国民教育のススメ ~教育正常化の風~

「愛国心こそが教育再生のキーワード」 現職公立中学校教諭が、左傾化し続ける教育現場の危機感から、教育正常化を通して日本再生を考えるブログ。保守ブログ相互リンク募集中!

資料集(道徳編)

vol.154 「坂本竜馬に学ぶ本当の勇気」(中学生用道徳資料)

大津で起きた中学2年生の自殺事件。
地域は違えど同じ教育者としてなぜ防げなかったのかと、心から悔やまれます。

生徒たちは、現実に攻撃的な言葉をつかいます。
そして、表面的な指導だけでは改善していかない現実があります。

その内面に届く言葉を…との思いから、
以前に紹介した「坂本竜馬から学ぶ道徳心」を中学生用資料に書き直して、生徒たちに読み聞かせました。


道徳資料(中学生用)

「うっとうしい!」

「黙れ!」
「死ね!」

教室で、相手を攻撃するそんな罵声が飛び交っています。

些細なことで始まったいさかいの中で使われるこれらの言葉には、相手への尊敬や感謝などまったくありませんし、相手を気づかう優しさの微塵も含まれていません。

 

中学校にもなれば、これらの攻撃的な言葉をなぜ発してしまうのか…少し冷静になって考えてみなくてはなりません。

自分に自信がないので少しでも他人に自分をよく(強く)見せようとすることを「虚勢を張る」と言いますが、先ほどの攻撃的な言葉の裏側には、それを吐く人の人間的な弱さ、未熟さ、幼さが隠れています。


「ゆく春も 心やすげに見ゆるかな 

花なき里の 夕暮れの空」


この和歌は、みなさんもよく知っている我が国の英雄・坂本竜馬が、同志の桂小五郎(長州藩士)に揮毫を求められたときに書き贈ったものです

坂本竜馬は、新しい日本をつくるために薩長同盟を成しとげ、海援隊を組織して討幕運動に参加するなど旺盛な行動力と強い志を持った傑物ですが、
この歌からは竜馬の「国を憂える気概」や「人並外れた行動力」ばかりか、武士としての「勇ましさ」(竜馬は、剣術も免許皆伝の達人でした)さえ見えてきません。

竜馬の「自然を肌で感じとる優しさ」や「春の終わりへの悲哀さ」が詠み込まれているだけです。


では、なぜ竜馬は自分を誇示するような「勇ましい」和歌を小五郎に贈らなかったのでしょう?

 

新渡戸稲造は、著書「武士道」の中で、

「武士に和歌を詠むことが奨励されたのは、より優しい感情を表面にあらわし、その半面に勇ましさや情けとしての仁を内面に蓄えるためのものであった」と記しています。
そして、和歌に何気ない日常の様(季節の移り変わりや、自然の美しさなど)を詠み込む心は、武士にとって「平常心を保つ」訓練であり、
「平静さに裏打ちされた勇気」を練磨する道であったと書いています。

 

竜馬も、国事に奔走する激しさや不安に打ち勝つ勇気を内面に蓄えるために、平素から優しさや悲哀を歌に詠んでいたのでしょう。
だからこそ、命を賭けて国事に奔走できたのです。

 

このことは、

「本物の勇ましさ(勇気)とは、内面に優しさを持ってこそ形作られ」、「優しさを表面に表すことが真の勇気(強さ)をつくる鍛錬になる」

ということを私たちに教えてくれます。

やみくもに人や物を攻撃するのではなく、人や自然に優しく接することが、本当に勇気ある(強い)人間になることなのです。




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vol.111 震災から学ぶ日本人の道徳授業「責任をまっとうする」

東日本大震災で、世界から称賛された日本人の道徳心。

その真実を、次世代につないでいきながら、子どもたちの中に日本人の美徳を育んでいく授業をするために、資料づくりをしています。

子どもたちの魂を揺さぶり、「日本人であることに誇りを持てる」資料をつくるのは困難ですが、日教組により公教育が左傾化して壊れた子どもたちの心は、公教育で立て直すしかないと志を立てて地道に取り組んでいます。

 

今回は、「責任感」を育てることを目的にした資料を紹介します。

 


責任をまっとうする(中学生道徳資料)


日本を襲った大地震

平成23年(2011年)3月11日午後2時46分。

この日、東北など各地で起きた「1000年に一度」と言われる大地震と、その後発生した大津波は、決して忘れられない深く悲しい記憶として、私たち日本人の胸の奥に刻みつけられました。

地震と津波による犠牲者は、現在もまだ増え続けており、死者だけでも1万4千人余り。行方不明者を加えると、3万人になろうとしています。

しかし、今回の震災の犠牲者は、まだまだ多くなっていたかも知れません。

自分の命をかけて、最後まで犠牲者を救おうと責任をまっとうした人たちに、救われた多くの命があることを、私たちは忘れてはなりません。

 

天使の声(命に代えて、まっとうした責任)

今回の津波で、1万7000人の人口の内、8000人もの行方不明者が出た宮城県南三陸町では、大きな揺れの後に来る津波の襲来を予測して、高台への避難をひたすら呼び掛け続けた、ひとりの若い女性がいました。

町役場の防災放送の担当職員だった遠藤未希さん(24)です。彼女は、昨年7月に結婚したばかりで、この秋に披露宴を挙げることを楽しみにしていた町役場の職員でした。

「6メートルの津波が来ます。高台へ避難してください」。

防災庁舎の2階の部屋から流される、冷静で落ち着いた彼女の声は、大地震の大混乱の中でも人々が慌てないように、一語一語はっきり分かるように、丁寧に何度も何度も繰り返し呼び掛けられました。

やがて、予想をはるかに超えた大津波が南三陸町を襲い、未希さんが放送を続けていた防災庁舎も大津波に飲み込まれ、庁舎に残っていた職員と一緒に3階屋上部分まで押し流してしまいました。後に、未希さんの母親は、「(大津波に襲われて)放送が途中で切れた」と避難した知人から聞かされました。最後の方は声が震えていたといいます。

彼女は、襲い来る津波の恐怖と闘いながら、最後の最後まで町民の命を救うために力を尽くしたのです。

無残にも、大津波に飲み込まれてしまった未希さんは、他の20人の職員らとともに、そのまま行方不明になってしまいましたが、その後、捜索隊の懸命な捜索の結果、震災後2カ月近く立って、沖合の海で遺体となって発見されました。

彼女の必死の呼びかけを聞いて高台へ逃げて助かった町民たちは、

「防災無線がなかったら、逃げていなかった」

「あの声ははっきり覚えている。あれがなかったら、もっとたくさんの人が亡くなっていた」

「自分の命と引きかえに町民を助けた。天使の声だと思っています」

と、町民のために最後まで責任を全うした彼女の声を、「天使の声」と呼んで、彼女の責任感の強さとその勇気ある行動に心から感謝しました。

このようにして、彼女は自分の命と引き換えに、多くの町民の命を救いました。それは、彼女の責任感の強さと、町民を思いやる優しさが成し遂げた奇跡です。だからこそ、未希さんの「天使の声」は、今もなお復興を目指す町民の心深くに留まり、生きる勇気を与えているのです。

最期まで果たすのが「本当の責任」

 明治43年(1910年)4月15日、瀬戸内海の岩国沖の海中で、故障を起こして、どのように手を尽くしても浮上できなくなった潜水艇がありました。この潜水艇は、初の国産で性能も悪く、「ドン亀」とさえ言われた操縦困難なものでした。

 その艦長を務めていたのは、佐久間勉(海軍大尉)です。彼は、どうすることもできなくなった潜水艇の中で、艦長としての強い責任感から、潜望鏡から薄くもれてくるかすかな光を頼りにして、手帳に遺言を書きつけます。

艦内の酸素が急速になくなって息苦しくなり、鼓膜が避けんばかりに気圧が高まって、意識が朦朧としてく中で遺書を書くことは、簡単なことではありませんでしたが、渾身の力を込めて39ページもの遺書を残しました。

 遺書には、潜水艇の事故の原因や沈んでからの艇内の様子などと一緒に、この事故によって潜水艇の将来が絶たれることがないように願うことが書きつけられていました。また、乗組員全員が持ち場を離れずに最後まで職務をまっとうしたこと、その部下の遺族がこの後に困らないようにしてほしいことも記されていました。

自分の死が迫りくる中で、潜水艇の将来を案じて、部下の家族のことまで気遣う佐久間艦長の大きな優しさと、上官としての責任感の強さには、心を深く打たれます。

佐久間艦長の旧制中学時代の恩師である成田鋼太郎先生は、彼のことを「温厚にして沈勇(落ち着いていて勇気がある)。小心(細かな気配りができる)にして大胆、純忠(いちずに主君につくす)にして不惑(ものの考えに迷いがない)。」と評しているように、彼は、ただ勇猛なだけではなく、責任感が強く人間味溢れる温かい人柄だったからこそ、このような遺書を残すことができたのでしょう。

海外で賞賛された乗組員たち

潜水艇は、事故が起きてから2日後にやっと引き上げられました。遺体を回収するためにハッチを開いて艇内に入る際には、集まった乗組員たちの遺族たちは遠くへ遠ざけられました。それは、これ以前に英国で起きた潜水艇の事故の際、乗組員たちが助かりたい一心からハッチに向って折り重なって死んでいたことから、そんな姿を遺族に見せたくないという心配りからでした。

しかし、艇内に入った人たちは驚きました。乗組員の誰ひとりとして、ハッチの前にはおらず、それぞれの持ち場についたまま、最期の最期まで職務をまっとうしていたことが分かるような立派な姿で命を落としていたのです。

死を目前にしても、冷静であり続け、自分の持ち場を離れずに、責任を果たした彼らの姿は、国内のみならず、海外でも大きな賞賛を受けました。

英国の新聞は、「この事件でわかることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上にもまた勇敢であることを証明している。今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」と最大の賛辞を贈ったのです。

事故後100年が経った今でも、佐久間艦長の命日に出身地の福井県で行わる慰霊祭では、英国大使館から大使館付き武官が参列して、彼の勇気と遺徳をしのんでスピーチが行われています。彼の偉業は時代を越えて世界中の人々に感動を与えているのです。

 このように、本当の責任感というのは、その人の生き方そのものに深くかかわっています。そして、自分の責任を最後までまっとうする姿は、世界中の多くの人々に感動を与え、人間の歴史の中でずっと生き続けていくのです。

参考資料 道徳の教科書(渡邉 毅著)、産経新聞、共同通信ほか


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vol.106 今こそ復興のために  「国を愛するということ」(中学生用道徳資料) 

戦後最大で、未曾有の大災害となった東日本大震災。

今、その復興の難しさという厳しい現実と、国民一人一人がどう向き合うか問われています。

そして、その問いの根底には、「国を愛する」ということをどう考え、祖国の困難といかに向き合うか…国民一人一人に大きな課題が突きつけられているのです。

 

戦後長い間、教育現場では「祖国を愛する」ということに強い嫌悪感を抱いてきました。

国旗・国歌に反対し、皇室について教えず、自虐史観で国史を染め上げて、子どもたちから日本人としての矜持を奪い続けてきました。


しかし、多くの日本人は、尖閣諸島問題や東日本大震災を経験したことで、「祖国を愛する」ということを真剣に考え始めています。

学校現場も、どうやって子どもたちに健全な愛国心を育んでいくのか…真剣に考えるときです。

そこで、拙ブログVol.73国を愛するということを、中学生への「指導教材(道徳編)」にするために加筆しました。

 

 

国を愛するということ(中学生用道徳資料)

 

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂

 

親思ふ 心にまさる 親心 今日のおとづれ 何と聞くらむp_yoshida


この歌は、江戸時代末期に活躍し、明治維新の礎となって安政の大獄で絶命した吉田松陰先生の辞世の句(死を前にして詠む歌)です。

 

松陰先生は、幼いころから叔父の厳しい指導を受け、11歳にして当時の長州藩主毛利敬親公に進講(講義をすること)するまでになり、19歳には藩士が通う藩校の先生になるなど、幼いころからとても優秀な学者でした。

 

この頃の日本は、強力な軍事力を背景にアメリカなどの西洋列強国から開国を求められ、侵略の危機もあって国中が大変混乱していました。

そんな中で、25歳になった松陰先生は、「西洋列強国の侵略から日本を守るには、諸外国から最新技術など多くを学ぶべきだ」と思い立ち、アメリカ軍艦に乗り込んで海外密航を企てますが結局は失敗してしまいます。

海外に渡航した日本人などほとんどいない時代でしたし、幕府によって海外渡航が固く禁止されていた時代でしたから、まさに自分の命を懸けて日本を諸外国の侵略から守ろうとしたのです。

 

松陰先生は、この企てが幕府に露見して捕えられ、生まれ故郷の萩(山口県)に帰されて投獄されましたが、その後には「松下村塾」という私塾を開いて郷土の若者の教育に腐心しました。

その私塾からは、幕末の風雲児と言われた高杉晋作や維新三英傑のひとり桂小五郎(木戸孝充)、日本初の総理大臣伊藤博文など、維新の立役者や明治新政府の中心人物となった優秀な人材が多く輩出されました。

 

それからわずか2年ほどの後に、幕府によって危険人物と目された松陰先生は再び江戸に呼び戻されて、伝馬町の獄舎において処刑されてしまいます。

30歳の若さでした。

 

松陰先生は、処刑されることが決まっても獄舎で書物を書き続け、家族への別れの書である「永訣の書」と、教え子たちの精神的支柱となった「留魂録」を残しました。


それぞれの書の冒頭に書かれた和歌が、先ほどの2首です。

この歌からも分かるように松陰先生は、命を懸けて国を守る固い志を抱いて激動の人生を歩みながらも、最後まで両親を気遣い、大切に想う親孝行な優しい人物でもありました。


国を愛する心には、親を愛する心も含まれる


この二首の歌は、一見すると「国を愛する心」と「親を想う心」という、別次元のもののようです。

しかし、紀元前1世紀頃にローマ帝国で活躍した文学者であり、思想家でもあったキケロは、「あらゆる人間愛の中でも、最も重要で最も大きな喜びを与えてくれるのは、祖国に対する愛である。父母への愛の大切さは言うもまたないくらいに当然であり、息子や娘たち、親族兄弟、そして友人たちへの愛も、親愛の情を恵んでくれることで、人間にとって大切な愛であることは誰でも知っている。だが、これらすべての愛ですらも、祖国への愛にふくみこまれるものなのだ。」(キケロ著「義務について」より)と言っています。

 

きっと松陰先生にとっては、世界でただひとつで、かけがえのない祖国「日本」を命を懸けて愛し守るとは、自分を慈しみ育ててくれた両親を心から愛するように当然のことだったのでしょう。

そして、キケロが言うように、自分自身はもちろんのこと、両親や兄弟、友人など自分につながる大切な人たちすべてを育んできた祖国を愛するという心には、親を慕う心や友人を大切に思う心も含まれているのです。

 

国の為に何ができるかを問え


今年(平成23年)の311日に、東北地方を中心に起きた東日本大震災は、死者・行方不明者を含めて2万人を越える大災害になりました。

肉親を失い、財産や思い出までも失った人々の悲しみはどれ程でしょう。

しかし、私たちの祖国は、これから国民が一丸となって早期復興へと立ち向かわなければなりません。

 

35代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディは、就任のときの挨拶で、国民に向けて「国が諸君のために何ができるかを問うのではなく、諸君が国の為に何ができるかを問え」と演説をしました。

今ほど、私たちが祖国のために何ができるか問われているときはありません。

この災害から我が国を救い、復興を早めるのは、ケネディ大統領が言ったように、国が何かしてくれるのを待つのではなく、まずは国民一人一人が国のために何ができるのか考えて、自分勝手な行動をせずに国や人のためにできることから行動することです。

 

そして、吉田松陰先生のように祖国を愛し、自分に与えられた仕事や役割に懸命に向き合うことが必要なのです。

 

参考文献

塩野七生著「ローマ人の物語」




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vol.85  敵兵を救助せよ! (道徳資料) ~武士道精神をいかに教えるか~

敵兵を救助せよ!


1942
年(昭和17年)3月、スラバヤ沖海戦で交戦中の日本軍に撃沈された英国軍艦の乗組員たちは、撃沈された船舶の重油にまみれ、のどの渇きと飢えに耐え、襲い来る「サメ」の恐怖と闘いながら、味方船が救助してくれることを期待して、太平洋の大海原で首から上だけを水面に浮かべて漂っていました。

漂流してすでに丸一日が過ぎようとしており、精神的にも体力的にも限界が近づいていました。

 

しかし、彼らの期待を裏切って、彼らを発見したのは味方船ではなく、敵船である日本艦船でした。

この翌年、1943年(昭和18年)に行われたビスマルク海海戦の折に、米軍やオーストラリア軍は日本軍漂流者を捕虜と見なさず、救助しないばかりか機銃掃射で無抵抗の命を奪ったように、交戦中の敵軍艦船に救助などは期待できず、彼らは死を覚悟しました。

英国兵士たちは、日本軍に機銃掃射されることを予想して、頭部をかばうように海に浮かぶ重油の中にさえ顔を埋めたのです。

 

更に、この海域は、前日には潜水艦からの攻撃によって日本軍の輸送船が撃沈されており、日本軍艦船にとってもいつ攻撃を受けるか分からない危険な海域でした。

通常は、交戦中の危険海域では漂流者を救助することはありません。したとしても、短時間だけ、そして体力の残っている兵士だけの救助です。

なぜなら、救助のためには停船しなければなりませんが、海上で停船すると攻撃の標的になり易くなってしまうからです。そうすれば、自船が撃沈される可能性さえあるのです。

ましてや味方兵の救助ではなく、敵兵の救助です。英国の漂流者たちが日本艦艇による救助をあきらめたことも、仕方ありませんでした。

 

その漂流者を発見したのは日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」でした。

駆逐艦は比較的小さい艦艇ですから、乗組員は200名ほどです。

海原を漂っている漂流者の数は、ざっとその倍以上の数でしたが、漂流者を発見した工藤俊作艦長は、危険海域であることを顧みず、即座に「戦いが終われば敵も味方もない。全員を救助せよ!」という命令を下しました。

 

雷は、機関停止して救助にあたります。

これは、戦争中の通常の救助活動ではありえないことでした。

いくら「救助活動中」の国際信号旗を掲げているとは言え、いつ敵からの攻撃を受けるか分かりません。停船した上に、機関を停止してしまうと、敵の攻撃から身をかわしたり、反撃することは全くできないのです。

それに、当初は敵からの攻撃を防ぐために警戒要員を配置して救助していましたが、救助者数が多く、敵兵が弱っていたため、工藤艦長から乗組員全員へ救助が命じられました。

まさに、艦命をかけた決死の救出作戦でした。

 

20090726_463950雷の乗組員たちは、自分たちの倍以上の数にのぼる敵兵を、艦上から縄ばしごや竹ざおを下して、それにつかまらせると甲板へ引き上げました。

しかし、中には負傷して体力が弱ってしまい自力でつかまることすらできず、海底へ沈んでいく者もありました。その様子を見た乗組員たちは、危険を顧みず海原へ飛び込んで、沈みゆく敵兵を抱え込み、その身体に綱を巻き付けて引き上げました。

そして、乗組員たちは引き上げた兵士たちにこびり付いた重油を丁寧に拭き取り、服や靴を支給し、水と食事を与えました。

それは、敵味方を越えた海の男たちの救助活動でした。

 

全員の救助が終わると、工藤艦長は、甲板に引き上げた敵兵の中から21人の士官を集めました。

そして、端正な挙手の敬礼をして彼らに敬意を表すると、流暢な英語で「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」とスピーチをしました。

英軍兵士たちは、危険を顧みずに敵兵を助けた工藤艦長の英断に感謝し、その後の日本海軍兵士の紳士的な振る舞いに対して、「これは夢ではないか」と何度も手をつねるほど喜んで、涙を流しました。

こうして、工藤艦長と雷の乗組員たちは漂流者422名全員の敵兵の命を救ったのです。

 

時を越えた感謝の念

この救出劇は、長年日本でも忘れ去られていました。

戦争中で、慌ただしいときの出来事ですから、それもまた仕方ありませんでした。

しかし、ひとりの外国人の行動が、この事実を歴史の彼方から目覚めさせたのです。

 

救助された兵士の中に、サムエル・フォール海軍中尉(当時)がいました。

工藤艦長に命を救われた彼は、終戦後、英国外交官として活躍しましたが、救助されたことへの感謝の念をずっと持ち続け、恩人である工藤艦長の消息を探し続けていました。

工藤艦長は、終戦後は軍人を退役して公職にも就かず、この救出劇を妻にさえ話さずに、日本の片隅でひっそりと暮らしていましたが、フォールさんがやっと工藤艦長の消息を突き止めた時には、工藤艦長はすでに亡くなっていました。

終戦から、すでに58年が過ぎていた2003年(平成15年)のことでした。

その後、89歳になったフォールさんは2008年(平成20年)に不自由な身体を押して来日し、埼玉県川口市内の工藤艦長の墓前で感謝の気持ちを伝えました。

その時の記者会見で、「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と述べました。

このフォールさんの行動は、当時のマスメディアにも取り上げられ、工藤艦長の偉業を多くの日本人に知らせることになり、日本人の心にも大きな感動を呼んだのです。

 

海の武士道

「海の武士道」として有名になった逸話を、私が授業用にいろいろな参考資料から中学生にも分かり易く文章にまとめた道徳資料です。

この資料から生徒に学ばせたいのは、工藤艦長の人道的行動の源泉がどこにあるのかということです。

 

当時の国際戦時法では、交戦海域での海難救助活動は、義務付けられていませんでした。交戦中の救助活動は、自らの命を落としかねないのですから、見過ごしたとしても罪にはならなかったのです。

まして、米軍は、日本軍の漂流者には容赦なく機銃掃射をして殺戮しています。

救助した敵兵に、艦内で蜂起されでもしたらと考えれば救助しないのは致し方ないのかも知れませんが、抵抗する術のない漂流者を殺戮する非道ささえも敵軍は持っていたのです。

 

しかし、工藤艦長は「全員を救助せよ!」と命令しています。

その彼の英断の裏側にあったのは、何でしょうか?

そこには、フォール氏が述べたように、その源泉には日本帝国海軍が大切にした「武士道」精神が脈々と流れていたはずです。決して、工藤艦長が海軍の中の特別な人道主義者だった訳ではないでしょう。

帝国海軍は、「雌雄決した後は敵にあらず」という精神性を持っていました。

ですから、戦闘後の敵の漂流兵士の救助活動は、邪魔をせず見守っていたと言います。

ましてや、病院船を攻撃することなどありませんでした。

 

未だ先の大戦を、日本側を一方的な「悪」として評価する「東京裁判史観」が闊歩しています。
しかし、歴史の一片を丁寧に探し照らすことで、その歴史観がいかに一方的なものであるか明瞭になります。

そんな偏った歴史観ではなく、このようなフェアな精神、敗者への労り、そして自分の危険を顧みない勇気…そういった日本人が大切にしてきた精神性を、授業を通して子どもたちに伝えなければならないのです。

Vol.81 本当の責任とは?~子どもに教えるべき日本人の責任のとり方~

日本人の責任の取り方


徳川家康に仕えた武将の一人に天野康景がいました。

天野は、その戦功によって3万石の領地を与えられ、大名に取り立てられ、駿河の国の一部を治めていました。

慶長12年(1607年)のこと、その居室へ盗賊が入り、新居造営の為に領内から集めていた竹が盗み出されるという事件が起こります。

番兵を務めていた足軽の3人がそれに気づき、盗賊を追いかけて、その内1人を打ち取ります。他の2人は逃げたのですが、調べてみると、その盗賊たちは近隣の天領(幕府の直轄地)の住人だったのです。

 

当時の天領の住人と言えば、幕府へ年貢を納める大切な公民です。その公民に、譜代とは言え大名の家臣が危害を加えることは許されません。

やはり、天領の代官から「速やかに番兵を処刑し、公民を殺害した罪の償いをせよ」との横やりが入りました。

康景は、「盗賊を切り捨てるのは、世の習い。当方に落ち度はありませぬ」とその要求をはねつけます。

しかし、代官は面子をつぶされたことに立腹して幕府に訴え出ました。

 

幕府に呼び出された康景に、幕府はこう申し渡します。

「幕府の裁定に従わないことは、公儀の信頼を損なうことになる。籤(くじ)でも引いて一人を決め、番兵のうち一人を処刑せよ。」

公民の数と番兵の数合わせのような、無茶苦茶な裁定でした。

 

康景は、苦慮します。

「公儀の信頼を損ねることを、幕臣から大名に取り立ててもらった自分ができるはずはない。」と一度は、幕府の裁定を受け入れます。

しかし、足軽の番兵一人と言えども、大切な家臣の命を奪うことに変わりはありません。

まして、当家に過失があるとはどうしても思えず、それに反することは義に欠けると思いなおします。

 

結局、康景は3万石の俸禄を幕府に返して、流浪の身となることに決め、幕府の面子と家臣の命、そして義を貫き通すという、自己犠牲の上の責任を果たしたのでした。

 

 

現代の日本人は本当の責任を取っているか

近年、自分の責任を全うできない日本人が増えています。

他人を陥れ、責任を転嫁してでも、自己保身に終始している様子がTVでも流れてきます。

ましてや、国や行政のトップたらんリーダーたちの無責任さは、子どもたちにどう映っているのでしょうか。

 

かつての日本人は、何事にも自ら責任をとる「潔さ」を持っていました。

それが、人として生きていく上で、とても大切な価値観であったのです。

しかし、いつの頃からか、責任をとらないことは、「生き恥を晒す」のだという観念さえも消え去ろうとしています。

 

時代が変わり、責任の取り方も大きく変わってきました。

ですから、「生き恥を晒し」ながらも、全うすることで果たせる責任もあるでしょう。

部下や社会の為ならば、そういう責任の取り方もあって結構です。

しかし、それが自己保身のためであってはなりません。

まして、部下や他人に責任を転嫁していたのでは、責任を放棄しているとしか言いようがありません。
なぜなら、康景が部下の命を救ったように、「潔さ」「自己犠牲」「義」の精神で責任を全うしてきたのが日本人の美徳であったからです。

 

子どもたちの「道徳心の低下」が言われて久しくなります。

堂々と子どもたちに「道徳」を教え、子どもたちの道徳心を育んでいくには、私たち大人が自己の「より良い生き方」を見つめなおし、日本人として大人らしく振舞うほか道はありません。

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