学びを忘れた日本人
今から10年程前、「分数ができない大学生」(岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄編 東洋経済新報社 平成11年6月)という本が出版されて、学力低下が大学生にまで及んでいる現状が話題になりました。
その原因は多様ですが、分数は小学生で習い始めることを考えると公教育の質の低下が関係していることは明白です。
その公教育で、子どもへの「教え」を「支援」へとすり替え、ミスリードしてきたのが日教組の「ゆとり教育」です。
「教育の主体は子どもであり、その学びの主体である子どもを教えるのではなく、支援する」のが教育であるという思想です。
ですから、基礎基本の徹底の為の繰り返し教育を「教え込み、詰め込み主義」「偏差値偏向教育」と非難してきました。
そして、「子ども自身が自ら学ぶ」ことに過度な重点が置かれ、教科指導の内容軽減(例 円周率を3とする など)を進めて、大人による「技能や価値観の押しつけ」が極端に避けられてきたのです。
教育の主体が子どもであることに異存はありませんが、しかし、そこには決定的に日本人にとっての「学び」とは何か?、本当の「学び」は何か?という視点が欠落しています。
そのような風潮の中で、日本人は「学び」を忘れてしまったと言えるでしょう。
「学びの忘却」こそが、学力低下の主因なのです。
伝統に息づく日本人の「学び」
かつての日本文化は、悠久の歴史のなか紡いできた「学び」の姿を明確に持っていました。
「守・破・離」という言葉があります。
これは、茶道の大成者「千利休」が茶道の心得を説いた言葉です。(提唱者については諸説あるようです)
「守」とは、基礎基本の法を徹底的に型として身につけることです。頭ではなく、身体がその動きを完全に覚えるまで、徹底して法を繰り返して身につけるのです。
「破」とは、繰り返すことで自然とできるようになった師匠から受け継いだ技を磨き、それに工夫改善を加えることです。ときには、他流の教えを学んだりもします。
そして、「離」とは、師匠の型を離れ、独自の世界観を新たにつくりだすまで、技や心を昇華させることです。
ここへ至って始めて、「学び」は完結し、文化の伝承から、新たな文化の創造へと大きく発展するのです。
この「守破離」の考え方は、武道の多くにもつながっています。
捉え方は少し違っても、現代につながる剣道連盟居合道などでも重要視されている「教え」です。
これは、まさしく日本人の「学び」の基本形です。
基礎基本が身に着くまでは、徹底した繰り返しが重要で、身体が覚えるまで繰り返すことが、次の段階への大切なステップになるのです。
この基礎基本ができずに、自己流で学んだのでは、やがて行き詰まり、破や離の境地へ到達することはできませんし、大成することがないのです。
そのことを日本人は経験則として知っていましたし、その「教え」そのものを文化としてつないできたのです。
「支援」は教育のネグレクト
小学生や中学生は、まさにこの「守」の段階です。
基礎基本を徹底しなければならないときに、「教え」を避けて「支援」に堕してしまい、繰り返しや詰め込みを否定することは、むしろ子どもの可能性を狭めてしまい、子どもの将来の成長へ禍根を残すことになります。
「守」の段階は、自由が認められない人にとって辛い時期と見ることもできるでしょう。
しかし、この時期を経ないと本当の学問の「自由」は手に入れられないのです。
まさに、大学生になっても分数ができないという状態は、学問の「不自由」を強いているのであって、「教育のネグレクト(養育放棄状態)」と言わざるをえません。
極端に言えば、子どもへの虐待行為なのです。
基礎基本を徹底するべき「守」の段階では、その子どもの将来の成長のために、繰り返して詰め込んで、しっかりと「教え込む」ことが一番の課題です。
その段階で、「自ら学ぶ」ことを過度に求めて、「守」のない者に「破」を越えて「離」を求めるごとき教育は、この国の教育を根っこから腐らせることになりかねません。
今やっと、「ゆとり教育」の是正が始まろうとしています。
来年度からは小学校で、再来年度からは中学校で、「脱ゆとり教育」と言われている新学習指導要領が始まります。
私たち教師は、教育者として「学び」の姿を見つめなおす必要があるのです。




