日蓮ノート

普通のサラリーマンが一人で挑む日蓮学

安房国清澄寺に関する一考

窪田哲正氏の論考「安房清澄山求聞持法行者の系譜 ― 清澄寺宗旨再考 ―」(「日蓮教学とその周辺」1993 立正大学日蓮教学研究所)での教示を受け、これまでの、「日蓮が学んだ清澄寺は台密寺院であった」から「日蓮の時代の清澄寺には真言・東密と天台・台密の法脈が共にあった」に改め、私の考えを「安房国清澄寺に関する一考」にまとめました。ホームページ内の関係個所も順次、修正していきますので御了承ください。

日蓮遺文・曼荼羅一覧

ホームページの「日蓮遺文・曼荼羅一覧」を修正しました。

上野国にある古碑を訪ねて

ホームページに「上野国にある古碑を訪ねて」をアップしました。

最澄と道忠一門 エミシとその時代

ホームページに「最澄と道忠一門」「エミシとその時代」をアップしました。

以下、「エミシとその時代」の「おわりに」より。



世界中に大変な衝撃を与えた「東日本大震災」から7か月を経過した平成23(2011)年秋、「このままではあっという間に時が過ぎてしまう。東北のことをもっと学び知っていこう」と思い立ったのですが、「でも、何をどうしよう」としばらくは漠然としていました。そんな時、たまたま家族と一緒に群馬県桐生市の山上多重塔に行くことがあり、悠々たる赤城の山脈を背景にして覆い堂に守られた多重塔の前に立ち1200年前に思いをはせた時、なんともいえぬ感慨がこみ上げてきたものです。その後文献をあたって調べると、多重塔造立の背景には、当時の朝廷軍と蝦夷と呼ばれた人々との戦いがあることを諸氏の教示により知ることができ、一つの塔の彼方には今は誰も語らない「万の物語」があるのでは、と思いました。私としては「これは東北の、そして東国の歴史を学び理解を深める機会!」と思い、「六国史」を見ながら「蝦夷征討」に関する主要事項を書き進め、「エミシとその時代」としてまとめました。



書きながら、

「どうして、東北の人々は親子数代にわたる百年単位の戦いをやり通せたのか」

「大軍を相手にして恐れぬ東北人の勇気はどこから湧いてきたのか」

「圧倒的物量に潰されることがなかったのはなぜか」

という疑問にかられましたが、「正史」の行間の先にある「その時代の東北の人々」から、

「人は成すべきこと、守るべきものがある時、限界を超越する力を発揮する」

「仲間がいればやり通せる」

「必死に生きる父母の後ろ姿を子供たちは見ている」

「生き続けろ、ともかく生き続けるんだ」

「人に裏切られても、自分で自分を裏切ることがなければそれでよい。人の裏切りなんていつものことさ、さあ新しい関係を自分力で築け」

「失敗なんて当然。あきらめるよりも次は何を成すかを考えろ」

「おしゃべりに時間を費やすよりも、ことを成せ」

「考えろ、考えろ、そして考えろ。考え続けたその先にお前だけの答えがある」

「私の存在はなくなっても、真の心は時空間を越えて生き続ける」

と教えられた思いとなりました。



「エミシとその時代」はマイペースで三か月かけて書いてきたのですが、のんびり読み書き続けていると、蝦夷と呼ばれ戦った男達に、また朝廷軍の男達にも親近感が湧いてくるからおもしろいものです。彼らも私も共に家族を抱えた「お父さん」であり、また「若者」です。今、私の耳には彼らの声が聞こえるような気がします。



「男ってのは、いつの時代でも、あらゆる矛盾と不合理の最前線に立たされる。だけど胸をはって立つのが男というものさ」



「歴史の主役ってのは、名もなき俺たちのことさ」



今回は、「その時代」の東北の人々の粘り強さ、忍耐力、執念、回復力、逞しき人間力に学ぶことができました。これからも私なりに東北のことを知る努力を続けて、「史書の一行の向こうにある万の物語」を見つけ、触れていく思いで学び続けたいと思います。

親鸞の聖徳太子信仰について

ホームページに「親鸞の聖徳太子信仰について」をアップしました。

続日本紀 13

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芦ノ湖スカイラインより

続日本紀 13

 

天平宝字元年(757)

 

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天皇は「不孝、不恭、不友、不順なる者については、陸奥国の桃生や出羽国の小勝(雄勝)に移してその考えを改めさせ、辺境を守る任に着かせる」旨、勅しました。

 

・「続日本紀」巻第廿・天平宝字元年(757) 孝謙天皇

夏四月・・・其有不孝・不恭・不友・不順者。宜配陸奥国桃生。出羽国小勝。以清風俗。亦捍辺防。


 

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山背王(やましろおう・後の藤原弟貞・ふじわらのおとさだ)が「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)らが謀反を計画し武具を準備していること」「大伴古麻呂(おおとものこまろ)が関知していること」を孝謙天皇に密告し、「橘奈良麻呂の乱」は実行前に関係者が処罰されて未遂で終わります。天皇は謀反の関係者が都の土の上を歩くのは汚らわしいとして、出羽国小勝(雄勝)村の柵戸に移配することを命じました。

 

・「続日本紀」巻第廿・天平宝字元年(757) 孝謙天皇

六月・・・至是、従四位上山背王復告。橘奈良麻呂備兵器。謀囲田村宮。正四位下大伴宿禰古麻呂亦知其情。・・・・

 

秋七月・・・久奈多夫礼良爾所詿誤百姓波京土履牟事穢弥、出羽国小勝村乃柵戸爾移賜久止宣天皇大命乎、衆聞食宣。

続日本紀 12

天平15(743)

 

1015

聖武天皇は盧舎那仏(大仏)金銅像造立の詔勅を発します。

 

・「続日本紀」巻第十五・天平15(743) 聖武天皇

冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳、恭承大位。志存兼済。勤撫人物。雖率土之浜、已霑仁恕。而普天之下、未浴法恩。誠欲頼三宝之威霊、乾坤相泰。修万代之福業、動植咸栄。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。発菩薩大願、奉造盧舍那仏金銅像一躯。尽国銅而鎔象。削大山以構堂。広及法界、為朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。(後略)

 

 

天平21(749)

 

222

陸奥国が天皇にはじめて黄金を献上します。このことは幣帛(へいはく・みてぐら)を奉って畿内、七道の諸社に報告されました。

 

・「続日本紀」巻第十七・天平21(749) 聖武天皇

「天平廿一年二月」丁巳。陸奥国、始貢黄金。於是。奉幣、以告畿内七道諸社。

 

 

天平勝宝4(752)

 

46代・孝謙天皇(女帝)の天平勝宝4(752)49

東大寺の盧舍那仏像の開眼供養会が盛大に営まれました。

 

・「続日本紀」巻第十八・天平勝宝4(752) 孝謙天皇

夏四月乙酉。盧舍那大仏像成。始開眼。」是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設斎大会。其儀一同元日。(後略)


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東大寺・金堂(大仏殿)


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盧舎那仏坐像


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虚空蔵菩薩像


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広目天像

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創建当初の伽藍を50分の1に縮小・復元したものが展示されています


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こちらは重源が大勧進となって建久6年(1195)に再建された「鎌倉再建大仏殿」を復元したもの

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大仏の裏側です

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多聞天像

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如意輪観音菩薩像


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戒壇堂

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長池と中門、金堂

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