国民教育のススメ ~教育正常化の風~

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家庭教育論

vol.96 携帯電話は、家族の破壊ツール!?

京大不正入試 京都府警が予備校生逮捕

2011.3.3 16:10  MNS 産経ニュース

 京都大など4大学の入試問題が試験時間中にインターネットの質問サイト「ヤフー知恵袋」に投稿された事件で、京都府警は3日、試験問題を投稿したことにより入試という大学の業務を妨害したなどとして、偽計業務妨害容疑で、山形県内の高校を卒業した仙台市内の男子予備校生(19)を逮捕した。

 予備校生は、2日から3日にかけて一時、住んでいる仙台市内の予備校の寮から行方不明になり、山形県の自宅にも帰らず親族から捜索願が出ていたが、3日午前、仙台市内で1人でいるところを宮城県警に発見、保護された。

 府警によると、予備校生は京大や早稲田、立教、同志社の4大学の入試で、問題文を試験時間中に「ヤフー知恵袋」に投稿した疑いがもたれている。

 この問題では、京大など4大学の入試問題が試験時間中にサイトに投稿された。京大では先月25、26日に行った入試で、数学(文系)と英語の問題計8問が投稿され、26日になって問題が発覚した。


若者は『携帯電話漬け』


Yahoo
知恵袋に大学入試問題が流出した問題で、19歳の浪人生が逮捕されました。

携帯電話を使用して、不正を働いたようです。

 

現在、携帯電話の普及率は92.4%(内閣府調査 昨年3月現在 2人以上の世帯)ですが、高校生の所持率を見てみると、96.5%(日本青少年研究所調べ 平成20年)です。

単純に比較できませんが、国民全体の普及率を、高校生の所持率が上回っています。(未成年者は、親名義で契約するので、普及率は把握しづらいようです)

そして、そのうち13時間以上、メールやネットなど携帯電話を使用している高校生が、3割もいるというデータもあります。

日本の子どもたちは『携帯電話漬け』です。

 

Benesse教育研究開発センターの調査によると、親が子どもに携帯電話を持たせる理由の1位は、「親子で連絡を取るのに便利である」です。

子どもが成長するにつれて、学校や習い事など、親の手元を離れる時間や、遠方へ離れる機会が増えますから、そんな時に親子で連絡を取り合うのには大変便利な道具です。

 

しかし、「いつでも連絡が取れるから…」という理由で、日常の会話がおざなりになったり、一緒に食事をする機会や家族の団欒が持てなくなってしまっては、家族のコミュニケーションを高めるはずの携帯電話が、家族破壊のためのツールになってしまいます。

その上、家族で同じ時間を過ごしていても、各々が勝手に携帯でメールやネットをしていては、同じ家に住んでいても、バラバラで、家族とは言えません。

 

携帯電話は「家族破壊ツール」


今回の事件からも、若者の携帯電話依存による人間関係や家族関係の希薄さが見えてきます。

この少年は、センター試験で失敗した時も、ネットに精神科医の紹介依頼を載せていたそうです。
もし、
19歳の少年に、携帯電話のネット以外の豊かな人間関係や、幼いころからの濃密な家族関係が育まれていれば、今回のように善悪の判断を誤ったりはしなかったでしょうし、周囲の誰かが止めることができたはずです。



人は、人間関係(社会と言い換えてもいいですが)の中で成長していきます。

善悪の判断や、道徳心、マナーといったものも、人間関係の中で育まれていきます。

そして、その基本となるのは、濃密な家族関係です。

かつての日本人が、世界で最も礼儀正しいと評されたのは、貧しくとも互いに支え合う濃密な家族関係があったからこそですし、そこには、日本の保守すべき家庭像があったのです。

 

今やそんな伝統的家庭像は崩壊しています。

核家族化が進み、個人主義が蔓延る現代では、携帯電話の遣い方を誤ると、それは『家族破壊ツール』や、善悪の判断すらできなくなる『子どもの心の破壊ツール』になるということを、大人がしっかりと認識することが大切です。

そして、かつての日本の家族のように、貧しくとも肩寄せ合って支え合う温かい家庭を築くには、子どもに携帯電話を与える必要はないことも知っておくべきでしょう。

vol.86 「孫の教育は奉公なり」 かつての日本の家庭教育観 ~武士の家計簿より~

武士の家計簿

武士の家計簿~「加賀藩御算用者」の幕末維新(磯田道史 著)という本をご存じのことでしょう。

加賀藩御算用者の猪山家に残された古文書を紐解き、幕末から明治維新を生きた武家の姿を明らかにすることを試みた磯田氏の労作です。

藩政期から明治にかけて、生活苦から借金を重ねながらも、懸命に武家としての家格を守り抜く武家の悲哀と、明治維新という激動の時代を生き抜く武家のしたたかさが良く分かる良書です。

 

猪山家は、武家の中では身分的に恵まれてはいませんでしたが、幕末の頃の当主、猪山成之が、政治の中心となった京都に加賀藩兵を駐留させるための兵站事務をつかさどるために京へと登り、大活躍しました。

その活躍が認められた縁で、大政奉還の後は、新政府の「軍務官会計方」に任用され、後には「海軍掛」として日本海軍の会計を担当することになります。

こうして、猪山家は、没落していく多くの士族を尻目に、新政府に出仕することができた「勝ち組」士族となったのです。

 

孫の教育が我等の奉公

兵部省に出仕した成之は、妻子と年老いた両親を金沢に残して東京で単身赴任します。成之は几帳面な性格で、家族思いですから、頻繁に家族と手紙でやり取りをしました。

 

その中に、明治5年に父直之から成之に宛てられた手紙があります。

「(孫)の綱太郎はじめの成長を念じて、『大学』の一字をも教え、また強情を叱り、あるいは遊び相手になるだけです。」

「これら(孫への教育)が「当今、我等の奉公」と心得て居るところです。」

 

直之は、孫の教育が「公」に通じる道であることをよく自覚していました。

藩政時代を生きてきた武家の「奉公するべき対象」は、華族になってしまったものの旧藩主の前田家であったのかも知れませんが、明治維新の後の直之にとっては、すでに新国家が奉公の対象だったのかも知れません。

いずれにしても、直之にとって孫を教育して立派に育てることは、公の作業だったのです。

武家にとっては、愛する我が子の幸せを願いながらも、先祖から受け継いできた「家」の発展を託して、子を教育します。

そして、立派に育った子が、「家」を背負って主家や国家の為に奉公するのですから、子育てとは、まさに「奉公」そのものだったのです。

 

家庭教育とは社会貢献

しかし、現在の家庭では、「我が子の為」だけに教育があるかのようです。

とにかく我が子に学力をつけて、一流の高校や大学へ進学させ、立派な会社や役所に勤務できるようにすることが、親の教育の唯一の目標になってしまっています。

 

かつての日本人が持っていた「奉公」という感覚を、現代の言葉に置き換えると「社会貢献」ということになるでしょうか。

そういう言葉で表現するなら、現代の親には、「我が子の教育は、親としての社会貢献」だという視点が決定的に欠落しています。

ですから、我が子のことばかりに目が眩んで、学校へとんでもない不当要求を突き付ける「モンスターペアレンツ」なるものが生まれてくるのです。

 

我が子は、いずれ社会の担い手になります。

その子が親の施す「英才教育」によって社会的成功を収めるとすれば、いずれ社会に大きな影響力を及ぼす人材となります。

その時に、人心を忘れ、利をむさぼり、挙句、他者を蹴落として成功者として成りあがったとしても、決して幸せな人生を歩むことなどできません。

 

我が子が可愛いからこそ、親にとって稀有の存在だからこそ、「人さまや社会、国のお役に立つ」ことを、幼少の頃からしっかりと子どもの心に植え付けておかないと、結局は我が子の幸せすら奪ってしまうことになりかねないのです。

かつての日本人は、我が子の教育を(社会・国家への)「奉公」だと思って、我が子に真摯に向き合ってきたという事実を、多くの方に知ってほしいと思います。

vol.67 「食育」は、「愛国心」を育む源!

コンビニおにぎりで昼食を済ます中学生

was0018-039_m私が勤務している地域の中学校では、給食ではなく、お弁当の学校が多くあります。
忙しい親はなかなか弁当がつくれなくて、コンビニのおにぎりや弁当を買ってくる子どもたちがいます。
「つくらなくていい」と、わざわざ手作り弁当を断って、コンビニで済まそうとする生徒さえいます。


『コンビニの買ってはいけない食品 買ってもいい食品』(渡辺 雄二 著 大和書房)によると、コンビニのおにぎりには、ご飯が製造機械に付着するのを防ぎ、また保湿や保存のために植物油(ナタネ油やコーン油など)が混ぜてあるそうです。

そして、どのおにぎりにも入っている「pH調整剤」は、酢酸やクエン酸などの酸がほとんどで、殺菌効果があり、保存性を高めることができるそうですが、口や胃の粘膜を刺激するものがあるそうです。
また、グリシンも保存性を高める働きがあり、味付けの目的でも使われますが、鶏やモルモットに大量にあたえると、中毒を起こして死亡することもあると言います。
このように多くの添加物が含まれる(危険な)食品で、お昼を済ます子どもたちがいるのです。


食の乱れが、心の乱れを生む

1975年にアメリカの小児科医ベンジャミン・ファインゴールド博士が、過度に活動的で過敏で、落ちつきがない、すぐ興奮する、反抗的ですぐいら立つ、衝動的で自制心がない、飽きっぽいなどの傾向をもつ子どもたちに共通の原因は、日常に糖分や着色・着香料などの食品添加物の多い加工食品をとりすぎているからだと指摘しました。

現代では、食品添加物の危険性は、かなり周知されてきましたが、ついついコンビニの便利さに負けてしまいます。
日本は、コンビニだけでなく、ジャンクフード店も盛況で、お金さえ払えば、いつでもどこでも、食べたい時に食べたい物を食べれる便利な時代に慣れてしまったからです。

しかし、便利になってしまったゆえに、母親の愛情いっぱいの手料理を味わう機会が減ってしまっては、子どもにとっては不幸です。
「便利」さの裏には、多くの危険が隠れていることに大人が気付くことが大切ですし、子どもたちにきちんと教えなければなりません。


「郷土を愛し、我が国を愛する心を育てる」教育の源

was0005-009_m食生活を正すキーワードは、「手作り」「伝統的な食文化」「地産地消」です。
長い年月、主食にしてきたお米と、味噌や醤油など伝統的調味料によって味付けされた、地元で採れる伝統野菜や魚介類などが、子どもたちの体にはもっとも適している食材です。
それらを愛情たっぷりの手料理で、満遍なく食することが、子どものたくましい体だけでなく、豊かな心を育てるのです。

そして、家庭で、日本の伝統的な食文化を継承し、子どもに郷土の産物に好感と誇りを持たせながら育てることが、郷土を愛し、この国を愛する心を育てる教育の源そのものです。

「子ども手当」も結構ですが、その手当で、親が昼食だけでなく、頻繁にコンビニ弁当を子どもに与えているとしたら…「子ども手当」が、「子育て阻害手当」になりかねません。
子ども手当も、財源以上に、その理念が問われています。
本当に、子どものため、子育ての支援になる…施策を期待したいものです。

vol.62 ソフトバンクCMは日本家庭の崩壊を狙っている!?

白戸家の人々

ab5db658fbff3fe2CM総合研究所発表のデータでは、
『昨年度にオンエアされた全1971社の中で、CM-Branding評価・No.1企業に輝いたのは、ソフトバンクモバイルとなった。』そうです。
ソフトバンクのCMと言えば、白い犬をお父さんにした「白戸家」シリーズが有名です。
白戸家は、父親が犬で、兄が黒人、母と妹、祖母が日本人という奇天烈な家族構成ですが、この家族構成が人気だと言います。


犬とは蔑視の代名詞

近年のペットブームで、「ペットも家族の一員である」と思う人が増加しているとは言え、犬と言えば、世界共通で蔑視の際の代名詞として使われます。
日本でも、「〇〇の犬」と言えば、命令には従順だが、自ら考えることのできない単細胞のことを表す言葉です。
イスラムの世界では、「犬よばわり」することは、何よりも最大の侮辱とされています。
昨年には、米国のコメディー映画の中で、エジプトの故サダト大統領(イスラエル和平の功績でノーベル平和賞を受賞)にちなんだ「アンワル・サダト」と名付けられた犬が登場することに、サダト大統領の娘ロカヤさんが「侮辱だ」と激怒して、エジプトで訴訟ざたにすらなりました。


パロディーは、その対象に権威があってこそ

日本では、犬を父親に模したCMが高感度が良いというのですから、驚きです。

このCMには、明らかに、男性を貶めて、かつ父親の権威を揺るがし、家庭崩壊を企む意図が見えているようです。
ちなみに、お父さんの職業は、中学校教師だそうですが、その学校の校長先生は、母親で、学校でも、家庭でも頭が上がらないのです。
この設定にも、フェミニズムに毒された黒い意図があると思えてなりません。

家庭の中の父親の存在がゆるぎない時代であれば、パロディーとして面白いという感覚は分かります。
しかし、戦後の家庭での父親の存在や威厳は、明らかに低下していますし、その影響で日本の家庭が崩壊している現状は、以前にも書きました。
その結果、子どもが育つ環境が、悪化しているのです。

パロディーで、父親を犬と表現して笑いが起こるほど、日本の父親の威厳は確固たるものではありません。
むしろ、このようなCMを見た子どもたちが、まだ僅かに残る父親への畏敬の念を失墜させる危険性があるのではないかと、教育者としては懸念するのです。

マスコミが画策する「家庭崩壊」

こうやって、意図するかどうかに関わらず、マスコミは、戦後の日本の家庭を壊してきました。
家庭の崩壊は、子どもの安住の地の崩壊を意味しますし、学びの場の崩壊に繋がってしまい、成長の場を阻害されることになります。
表現の自由が担保されている日本社会ですが、家庭や社会秩序に反するような表現を、何でも垂れ流してよいと言う訳ではありません。
まずは、こういった表現に
親として、大人として、「No!」の意思を明確に示しましょう。
大切なものを守るには、時として闘う意思も必要なのです。

vol.57 深い愛情が子どもの心を燃やし、「大志」を育てる!

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母の想い

雄々しくも 君に仕うる もののふの
      母ていふものは あわれなりけり  (有村連寿尼)

(男らしく、自らの命を懸けて君に仕える武士の母と言うものは、その意味が分かっていても 大変哀しいものです)

連寿尼とは、もちろん出家後の名で、本名は有村れんです。
彼女は、安政6年(1858年)に江戸城の桜田門外の変で、幕府の大老・井伊直弼を籠から引きずり出して首を撥ねた薩摩藩士・有村次左衛門の母です。

この有村次左衛門は、このとき彦根藩士の刀で重傷を負い、力尽きて自刃しています。
享年21歳でした。
そして、次左衛門の兄・雄助は、弟らの井伊直弼暗殺に呼応して仲間らと京都・大阪での挙兵を企てましたが、幕府に遠慮した薩摩藩に捕らわれて、帰郷させられた後、僅か26歳の若さで自害させられました。
その立会には、母れんの姿があったと言います。

このように、連寿尼は、ほぼ同時期に可愛い吾子を2人も失っています。
雄助の自刃には、武士の母として見事に立ち会いました。
この歌には、そんなれんの武士の母としての気丈さと同時に、吾子を失った悲哀さと、吾子への深い愛情が切々と込められています。


母の愛情が育てたもの

岩が根も 砕けざらめや 武士(もののふ)の
        国の為にと 思ひ切る太刀 (有村次左衛門)

(硬くて切れないと思える岩でさえも砕けろと、もののふである私は、国の為に太刀を振るって闘おう)

母の悲哀さとは裏腹に、彼の歌からは、国を思う強い想いと情熱が溢れ出ています。
この歌は、井伊直弼の襲撃に向かう直前に詠まれました。
きっと、彼は、我が身の危険を顧みることなく、国の為にと義憤に燃え、桜田門外の変へと突き進んでいったのでしょう。
そこには、一片の迷いも躊躇も感じられません。
ちなみに、この有村次左衛門の長兄は、薩摩の代表的な志士の一人であり、明治期に活躍した政治家の海江田信義(貴族院議員)です。

dappannomitiこのように三者三様でしたが、兄弟皆が国を憂いて活躍した有村家の息子たちを育てた母が、いかに偉大で愛情深い女性だったか想像されます。
吾子が国難に命を奪われようとは思わなかったでしょうが、母れんの中では、幼いころから、彼らへの溢れんばかりの深い愛情が注がれ続けられたのでしょう。
だからこそ、彼ら兄弟は、自分の信じる道を疑いもなく、ただ純粋に、真っ直ぐに歩んでいったのです。


豊かな愛情が「大志」を育てる

家族の深い愛情に包まれた子どもはすくすくと、おおらかに、のびやかに育っていきます。
そして、やがてその少年は、家族を越え、郷土を越えて、大海に乗り出し、国を想って、「大志」を抱くようになります。
それは、父や継母、兄や姉の深い愛情に育てられた坂本竜馬を見ても然りです。

家族からの絶対の愛情に支えられているからこそ、我が身を犠牲にしても、国の為に、人の為に命を懸けても尽くそうと思う、「大志」を抱くのです。
深い愛情を注がれているからこそ、その愛情に応えようと、家族のため、郷土の為、祖国の為にと奮起しますし、その気持ちが自らを高めるための「学ぶ」意欲となるのです。
大志を抱き、「学ぶ」意欲を育てるのは、父母はもちろんのこと、祖父、祖母、兄、姉など、家族からの深く豊かな愛情です。


戦後教育は、「進歩的家族」などという虚構を信じて、家族の絆を破壊し続けてきました。
その結果が、学習意欲や学力の低下であり、家庭崩壊であり、児童虐待の原因であるということは以前から指摘した通りです。

今こそ、我が国は、家族の絆を取り戻さなければなりません。
閉塞感に覆われた国家再建に為には、有村兄弟のように、憂国の志に燃えた有為な人材の育成が欠かせません。
「学ぶ」意欲に長けた生徒の育成が大切なのです。

そのためには、まず家庭再建こそが急務です。


vol.51 「子育て」から見る徳之島(米軍移転)問題

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pla0041-033_m普天間基地移転問題が混迷したまま、首相が決めた5月末の期限が刻々とせまり、虚しく日が過ぎています。

そんな情勢の中、沖縄の市議らが徳之島を訪問して直接交渉を試みましたが、徳之島では面会拒否など、交渉のテーブルにすら着いてもらえなかった様子がTVで報道されていました。

生活を脅かす米軍基地は、面会拒否されようとも訪問するほど、それだけ沖縄の住民にとって切実な問題なのです。
それなのに、新たな問題を提起したことは評価されても、それを期限が迫るまで無作為に放置してきたとしか言えない首相の無責任さに心を痛めます。

ところで、海兵隊の訓練一部移転の候補地と言われている徳之島の3つの町は、本年1月に発表された出生率で、全国ベスト3を独占しました。
トップの伊仙町の出生率は実に2.4。
天城町・徳之島町も2.1を超え、深刻な少子化問題が進む日本全体の合計特殊出生率1.31の2倍に迫るこの数値が示すように、まさに徳之島は「子宝の島」です。
そういう意味では、徳之島は日本の宝です。

決して経済的に恵まれていないはずの徳之島が、高い出生率を誇るには様々な要因があるのでしょうが、その一番の要因は、地域による「子育て力」だと聞きます。
子どもが生まれると、地域を挙げて子育てを手伝うのだそうです。


地域の子育て力の低下が叫ばれて、随分と時が立ちました。
しかし、未だ子育てをする親の孤立化が進み、児童虐待などの悲惨な事件が後を絶ちません。
個性尊重を重視した戦後教育は、利己主義を増長させて、確実に我が国のコミュニティーを破壊しています。
そして、それは「無関心」という恐ろしい形で、子育ての現場をも確実に侵食しています。

kid0072-022_mそうと知ってか、知らずか、政府は、子育てのコミュニティーが日本で最も色濃く残されており、在りし日の日本の子育てを守ってきた徳之島を移転先にと考えているようです。
出生率の高い徳之島は、ある意味で日本の子どもたちの楽園です。
そして、伝統的な日本の子育てのモデルとなる大切な地域です。

大人たちに、子どもの楽園を守ることの大切さに気付いてほしいと思います。
もちろん安全保障は我が国の重要問題ですし、沖縄の負担軽減も大切ですが、わたしたちが保守すべきは、地域ぐるみの日本の在りし日の子育ての姿です。

国家に保守すべき理念が無ければ、沖縄の負担軽減策が、しいては我が国の子育て力の低下へとつながり、我が国の落日の姿への加速装置になってしまうのではないかと危惧します。

vol.49 家庭教育論 ~父の教え~ 民俗学者 宮本常一博士 

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lsh0010-009_mかつての家庭は、「三つ子の魂百まで」などの教えを次世代に伝え、格段の愛情を注いで献身的に子どもを育てました。

それは、親がその親(祖父、祖母)から受け継いできた家庭教育そのものです。
学問的かどうかは別にしても、生きる術や世の中の大切な価値観など、学校教育では学べないことでしたし、子どもが生きていく上ではとても大切な教えでした。

大正14年、山口県周防大島の農家出身の宮本常一少年が、大阪の逓信講習所へ入学するために郷里を離れるときに、父善十郎氏が次のような10の教えを手紙に書いて少年に伝えました

(1)汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

(2)
村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

(3)
金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

(4)
時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

(5)
金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

(6)
私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない、すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

(7)
ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

(8)
これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。

(9)
自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

(10)
人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。

宮本少年は、逓信講習所卒業の後に大阪で師範学校へと進み、学校の先生を経て、柳田国男と肩を並べ日本を代表する程の民俗学者の一人になりました。

宮本常一(文学)博士の才能を見出し、世に出したのは、柳田国男や渋沢栄一の孫で財界人であり、民族学者としても顕著な功績を残した渋沢敬三らでしたが、その基礎を作ったのは少年期の父による薫陶、まさに家庭教育だったのです。
この教えには、父の宮本少年への愛情が溢れんばかりに込められています。

宮本博士の論文は、実際に足で集めた詳細なデータをもとに、生活者からの観察眼や庶民の観点で書かれており、民具に着目するなど、現在も高く評価されています。

それは、まさしく父の教えに忠実に生きてきた博士の生きざまが学問として結実したと言えます。

 

世に名を成す人物の多くの生き様には、親から受けた教育(薫陶)がしっかりと根付いています。

家庭での教育が、その子どもを一生涯に渡って幸せにするかどうか決めると言っても過言ではありません。

 

 

家庭教育とは、親がその親から受け継いだ教えが基本です。
そういう意味では、家庭の伝統を重んじた家庭教育は、保守思想そのものです。
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しかし、以前から書いているように、戦後の学校教育では我が国の伝統的教育は否定され、左翼的なイデオロギーに侵された教育こそが進歩的だと称賛された結果、戦前と戦後で家庭の伝統的な教育が分断されています。

現在の親は、ほとんどがすでに戦後教育を受けた祖父、祖母に育てられていますから、もう家庭には日本の伝統的教育が存在しないのかもしれません。

 

ですが、新たに学び、伝統的な教えを現代版として再生することは可能です。

教育とは、人類が得てきた真理や叡智を子どもたちに授けていくことですから、本来保守的なものですし、先人の経験や叡智から学ぶべきです。


そのことを忘れずに、世間に溢れる価値観に振り回されることなく、親が大いに学ぶことができれば、宮本先生の父上のように子どもの将来の指針となる教えを伝えられると思います

vol.47 家族崩壊を食い止めろ!

kid0076-009_m日本中で家族を巡る様々な事件が起きています。
児童虐待など、親による子殺しがあるかと思えば、子どもによる親殺しやDVに、夫婦間での殺傷事件…と、連日報道されるその凄惨な事件に心を痛めます。

私の教員経験では、問題を抱える子どもたちは、多かれ少なかれ家族間での何らかのトラブルを抱えています。生徒の健全育成を願う教師にとって、家族関係の希薄さは切実な問題です。


家族精神医学者の小比木啓吾氏は、家族を次のように類型化しています。(『家族のない家庭の時代』ちくま文庫 )。
◎コンテナ家族 : 容量が大きく、社会のストレス、不満を持ち帰っても、それを受容し癒してくれるような家族。
◎ホテル家族 : みんながそれぞれにお客のつもりで、サービスされることだけを求め、他人のために汗を流そうとしない家族。

この類型で見ると、夫婦間や親子間で「してもらうのが当たりまえ」と考えているホテル家族が年々増えているように思います。
ですから、思い通りのサービスでないと相手を攻撃して、凄惨な事件が多発するのでしょう。


ところで、『フェミニズム事典』(明石書店)では、
「家族は、家父長制と女性に対する抑圧を存続させる主要な制度である」と定義しています。

フェミニズムとは結果の男女同権(平等)を是とする考え方で、西洋から日本に持ち込まれた思想ですが、「女性の家庭からの解放」という産物とともに、今日の家庭の崩壊を生む原因となりました。

終戦後、民法改正によって廃止された家父長制とは、法律で必然的に家族(一族)のリーダーを明確にするものでした。
この制度が廃止されたのは、もちろんGHQによる日本の家庭崩壊が目論まれてのことでした。

「リーダーが明確」であることは、円滑な家庭生活や家族の一体感を保つためには必要なことです。
しかし、戦後はそれが疎かにされて、家族それぞれが対等(平等)で、各々の考えで身勝手に生活している家族が増え続けています。
そして、夫婦ばかりか親子まで、家族全員が同権(結果的平等)で、親子間の区別さえつかない家族も増えています。

家庭訪問や学校での三者(教師、保護者、生徒)面談中でさえ、
親に対して、「お前!」や「〇〇〇!」と呼び捨てたり、悪態をつく生徒たちの様子を見ると、かつての美しい家族の在り方の崩壊を感じずにはいられません。

また、戦後の学校教育には、「資本主義が女性を抑圧している…」と資本主義からの解放を目指した「マルクス主義フェミニズム」が、「人権教育」の仮面を被ったまま日教組によって混入されました。
これらのことで、父親と母親の役割は曖昧になり、家族のリーダーが不在になったばかりか、「女性が家庭を守る」という伝統的家族観が否定され、経済的発展とは裏腹に日本の家族制度は崩壊し、家族関係が希薄化てきたのです。

kid0075-009_m家庭は、地域社会だけでなく、国家の礎となる最小単位の集合体組織です。その組織が破壊され、家族がバラバラで浮遊したままでは、我が国の発展も、子どもの健全育成もありはしません。

そして、家庭(親)は、子どもの教育の第一義の責任者です。
そのことを考えると、偏った思想を排除して、日本の家庭の在り方や家族との絆を問い直す作業は、子どもの健全育成とともに、日本の輝かしい未来的発展に向けて、避けて通れない作業です。

家庭の再生や家族の絆の再生こそが、真の教育の再生であり、日本再生の道なのです。



vol.43 児童虐待の犯人を暴く

kid0068-009_m 子どもへの虐待事件が後を絶ちません。
今日も札幌で20歳の父親が生後4か月の二男の頭を揺らして暴行したとして逮捕されたとの新聞報道がありました。
虐待で親が逮捕された…という記事を読まない日が何日あるのでしょうか。

 平成12年5月に「児童虐待の防止に関する法律」(児童虐待防止法)が施行され、児童相談所や警察、学校など、関係機関を挙げてその防止に努めていますが、効果があがらず、次々に犠牲になる子どもたちの話を聞くにつれ、この国はどうなってしまうのかと不安になります。

 まともな子育てができない親たちが増えている背景にはいったい何があるのでしょうか?
 まずは、親になるための教育を受けていないことです。
学校では、「子どもをつくる(つくらない)方法」(性教育)を教えても、子どもを育てる方法は教えません。家庭科でわずかに保育について学びますが、親としての子育てを教えるわけではありません。
 まして、戦後教育では、個性尊重ばかりが重視され、我儘が助長される教育がなされてきましたから、本来の親が持つ、子どもへの「自己犠牲」の精神が宿ることはありません。
 
 そして、学校教育では、「父親が外で働き、母親が子どもを守り、育てる」という、かつての家庭制度が否定されて、共働きを推奨するようにジェンダーフリーや男女同権など、外来思想が闊歩しています。
 教師たちは、子どもたちの自己実現のために学力をつけ、進学を勧めますが、将来結婚して幸せな家庭を創造し、子育てをすることを自己実現の目標として与えません。
それは、女子であっても、男子と同等若しくはそれ以上の学歴と社会進出こそが、自己実現の唯一の方法であるかのように教えてきたからです。そして、家庭や夫、子どもは、女性の自己実現を妨げる障壁であるかのように教え、かつての日本の家庭の在り方は女性を家庭に縛りつけるだけの愚かな因習で打破すべきであるというような教育が、進歩的だとされてきたのです。

 かつての少女の夢には、「素敵なお嫁さん」「優しいお母さん」があったはずです。しかし、今そんなことをいう女子生徒に出会うことは困難です。

 確かに、女性の社会進出が目覚ましい現代において、女子に社会進出の夢を持たせることは大切です。もちろん、男女の性差に人間としての違いはありません。
 しかし、男女の性差には、子育てにおいても決定的な役割の違いがあります。父親が家事に参加するかしないかというような浅はかな違いではなく、授乳して子どもを慈しみ、受け入れ、抱きしめられるのは母親の特権ですし、子どもはその深い愛情に包まれてこそ、自立に向けて成長していけるのです。
 昨今、「~な子どもの育て方」など、子育てHOW TO本をよく見かけます。しかし、子どもはHOW TOで育つわけではありません。親の考え方、大げさに言えば思想、何を本当の幸せを感じるか…という考え方が大切ですし、子育てへの喜びが不安定では、良い子は育ちません。

 家庭教育ではもちろんですが、学校教育でも、女性教育は実はとても大切にしなければなりません。
幕末に来日した外国人が、日本の子どもたちの姿を見て、「貧しいが、これほど幸せな顔を見せる子どもは世界中にいない」といった、日本の姿を取り戻すためにも、
社会が子育ての大切さを再認識し、子どもたちに、子育ては実はとても楽しくて、社会貢献の中で最も価値があり、自己実現の有効な方法であることを教えていくことが必要です。蛇足ですが、それを支える父親の存在を教えることも見落とせませんが…。

 最後に指摘しておくと、戦後このような教育を推進してきたのは、左翼思想に冒された日教組です。そういう意味でいうと、児童虐待の真の犯人は、日教組だということもできるのです。

vol.38 「罰が当たる」ことを教えることの大切さ

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「罰があたる」という言葉を教育界では聞かなくなりました。
かつては、何か悪いことをすると「罰があたる」とよく言われたものです。

 戦後の教育界では、旧教育基本法が触れた「真理」の解釈が科学的真理の追究にばかり偏り、迷信や神話など非科学的なものは教育界から消えていくことになりました。
 
 そして、同法第9条の「国及び地方公共団体の設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」との規定が過大に解釈されて、宗教的概念すらも学校から排除されることになりました。

 このことは、宗教というよりも既に日本の文化の根幹となっていた「神道」や「仏教」も宗教のひとつとして否定される結果になりました。そして、マルクス主義が学校現場を席捲し、宗教を否定する「唯物主義」が混入したり、「個人の心の自由を奪う」として道徳教育を否定した日教組が心を育てることを否定したことも、戦後日本の教育にとっては大変不幸なことでした。

 このような背景の中、子どもたちは、宗教的な涵養(しみ込むように養い育てること)を受けることなく個人主義で教育されたのです。ですから、何か悪いことをすると「罰があたる」という宗教的概念は教育界から抹殺されてしまいました。

 「天罰」や「仏罰」「神罰」など、人智を越える偉大な力によって「罰」を与えられると思うことは、人智を超える存在に生かされていると教えるにはとても大切なことです。それが、本当に生きるということであり、命を大切にすることなのです。

 DNA解明の世界的権威で筑波大学名誉教授の村上和雄先生は、この未知なる力を「サムシンググレート」(偉大なる何者か)と呼ばれています。遺伝子を解読して研究すればするほど、生命の仕組みはとても不思議で、生命の創造には偶然では片づけられない人智を超えた偉大なる何かを感じられるのだそうです。
 まさしく、科学的真理の追求の先には「サムシンググレート」が存在しているのです。

 かつての人間は国籍や人種を問わず、それを「天」や「神仏」として感じてきたのです。ですから、人道を外す行為は、どのような「神」や「仏」を信仰しようとも、罰を与えられると恐れることで自らを律してきたのです。日本人は、それらを「お天道様」とも呼んでいました。
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 ですが、戦後教育はそれら全てを「宗教」というひとくくりで否定し、個人が宗教から自立(決別)することを促してきました。
その結果、「自分さえ良ければいい」という利己主義が闊歩する現代の日本が造られてしまったのです。日本人の心は荒廃し、利己主義は大人の心さえも蝕み、学校では子どもたちの荒れとなって表出しています。

 
 1980年代にかけての英国でも、「英国病」と称された暗黒の時代がありました。公立学校でも、荒れや学力低下が問題となり教育改革が喫緊の課題になりました。当時の英国の中学生は「名前も書けずに卒業している」と言われたのです。
 その時、保守党の鉄の(女)宰相と呼ばれたサッチャー首相(当時)が行った教育改革の原点は、国教である「キリスト教」に基づいた宗教教育による心の教育と労働党政権下で続けられていた自虐的な歴史教育の見直しでした。
 やはり、教育の荒れの背景には、子どもたちの「サムシンググレート」を受け入れず自己を律する術を持たない姿と自国に誇りがもてない姿があったのです。
 英国は、この改革を「1988年教育改革法」の成立によって見事に結実させ、その後急速な公立学校の立て直しと、子どもの学力向上を果たしました。

 このように「罰が当たる」という言葉には、日本人だけでなく、世界に共通する人間の叡智が隠されています。
 わが国でも、祖先が保守して大切にしてきた「罰が当たる」ということを教育の中で教え、宗教的涵養を図る必要があります。

 

vol.32 自存自立の精神を子どもたちに。

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 今の教育でどうしても疑問に思うことがあります。

 単純な「戦争反対論」についてです。
 もちろん、戦争は起こさない方がよいですし、避けて通るためにはどんな努力もするべきです。
 しかし、不可避な闘いもあるのではないでしょうか。自存自立のためには、刃を持って立ちあがることも必要なのではないでしょうか。

 なぜ、こういう話をするかというと、単純な「戦争反対」では、自立できない子どもたちを増やしてしまいかねないと思うからです。
「戦争」というと、誤解を招きますので言い方を変えましょう。
 単純に「けんかは絶対悪だ!」
(大きいな意味では戦争も国家どうしのけんかですから)
と教えると自立できない子どもたちが増えてしまうような気がしてならないのです。

 子どもの場合は、「けんか」は時として友情を育む大切な要素になることがあります。殴り合って、友情がより深まるということを経験するとよく分かります。
 もちろん、自ら相手を屈服させるように仕掛けるけんかはダメです。
 
 しかし、「けんか」は全てダメだと教えるとどうでしょう。
相手にどのような仕打ちをされても、黙って耐えるか、相手の機嫌を取るか、もしくは、相手に従属せざるを得なくなります。soccer

 例え、力が及ばなくても相手に立ち向かってみることに意味はあるはずです。暴力がいけないというのなら、言葉や態度で「けんか」することだってできるはずです。相手がそれで許してくれなくとも、心さえ従属しなければ負けたことにはなりません。

 人には、「力」を使って良い時があるはずです。
それは、自分自身の尊厳を侵されたときと、人の尊厳を守るときです。目の前で、自分自身や大切な仲間や友人が理不尽な目にあっているのに、闘う姿勢を持てないようでは、それは「卑怯な」振る舞いです。

 かつての日本人は、子どもに「けんかは何があってもがダメだ」と教えませんでした。「やられたら、やり返してこい」という頑固おやじがいたものです。ですから、子どもたちもそうそう簡単には、負けるわけにはいかなかったのです。そう言う意味でも、いじめが深刻化しづらかったのかも知れません。

 これは、やはり大人の考え方が違ったのだと思います。かつての日本人は、我が国が自存自立するためには、「闘い」も辞さない覚悟を持っていました。そうならないように最大限の努力を払っても、どうしようも無い時は、命をかけて闘う心意気を持っていたのだと思います。だから、子どもにも単純に「けんかは絶対にいけない」などと言いませんでした。

 今、我が国も同じ問いを向けられています。自存自衛の覚悟がわたしたち大人にあるでしょうか。誰かが守ってくれると淡い期待を抱いていないでしょうか。誰も攻撃などしてくるはずはないと、現実から目を背けていないでしょうか。
 そして、誰かに守ってもらいながら、「戦争は何があってもしてはならない」と子どもに教えていないでしょうか。

 子どもたちは、どの子も大人の欺瞞を見抜く素質をもっています。
正しく生きる道を示すべく、まずわたしたち大人が、精神的だけでも自立することから始めるほかありません。





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