。
陛下という敬称は、我が国が支那の冊封体制から抜け出した(国際的な)独立の歴史を表す大切なものなのです。


このように、私たち日本人にとって「陛下」という敬称は、陛下への敬愛の念を表すだけでなく、特別な意味を持つのです。
ですから、通常は「~なさる天皇陛下」と表記するのが当然ですし、「陛下」という言葉の歴史的な意味についても子どもたちに教えてしかるべきです。



しかし、小学校の新教科書(6年生社会科)の中には、
「インドの首相をむかえた天皇」や「文化勲章を授与する天皇」などと、敬語や敬称を使用しない表記がなされているものがあるのです。
このように表記するのは、明確に皇室を蔑める意図があると言わざるをえません。
この教科書を使って、皇室廃止を目論む左翼教師が授業をすると考えただけで恐ろしくなります。



そして、見逃してならないのは、この教科書を検定して合格させたのは「文部科学省」であることです。
適切な指導をすることもなく、このような我が国の「国体」を揺るがす記述を合格として、子どもたちに与えたその罪は非常に重いと言えます。

このように、皇室を快く思わない左翼勢力は、教師と教科書会社ばかりでなく文科省の一部までも巻き込んで、子どもたちを偏向思想で洗脳し続けているのです。


この子どもたちを守れるのは、健全なる教育だけです。
我が国の将来の発展のためにも、家庭でも、学校でも、世界に冠する我が国の皇室に敬愛の念をいだく子どもを育てなければなりません。
わたしも、学校現場で頑張ります。



応援クリックお願いします。
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.121 「海の日」の意義を教えよ! ~ご皇室と被災地東北の深い絆~

明治天皇の東北御巡幸

 

明治元年(1867年)に始まった戊辰の役は、薩長土肥ら新政府軍の圧倒的勝利に終わり、奥羽列藩同盟として闘い壊滅した東北地方の人々は、それ以来、大変厳しい生活を強いられました。

 

しかし、そんな厳しい生活を強いられながらも、
東北の人々は皇室を慕い続け、戊辰の役で荒れた東北地方の発展の契機にしたいからと、「明治天皇の行幸」を新政府に請願します。

 

明治天皇は、この要請を快諾。

辛酸を舐める東北の人々を慰撫して、激励するために、明治9年(1876年)、東京を出立されて東北地方へと御巡幸なされました。

福島、宮城、岩手、そして青森を経て、北海道の函館までの長い行程の折々で、明治天皇は東北の人々を激励し、特に産業の発展や教育の振興に心を砕かれ、訪問の先々では、功労者や学生らに褒賞(金)を賜りました。

 

戊辰の役の後10年も経たずして、東北の人々の請願を快諾し、御巡幸を決意された明治天皇の御心には、

「心ならずも朝敵となり、辛酸を舐めた東北地方の人々とも、君主として深い絆でつながり、この国を一つにまとめたい」という強い御意志があったのでしょう。

 

62日に東京を出立された明治天皇は、東北地方を1カ月半ほど御巡幸なさって、720日に「明治丸」(現在も東京海洋大学キャンパスに展示)で、無事に横浜港へ帰港されたのです。

 


「海の日」


この明治天皇が横浜港へ帰港された
720日は、戦前から「海の記念日」と呼ばれて、大切にされてきました。

そして、平成7年(
1995年)の法改正によって、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨として、7月20日を「海の日」として祝日にしました。

現在は、ハッピーマンデー法によって第3月曜日が「海の日」となり、今年は(7月)18日、昨年は19日、来年は16日と、年ごとに日が変わってしまい、その由来が分かりづらくなってしまっています。

 


しかし、7
20日は、
『明治維新という未曾有の大改革を経て、新生国家「日本」が誕生し、内戦を経ながらも、明治天皇(皇室)をリーダーにして国家が一つになっていく、貴重な歴史の息吹を感じられる』
大切な日です。

 

そして、くしくも明治天皇による御巡幸の地は、先日の大震災の犠牲の地、「東北地方」です。

東北地方と明治天皇との深い絆は、現在もなお、今上天皇陛下と東北の人々との深い絆へと繋がり、今上天皇、皇后両陛下のたび重なる被災地訪問となって結実しているのですから、明治から現在にも渡る大切な記念日なのです。

 

ですから、この720日に由来する「海の日」の意義を、しっかりと次世代につないでいきましょう。
家庭でも、学校でも、しっかりと教えたいものです。



それは、東日本大震災からの復興の為にも、とても大切です。




応援クリックお願いします。

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.119 復興へ、教育しなければならないこと… 「天命に生きよ!」

 「命(ぬち)どぅ宝」は絶対的価値観ではない


先日(
6月23日)は、沖縄戦の戦死者を追悼する「沖縄県の慰霊の日」でした。
私も、心よりご英霊の方々を追悼し、黙祷を捧げました。

ところで、「命(ぬち)どぅ宝」とは、「命こそが宝、命こそが尊い」といった沖縄の方言です。

公教育では、「平和教育」のスローガンのひとつとして、よく遣われます。

「命どぅ宝」という言葉が示す通り、沖縄戦の悲惨さを思うと、命が大切であることは議論を待ちませんし、命は大切にしなければなりません。

しかし、日教組ら組合勢力が推進する「平和教育」とは、我が国の伝統・文化や歴史を否定し、国旗・国歌さえも拒否する『反日教育』の中心的役割を担ってきた教育であることは、以前から指摘している通りです。
その彼らの手による「平和教育」でつかわれる「命(ぬち)どぅ宝」という言葉は、子どもたちに「命こそ(だけ)が宝」だと教え込み、日本人の(伝統的な)道徳的価値を貶めるための道具です。


彼らは、「命の大切さ」を「命を長らえる」こととすり替えて、戦争の悲惨さだけを誇張して、子どもたちを反日思想で洗脳し続けます。
国民の「命を長らえさせなかった」戦前の日本は、絶対悪だというのです。

しかし、本来は「命を大切にする」のと、「命を長らえる」ことは、根源的な大きな違いがあります。
もし、「命を長らえること」だけが大切(宝)だとすれば、自らの命を長らえるには、他人の命さえ奪ってよいことになってしまいます。

結局は、「命どぅ宝」と言う言葉は、日教組ら反日主義者らの手によって、「どんなことをしてでも、自分の命さえ守れば(長らえば)よい」という、身勝手な生命至上主義のスローガンに堕してしまっています。


そして、彼らの推進する「平和教育」では、我が国を「侵略国家」として自虐史観で断罪するばかりか、
「他人の命や財産、そして共同体(国家)そのものを守る為に、自らの命の犠牲を省みない」という、崇高で普遍的な価値観があることを教えません。

ですから、靖国に祀られる英霊も、「国家に騙され、命を落とした哀れな兵隊たち=無駄死に」という一方的な構図にされてしまうのです。

 

「天命を知る」


先日の東日本大震災の際、命を投げ打って多くの人の命を救った人々の姿や、震災後の日本人の冷静で、互いを思いやる姿は、世界を驚愕させました。


そんな姿を見るにつけ、日本人には、戦前から受け継いでいる「命の長さだけにとらわれない」崇高な価値観を、DNAの中に含有していることを痛感します。

自らの命が危機にさらされても、人の命を救ったり、十分な救援物資がなくても、人の命や財産を奪ってはならないという、公徳心や規範意識の高さが、日本人の心の底には眠っています。

そして、先人から受け継いできた大切な命だからこそ、その命で「何事か成し遂げる」。

それは、国家のためであれ、地域のためであれ、家族のためであれ、何がしか他人や公共のために自分の命を使うことです。

それを、かつての日本人は、天から与えられた「天命」と呼び、「天命を知り」、「天命に生きる」ことを、人生最上の目標としました。


自殺者が年間
3万人を越えて続出する我が国の現状は、この「天命」を知り、天命に生きることを忘れた結果です。
「命を長らえることだけが大切」だという考えこそが、「命を自分だけのもの」と勘違いさせ、自ら命を絶つという悲しい結果を生んでいます。

 


今、我が国は、東日本大震災からの復興に向けて、国民一人ひとりが立ち上がらなければなりません。

だからこそ、
命のとらえ方を、「命どぅ宝」などという一面的で、軽々しいもので終わらせず、
「命は自分だけのものではないこと。」

「命を長らえることだけが大切なのではなくて、どう命を遣うのかが大切であること。」
「(ときには)自らの命を越えて、守らなければならないものがあること。」


そして、

「誰にでも、天から与えられた成すべきこと(天命)が必ずあり、天命を知り、天命に生きることが、人生の最上の目標であること。」
「それが、命を大切にするという本当の意味であること。」を、
大人たちが考えて行動しなければなりませんし、後ろ姿で子どもたちに教えることが大切です。


身はたとえ 誰かのために捨るつとも 我はひとえに 天命に生きる




応援クリックお願いします。 

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.118 日本復興のとき ~先人に学べ~① 福沢諭吉「ひびのおしえ」

今、我が国は、未曾有の大震災から力強く復興しなければなりません。
そんなときだからこそ、日本人の「心の復興」が大切です。

そして、これからの復興を支えていく若い世代に、日本人の心をしっかりと宿らせること、それが、復興への原動力となります。
とくに、多くの子どもたちが学ぶ公教育で、子どもたちに伝統的日本人の心を宿させなければなりません。
そのためには、先人の教えを学ばせなければなりません。

しかし、今の学校で、「先人の教えを学ばせる」ことは、決定的に不足しています。
戦後教育では、過度に戦前教育を否定してきたために、戦前までは大切にされてきた日本人の美徳や公徳といった価値観を次世代につなぐ作業がなされてきませんでした。
日教組らによって黙殺され、現代の教師が見落としてる、先人たちの教えには、私たち日本人の心の在りようが説かれている、素晴らしいものがたくさんあります。
そして、その教えは、普遍的なものですから、「心の復興」が必要な現代でも十分活かすことができるものばかりです。

そんな教えを、シリーズで紹介していきたいと思います。

第1回は、福沢諭吉です。新聞記事から紹介します。


福沢諭吉の「ひびのおしえ」は、我が子への戒めとして書かれたものです。
福沢先生と言えば、慶応義塾大学創始者として、「開明的で、西洋の文明や学問を重んじた教育者」のイメージが強くあります。
また、「日本婦人論 日本男子論」を書き、開化的な家庭の在り方を広く求めたように、開化的で、自由主義的な思想が有名です。

しかし、本人は幕末期の武家に生まれ、武家の教育を受けていました。
ですから、決して開明的なだけでなく、その人間的根底には、日本の武士としての価値観をしっかりと湛えていた人物でした。

ですから、自分の子どもたちに対しては、
「人を殺してはならない。」
「虫けらを、無益に殺してはならない。」
「物をぬすんではならない。」
「嘘をついてはならない。」
と、実に端的に人としての道理を書き綴って教えています。

西洋学問を究め、日本の近代化を思想面から支え、教育をリードしてきた福沢先生が、我が子へ教えたかったことが、「よく学べ」といった教育的観点でなく、実に当たり前の「人の道理」であったことは、とても興味深いことです。


家族同士でさえも殺し合い、政治家が平気で嘘をついて、国民を騙すこの現代に、大人がしっかりと子どもたちに教えなければならないのは、実は、こういった「人の道理」なのではないでしょうか?

「人の道理」のないものに知識を与えることは、福沢先生が求められた「学問の独立」に反し、「学問の敗北」につながってしまいます。

私たち教師は、そのことをしっかり認識しなければなりません。
そして、我が国の早期復興の為には、子どもだけでなく、保護者へも「人の道理」を説いて、この国の教育を救いわなければならないのです。


いにしえの 心に宿る 親心 今の子らには 何と聞こえん




応援よろしくお願いします。
 にほんブログ村 政治ブログ 保守へ
にほんブログ村

vol.116 国旗国歌条例に反対する教師の本性を見抜かなければ、大阪の教育再生はない。

高校生が条例に反対…この違和感は何だ

「国旗・国歌」の大切さや意義を分かって条例に賛成する生徒と、反対する生徒の意見を、きちんと両論併記する産経ニュースの中立さには敬意を表したいと思いますが、教育者としては、もう少しこの記事を掘り下げてみたいと思います。
この反対意見は、「公務員の職務命令義務違反」でしかない問題を、「思想・信条の自由」という次元の異なる議論を加えることですり替えていますが、そのことに気づいていない程度の高2生の稚拙な意見です。
しかし、なぜそういった意見を持つ高校生がいるのかを考えなければ、実は、この条例化の本質は見えてきません。

高校生程度であっても、IT化、情報化と言われる現代では、さまざまな情報を享受していますから、この高2生も、自分が得た情報で誤った判断をしている可能性はあります。
しかし、その発言中にある「無理やり条例化して立たせるやり方」といった文言は、(左翼)教職組合員の言説と全く同じです。

そもそも大阪府議会は、地方議会として、民主主義の原則に則って可決したのですから、「無理やり」条例化したのではありません。
府議会が可決した条例を否定することは、地方議会の存在そのものを否定することになりかねないのですが、そんな過激な思想を、勉学に励む普通の高2生が持つことは、現場の目から見ると、考えづらいことなのです。


子どもを洗脳し、利用する左翼教職員組合
日教組や全教(全日本教職員組合)ら、「国旗・国歌」に反対する組合勢力は、活動の一端を生徒や生徒会に担わせてきたと言っても、過言ではありません。
生徒たちを扇動し、生徒会を操って、学校長に対して「卒業式での国旗・国歌反対」などという要望書をつくらせて学校長と敵対させるなどして、生徒たちに反対闘争の一翼を担わせてきたのです。
 そして、組合が行う「教育研究集会」に、生徒代表を参加させて、「平和」や「生徒参加」などと耳触りのよい文言を並べ立て、左翼的な思想を押し付けて、実践発表をさせたり、意見交流をさせたりしてきました。
記憶に新しいところでは、平成19年(2007年)沖縄で起こった教科書検定闘争のときに、高校生を壇上に上げて積極的に政治的発言をさせるなど、自分たちの政治闘争に子どもたちを利用するのは、彼らの常とう手段です。
これらのことを考えると、今回の高2生の反対意見の中に、教職員組合と同じ言説が混在するのは、組合の洗脳下にあることを証明しているとさえ言えるのです。


学校は、政治闘争の場所ではない!
今回の条例は、保護者や生徒の不起立を問題にしている訳ではなく、教育公務員である教員が起立することを、規程として盛り込んだ条例です。
にも関らず、子どもたちをも巻き込み、洗脳して、自分たちの政治闘争に利用する左翼教職員組合の非情さとデタラメさは、同じ教育に携わる者として決して許すことはできません。

今回の大阪府の条例化は、「国旗・国歌」だけの問題ではありません。
教育を隠れ蓑にして、許されない政治活動をして、生徒をも利用する教職員組合を抑え込む大阪府政の強い決意が見えてきます。
そのことが、教育再生の本丸であることを、橋下知事はご存じなのでしょう。

最高裁で合法とされた職務命令さえも受容できないのであれば、教育現場から退場することです。
教育者として、ルールを守れないようでは、そもそも教員失格であることを自覚すべきですし、そのルールそのものを変えたいのであれば、尚のこと教育現場から退場し、教師を辞して、政治の世界で闘争すればよいのです。
学校は、政治闘争の場所ではない!

子どもを、政治闘争の道具に使ってはならない!

たったそれだけのことさえ守らない彼らを、決して許してはなりません。





応援クリックお願いします。
 にほんブログ村 政治ブログ 保守へ
にほんブログ村

vol.115 教育正常化の芽を発芽させよ!(代表挨拶から)

教育正常化団体

わたしは、日教組らによって歪められた教育を正そうと、「教育正常化」を目指す教職員団体の地方代表を務めています。

昨日は、年に一度の総会が行われ、同じ目的を持った教員たちが集いました。

そのときの挨拶を紹介します。

 

≪これは、国民のみなさんに、こういった活動をしている教職員団体があることを知っていただくために公開するものです。≫

 

代表挨拶

本日は、第49回定期総会を開催しましたところ、多くのご来賓の皆さまにご参列いただき、誠にありがとうございます。

 

さて、311日午後246分に、東北地方を中心に起きた東日本大震災は、大津波を伴って、関東から東北地方の沿岸部を襲い、2万人を越える人命を奪いました。

避難者は最大時で40万人を越え、福島原発の事故も相まって、未だに慣れない土地で避難生活を余儀なくされている人々や、無念にも命を落とされた方々のことを思いますと、同じ日本人として、心が引き裂かれる思いです。

 

しかしながら、この大震災の影にも、われわれ日本人としての矜持を示す出来事がいくつもありました。

例えば、「震災直後に止まった電車の駅で、整然と1列に並んで座り、電車の再開を待つ」姿や、避難所で「空腹と寒さに耐えながらも、救援物資に、我慢強く列をつないでいる」日本人の姿は、世界中の国々から高く評価され、称賛されました。

 

また、津波が襲い来る最後の最期まで、現場に留まり避難放送をし続けて命を落とした役場の若い女性職員や、家族に別れを告げて、消防車に乗り込み、住民へ避難を呼びかけ続け、消防車と共に命を落とした消防団員、中国から受け入れていた研修生を高台に避難させて後に、会社に戻って命を落とした会社役員など、自己犠牲を惜しまず、人の為に最期の最期まで命をかけた日本人たちがこの現代にも多くいたことを、私たちは誇りに思うと同時に、決して忘れてはなりません。

 

今後、我が国は、どれ程の年月がかかろうとも、国民が一丸となって、復興に向けて前を向いて歩んでいかなければなりません。

その復興へ向けての、長い年月の一翼を支えていくのは、今、私たちの目の前にいる子どもたちです。

 

震災の4日後に行われた卒業式の日、3年生の担任をしていた私は、クラスの子どもたちに「我が国の本当の復興を支えていくのは、君たち若い世代です。だから、まずは、この国を愛してほしい。そして、この国を支える人材に育ってほしい。その為に、高校へ行ったら、自分だけのためでなく、この国や、人の為に、しっかりと勉学に励んでほしい。」と話しました。

彼らは、堂々と顔を挙げ、今までにない真剣な眼差しで、私の話を聞いてくれました。

そして、真正面から「国を愛すること」「国のために自分の将来を捧げること」を話しては、反発もあるのではないかとの、私の心配をよそに、保護者たちも、頷きながら私の言葉に耳を貸してくれたのです。

 

あの震災は、我が国に多くの犠牲を強いましたが、同時に、私たちに、「日本人であること」、そして「それが如何に素晴らしいか」ということを、改めて教えてくれました。

だからこそ、「祖国」への、国民の意識に変化がみられたのです。

そんな今だからこそ、その「国を愛することの大切さ」や「日本人であることの素晴らしさ」を、子どもたちに、しっかりと教えていかなければなりません。

 

私たちは、長年に渡って、「美しい日本人の心を育てる」ことを目指して、教育正常化の為に闘って参りました。

その半世紀に渡る長い闘いの中で、やっと先輩方が巻いてきた正常化の種が、今、芽を出そうとしています。

 

今からの私たちの務めは、実践です。

子どもを無視した不毛な議論を捨て去り、ただ、ひたすらに子どもたちの真の幸せを願いつつ、「美しい日本人の心」を育て、そして「我が国の伝統・文化を継承する」実践を積み重ねるのみです。

 

みなさん、どうか学校で、現場で、小さな実践から始めてください。

終りの学活の5分の訓話からで、いいのです。

子どもたちの内に眠る、日本人としてのDNAに火を灯してやってほしいのです。

 

長い年月をかけて、先輩方が巻いて下さった正常化の種を、しっかりと受け取って、現場で発芽させてください。

その芽が、やがて樹木となり、林となって、森となります。

 

たった一人の実践では、林にも、森にもなりませんが、

教育正常化の芽が発芽する現場が増えれば、ひとりひとりの実践は小さくとも、必ず森となります。

 

この高知の子どもたちを、しっかりとした「日本人」に育てること。

それが、東北の被災者を救い、尊い犠牲者の魂の供養になるのです。

 

私たちの組織が、みなさんの実践をつなぎ、林や森にしてくために、懸命に努力してまいりますことをご約束して、挨拶とさせていただきます。

平成23528



応援クリックお願いします
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.114 キャリア教育の前に、天皇陛下の御田植のお姿を教えよ

天皇陛下が田植え

20110524-00000067-jijp-000-view 天皇陛下は24日午後、皇居内にある水田で毎年恒例の田植えをされた。
 茶色の開襟シャツ姿の陛下は、長靴を履いて水田に入り、うるち米のニホンマサリともち米のマンゲツモチの苗計100株を1株ずつ丁寧に植えていた。
 植えられた苗は9月ごろに陛下が稲刈りをし、米は新嘗(にいなめ)祭などに使われる。(2011/05/24-18:29)時事ドットコム



今年
も、天皇陛下が皇居内の水田で、田植えをなされました。

記事にある新嘗祭は、日本書紀に、【天照大神(あまてらすおおみかみ)が自ら神田を営み、新嘗の祭りを行った】とあるように、古代から大切にされてきました。


現代でも、我が国の祭祀を司る最高責任者である天皇陛下が、国民を代表して農作物の恵みに感謝するという、とても重要な宮中祭祀です。


このように、国民にとっても大切な祭祀で使われる米を、毎年毎年お手植えになられ、刈り取られる今上天皇陛下のお姿に対して、国民の一人として、心からの尊敬と感謝の念を持たずにはいられません。


キャリア学習の前に

ところで、学校教育では、「ニート」や「フリーター」など若者の就業問題を受けて、平成15年(2003年) 文部科学大臣らが取りまとめた「若者自立・挑戦プラン」に基づいて、将来を担う若者たちに勤労観、職業観を育み、自立できる能力をつけることを目的として、キャリア教育が行われています。

しかし、最近の子どもたちは、「勤労は対価(報酬)を得るための手段」としか思っていませんから、中学生くらいになると、「将来は、働かなくてもいいくらいの金持ちになりたい」「少しでも楽して大金を稼ぎたい」と言い、健全な勤労観を育むことは容易ではありません。

日常生活の中でも、子どもたちは、家庭の手伝いや学校での役割分担などでさえ、「いくらくれる?」と対価を求め、自分の成長のための学習でさえも、「成績があがったら、いくらくれる?」と対価を望む姿は珍しくありません。

ですから、仕事が対価(報酬)と釣り合わないと思えばすぐにやめてしまったり、不平不満ばかりを言うことになります。


そんな子どもたちには、キャリア教育の前に、まず「日本人としての勤労観」をしっかりと教えなければなりませんが、今日の天皇陛下のお姿は、まさしく、それを後ろ姿で教えてくださっています。

 

陛下のお姿から学ぶ「勤労観」

ご高齢にも関わらず、長靴を履いて田に立たれる天皇陛下のお姿は、勤労の尊さをわたしたちに教えてくださいますし、国家元首である天皇陛下御自らが勤労に従事するお姿は、我が国の「勤労観」をまさに体現してくださっています。

 

我が国の神話では、天照大神が自ら神田を営み、機織りをするように、神話の神々さえも生業(職業)を持っていました。

それほどに、我々日本人は勤労を尊び、「労働を美徳」となしてきた勤勉な民族です。

 

しかし、戦後教育で、神話や皇室を軽んじてきたがために、2000年紡いできた「日本人としての勤労観」が、次世代につなげなくなってきています。

このままでは、「労働を美徳」としてきた、私たちの文化が滅んでしまいます。

 

だからこそ、まずは、日本の伝統・文化の核(コア)である天皇陛下がなさる田植えの意義や意味をしっかりと教えることから、キャリア教育は始めなければなりません。

それが、子どもたちの健全な勤労観を育むためには絶対的に必要なのです。


応援クリックお願いします。

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.113 「夫婦別姓って何?」と問う中学3年生。教科書に記載する必要があるのか?

教師から見た「夫婦別姓」

わたしは、以前から夫婦別姓については、教師の立場として反対です。

理由は、拙ブログ「vol.10」を参照していただければ分かりますが、

簡単に説明すると、子どもたちの生活環境がこれ以上劣悪にならないためと、家庭崩壊を食い止めるためです。

家庭教育が機能しなくなり、公教育すら「学級崩壊」や「学力低下」など、多くの問題を抱えている現状で、これ以上子どもたちの生活環境が悪化して、家庭が崩壊してしまえば、まさに国家百年の大計である教育そのものが、根幹から揺るぎかねません。


「夫婦別姓」賛成論者たちは、

「別姓になると家庭崩壊につながると言うのは、夫婦同姓が浸透しているために引き起こされる錯覚に過ぎない。」

「選択的夫婦別姓を導入している国で離婚が増加しているのは、別姓が原因では無く、経済的に独立している女性が多いため、夫婦間に愛情が無くなれば婚姻関係を続ける意味が無いからである。」

「別姓だと、必要以上の親戚付き合いや嫁としての責任を免れることができて、個人対個人としての関係を作っていくことができる。」


などと言っていますが、そもそも家庭とは、深い愛情によって形作られている運命共同体ですから、「経済的自立」や「個人対個人」といった(我が儘な)「個人重視」の考え方が浸透してはならない聖域のはずです。

 

子どもたちの健全育成のためには、家族という「共同体の一員としての責任を持った個人」を育てなければなりません。

ですから、やはり「夫婦別姓」は、子どもたちの教育環境の悪化にしかつながらないとしか思えないのです。

 

「先生、夫婦別姓って何ですか?」

定期テストの補充学習をしていたときです。

「先生。夫婦別姓とは何ですか?」

彼女は、中学3年生。「公民」(中学校社会科)の問題を解いていました。

「どうしたの?」と問うと

「テキスト(問題)に載っているので、意味を知りたくて…」

 

私は、愕然としました。

未だ、国民的議論が決着を見ず、国会でも結論が出ていない問題が、中学校3年生の学習テキストに載っているのです。

もちろん、テキストに載っているということは、教科書に載り、「重要語句」の一つとして取り扱われているのでしょう。

「夫婦別姓って何?」という、中学校3年生の素朴な疑問に、誰が政治的(思想的)意図を排して、公平・公正に教えることができるのでしょうか?

 

15歳の中学生の両親は同姓なのに、「別姓に変える」ことを、制度として確立していないにも関わらず、教える必要があるのでしょうか?

甚だ疑問ですし、このような問題について、教科書に載せるべきではありません。

 

テキストに見える「政治的意図」

テキストには、男女共同参画社会の項の最後に

「男女別姓を求めている人たちがいます」と書かれていました。

 

テキストの流れから見ると、男女共同参画社会 → 男女の歴史的立場の変化(女性の社会進出)→ 夫婦別姓 とあたかも、男女共同参画社会を構築する為には、夫婦別姓が必要であるかのような記述です。

 

百歩譲って、中学3年生に夫婦別姓について教える必要があるとしても、「反対意見も多くあり、国民的議論は決着を見ていない」こと、そしてその理由を併記すべきです。

そうすれば、中学生として、中学生なりの答えの出しようもあるでしょう。

それが、教育ですし、学問的中立です。

 

彼らの常とう手段はいつも同じです。

社会的議論やその結論を待たず、教科書に載せて子どもたちを洗脳する。

左翼勢力や日教組による、偏向的な歴史教育の実態も、この[構図]と全く同じです。

 

私たち国民が、このような不正な手段を見逃してはなりません。
公教育が偏向しないためにも、子どもたちの教科書に興味をもってみてください。


応援クリックお願いします。

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.112 皇室抜きの愛国心教育などない!

震災直後の両陛下

 

平成23311日に起きた東日本大震災は、東京でも震度5の揺れを観測しました。

丸の内の中心にある皇居でも、相当の揺れを感じました。

このとき、両陛下は皇居の清掃活動に従事していた奉仕団へ労いの言葉をかけた後に奉仕団の皆さんとお別れをされた直後だったそうです。

 

両陛下は、揺れがおさまると直ちに、奉仕団のみなさんを心配されて、侍従に命じてその安否を確認されました。

奉仕団は、大きな混乱には陥らずに済みましたが、その後東京都内の交通網は大混乱になり、帰宅できない帰宅難民が都内に溢れました。

 

そんな状況をお知りになった両陛下は、「これでは、遠くから来た奉仕団の人々は帰ることができない。」「なんとか皇居内に人々を泊められるように検討」するよう指示され、実際に奉仕団の人々は、窓明館という休憩所に数十名が宿泊しました。

 

これだけでも大変異例のことでしたが、そればかりか、翌朝の7時過ぎには、皇后陛下がこの休憩所に泊まった人々をお見舞いされたのです。

 

震災直後に、ご自分のことよりも奉仕団の安否をご心配される両陛下のお姿に日本人として目頭が熱くなる思いです。

 

その後、東京電力福島原発事故による計画停電の際には、天皇陛下自らが支持されて、皇居でも自主的に停電なされたと言います。

被災地の厳しい環境にある国民と、辛苦を共になさろうとするお姿は、まさに国民の父母の如くです。

 

宮内庁は24日、天皇、皇后両陛下が福島第一原子力発電所事故に伴う東京電力の計画停電に合わせ、皇居・御所で15日以降毎日、自主節電を続けていることを明らかにした。

 羽毛田信吾長官らによると、御所では計画停電の第1グループに合わせて自主的に電源を切っている。17、18、22、23日は1日2回実施。東電が停電を見送った場合も実施しているという。

 羽毛田長官によると、天皇陛下からは「大勢の被災者、苦しんでいる人たちがおり、電源すらない人もいる。私の体調を気遣ってくれるのはありがたいが、寒いのは厚着をすればいいだろう」「いつこういう事態があるかわからないし、こういうことはやってみないとわからないから、学ぶ機会ではないか」という趣旨の発言があったという。(asahi.com

皇室への敬愛の念を育てる

このような両陛下のお姿は、皇室が国民を「大御宝」と呼び、とても大切にされてきた伝統を体現されたものです。

このような両陛下のお姿や、皇室が永年に渡って国民を想い労り、辛苦を共にされてきた素晴らしい歴史を、私たち日本人は誇りに思わなければなりません。

そして、子どもたちに伝えていかなければなりません。

 

しかし、学校現場では未だ皇室について触れるのは、タブー視されたままです。

学習指導要領でも、「天皇への理解と敬愛の念を深める」ことが明記されているのにです。

ですから、戦後教育を受けてきた親たちも皇室については無知なままですから、いよいよ子どもたちは皇室について無知で、何も知りません。

知らされていないのです。

せっかく日本人として生まれてきたのに、とても残念なことです。

 

皇室は、我が国の国体そのものであり、建国の神話に遡って我が国が我が国である由縁そのものです。

そう考えたときに、皇室を抜きにした「我が国や郷土を愛する心」などありはしません。

皇室のことを教えずして、真の日本人を育てることはできないのです。

今こそ、天皇皇后両陛下のお姿から、皇室を敬愛する念を深める教育を学校教育でもなすときです。



応援クリックお願いします。

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.110 被災地に流れる「アンパンマンのマーチ」に学べ!

被災地に「生きる よろこび」を


今、人々の心を揺さぶりながら、一陣の風のように被災地を吹き抜けている曲があるそうです。

「アンパンマンのマーチ」

みなさんが良く知っている、あのアンパンマンの主題歌です。

震災後に、地元ラジオでリクエストが相次ぎ、You Tubeでも総再生回数が1300万回を越えたと言います。

 

そうだ うれしいんだ/生きる よろこび/たとえ胸の傷が いたんでも

なんのために生まれて/なにをして生きるのか

こたえられないなんて/そんなのいやだ!

いまを いきることで/熱い こころ 燃える

だから きみは いくんだ/ほほえんで

そうだ うれしいんだ/生きるよろこび

たとえ 胸の傷がいたんでも

ああ アンパンマン/やさしい 君は/いけ!みんなの夢 まもるため

作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし

 

アンパンマンは、子どもたちに大人気のヒーローです。

震災後も、被災地の子どもたちに、生きる勇気と希望を与え続けています。

 

しかし、アンパンマンは、最初から人気があった訳ではありませんでした。

その理由は、ヒーローのくせに、バイキンマンにやられて弱音を吐いたり、お腹のすいた人に、自分の顔を食べさせたりするからだそうです。

その姿がヒーローに似つかわしくない…と敬遠されたのです。

 

でも、今は、そのヒーローに似つかわしくない姿が人気の源のようです。

そんな様子が、歌詞の中に謳いこまれています。

 

「たとえ 胸の傷がいたんでも」

 

アンパンマンの作者で、この歌を作詞したやなせたかし先生も、「アンパンというヒーローは他のアニメのヒーローと違い、いつも傷つくからなんです。バイキンマンに押しつぶされたりして、ジャムおじさんに「助けて」と弱音も吐いたりする。でも作り直してもらうとまた元気に飛び立っていく。そのアンパンが負う傷の全てを「胸の傷」で代表させました。苦しくても傷ついても、ヒーローは人を助けるために飛び立つのです。」と言われています。

 

この歌に謳われた、その自己犠牲の精神が、子どもを勇気づけるだけでなく、大人の心をも揺さぶっています。

そして、被災地だけでなく、困っている東北の人達の為に、胸の傷が痛んでも、また飛び立てるアンパンマンのようなヒーローになりたいと願う、多くの日本人たちの熱い心を燃やしているのです。

 

生きる意味を問うアンパンマン


なんのために生まれて/なにをして生きるのか

こたえられないなんて/そんなのいやだ!

 

この豊かな現代に、生きる意味を見つけられずに彷徨っている日本人がたくさんいます。

子どもから大人までの家庭への「引きこもり」が、予備軍を加えると全国で300万人を越えると言う時代には、大人になっても、なんのために生まれて、なにをして生きるのかを、見つけられない人たちがたくさんいます。

そして、それは子どもたちも同じです。
「何の為に生まれ、そして、何の為に学んでいるのか」分からずに悩み苦しんでいます。
 

そんな生きる意味を失った日本人のために、

「アンパンマンのように皆のヒーローにはなれなくても、家族や友人、身近な人の小さなヒーローになって、大切な人を守ったり、助けたり…そんな生き方がとても大切なことだ」と、アンパンマンは教えてくれています。

 

学校で起きる学級崩壊やいじめは、自己中心的で、我が儘や身勝手な行動から生まれてくるものです。

そして、それを助長させてきたのは、日教組が推進してきた子ども中心主義の教育です。

 

ですから、それを糾せるのは教育でしかありません。

小さくても、勇気を持って、自己犠牲の精神で人を守れるアンパンマンが増えていけば、クラスの中のいじめも、学級崩壊もきっとなくなります。

 

今こそ、教師や親が責任を持って、子どもたちに、

アンパンマンのように「人の為に尽くす」「人の為に生きる」ことの素晴らしさを教えなければなりません。

そして、それは「胸の傷が痛むこともある」という自己犠牲の精神がなければできないことを教えなければなりません。

 

そして「アンパンマンになれ!」と。



応援クリックお願いします。

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.109 日本人の心は、両陛下とともにあることを、今こそ教えよ!

皇居では東日本大震災によって、祭祀を司る宮中三殿でも、耐震補強していない場所で一部、柱がずれるなどの被害が出た。

 震災発生から10日後、3月21日の春分の日に行われた祭祀(さいし)「春季皇霊祭・春季神殿祭の儀」。余震が続いていたことから、宮内庁内では「今回は天皇陛下ではなく、儀式を司る掌典の代拝にすべきではないか」という声が出た。

 だが、両陛下の希望があり、結局陛下はモーニング、皇后さまは洋装で祭祀に臨まれた。通常は着物で臨むが、万一緊急に避難する必要性が出た場合のことを考え、殿上には昇らずに拝礼される「異例の措置」(宮内庁)が取られた。「普段から祭祀にはご熱心だが、震災のこともあるので、ご自身で拝礼されたい思いが特に強かったのではないか」と祭祀関係者は語る。

 宮中祭祀は主なものだけで年間20回余り。通常、祭祀の関係者以外はその場におらず、撮影された写真や映像が国民の目に触れることはない。両陛下は皇居の森の中で、ただ静かに祈られている。(327MNS産経ニュース)

 

 

記紀に残る神話の時代から続く我が国のご皇室には、神によって日本の永遠の統治権が与えられて(天壌無窮の神勅)います。

しかし、歴代の天皇陛下と国民(臣民)の歴史は、決して富の搾取や封建的結びつきの歴史ではありません。

親が子を慈しむように国民(臣民)を愛する天皇陛下と、親のように天皇陛下を敬い慕う国民(臣民)の関係は、相思相愛の共存の歴史です。

 

東日本大震災後の、今上天皇、皇后両陛下のビデオメッセージや災地訪問のお姿からは、国民を慈しみ、被災民を労わるお優しい御心が感じられ、涙がこぼれる思いでした。

そればかりではなく、天皇陛下は、自らの危険さえも顧みることをなさらずに、国民の幸せを願って、宮中において静かに祈っていらっしゃいます。

この御姿こそ、現代まで続く、皇室と国民の姿です。

 

「ご皇室の素晴らしさ」や「宮中祭祀」を教えよ!

戦後教育では、ご皇室の伝統や宮中祭祀について学ぶ機会は薄れてしまい、天皇陛下と国民の距離が遠く離れてしまいました。

しかし、今回の未曾有の大災害は、改めて天皇陛下、皇后両陛下のもとに、日本国民がひとつになる機会を与え、私たちの傍には、常に両陛下がいらっしゃることを肌で感じることができました。

これこそが、まさしく「君民共生」の本来の日本の姿でしょう。

この美しい日本国家の在りようを、学校でも、天皇陛下の国民への深い祈りと、深いご愛情と一緒にきちんと教えていかなければなりません。




応援クリックお願いします。
�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

vol.108 今こそ「教育復興」をなすとき!

教育正常化の抵抗勢力

卒業式に向けて行った、私たちが誇るべき「国旗・国歌」の授業。


東日本大震災直後、卒業式後に、クラスの卒業生たちに話した「我が国を愛し、我が国に貢献せよ。」との訓話。


そして、4左翼思想に毒された授業の挨拶「はじめましょう」「終わりましょう」を、「お願いします」「ありがとうございました」へと変更。

 

これらは、かつて、日教組が国民を無視して強引に推進してきた偏向教育(偏った左翼イデオロギーに染まった教育)から、子どもたちを解放する「教育正常化」の実践です。

 

私の住む地域は、かつて、日教組の組織力が非常に強く、勤評闘争や日の丸・君が代反対闘争などの闘争が激しく行われ、長年に渡って偏向教育がまかり通ってきた地域です。


現在は、日教組から分裂した「全日本教職員組合」(全教)系の「県教組」が依然高い組織率を維持していますから、私たちの実践に対して、強硬な反対や妨害行為などの「よこやり」が入ること、実践後に執拗なクレームがつくことなども、十分に予想されました。

「教育正常化」とは、これら抵抗勢力との闘いでもあるのです。
 

 

「私も実践したいので、資料を貸してほしい」

しかし、その結果は、教職員、保護者、地域を含めて、妨害行為どころか、ただ一つの反対意見さえありませんでした。

反対意見や妨害行為、クレームなどは、皆無だったのです。

 

そればかりか、国旗・国歌の授業実践を聞きつけた本校の教師の中には、「私も実践したいので、資料を貸してほしい」と、私の所へたのみに来たものさえいたほどです。

どのような妨害行為とも、日本人として正々堂々と闘う覚悟を決めていた私としては、正直、肩すかしをくらったような気さえしました。

 

今回の東日本震災後に、石原東京都知事が、

「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。」
と発言して、非難を浴びましたが、
震災後の冷静な行動が、世界中から称賛されたように、
日本人のモラルの高さが世界へ証明されたことや、
復興に向けて「日本は一つ」という雰囲気が国内に出来上がっていく様子を見ていると、
高い代償は払いましたが、今回の大震災が、私たち日本人に「祖国と向きあわざるを得ない」機会や「公」の精神を与えたことは事実です。


私たちの実践への反対意見や妨害行為を封じたのは、結果的には、大きな犠牲を強いた大震災だったのかも知れません。

そう考えると、石原都知事の発言には、大いに頷ける部分があります。

 

教育の世界も今やっと、多くの犠牲の上に、日教組や偏向教育と訣別して、再スタートを切るべき時期がきたと実感しています。
そんな時期だからこそ、地道な教育正常化の実践を積み重ねる必要があるのです。


そして、多くの犠牲者や被災者のためにも、私自身が、「教育復興」の魁で有り続けたいと強く思っています。



応援クリックお願いします。

�����祉�������㏍�井�� ��炊音�����㏍�� 篆�絎����

プロフィール

代表者

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

応援お願いします
記事検索
最新コメント
「最新トラックバック」は提供を終了しました。
RSS
Twitterボタン
Twitterブログパーツ
意識調査1
意識調査2
意識調査3
お問い合わせ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ