2014年城址探訪:国宝彦根城

 2014.11.30、滋賀県彦根市の「国宝彦根城」を探訪しました。 JR彦根駅から徒歩4~5分の所にある”うなぎ料理店”で名物の「ひつまぶし膳」を昼食として食べ、さらに徒歩で10分歩き国宝に指定されている「彦根城」に着きました。近世の城で天守が残っているのは、12城ですが、その内、国宝に指定されている天守をもつのは4城です(彦根、松本、犬山、姫路)。初めて、国宝の天守に登れる楽しみで来ました。
  ご存知の通り、家康が佐和山城を一掃するために1604年に着工させ、城郭の完成は1622年で、井伊氏14代の居城です。この城は、明治初期の「廃城令」でも破却を免れた天守が現存し、附櫓及び多聞櫓と共に国宝に指定され、その他にも多くの国の重要文化財があります。また、遺構も姫路城と共によく残されており、お堀周辺の紅葉はみごとなものでした。この城は、昭和20年8月15日(終戦の日)に連合国軍が夜間爆撃する予定だったそうですが、その直前に大日本帝国が降伏して難を逃れたそうです。また、この城郭は1度も戦争を経験することなく、”軍事施設”として働かず、”権勢の象徴物”としての役目を果たしたようです。この城の形式は「連邦式平山城」で、「石垣」が良好な状態で保存されていました。天守閣そのものは、それ程大きなものではなく、3層3階地下1階の「複合式望楼型」で、通し柱を用いず、各階ごとに積み上げて行く方式が取られています。この天守閣は、他の多くの城とは異なり、全て木材で修築されており、コンクリートは使われていませんでした。しかし、屋内は狭く、各階をつなぐ階段は、何と傾斜角度が62度の階段でつながれ、登るのに往生しました。何しろ、手すりにつかまって1歩1歩、ゆっくりしか登れず、降りるときは、昇りより大変でした。戦争経験のない天守閣ですが、敵がこの階段に取り付いても、一足で蹴落とされますよ。年取った”おばあさんが両手で手すりにつかまって”よいしょ!よいしょ!”と頑張っていました。私の脚も下では”パンパン”でした。しかし、この城郭には、「楽々園」や「玄宮園」という当時の藩主が造営した広大な庭園もあり、丁度見頃の紅葉で疲れた脚を癒すことができました。中に、「二季咲桜」という水戸市から送られた木があり、冬と春の2回咲くという”桜”が満開でした。 来年の城跡探訪は、今の所、「松本城」と「名古屋城」、そして近場の城の予定です。                             
2



















CIMG1492

弥生のムラ「板付遺跡」探訪

CIMG1417昨日、家内の運転免許高齢者講習のため、会場までナビの使えない家内のナビとして同行しました。終了までの時間を利用して、近くにある「板付遺跡」を訪れて来ました。詳しくは、後日ブログに掲載しますが、弥生時代の「環濠集落」の遺跡で、日本最初の稲作の跡を示した水田が見つかったことで有名です。写真のような住居跡が復元されたり、出土した瓶や農具などが展示されていました。しかし、私の狙いは水田跡から発見された弥生人の足跡でした。ところが、国宝級の出土品のため東京の国立博物館に移されていて現物を見ることは出来ませんでした。仕方なく、写真のようなレプリカで我慢させられました。何故、これが見たかったと言うと、横の汚い私の足と比べて弥生人の足は前方が広く発達し、後方の踵部分が小さいのです。つまり、弥生人のCIMG1442立ち姿を想像すると、重心が体の前方にあり、前傾した姿勢で激しく動いて歩き回り生活していた姿が想像されます。それに対して、私(現代人)の足は後方の踵部分が大きいのです。つまり、反っくり返った後傾姿勢で緩慢な動きで生活している姿を象徴しています。これでは、「運動不足」になるのも”宜なるかな”です。勿論、係の人に頼んで撮った写真です。詳しくは、後日のブログに回します。










「城址探訪 第6弾:肥前唐津藩”唐津城”」

前回の城址探訪の第5弾「松山城」をupしたのが2013.12.02でした。今回の第6弾は、2014.07頃の予定でしたが、台風等の天候不順で延期され、2014.09.05になりました。訪れた城址は、肥前唐津藩の「唐津城」です。写真のように比較的新しい4層の天守閣をもつ城です。築城は、1608年(慶長13年)で、唐津藩初代藩主「寺沢広高」ですが、明治に廃城となったものを1966年(昭和41年)に復元したものです。天守閣の他に「本丸」「一の門」「西門」「北門」などの遺跡も多く、現在は「舞鶴公園」として市民を始め観光客に愛されているようです。しかし、現在は、天守閣石垣の積み直し工事の真っ最中(平成31年まで)ですので、訪れるのはもう少し後が良さそうです。詳しくは、2014.09.15のブログ「呼子のイカと唐津城」をお読みください!次回の「城址探訪 第7弾」は伊井氏14代の城である彦根藩「彦根城」(国宝の天守をもつ)です。11月下旬に出かけますので今年中にはupします。CIMG1264

紹介:この1冊

    私は、分担執筆も加えて14冊の本を書いています。殆どが専門書ですが、この本は、その中の1冊で14冊の中では珍しい一般書(新書本)です。内容は、日本人の健康問題の一部である運動不足の問題を自分の専門から書いたものです。現代の「健康ブーム」に煽られた「スポーツ・ブーム」、「スポーツをすれば健康になれる」という“健康不安を取り去るだけのこのブーム”を考えると、現代は「健康の時代」ではあっても、決して「健康な時代」ではありません。科学文明の発達が社会生活を便利にし、我々日本人は益々“怠け者”になっています。我々の「からだ」は、今でも狩猟・採集民の生活活動に適応するように作られている筈です。つまり、「立って」「歩く」ことが生活の基本の筈です。

“うまく立てない“”うまく歩けない“人に運動が、スポーツがやれる筈もありません。この本は、ヒトの身体本来の姿を考え、現代の日本人に最も必要な運動について書いたものです。(小宮秀一著、立たない・歩かない・日本人の健康恐竜の末路をらどるか日本人、不昧堂新書 30、不昧堂出版)

CIMG1207

私の歩んだ研究の道

CIMG0723CIMG0725この2冊は, 九大在籍中の研究業績集です. 左は正式の業績集で校費で作成され, 現在, 私が所属していた「健康科学センター」(大学院人間環境学研究科行動システム専攻健康科学講座)に保管されています。右は、内容は全く左と同じですが、私費で作成し, 私が主催していました「福岡身体組成研究会」のメンバーに配布したものです. 左の表紙は黒厚紙で金文字ですが, 右はprivateなものですから, 私が専門として研究して来た「身体組成」をイメージして、人体の骨格標本と身体を構成する元素モデルを表紙にしました. 全体で262頁, 厚さ約3cmです. 
下の写真は, その1頁ですが, 内容は, 108編の研究論文の中から主要な原著論文40編の全文 が掲載され, 総説論文10編と商業雑誌や新聞記事13編も全文が掲載されています. 講演論文72編と著書14冊はタイトルだけです。表紙のすぐ後ろには, 「名誉教授推薦 功績調書」も全文が収められています. これも私の履歴書でしょうから, 記念に写真を残すことにしました.  

走って、跳んで、我が青春

 この2枚、高校生(坊主頭の修猷館1年か2年)時代の試合風景です。恐らく「中部地区(福岡市近郊)」の新人戦だと思います。私は「走り幅跳び」が専門ですが、この新人戦は参加種目に制限のない試合で、私は専門以外に、100m, 200m, 三段跳び、ハンマー投げに出場したと記憶しています。ハンマー投げは予選3回ともファウルでした。上は三段跳びで1回跳ぶと”200mに行ってきます”と審判に告げて下のように200mを走り、色々チャレンジしていた時代です。200mは、ぶっちぎりの1位ですので、多分予選でしょうか?三段跳びはダメでしたが200mは時折優勝もしていました。今の福島千里の日本記録くらいは走っていました。こうして、懐かしい写真が何処からともなく見つかります。懐かしいです。この頃、後に研究ばかりの生活に入るとは夢にも思っていませんでした。
陸上

学生服の私

 すぐ下の妹の所から懐かしい写真が出て来ました。恐らく、大学2年か3年の時で、妹の結婚式に帰った時のものです。この頃、学生服が我々の正装で、このような式やインカレの遠征等はこのスタイルでした。時折、四角にとんがった学生帽もかぶりました。襟には五三ノ桐の校章があり、ズボンを見て下さい。ダブルです。通学にもあまり学生服は着なかったように思いますが、今の学生のようなジャージー姿は禁止されていました。寒くない時はセーターか紺のブレザーで、寒くなるとコートを着て下を誤摩化していました。スーツを作ったのは、卒業前でした。就活などありません。卒業したら出身県に帰り、言い渡された学校の教員をするのが定めのようでした。私のように大学に就職した者は少なかったようです。今回、高校生の頃の陸上の試合の写真も出てました。後日upします。お楽しみに!
Cus18326

高校生時代の思いで写真

IMG修猷館高等学校3年生最後のクラス写真です。3-1のクラスで54名、女子は8名でした。担任は英語担当の林先生でした(あだ名をトーキーと云い、授業の話し方及び声が無声映画の声:トーキーにそっくりでこのあだ名がつきました)。私は後列から2列目、右から2人目でメガネをかけています。男子は学ランで坊主頭、校章である「六光星」のついた学生帽をかぶり、殆ど下駄で通学しました。建物内は土足で入れましたが、下駄は先生が来ると脱いで裸足で逃げました。女子はセーラー服、大きな襟には「六光星」の白い刺繍が2つ入っていました。弁当は2時間目が終わった休み時間に喰って、昼休みは近所の西新商店街にある”修猷館”という屋号の回転饅頭屋で過ごしていました。女子の居るクラスは2クラスくらいで、席替えをしょっちゅうして女子の横に並ぶのが楽しみでした。縦一列に女子を並べると横になる男子が少ないので、そこは秀才揃いの修猶健児です、対角線に女子を並べて横になる確率を上げたり、面白いクラスでした。しかし、今、この写真を見て、誰が誰やら全くわかりません。自分の顔さえ友達に聞いてわかりました。女子にいたっては全く思い出しません。とにかく秀才が多く殆どが国立大に進学し、九大、東大、京大、早稲田、慶応に進学し、医師、弁護士がぞろぞろ居ました。今、それぞれどうしているやら、同窓会に顔をださいない私ですのでわかりません。

“jogging中の勇姿!でもないか?”

 222日(土)は、久しぶりに14℃と暖かい日でした。家内(walking)、と娘と3人でjoggingに出かけました。この写真は、私のjogging姿を娘がデジカメで連写した中の1コマです。あまり良いformではありませんが、何しろ歳ですから!

 私がjoggingする場所は、自宅から走って12~3分の所にある「春日公園」です。この公園は、米軍占領当時の基地跡です。それが返還された後、昭和天皇在位50周年を記念して昭和50年代に造成された公園です。現在は、福岡県と西部ガスが管理しています。公園内には野球場、球技場、テニスコート(16面)などがあり、その周囲を11.6km100mおきに表示あり)のjogging courseが囲んでいます。このcourseは全面舗装され、内側は黄色に舗装された、弾力性のあるcourseです。このcourseには、適度な坂もありますが、8割はflatcourseで、木陰になるところやcurveもあり、退屈しないcourseです。このcourseを週に3回(月、水、土)、約5km30分位でjoggしています(娘にはついて行けません)。何故嫌いな長距離を走るかと言うと、絶対に“寝たきりになりたくない”、“走りながら棺に入りたい”からです。


CIMG0403

思い出の1枚

 これは、画像として取り込んだ”思い出のポスター”です。「日本発育発達学会」、これは日本体育学会から分離独立した新しい学会です。第1回は東大で開催され、第6回大会を「”小宮”大会長でやれ!」と第4回大会の理事会で決定されました。当時、私は九州大学を定年退官していました。その後、九州共立大学にスポーツ学部ができるが”教員が足りないから”と言うことで赴任することにはなっていました。しかし、九州共立大学のことは何も知りませんでし、まだ勤務もしていない、学会当日の学部生も1, 2年生だけの学部でやれるのか心配でした。私としては、45~46年に及ぶ学究生活の集大成として、学会の会員が大会長として認めてくれるのならと”清水の舞台から飛び降りる”積もりで引き受けました。赴任し、若い教員数名と私が九大時代からやっていた「福岡身体組成研究会」のメンバーで事務局を立ち上げ、当日は2年生になったばっかりの学生を使い、成功裏に終わらせることができました。このことは、この分野で研究して来た内容が学会に認められ、これから発展するであろう学会に寄与できた喜びを与えてくれるものでした。単なるポスターですが、人生に残る”我が実績”の象徴です。
Cus18012
ギャラリー
  • 2014年城址探訪:国宝彦根城
  • 2014年城址探訪:国宝彦根城
  • 弥生のムラ「板付遺跡」探訪
  • 弥生のムラ「板付遺跡」探訪
  • 「城址探訪 第6弾:肥前唐津藩”唐津城”」
  • 紹介:この1冊
  • 私の歩んだ研究の道
  • 私の歩んだ研究の道
  • 走って、跳んで、我が青春
カテゴリー
  • ライブドアブログ