【 重須・日順 】

 

◇日興の膝下で重須の学頭職にあり、門派の教学を振興したとされる三位日順だが、彼の講義が記録された「日順雑集」中の「法花観心本尊抄見聞」(文和五年[1356]三月五日  富山麓重須郷南坊に於て)には、「聖人は造仏の為の出世には無し、本尊を顕んが為なり。然れば正像の時は多く釈尊を造れども本尊をは未だ顕さず。然れば如来滅後未曽有大漫荼羅と云云。」とあって、本尊とは日蓮が「如来滅後未曽有大漫荼羅」と認めた曼荼羅であり、日蓮は造仏のために出世したのではなく、曼荼羅本尊を顕すためだったのである、と記している。

 

遡る貞和6年・観応元年・正平5(1350)3月中旬(滅後69)に著した「摧邪立正抄」では、「法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり。故に日興上人独り彼の山をトして居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫茶羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ。是れ即ち大聖の本懐御抄に分明なり。」(富士宗学要集2P43)として、これによれば「法華本門の戒壇」には「本門の大漫茶羅」が安置されるもののようである。

 

しかし一方では、広宣流布の時は「仏像を安置することは本尊の図の如し」とするのである。

 

貞和5年・正平4(1349)5月 日順著「本門心底抄」

行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇・其れ豈に立たざらんや。仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし。国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし。兼日の治定後難を招くあり、寸尺高下注記するに能へず。

(日蓮宗宗学全書2P346)

 

これについて大石寺の堀日亨氏は頭注を加えている。

「仏像安置と云々、順師未だ興師の真意を演暢せず。後人此の文に滞ることなかれ」

 

正平4年の「広宣流布の時の本門の戒壇に本尊を図表とした仏像安置」と、正平5年の「法華本門の戒壇に本門の大漫茶羅を安置」の関係について、日順は明らかにしていない。しかし、両書を併せ考えれば、本門戒壇に曼荼羅本尊と仏像本尊を奉安する「本門戒壇仏本尊・法本尊安置思想」ともいうべきものを日順は抱いており、その一端を別の著作で示した、とも理解できるだろうか。であれば、法本尊を主としたものが「摧邪立正抄」、仏本尊を主としたものが「本門心底抄」の記述ということになるだろう。

 

◇かように重須の日興のもとにあって、一門の重鎮、富士教学の最高職たる学頭を務めた日順と日代は、「広宣流布の時の本門の戒壇には曼荼羅を図表とした仏像が造立安置される」とするのである。

 

日興の寂年が正慶2年・元弘3(1333)27日、日代が日印()に仏像造立を示したのが日興寂11年後の康永3年・興国5(1344) 813日、日順の「本門心底抄」は日興寂16年後の正平4(1349)5月に著されている。「曼荼羅図表・仏像造立説」を日興が日順・日代へ授けた文献はないが、日興亡き後10数年を経過しただけで俄に創作されたとは考えられず、重須学頭職にあった二名がこのような説示をすることは同様の理解が同時代の重須大衆の間に共有されていたことを意味するものであり、その源は日興存命中とも考えられるのではないだろうか。

 

ただし、両名の説が日興の見解に相違する「異義」であるならば、「身延沢を罷り出で候事、面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し・打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ、詮にて候え。」(原殿御返事)と身延を離山してまで、自らが理解するところの師・日蓮の法門を守らんとした日興が放置することはないだろう。「一尊四士」を「所立の義」とした日興でも、果たして曼荼羅図に基づく仏像造立まで可としたかは不明であり、同説は重須大衆間での議論の域に留まり師の耳に届くことなく伏在したものか、または老齢の日興は議論に関わることなく後代の決に任せたものだろうか。

 

私としては、「曼荼羅図表・仏像造立説」は「立正安国論」を源とし、「観心本尊抄」の曼荼羅と一尊四士から発して、「日興所立の義=一尊四士」を経由、一弟子五人門流の造仏や彼らとの接触などによる触発、妙法蓮華経の広宣流布・本門寺戒壇建立を現実的視野に入れ奈良・京都・鎌倉を始めとした顕密寺院の造像を念頭にした国主帰依の本尊形態をめぐる重須大衆間での議論、このような祖説・師説を基とした広布への展望と国主の機を鑑みたところより生まれたものではないか、と考えるのである。